新約聖書:ルカによる福音書・第10章・第25〜第37節 [聖書]

このブログの先月11月9日に掲載したばかりの『善いサマリア人(又は「よきサマリアびとのたとえ」)』のお話しですが、私が行っているホームレス支援活動に励ましとなる聖句ですので再掲載いたします。このブログに何回も掲載してきましたが、イエス・キリストの<たとえ話し>の中でも特に有名であり、わかりやすい話しの内容となっています。聖書の該当する部分を掲載いたしますが、引用する聖書は「原文校訂による口語訳 フランシスコ会聖書研究所訳注聖書」からです。

「すると、一人の律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして尋ねた、
『先生、どうすれば、永遠の命を得ることができますか。』
そこでイエスが仰せになった。
『律法には何と書いてあるか。あなたはどう読んでいるのか』。
すると、彼は答えた。
『《心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛せよ。また、隣人をあなた自身のように愛せよ》とあります。』
イエスは仰せになった。
『あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、生きるであろう。』
すると、彼は自分を正当化しようとして、
イエスに『わたしの隣人とはだれですか』と言った。
イエスはこれに答えて仰せになった。
『ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、強盗に襲われた。彼らはその人の衣服をはぎ取り、打ちのめし、半殺しにして去っていった。たまたま、一人の祭司がその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。また、同じように、一人のレビ人がそこを通りがかったが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていた、一人のサマリア人がその人のそばに来て、その人を見ると憐れに思い、近寄って、傷口に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をした。それから、自分のろばに乗せて宿に連れていき、介抱した。翌日、サマリア人はデナリオン銀貨二枚を取り出し、宿の主人に渡して言った。《この人を介抱してください。費用がかさんだら、帰ってきた時に払います。》さて、あなたは、この三人のうち、強盗に襲われた人に対して、隣人となったのは、誰だと思うか。』
律法の専門家が、『憐れみを施した人です。』と言うと、
イエスは仰せになった。
『では、行って、あなたも同じようにしなさい。』」

フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(オランダ:1853年〜1890年)作の『善きサマリア人』です。
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聖書のこの部分は、「善きサマリア人のたとえ」と言われている有名なところです。イエス・キリストが話された喩え話し(たとえばなし)の状況設定(背景)は、エルサレムからエリコに下っていく途中の出来事で、当時のユダヤ人とサマリア人の関係は、ユダヤ人がサマリア人を見下して一切交際せず、とにかく仲が悪い断絶された関係でした。そのサマリア人がユダヤ人を助けるという、異例中の異例ともいえる話しの内容になっており、質問した法律の専門家には、到底考えも及ばない状況設定となっているのです。

また、「律法の専門家」とは、当時の律法学者(ユダヤ人)のことで、律法・教義を厳格に守っている民の指導者と自負してはいますが、実際、その中身は形骸化しており、聖書にある神の教えをないがしろにし、自分たち人間が勝手に作った決まり事を掟にして、貧困者などの弱者を自らは一切救済しようとしない当時の特権階級的な人たちのことです。イエス・キリストは、この人たちのことを見抜いており、たとえ話しをもって、まず「隣人を自分のように愛すること」の一つとして、誰彼なく慈愛をもって困っている人を助けることの大切さを教えています。この行為が愛ですね。この教えが律法学者にはまったくないのです。

そして、イエス・キリストは、問題を提出したことを弁明したり、自分は正しいことをしていると面目を保つための言い訳をする律法学者に対して、その間違った教えや不遜な考えを改めさせ、『行ってあなたも同じようにしなさい。』と諭しています。私たちも、この「善いサマリア人」にならなければなりません。人を助けるのに、国の違いや人種の違いだけでなく、その時の状況・状態にこだわることは何もないですよね。困っている人=慈しみと憐みを必要とする人には、誰彼問わず助けるという愛の手を差し伸べるべきですね。これぞまさしくイエス・キリストの教えである善い行いです。私たちの信仰も、ただ信じるだけでなく、福音の実践である善い行いが伴う信仰でありたいものです。

