教会日記2024.2.29(カトリック成城・聖タデオ教会「四旬節第二木曜日のミサ」木曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会で7時からの「四旬節第二木曜日のミサ」に与りました。
カウントダウン:定年退職(3月31日)まで、あと30日です! 
今日も寒い朝ですね〜。天気予報では、明日は一時的に暖かくなりますが、また土曜日から寒くなるよえです。早く暖かくなってほしいものですね。

ミサでは、能登半島地震でお亡くなりになられた方の永遠の安息と被災された皆さんに主の平安とお恵みがありますようお祈りし、被災地が一刻も早く復興できますようにとお祈りいたしました。
そして、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
と、まず主を讃えて祈り、
次に、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私たちの父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私たちの主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
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新約聖書:ルカによる福音書・第21章・第36節 [聖書]

「いつも目を覚ましていなさい。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖句(イエス・キリストの言葉)の前に、第34節で「あなた方の心が放縦や泥酔、また世の煩いにふさぎ込むことがないよう(中略)注意しなさい。」と説いておられます。イエス・キリストは、私たちの信仰生活に「目を覚まして祈る」ことの大切さえお説いておられるのです。イエス・キリストの説く<目を覚ましている状態>とは、「気をそらせることなく、注意している」ということです。すなわち、「心が鈍くならないように、霊的生活が生ぬるいものにならないように」ということです。つまり「真摯(しんし)な祈りのある信仰生活を送りなさい。」ということです。

単に言葉を唱えるだけの祈りではなく、「いつも目を覚ましている状態で祈る」ということです。信仰生活において心に火を灯し続けるのは祈りです。情熱が冷めそうな時、祈りは心に再び火をつけ、物事の中心である神のもとへとわたしたちを立ち返らせます。祈りは魂を眠気から覚まし、本当に大切なこと、人生の目的に焦点を当てさせてくれます。どんなに忙しくても祈りを疎かにはできません。それがたとえ「主イエス・キリスト、私たちを哀れんでください」という短い祈りであっても、いつも心が目覚めているように祈ることです。そのような祈りのある信仰生活のことです。

次に、前述の聖句「いつも目を覚ましていなさい。」と解釈が類似している聖句とその解釈を掲載しておきます。これは、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈りなさい」とイエス・キリストは説いておられます。
◯新約聖書:マタイによる福音書・第26章・第41節
「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈りなさい。心ははやっていても、肉体は弱いものだ。」

◯新約聖書:マルコによる福音書・第14章・第38節
「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈りなさい。心ははやっていても、肉体は弱いものだ。」

◯新約聖書:ルカによる福音書・第22章・第40節・第46節
「誘惑に陥らないように祈りなさい。」、「誘惑に陥らないように、起きて祈りなさい。」
以上の聖句は、『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖句は、イエス・キリストが磔刑(十字架の刑)に処せられる前夜、ゲッセマネの園で律法学者やファリサイ派の人々に捕らえられる直前に、弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と説かれた場面でのことです。
誘惑はサタン(悪魔)の行いと捉えます。私たちが誘惑に対して戦う時、武器となるのが “ 祈り ” なのです。それがどのような誘惑であろうと、祈りは欠かすことのできない武器となるのです。サタンが誘惑する目的は、私たちを罠にはめて神様の恩寵(おんちょう)から遠ざけることなのです。「神様から遠ざける。」とは、言い方を変えると、誘惑に陥って「悪い行いをさせる。(してしまう。)」ということです。

祈りは神様との交わりであり、誘惑の目的と正反対のものです。祈りは、私たちから神様への交わりをつなげてくれます。その祈りの中で神様に近づく時、神様から与えられる慈しみ、慰めと愛、そして敵に立ち向かう勇気を与えてくれるのですね。
ここでは、誘惑は弟子たちが陥る可能性のあるものであり、それに対する正しい対応は祈りであることが語られています。ですから、祈りと誘惑は正反対のものなのです。もし彼らが祈らなければ、誘惑に陥る結果になることは明らかだったのです。

祈りの中で神様との交わりを持ち、神様とつながり、自分の必要な励ましや助けを祈りの中でいただくことは、誘惑への防御となります。決して誘惑が来ないという意味ではありません。しかし、ここで確かなのは、もし誘惑が来たら、もしくは誘惑が来る時、祈りは私達の信仰を堅固にさせると共に、誘惑の罠にはまることから逃れさせてくれるのです。私の最も自戒とすることです。

