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不定期連載・<私の吹奏楽人生>第6回「挫折!」 [吹奏楽日記]

前回「不定期連載・<私の吹奏楽人生>第5回「高慢!」」は、次のアドレスをクリックしてください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2020-10-03-1
なお、この第6回も第2回〜第5回と同様に、会話部分は地元の言葉(関西弁系)になっています。

入部した初日、中学校でトロンボーンを経験している者は、トロンボーン・パートに集められました。そこには2年生・3年生の先輩方がおられ、パートリーダーの3年生の先輩が恐怖の言葉を発しました。それは「トロンボーンは新入生(全部で4人)が多いから、くじ引きして当たりの一人は、ホルン・パート行ってもらうから。」とΣ( ̄ロ ̄lll) なんで他の1年生と同等なん?俺を誰やと思うとんの?前年度優勝校の四日市市立南中学校出身者やで!名もない中学校の吹奏楽部出身者とわけが違うで!なんで同じに扱われやなあかんの?…………曲を吹かして比べてや。なんでくじ引きせなあかんの?…………こないはずはない!これはなんか理由があるはずや。平等に扱うという理由か?なんぼなんでも俺が一緒のはずはない!これはなんか細工してあって俺には当たらんようになってるんや。きっとそうや。そうに決まってる…………と、結果、即刻、私がホルン・パートへΣ( ̄ロ ̄lll)…………一瞬目の前が真っ暗になりました。しかし、この不満は、担当楽器をホルンに替えられたという理由より、やはり前年度優勝校の四日市市立南中学校出身者を軽く扱われたことへの不満でしたね。

鳴り物入りで入部するはずだったのに…………一瞬にして奈落の底に突き落とされてしまいました。やる気満々だったのが、もうどうでもいいかなと。なんで白子に来てしまったのかと。他の高校に行っていれば即刻レギュラーだったのに。その夜は寝られなかったことを覚えています。挫折です。初めて経験しました。しばらくはやる気のないモンモンとした日々を送っていましたが、それでも部を退部しょうとは思いませんでした。なぜか?それは中学校時代2年間の吹奏楽活動が“おもしろかった=充実していた=有意義だったから”ということを思い出したからです。あの初心者軍団が、一丸となって必死に練習して県大会で優勝したこと。優勝という達成感を経験(成功体験)をしたこと。その過程の2年間で「絶対にあきらめない心」を学んだこと。やはり中学校時代の吹奏楽部顧問のW先生のご指導のおかげですね。こうなると、逆境にめげず不満を別方向へ向けることが得意な私は、「上等じゃ~!じゃぁ、やってやろうじゃねえか!」と頭を切り替え、「白子の金看板は俺が背負ったる!3年になったら絶対に全国大会に出てやる!今に見ておれ!」と、見事に不満を方向転換したのでした!
(つづく)

☆予告編
次回以降のネタばらしになりますが、全国大会、すなわち全日本吹奏楽コンクールには、私が白子高校を卒業した次の年に初出場を果たしました。私が3年生の時の1年生が、3年生になった年ですね。後輩諸君が夢をかなえてくれたのでした。この時、国士舘大学の1年生(高校卒業後1年間就職したため、1年遅れで進学)だった私は、全国大会の会場の東京都杉並区にある「普門館(ふもんかん)」で、駐車場係として全国から来る出場学校の生徒が乗った貸し切りバスの駐車整理をしており、その駐車場で白子高校の後輩諸君が乗ったバスをお迎えしたのでした。ついに念願の全国大会に母校は初出場を果たし、私は普門館に初入場を果たしたのでした( ̄▽ ̄;)

【普門館】
東京都杉並区の環状七号線沿にある「宗教法人 立正佼成会」の施設(5,000人収容の多目的ホール)で、当時の社団法人全日本吹奏楽連盟が毎年お借りして、全日本吹奏楽コンクール(全国大会)の中学校の部と高等学校の部を長年にわたって開催したことから、”吹奏楽の甲子園”、”吹奏楽のメッカ”、”吹奏楽の殿堂”などと呼ばれ、全国の吹奏楽を愛する中高生は、「目指せ!普門館」が合言葉でした。中高生のあこがれの的となったホールです。
普門館.jpg
現在は、東日本大震災の影響で建物が使用できなくなり、建物すべてを取り壊して今はありません。この全国大会の主催は、当時の全日本吹奏楽連盟ですが、運営を主管したのが地元の東京都吹奏楽連盟で、実際にホール内外の係り(受付係り、会場係り、駐車場係り、ステージ係りなど)として運営を担ったのが、東京都大学吹奏楽連盟の大学生だったのです。大学4年間、普門館で運営を担った私は、大学を卒業して十数年後、東京都大学吹奏楽連盟の第4代理事長に就任することになるのでした。