【なぜ、ユダヤ人はサマリア人が嫌いか?】
サマリア人がユダヤ人から嫌わる理由には歴史があるのです。ダビデ王とソロモン王親子の治世は、王国は隆盛を誇り平和が続きましたが、ソロモン王の死後、イスラエルはエルサレムを首都とする「南ユダ国」とサマリアを首都とする「北イスラエル王国」に分裂しました。その後、紀元前722年に北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、僅かに残ったサマリア人はアッシリア人の血が混じった汚らわしいユダヤ人として南ユダ国のユダヤ人から嫌われることになったのです。
その後、南ユダ国も紀元前586年はバビロニア帝国に滅ぼされ、バビロニア帝国はユダヤ人を捕囚として50年間、チグリス、ユーフラテス流域の首都バビロンで過ごす(第二回バビロン捕囚)ことになりました。その後、ユダヤ人は帰還が許さ、エルサレムに戻り破壊された神殿の再建に力を注ぎます。そうしてユダヤ人とサマリア人の関係は親戚の関係ではあっても、アッシリア人の血が混じった汚らわしいユダヤ人として忌み嫌う関係がイエス・キリストの時代まで続いていたのです。
ちなみに、たとえ話に登場する祭司は、神殿の職務を司る者で教え導く任務にあった人であり、レビ人(びと)はイスラエル十二部族の一つで祭司に相応しい部族として任務を担ってきた人です。ただし、イエス・キリストの生きていた時代は、祭司職の役割が細分化するにつれてレビ人は祭司の下働きをする階級となっていました。

【善きサマリア人の法】
善きサマリア人の法(よきサマリアびとのほう、英:Good Samaritan laws)は、災難に遭ったり急病になったりした人など(窮地の人)を救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗してもその結果につき責任を問われない」という趣旨の法律です。誤った対応をして訴えられたり処罰を受ける恐れをなくして、その場に居合わせた人による傷病者の救護者の合理的な救護行為を法的に保護し、またそのような救護を促進しようとの意図があります。アメリカやカナダ、オーストラリアなどで施行されており、近年、日本でも立法化すべきか否かという議論がなされているそうです。
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支援活動日記2020.12.28(ホームレス支援・駒形橋) [支援活動日記]

今日は仕事が終わってから、あるホームレスの方が住居としている隅田川にある駒形橋に行ってきました。訪ねたのは、いつも第一・第三木曜日にホームレス支援活動をしている台東区日本堤の「いろは商店街」に来ているホームレスの大柄な男性です。支援活動で配っている服のサイズが合わず、5Lの上下のスエット(綿を平編みにしたニット生地で作った服)が手に入りましたので、それを届けに行ってきました。もちろん新品です!支援活動で配っている服や下着のサイズは、S・M・L・LLなのです。5Lサイズはとてもとても準備できないのです。う~ん、ずいぶんと遅くなりましたが、これはクリスマス・プレゼントですね。
さすがにL5はでかい!というか重い!( ̄▽ ̄;)
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隅田川沿いには、ホームレスの方がブルーシートで作ったテントがいくつかあります。景観的に或いは衛星的に、また、防犯上もよくないとのことで区の職員の方に移動するように言われたり、時には強制的に排除されることも………。ホームレスになった方にはいろいろな理由があります。勤めていた会社が倒産した、会社をリストラされた、高齢で働けない、健康でも仕事にありつけない、なんらかの理由で家族から見放された、精神的に不調をきたし、路上生活を余儀なくされている………などなど、ホームレスになった理由は様々です。厚生年金の受給者はいいですが、勝手なことに生活保護は決まりごとが多いからと嫌がる人もいます。
地下鉄銀座線浅草駅から徒歩3分のところにある駒形橋です!
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ホームレスになった人にはいろいろな理由があるのです。行政には限界があり、国や地方自治体ができないところを私たちが支援しなければなりません。イエス・キリストは、「隣人をあなた自身のように愛しなさい。」と福音で説いています。私たちが愛すべき隣人とは、体の不自由な人、病気で弱っている人、貧困にあえいでいる人たちのことです。ホームレスの皆さんを含め、私たちのまわりにはたくさんの隣人がいます。この厳寒の季節、コロナやインフルエンザに怯え、一日のほとんどを食料の確保に費やし、空腹のまま寝ることもしばしばです。このような人たちに愛の手を差し伸べることですね。善き行いのすべては愛の実践です。
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教会日記2020.12.28(カトリック成城・聖タデオ教会「平日のミサ」月曜日) [教会日記]

今日は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会の7時からの平日のミサに与りました。先週の26日(土)から仕事はお休みに入っているのですが、どうしても年内に済ませておくべき仕事があり、特別に出勤することになりました( ̄▽ ̄;) 今週は氷点下になる日が多いとのことですΣ( ̄ロ ̄lll) 体調管理には気を付けましょう!今日も清々しい朝を迎えています!