【真摯】
真面目でひたむきなこと。
【誘惑】
心をまどわせ、悪い道へさそいこむこと。また、そのさそい。「悪い仲間に-される」、「-にうちかつ」
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教会日記2024.2.28(カトリック成城・聖タデオ教会「四旬節第二水曜日のミサ」水曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会で7時からの「四旬節第二水曜日のミサ」に与りました。
カウントダウン:定年退職(3月31日)まで、あと31日です! 
今日も寒い朝ですね〜。週末に向けてもっと寒くなるようです。ところで、昨日風が吹きまくり、花粉が飛び散って、くしゃみ、鼻水、目の痒みが一挙に出てきました!花粉症と30年以上のお付き合いです!嫌な季節を迎えています(⌒-⌒; )

ミサでは、能登半島地震でお亡くなりになられた方の永遠の安息と被災された皆さんに主の平安とお恵みがありますようお祈りし、被災地が一刻も早く復興できますようにとお祈りいたしました。
そして、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
と、まず主を讃えて祈り、
次に、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私たちの父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私たちの主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
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旧約聖書:ヨナ書・第1章・第4〜第11節 [聖書]

今日は、旧約聖書にある『ヨナ書』です。
『ヨナ書』は、旧約聖書文書の一つで、ユダヤ教では「後の預言者」に、キリスト教では「預言書」に分類されっています。キリスト教でいう「十二小預言書」の5番目に位置します。全4章からなり、内容は預言者のヨナと神のやりとりが中心になっています。ヨナが大きな魚(鯨?)に飲まれる話が有名。著者は不明です。物語になっていますから、はっきり申し上げてとっても長いですが、わかりやすいストーリーです。要約から読んでいただいてもかまいません。ここで「主(しゅ)」とあるのは、神様のことです。

「〈ヨナの逃亡〉
主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。「立って、あの大いなる都ニネベに行き、人々に向かって呼びかけよ。彼らの悪が私の前に上ってきたからだ。」しかし、ヨナは立ち上がると、主の御顔(みかお)を避け、タルシシュに向けて逃亡を図った。彼がヤッファに下ると、タルシシュ行きの船が見つかったので、主の御顔を避けてタルシシュへ行こうと、船賃を払って人々と共に船に乗り込んだ。
だが、主が海に向かって大風を起こされたので海は大しけとなり、船は今にも砕けそうになった。船乗りたちは恐怖のあまりそれぞれの神に向かって叫び、海に積み荷を投げ捨て、船を軽くしようとした。一方ヨナは、船底に降りて横たわり、寝入っていた。やがて、船長がヨナのところに来て言った。「なぜ寝ているのか。さあ起きて、あなたの神を呼びかけなさい。そうすれば、神は我々のことを顧み、滅ばさずにおかれるかもしれない。」

人々は互いに言った。「さあ、この災が我々に降りかかって来たのは誰のせいなのか、くじを引いて確かめよう。」そこで、彼らがくじを引くと、ヨナに当たった。彼らはヨナに言った。「さあ、我々に話してほしい。この災難が我々に降りかかったのは、誰のせいか。あなたの仕事は何か。あなたはどこから来たのか。国はどこで、どの民族の出身か。」ヨナは彼らに言った。「私はヘブライ人です。海と陸とを創られた天の神、主を畏れる者です。」人々は非常に恐れ、ヨナに「あなたは何をしたのか。」ヨナが、主の御顔を避けて逃亡した伝えたので、人々はその経緯を知った。

彼らはヨナに言った。「あなたをどうすれば、海は静まるのだろうか。」海は依然として荒れ狂ったままであった。ヨナは言った。「私を担いで、海に投げ込んでください。そうすれば海は静まるでしょう。この大しけがあなたがたを襲ったのは、私のせいだと分かっています。」人々は船を漕ぎ、陸に戻そうとしたが、できなかった。海は彼らに逆らって荒れ狂ったままであった。ついに彼らは主に向かって叫んだ。「ああ、主よ、この男の命のために、我々を滅ぼさないでください。無実の者を殺すという血の責めを我々に負わせないでください。あなたは主、思いのままになさるお方です。」こうして、彼らがヨナを捕らえ、海に投げ込むと、海は荒れるのをやめた。 人々は非常に主を畏れ、いけにえを献げて誓いを立てた。