【フレンチ・ホルン】
写真は、私が所有していたホルン(正式名称は「フレンチホルン」)、ドイツ製の「ハンスホイヤーG10MAL」です。このホルンは、フルダブル・ホルンといって、F管(へ長調の管)とB管(変ロ長調の管)の2つの管がある楽器です。演奏する時は、左手の指(人差し指、中指、薬指)で3本のレバーを押します。右手はベルの中に入れます。レバーにコインを付けていますが、これは指の滑り止めですね。コインは、イギリスのキング・ジョージ6世の肖像があるコインです。現在は、H大学をご卒業された中学校教諭のY女史に買い取っていただきました!(*^▽^*)
ホルン1.jpgホルン2.jpg
余談ですが、ホルンは難しい!これは世界中の器楽奏者が認めるところです。正式名称は「フレンチ・ホルン」です。ギネス・ブックに世界で演奏するのが一番難しい楽器として登録されています。ちなみに、有名なウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のホルン奏者は、他の器楽演奏者よりも給料が高い(コンサートマスターと同じくらい)のです。これは楽器を演奏するのが難しいからですね。
私は担当楽器が替わったわけですが、トロンボーンのマウスピース(口に当てて息を吹き込むもの)は大きく、ホルンのマウスピースが小さいのです。一般的に言って、小さいマウスピースの楽器から大きいマウスピースの楽器は吹きやすいのですが、その逆は吹きづらい。つまり、トロンボーン経験者には、ホルンは吹きづらいのです。他にも楽器の調が違うため、音階の理解も違ってきます。転調して演奏するにも慣れていないので、とまどってしまいます。そして、決定的に違うのは、トロンボーンはスライドを動かして音を出しますが、ホルンは左手の指でロータリー・レバーを押して音を出すという、楽器の構造がまったく違うことです。高校生一のトロンボーン吹きを目指していたのに~!( T T )
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不定期連載・<私の吹奏楽人生>第5回「高慢!」 [吹奏楽日記]

前回「不定期連載・<私の吹奏楽人生>第4回「高校!」」は、次のアドレスをクリックしてください。https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2020-09-25-2
なお、この第5回も第2回・第3回と同様に、会話部分は地元の言葉(関西弁系)になっています。

私が三重県立白子高等学校に入学したのは、昭和49年(1974年)4月のことです。今でも入学式のことを鮮明に覚えていますが、式が始まる直前に吹奏楽部の演奏があったのです。演奏曲は、バッハ作曲の「G線上のアリア」でした。式場である体育館の後方に座っている吹奏楽部は、視覚に入っていましたから知っていましたが、白子の高校生はどんな演奏をするのか?実はあまり期待はしていませんでした。元々は、白子高校に入学したのは中学校の吹奏楽部顧問のW先生に、「おまえは白子に行け、あそこはこれから上手くなる学校やから。」と言われたのがきっかけでした。どういうわけか、演奏のレベルは気にしなかったのでした。こっちは三重県吹奏楽コンクール前年度優勝中学校出身で、白子高校が出場したことのない東海吹奏楽コンクールに出場したという大々的な自慢がありますから、とにかく鼻が高かったのです。

それが、演奏が始まって数小節を聴いて…………今まで最高に尖がっていた鼻を即座にへし折られたのでした。なんという美しいメロディーの歌い方なのか!そして重厚なハーモニー!それに安定感バツグンの低音の響き!、中学生の演奏とまったく違う演奏レベル!いや、まったく違う世界!「こっ、これが高校生の演奏なのか!」私は完膚無きまでに打ちのめされたのでした。式が始まっても受けた衝撃の動揺は収まらず、校長先生の挨拶もPTA会長の祝辞も、まったく聞いていませんでした。初めて聴く校歌の演奏が、やたらシンフォニックに聴こえたのは私だけだったのでしょうか。式が終わり、教室で諸々の説明と今後の予定などを聴いて解散となり、速攻で音楽室(吹奏楽部の練習場)に直行しました。音楽室の入口に先輩がいて「新入生か?」と聞かれたのが“奈落の底に落とされる始まり”でした…………。