ミサでは、今日の「幼児殉教者」の祝日をお祈りしました。そして、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学2年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんが健康な身体になり、元気に学校に通えるようお祈りしました。
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トールキンのことば(第1日目) [キリスト者(クリスチャン)]

「すべてが底をついたとき、しばしば希望があらわれる。」

ジョン・ロナルド・ロウエル・トールキン(イギリス:1892年~1973年)は、キリスト教カトリック教会のクリスチャンで文献学者、作家、詩人、イギリス陸軍軍人、大学教授です。生まれは「オレンジ自由国(現在は南アフリカ共和国の一部)」です。イギリスでは、ほとんどの国民はキリスト教のイギリス国教会(日本では「日本聖公会」と言います)のクリスチャンですが、トールキンはカトリック教会の敬虔なる信徒でした。オックスフォード大学のローリンソン・ボズワース記念古英語教授を勤め、また、英文学者のC・S・ルイス(『ナルニア物語』の作者)の親友でした。イギリス女王エリザベス2世から大英帝国勲章コマンダー勲爵士を受勲しています。なお、1969年度のノーベル文学賞の候補者103人の一人にリストアップされていたことが、2020年に公開された選考資料により明らかになっています。

『ホビットの冒険』とその続編『指輪物語(二つの塔・王の帰還)』、『シルマリルの物語』などの著者として有名になりました。これらの作品を映画化して大ヒットした『ロード・オブ・ザ・リング』という3部作の映画はご存知ですよね。トールキンの死後、残っていた多量の覚え書きや未発表の草稿をまとめ、息子のクリストファが『シルマリルの物語』をはじめとする一連の作品を出版し、『ホビットの冒険』、『指輪物語』とあわせ、「アルダ」や「中国(なかつくに)」と呼ばれる架空の国に関する物語、詩、架空の歴史、人工言語、文学的試論の体系を形作っていると言われています。特に人工言語を創作したことはものすごいことですね。ちなみに、オックスフォードのWolvercote墓地には夫妻の墓があり、中国(なかつくに)の最も有名な恋物語の一つから、「ベレン」そして「ルーシエン」の名が刻まれているそうです。

挫折した時、無一文になった時、もう終わりだと諦めかけた時、そのような人に必要なのは“絶対にあきらめない心”です。このあきらめない心を持っていれば、必ず「希望」は訪れるのです。大切なことは“絶対に諦めないと信じること”です。
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教会日記2020.12.27(カトリック成城・聖タデオ教会「聖家族の主日のミサ」日曜日) [教会日記]

今日は、カトリック成城・聖タデオ教会の10時からの主日のミサに与りました。年内最後の主日のミサとなりました。今年は新型コロナウイルスで大変な毎日でしたが、この一年を無事に過ごせたことに神様に感謝ですね。

ミサは、「条件付き公開ミサ」となっており、3蜜を避けるため、ソーシャルディスタンスで入堂制限があります。普段は200人以上入れる聖堂ですが、今は47人しか入れません。ですから、聖堂に入れない人のために、信徒館でスクリーンで映してオンラインミサに与る(42人)対策をしているのです。また、マスクの着用はもちろんのこと、聖堂(信徒館)入口さの受付でカードに氏名と電話番号の記入と手の消毒があります。そして、ミサの時間を通常よりも短縮するためと信徒の声の発生を少なくするために、約30分のミサとなっています。聖歌は、11月に入ってから制限付き(歌うことのできるのは毎回聖歌隊4人・3曲のみで、会衆(信徒)は歌えません)ではありますが、歌うことができるようになりました。

ミサでは、「聖家族」の祝日をお祝いしてお祈りしました。そして、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学2年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんが毎日元気に生活できるようにとお祈りしました。
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今日の日記2020.12.27(モーニング!) [日記]

モーニングです!「アドガボトースト」です(^∇^)
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私の大好きなアドガボがたくさんのっています!こんがり焼いたトーストがサクサクした食感で、アドガボとマッチしています!美味しいな〜!
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「聖母子(ピエタ)」と「聖家族」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日12月27日は、「聖家族」の祝日です。このブログの2019年12月29日に掲載した記事を再掲載いたします。
ミケランジェロ作の「ピエタ」像です。
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ラファエロ作の「子羊の聖家族」てす。
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「聖母子」とは、子であるイエス・キリストと母マリア(聖母マリア)のことです。たくさんある「聖母子像」の一種で、特に有名なのが「ピエタ像」です。「ピエタ」とは、イタリア語(Pietà)で哀れみ・慈悲などの意味のことです。「ピエタ像」は、磔刑に処されたのちに十字架から降ろされたイエス・キリストと、その亡骸を腕に抱く母マリア(聖母マリア)をモチーフとする宗教画や彫刻作品のことを指します。この作品は大理石などで製作されています。

多くの芸術家がピエタ像を製作していますが、ミケランジェロが1499年に完成させた、バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂にあるものが最も有名ですね(写真上)。この作品は、ミケランジェロが署名を入れた唯一の作品として知られていますが、実は、ミケランジェロはピエタ像を4体製作しているのです。だたし、サンピエトロ大聖堂のピエタ像以外の3つは未完成作品なのだそうです。他にティツィアーノ、ドラクロワなどが製作したピエタ像が有名です。