〈ヨナの救助〉
主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませたので、ヨナは三日三晩その魚の腹の中にいた。(途中「ヨナの祈り」は省略)主が魚に命じると、魚はヨナを陸地に吐き出した。
◯ピーテル・ラストマン(オランダ:1583年〜1633年)作の『ヨナと鯨』です。レンブラントやヤン・リーフェンスの師匠として知られる画家です。鯨が、ヨナを陸地に吐き出したところを描いています。
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〈ニネベの悔い改め〉
主の言葉が再びヨナに臨んだ。「さあ、立って、あの大いなる都ニネベに行き、私があなたに語る宣告を告げよ。」ヨナは立って、主の言葉に従い、ニネベへと向かった。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。ヨナはまず都に入り、一日かけて歩き、「あと四十日で、ニネベは滅びる。」と告げた。すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、大きな者から小さな者に至るまで粗布をまとった。このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がり、王衣を脱ぎ、粗布を身にまとい、灰の上に座った。王はニネベに王と大臣たちによる布告を出した。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ口にしてはならない。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に向かって叫び求めなさい。おのおの悪の道とその手の暴虐から離れなさい。そうすれば、神は思い直され、その燃える怒りを収めて、我々は滅びを免れるかもしれない。」

神は、人々が悪の道を離れたことを御覧になり、彼らに下すと告げていた災いを思い直され、そうされなかった。このためヨナは非常に不愉快になり、怒って、主に訴えた。「ああ、主よ、これは私がまだ国にいたときに言っていたことではありませんか。ですから、私は先にタルシシュに向けて逃亡したのです。あなたが恵みに満ち、憐れみ深い神であり、怒るに遅く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される方であることを私は知っています。主よ、どうか今、私の命を取り去ってください。生きているより死んだほうがましです。」

しかし、主は言われた。「あなたは怒っているが、それは正しいことか。」すると、ヨナは都を出てその東にとどまり、そこに小屋を作り、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。神である主がとうごまを備えた。それはヨナを覆うまでに伸び、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消えた。ヨナは喜び、とうごまがすっかり気に入った。ところが翌日の明け方、神は一匹の虫に命じてとうごまをかませたので、とうごまは枯れてしまった。日が昇ると、神は東風に命じて熱風を吹きつけさせた。また、太陽がヨナの頭上に照りつけたので、彼はすっかり弱ってしまい、死を願って言った。「生きているより死んだほうがましです。」
神はヨナに言われた。「あなたはとうごまのことで怒るが、それは正しいことか。」ヨナは言った。「もちろんです。怒りのあまり死にそうです。」主は言われた。「あなたは自分で労することも育てることもなく、ただ一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまをさえ惜しんでいる。それならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、右も左もわきまえない十二万人以上の人間と、無数の家畜がいるのだから。」」
『聖書協会共同訳聖書』から

この話しの要約は次のとおりです。
主人公は、預言者のヨナ(男性)です。ヨナは、神様から「イスラエルの敵国であるアッシリアの首都ニネヴェに行って「(ニネヴェの人々が犯している悪い行いのために)40日後に滅ぼされる」という預言を伝えるよう命令されます。
しかし、ヨナは敵国であるアッシリアに行くのが嫌で、船に乗って反対の方向のタルシシュに逃げ出すのですが、神様はそうはさせず、船を嵐に遭遇させるわけです。船乗りたちは誰の責任で嵐が起こったのか “ くじ ” を引きます。そのくじはヨナに当たったので、船乗りたちは彼を問い詰めると、彼は自分がヘブル人で海と陸を造られた天の神、主を畏れていることを告白します。ヨナは「自分を海に投げれば嵐はおさまる」と船乗りたちに言います。最初、船乗りたちは陸にたどり着こうと努力していましたが、ヨナの言うとおり彼の手足をつかんで海に投げ込みました。そうすると海は静まりました。しかし、ヨナは神様が用意した大きな魚に飲み込まれ、3日3晩魚の腹の中にいて神様の命令によって海岸に吐き出されました。

ヨナは悔い改め、ニネヴェに行って神様の言葉を告げると、意外なことに人々はすぐに悔い改めました。指導者達はニネヴェの人々に悔い改めと断食を呼びかけ、人々が悔い改めを実行したため、神様は考え直してニネヴェを滅ぼすことを中止しました。ところが、ヨナは、一度は滅ぼすと言ったにもかかわらず、それを中止してイスラエルの敵であるニネヴェの人々を赦した(ゆるした)神様の寛大さに激怒するのです。
ヨナは、その後小屋を建ててニネヴェがどうなるか見るためにそこに住んでいると、その小屋の横に神様がトウゴマの木を茂らせました。ヨナはトウゴマが影を作り日よけになったので喜ぶのですが、神様は虫を送ってトウゴマの木を枯らしてしまうのです。ヨナが激怒して、「怒りのあまり死にそうだ」と訴えると、神様はヨナに向かい、「ヨナがたった1本のトウゴマの木を惜しんだのだから、神である私が12万人以上の人間と無数の家畜がいるニネヴェを惜しまないことがあろうか。」と諭すのです。