すかさず「はい!四日市市立南中学校吹奏楽部出身の◯◯です!」と大きな声でハッキリと自己紹介しました。そうしたら、その先輩が「あっそう、入部するの?見学でもする?どっちでもええけど。」と言ってスタスタとトイレに行ってしまいました…………。えぇ!?Σ( ̄ロ ̄lll) 「あっそう?するの?でもするの?どっちでも?」…………こっちは前年度コンクール優勝校の卒業生なんやけど。あんたが出たことのない東海大会(東海吹奏楽コンクール)にも出とるんやけど。なんやその冷たい態度は!?その先輩は「それがどうした」という気配さえもありませんでした。次に女性の先輩が現れ、「新入生?見学なん?」、「はい!四日市市立南中学校吹奏楽部出身の◯◯です!」と再度大きな声でハッキリと自己紹介しました。そうしたら、「そうなんや~。見学するんやったら、さっさと中に入り。」とだけ…………。

はぁ~!?こっちは四日市市立南中学校吹奏楽部の出身者やで!前年度優勝校やで!みんな知っとるやろ!もっと驚いてくれるはずやろ!もっと喜んでくれるはずやろ!もっと歓待してくれるはずやろ!…………と。まったく予期していない状況に、本日2回目の動揺に襲われていました~( ̄▽ ̄;) 私は、高慢ちき!傲慢!不遜!尊大!自惚れ!横柄!生意気!身の程知らず!の化身となっていたのでした。まったく「井の中の蛙 大海を知らず!」を地でいってしまったのでした( ̄▽ ̄;)
ちなみに、一番最初に出会った「新入生か?」と聞いた先輩は、トロンボーンのK先輩で、卒業後は駒澤大学に進学し、当時全国大会で日本一を連覇中(最終的に10連覇を達成)だった吹奏楽部で、どういうわけかフルートを担当、全日本吹奏楽コンクール(全国大会)で活躍して「日本一のフルート吹き」と称賛された方でした。駒澤大学吹奏楽部には、他にもK先輩の上にクラリネットのT先輩もおり、4年生時に学生指揮者・コンサートマスターを任されるほどの優秀な先輩たちがいました。
(つづく)
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不定期連載・<私の吹奏楽人生>第4回「高校!」 [吹奏楽日記]

高校に進学するに当たっては、もちろん学力の問題もありますが、私の場合、「吹奏楽の上手い高校」という選択基準もありました。そこで、この2つの基準を学区内でクリアする高校が三重県立白子(しろこ)高等学校でした。当時は全日制普通科と家政科でしたが、現在は、普通科、普通科文化教養(吹奏楽)コース及び生活創造科があります。前身は、大正9年(1920年)に創立された三重県立河芸高等女学校という女子校で、なんと!今年(2020年)で創立100周年!を迎えました。昔は地元の三重大学をはじめ、国立大学や有名私立大学に多くの生徒が進学する学校でした。

場所は、私が住んでいた四日市市の隣の鈴鹿市の伊勢湾沿いにあります。まぁ、学校のまわりは、西方は丘陵地帯まで続く田畑に囲まれており、東方は数百メートルで海岸(伊勢湾)に出ることができ、白子漁港があります。よく海水浴しました。当時は、まったくビルのない超田舎の白子町にある学校でした。しかし、歴史のある土地で、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた時、徳川家康は少人数の家来と共に鉄砲造りで有名だった堺(大阪府堺市)見物に来ておりましたが、身の危険を感じて奈良の生駒山から鈴鹿を超え、白子浜から漁師の船で三河に脱出したのでした。

また、大黒屋光太夫(だいこくや こうだゆう)のロシア漂着話しが有名ですね。光太夫以下16名を乗せた神昌丸は天明2年(1782年)に江戸に向けて白子から出港しましたが、暴風雨に巻き込まれ、アリューシャン列島・アムチトカ島まで流されてしまいました。光太夫はシベリアを横断して当時の首都・サンクトペテルブルクまで行き、ロシア皇帝エカチェリーナ2世から帰国の許しを得て寛政4年(1792年)にアダム・ラクスマンに伴われて根室へ上陸し、10年ぶりに日本への帰国がかなったのでした。その波乱に満ちた人生史は、小説や映画などで度々取りあげられています。