この作品ですが、よく見ると聖母マリアが非常に若々しく表現されています。これは、さまざまな解釈がなされていますが、ミケランジェロ自身が彼の伝記作家であり彫刻家仲間でもあったアスカニオ・コンディヴィに語ったところによると、マリアの若さは彼女の不滅の純潔を象徴しているのだということだそうです。
ミケランジェロが言うのには、「純潔な女性がそうでない女性よりも瑞々しいままでありつづけるということを君は知らないのか?いわんやマリアにおいてもだ。彼女は肉体を衰えさせるような劣情を一度も抱いたことがないのだからな。」ということです。他にもいろいろと解釈はありますが、ミケランジェロ自身は6歳のときに母親をなくし、その後里子に出されていますので、亡き母親を思い描いて聖母に投影したという見方もありますね。

カトリック教会では、乙女マリアが、原罪なくイエス・キリストを懐妊したという教義(聖母の無原罪の御宿り)があります。したがって聖母マリアは死を免れることになるため、カトリック圏で描かれる聖母マリアはほとんどすべて若い女性の姿であり、年老いた聖母の図像は皆無です。なぜなら、老いは死の前兆であるので、「死を免れた聖母マリアは老いることもない。」ということになるからです。ピエタの聖母が、処刑当時、30歳前後と推定されるイエスの母としては、若すぎる表現になる背景には、このような神学的観念も影響していたのですね。

カトリック教会の神学的観念といえば、子であるイエス・キリスト、母マリア(聖母マリア)と父ヨセフの3人を「聖家族」と言いますが、この3人を描いた絵画(写真下)も反対の意味で同じようなことが言えます。妻であるマリアは、夫ヨセフと性行為によってではなく、天からの聖霊によってイエス・キリストを宿したのですから、ヨセフをマリアのように若く画かず、年老いて性行為ができなくなった老人風に画いています。多くの「聖家族」は、よく見るとヨセフは老人となっています。妻であるマリアと親子みたいで違和感がありますね。
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教会日記2020.12.26(カトリック成城・聖タデオ教会「聖家族の主日のミサ」土曜日) [教会日記]

今日は、カトリック成城・聖タデオ教会の18時からの主日のミサに与りました。イエス様がお生まれになって待降節が終わり、降誕節に入りました。今日は「聖家族」祝日となります。そして、ミサが6月20日(土)に「条件付き公開ミサ」として再開されてから190日目を迎え、190回連続してミサに与らせていただきました。一回でも多くミサに与り、一回でも多くご聖体を拝領させていただいたことに感謝です。

ミサは、いつものように3蜜を避けるため、ソーシャルディスタンスで入堂制限があります。普段は200人以上入れる聖堂ですが、今は47人しか入れません。ですから、聖堂に入れない人のために、信徒館でスクリーンで映してオンラインミサに与る(42人)対策をしているのです。また、マスクの着用はもちろんのこと、聖堂(信徒館)入口の受付でカードに氏名と電話番号の記入と手の消毒があります。

「ミサでは、「聖家族」の祝日をお祝いしてお祈りしました。そして、ご聖体を拝領させていただいたことを主に感謝申し上げ、
栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学2年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんが健康な身体になり、元気に学校に通えるようお祈りしました。
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パブロ・ピカソのことば(第4日目) [キリスト者(クリスチャン)]

「私はいつも自分のできないことをしている。そうすればできるようになるからだ。」

ピカソのことは、[パブロ・ピカソのことば(第1日目)20120.12.23」をご覧下さい。
この言葉は“やればできる!必ずできる!絶対できる!”ということです!普段からできていることをやっても進歩はありません。普段から“できないことをやる”ことで、その積み重ねによってできるようになるのです。私の自戒すべき言葉です。
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今日の日記2020.12.25(クリスマス・カード!) [日記]

今日は、出勤前にカトリック田園調布教会で、朝7時からの「主の降誕日中のミサ」に与らせていただきました。そのミサが終わってから、聖堂入口のところでクリスマス・カード(写真)を配布していましたので、いただいてきました!
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表は、飼葉桶(かいばおけ)で眠っているイエス様を天使たちが見守っている絵ですね。裏(こちらが表か?)には、新約聖書の『ルカによる福音書』から第2章・第14節にある聖句が書かれています。
「いと高き天においては神に栄光、地においてはみ心にかなう人々に平和」
神様が天使たちをとおして語られた言葉です。この言葉は、主イエス・キリストがお生まれになって以来、2000年の時を越えて現在に至るまで、すべて人間に告げられている神様の宣言なのです。ですから、降誕祭(こうたんさい:クリスマス・25日)は、最高に喜ばしい最高に嬉しいことなのですね。イエス・キリストは、この恵みと祝福をすべての人間にお与え下さるためにお生まれになり、それに生涯を捧げられたのです。

【飼葉桶(かいばおけ)】
牛や馬などの家畜のエサを入れる桶(おけ)のこと。
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