この物語の “ 教え ” は、「どんなに罪深い人間でも、悔い改めれば神は救いの手を差し伸べられ、神の深い憐れみと大いなる愛は永久(とこしえ)にある。」ということです。悪い行いをしているニネヴェの人々を滅ぼそうとしていた神様が、ヨナを使って回心するよう呼びかけさせたら、ニネヴェの人々はすぐに悔い改めたのでした。それで神様は怒りの手を挙げるのを止め、ヨナに諭したように慈しみの愛をもってニヌヴェの人々を赦したのです。神様は、どのような罪人にも悔悛の機会を与え、悔い改めれば深い愛をもって憐れみを示してくださるのですね。
ちなみに、「預言者」ですが、「予言者」ではありません。預言者とは、神様から降った言葉を「預かって(あずかって)」民衆に伝える者ということです。もう一つの予言者は、自らが将来のことを「予め(あらかじめ)」予想する者ということです。聖書に出てくるのは、すべて神様の言葉を預かって伝える役目がある「預言者」の方です。

【とうごま】
トウゴマ(唐胡麻)は、トウダイグサ科(APG分類:トウダイグサ科)の植物で、ヒマ(蓖麻)ともいいます。原産地の熱帯東部アフリカとインドでは低木、または高さ6メートルを超える高木となりますが、温帯では一年草で高さ約3メートル。現在では、世界の熱帯と温帯で油脂植物として広く栽培されています。ヒマシ油がとれます。写真はトウゴマです。同じトウゴマですが、葉の形状に多少の違いがあいます。
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教会日記2024.2.27(カトリック成城・聖タデオ教会「四旬節第二火曜日のミサ」火曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会で7時からの「四旬節第二火曜日のミサ」に与りました。
カウントダウン:定年退職(3月31日)まで、あと32日です!
天気予報では、今日の最高気温は11度だそうです。外出時は暖かい服装でお出かけください!

ミサでは、能登半島地震でお亡くなりになられた方の永遠の安息と被災された皆さんに主の平安とお恵みがありますようお祈りし、被災地が一刻も早く復興できますようにとお祈りいたしました。
そして、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
と、まず主を讃えて祈り、
次に、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私たちの父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私たちの主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
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チャールズ・ディケンズ のことば(第3日目) [キリスト者(クリスチャン)]

「病気や悲しみも人にうつるが、笑いと上機嫌ほどうつりやすいものはこの世にない。」

チャールズ・ディケンズのことは、「チャールズ・ディケンズのことば(第1日目)2024.1.6」をご覧下さい。https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2024-01-06
病気や悲しみの伝染よりも、笑い(*^▽^*)の伝染の方がいいですよね。これはその人の心の持ち様だと思いますが、たとえ病気や悲しみの中にあっても、心の持ち様によっては、とても上機嫌とまではいかないでしょうが、笑い(*^▽^*) には変えることはできると私は確信しています。それは、信仰心があるからですね。神様は、いつも病人や悲しみにある人の側におられるからです。そう思うと心が安らかになりますから、上機嫌とまではいかないにしても笑いに変えることができるのですね。
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今日の日記2024.2.26(更待月!) [日記]

今夜の月は、満月から2日目の「更待月」です。自宅2階の自室から21時43分に撮影しました〜寒い〜!
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教会日記2024.2.26(カトリック成城・聖タデオ教会「四旬節第二月曜日のミサ」月曜日) [教会日記]

教会日記2024.2.26(カトリック成城・聖タデオ教会「四旬節第二月曜日のミサ」月曜日)

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会で7時からの「四旬節第二月曜日のミサ」に与りました。
カウントダウン:定年退職(3月31日)まで、あと33日です!
先週末から昨日にかけて寒かったですね〜。今朝は少しは寒さが和らいだ感じがします。今週もぼちぼち頑張りましょう!