とにかく超田舎でした。しかし、果てしない田畑の広がる伊勢平野の鈴鹿にあって、自然環境と勉学環境はバツグンでした!なんといっても、F1日本グランプリや鈴鹿8時間耐久ロードレースなどの開催で知られる国際レーシングコース&レジャー施設のあるホンダが経営する「鈴鹿サーキット」が学校と数キロのところにあり、平日にレースがあると授業中にレーシングカーの爆音が聞こえ、また、近くに「ゼネラルフーズ」のコーヒー工場があるものですから、窓を開けているとコーヒーの匂いが漂ってくるのでした( ̄▽ ̄;) 高校生の生活環境?としては最高のところに学校がありました!

…………ということで、今回は進学した高校の話しで終わりますが、次回は前年度三重県吹奏楽コンクールで優勝した四日市南中学校(吹奏楽部)卒業の私が、鳴り物入りで入部した白子高校吹奏楽部での挫折と活躍を数回にわたって掲載いたします!乞うご期待!なお、前回までのお話しは、「吹奏楽日記2020.8.19(不定期連載〈私の吹奏楽人生〉再開!)」をご覧ください!https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2020-08-19
ちなみに。「不定期連載・〈私の吹奏楽人生〉第1回「出会!」」は次のアドレスをご覧ください!
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2019-03-30
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吹奏楽日記2020.8.19(不定期連載〈私の吹奏楽人生〉再開!) [吹奏楽日記]

昨年の8月3日以来、久しぶりの吹奏楽日記です。約1年ぶりですね。その時の記事は「吹奏楽日記2019.8.3(感謝状)」という記事でした。アドレスは次のとおりです。https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2019-08-03
私は、中学2年生から大学4年生の9年間を吹奏楽部の活動で青春時代を謳歌し、現在の私という人間が形成されました。担当楽器は、中学2年間がトロンボーン、高校1年時からホルンでした。現在は、吹奏楽から完全に足を洗っていますが、テレビなどで吹奏楽の曲に出会うと、やはり懐かしさを感じますね。大学卒業後は、吹奏楽連盟の役員として連盟運営などの後進の指導に当たっていましたが、それも一昨年の3月に引退させていただきました。そのあたりのことは、このブログに書かせていただきましたのでご覧ください。
「吹奏楽日記2019.3.28(退任、そして引退)」次のアドレスは次のとおりですので、是非ともご覧ください。https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2019-03-28

そこで、私と吹奏楽の出会いから、引退までをこのブログに書き留めておこうと考え、昨年の3月に「不定期連載・<私の吹奏楽人生>第1回「出会い!」」を掲載いたしました。アドレスは次のとおりですので、こちらも是非ともご覧ください。https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2019-03-30
しかし、長い間掲載しないで放置していました( ̄▽ ̄;) そこで、連載を再開することにしました。第2回、第3回を続けて掲載いたしましたので、お読みいただければと思います。

◯不定期連載・<私の吹奏楽人生>第2回「快挙!」
昭和48年・中学3年生時は副部長となり、この年の吹奏楽部の合い言葉は「打倒・菰中!(菰野(こもの)町立菰野中学校)」でした。三重県吹奏楽コンクール中学校大編成の部で前年に県優勝をしている強豪校です。ほとんど実現不可能な合い言葉でしたが、この菰野中学を倒すことができれば、金賞はもちろん県代表になって東海大会に出場できるのです。恩師のW先生も前任校の四日市市立港中学校で金賞、優勝、県代表を経験しており、指導においてはピカイチです!が、なにせ初心者軍団の我が四日市市立南中学校吹奏楽部は、よほどの練習をしないと夢の域を脱することはできません。そこで、日曜日も練習日にしたのでした………ということは、休みなしの毎日練習となりました。今でいうブラッククラブですね(; ̄O ̄)

この年のコンクールは、課題曲は兼田敏作曲の「吹奏楽のための寓話」で、自由曲は「交響的断章」で有名なヴァーツラフ・ネリベル作曲の「フェスティーヴォ」でした。ヤマハ吹奏楽団浜松が演奏(レコーディング)して有名となった曲です。課題曲は途中に変拍子があり、本当によく練習しました。1期下の2年生の何人かはものすごく上達して、合奏(アンサンブル)の中心的な存在となっていきました。武蔵野音楽大学に進学したユーフォニウムのS君と一橋大学に進学したトロンボーンのI君は特に上手かったですね~。トロンボーン・パートでは、I君が1st(1番)の楽譜、私が2nd(2番)の楽譜でした。つまり後輩のI君の方が上手い!ということですね(⌒-⌒;)そのI君は、今では大学(大学院)教授となっています。

<I君のその後>
一橋大学商学部に進学。1982年大学卒業後、同大学院商学部研究科経て、米国スタンフォード大学に留学し、1988年同大学より意思決定科学専攻としてPh.D.を取得しました。学位取得後、カリフォルニア大学サンディエゴ校国際関係・環太平洋研究大学院客員助教授(1988年~1990年)、京都大学経済学部助教授 (1988年~1996年)、スタンフォード大学経済学部客員准教授(1993年)、大阪大学社会経済研究所助教授 (1996年~2000年)、コロンビア大学経済学部客員准教授(1998年)、一橋大学大学院商学研究科教授(2000年~2017年)、早稲田大学大学院経営管理研究科教授(2017年~)。1993年冲永賞受賞。2003年には日本経済学会から国際的に高い研究業績を挙げていることを評価され中原賞を受賞しました。

この年の三重県吹奏楽コンクール中学校大編成の部の結果は、なんと!ななんと!コンクール出場2年目にして金賞、優勝、県代表という快挙となりました!毎日一生懸命練習した成果ですが、まったく誰も予想しない結果でした。嬉しくて皆で号泣しました。さすがはW先生です。赴任2年目にして、しかも初心者軍団をよくぞここまで育ててくれました。しかし、閉会式が終わってからのW先生の第一声を覚えていますが、それは「こんな演奏で優勝なんかしてええんか~?」でした。この年に学んだことは、「絶対に諦めないこと。」でした。この62歳になった今でも生きている言葉です。ちなみに、このコンクールの実況録音盤もありますが………2ndトロンボーンの音が………外れている(; ̄O ̄)
(つづく)

◯不定期連載・<私の吹奏楽人生>第3回「衝撃!」
昭和48年、中学3年生の三重県吹奏楽コンクール中学校大編成の部(県大会)は、コンクール出場2年目にして金賞、優勝、県代表でした。そして、三重県代表として初めて東海吹奏楽コンクール中学校の部(全日本の支部大会)に出場しました。このコンクールは、愛知県、静岡県、三重県、岐阜県及び長野県の東海支部5県の代表校によって争われ、成績上位2校が全日本吹奏楽コンクール中学校の部(全国大会)に出場することになります。強豪校は演奏レベルの高い愛知県と静岡県に集中しており、結果は、愛知県の蒲郡中学校と静岡県の由比中学校が金賞・東海代表となりました。

ちなみに、私の四日市市立南中学校は正々堂々の銅賞でした(⌒-⌒;)三重県の四日市市から貸切りバスで、コンクール会場となっている名古屋市の愛知県勤労会館に向かったわけですが、みんな初出場ということもあって緊張感はありましが、バス旅行みたいなウキウキ気分もありましたね。ところで、愛知県勤労会館に着いた駐車場でのことですが、私達のバスが駐車したところに、右側に愛知県の蒲郡(がまごおり)中学校のバスが駐車し、続いて左側に静岡県の由比(ゆい)中学校のバスが駐車しました。結果的にこの2校が全国大会に出場することになるのですが。

さて、この時の実況放送です。なお、三重県四日市市は伊勢弁ですが、愛知県の尾張弁や三河弁の影響は受けず、どちらかというと関西弁です。
「おぉ~!みんな右のバス見てみ!蒲中(がまちゅう)のバスやで!」
「めちゃくちゃ上手い学校やん!」
「なんかおいらと顔が違うえで。」
「ほんまやな~。上手そうな顔しとるわ。」
「おぉ~!今度は左に由比中のバスが来たぞ~!」
「すっげ~な~!」
「いつも金賞取っとる由比中やろ。」
「あかんわ。こんな上手いところに挟まれたらもうおしまいや。」
「そや、もう終わったがな………。」