ミサでは、能登半島地震でお亡くなりになられた方の永遠の安息と被災された皆さんに主の平安とお恵みがありますようお祈りし、被災地が一刻も早く復興できますようにとお祈りいたしました。
そして、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
と、まず主を讃えて祈り、
次に、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私たちの父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私たちの主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
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旧約聖書:箴言・第24章・第17~第18節 [聖書]

「敵が倒れても喜んではならない。
彼がつまずいてもこころを躍らせるな。
主がそういうあなたを見て不快とされるなら
彼への怒りを翻すされるであろう。」
『新共同訳聖書』から

旧約聖書では、『箴言(しんげん)』は、キリスト教では知恵文学の一つとして『詩編(しへん)』の後に置かれています。内容は<教訓集>で、様々な徳や不徳とその結果、日常における知恵や忠告等となっています。『箴言』中の格言の多くは、ソロモン王によって作られたとされていますが、これは、律法に関する五書がモーセの名で呼ばれているように、知恵文学(箴言、コヘレトの言葉、雅歌)はソロモンの名で呼ばれるからだそうです。実際は、複数の作者の言葉が収められています。

1.まず、この聖句(聖書の言葉)の前段部分の説明
まず「敵」という言葉は、自分の競争相手だったり、復讐したい相手だったり、嫌っている人のことというのが一般的ですが、ここでいうところの敵とは、自分に悪意を持って危害や損害などを与える人のことです。そのような人が「倒れる」、「つまづく」などをした時、喜んだり心躍らせたりしてはいけないと説いています。普通の人だったら「ざま~みろ!」とか、「そら見たことか、罰が当たったんだ!」とか言って大笑しそうです!

2.この聖句の別のところで、神様は次のとおり教えておられます。
◯新約聖書:ローマの人々への手紙・第12章・第19~第21節
「愛するみなさん、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「主は仰せになる、『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と書かれているからです。しかし、次のようにも書かれています、「敵が飢えてうるなら食べさせよ、渇いているなら飲ませよ。そのようにすることで、あなたは敵の頭に燃える炭火を積むからである」。悪に負けてはなりません。むしろ善をもって悪に勝ちなさい。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖句は、使徒であるパウロが、ローマの信徒に宛てた手紙に書いている言葉です。神様は、人間に復讐(報復)することを絶対にお許しになりません。それは復讐(報復)することよって、人間に暴力などの罪を犯させることになるからですね。ですから、復讐(報復)は人間に代わって神様ご自身がなさるというわけです。このことは非常に大切なことです。

3.次に、2を受けて最初の聖句に戻って後段部分の説明
相手が「倒れる」、「つまづく」などをした時に喜んだり心躍らせたりする自分を主(神様)が見て、不快になって怒を収めてしまわれるということです。せっかく自分に代わって神様が復讐してくださるのに、それを止めてしまわれるということです。大いに残念なこと!?です!か?

4.この聖句は、「赦さない人間への戒めの言葉」ですね。
私たちが日常において、復讐(報復)とまでいかなくてもそれに近い感情を抱くことはよくあることです。自分はまったく悪くないにもかかわらず!そうすると、これは何かきっかけがあるとその相手と喧嘩になってしまうのですね。復讐(報復)は、聖書にも書かれていますが、神様がなされることであって人間のすることではないのです。そして、何よりも大切なことは相手を赦すことです。本気で心の底から赦すことです。難しいことであると思いますが、でも赦さなければなりません。

人は怒った時に、自分を相手と同じレベルか、それ以下にして怒っているから頭にくるのです。それでは気分は最悪ですよね。これを決して上から目線ではないのですが、慈しみと憐みの心を持って相手を見てあげるのです。「なんと、かわいそうな人なんだろう。」と。それができれば、赦すことなど何でもないことです。
ですから、自分が悪くなくても “ 怒りを覚えた時 ” は、「神様が報復する」と自分に言い聞かせることです。決して手出しは愚か、口でも相手を罵ってはいけません。私はすでに実践していますが………と言ってもまだ愚痴は出ますが。これは最も自戒すべきことです。
主(神様)は、相手がどのような悪人でも、私たち人間が、倒れたり物事につまずいたりした人を見て喜んだりすることは不快に思われるのです。相手がどのような悪人であれ、人の弱みに付け込むようなことは、褒められたことではありませんね。それは相手を赦していないということです。すべては慈しみと憐みの心を持つべきことなのです。
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今日の日記2024.2.25(小池亮太神父様ご異動!) [日記]

カトリック東京大司教区では、2月20日付けで「2024年度東京大司教区司祭人事(第1次)について」が発表されました。
その中で、私が以前所属していたカトリック町田教会で主任司祭を務められ、私に洗礼をお授けになった小池亮太神父様が、4月1日付けでカトリック関口教会(東京大司教区司教座聖堂:カテドラル)と本郷教会の主任司祭を兼務され、また、常任委員会委員長にご就任されることなりました。小池亮太神父様のますますのご活躍とご健勝をお祈りし、そして神の恩寵に守られますようお祈りいたします。
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