全員がバスの左右の窓に張り付いて、ワイワイ言っていたら………参加団体受付から戻ってきたW先生が「おまえらアホとちゃうか!ほんまに田舎もんやな~、わけのわからんこと言うとらんと、さっさとバスから降りやんか!」と(⌒-⌒; )
初出場ということで、もちろん緊張感はありましたが、正直バス旅行気分で来た田舎の純粋な中学生です。自分達の学校と演奏レベルがまったく違う両校の演奏に衝撃を受け、強烈な印象を心に刻んだコンクールとなりました。
(つづく)
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吹奏楽日記2020.5.30(大日本吹奏樂聯盟のバッジ!」 [吹奏楽日記]

久しぶりも久しぶりの吹奏楽日記です。今日は、とっても珍しいバッジをご紹介いたします。それは写真の「大日本吹奏樂聯盟」のバッジです。Yahooオークションで、3,850円で落札しました。大日本吹奏樂聯盟は、1939年11月11日に創立され、1954年11月14日に全日本吹奏楽連盟と改称するまで続いていますので、この期間に作られたとものと思われます。裏側に「朝日新聞社 寄贈」とありますから、会員章としての連盟バッジではなく、連盟主催の演奏会か吹奏楽コンクールでの記念バッジを朝日新聞社が作って、出演者に記念として渡したものと思われます。

ちなみに、私は過去に吹奏楽をやっていた者で、楽器はトロンボーン→ホルンを担当していましたが、他に吹奏楽連盟役員として後進の指導、連盟運営に携わっていました。このブログに、吹奏楽活動の記事を602本書いていますが、私の吹奏楽人生最後の日の記事は、次のアドレスをクリックしてください https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2019-03-28 ご興味のある方は是非とも「吹奏楽日記」をお読みください。

表側は「大日本吹奏樂聯盟」とあります。楽→樂、連→聯と旧字になっています。
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裏側は「朝日新聞社 寄贈」とあります。
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ところで、このバッジの話に戻ります。私の調べでは、このバッジは次の3年間の大日本吹奏樂聯盟主催の演奏会(大会)に関係があるように思われます。
「第1回大会 紀元2600年奉祝・集団音楽大行進並大競演会」が、1940年(昭和15年11月23日)に開催され、奉納演奏は橿原神宮、行進演奏は大阪市中之島公園運動場〜淀屋橋〜御堂筋南下〜本町4丁目〜道頓堀橋〜千日前〜生國魂神社参拝で行われ、舞台演奏は大阪朝日会館で開催されています。
「第2回大会 全国吹奏楽大行進大競演会」は、1941年(昭和16年11月23日)に開催され、行進演奏は名古屋市鶴舞公園〜栄町〜広小路通で行われ、舞台演奏は名古屋朝日会館で開催されています。
「第3回大会 大日本吹奏楽大会」は、1942年(昭和17年11月23日)に開催、行進演奏は福岡市東公園で行われ、舞台演奏は福岡中学校講堂で開催されています。

その後は戦争で中断され、1956年(昭和31年12月9日)になって「第4回全日本吹奏楽コンクール」として大阪府立体育館で再開されています。この時は、すでに主催として全日本吹奏楽連盟(朝日新聞社も主催)となっていますから、このバッジは、第1回大会から第3回大会の1940年から1942年のいずれかの年に作られ、いずれかの大会の記念バッジであったことは間違いないと思います………となると、ものすごく貴重なバッジということになりますね!( ̄◇ ̄;)
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吹奏楽日記2019.8.3(感謝状) [吹奏楽日記]

もう書くことはないと思っていましたが、久しぶりの吹奏楽日記となります。
先月、一般社団法人全日本吹奏楽連盟(以下「全日吹連」)から感謝状が送られてきました。5月に高知県高知市で開催された全日吹連の「平成30年度-令和元年度の定期総会」で表彰式があったのですが、仕事の都合で欠席しました。私は、平成18年に連盟役員の勤続表彰をされましたが、この時の表彰状は当時の理事長の酒井正幸先生(故人)のお名前で、今回は、役員引退の感謝状ですが、現在の理事長の丸谷昭夫先生のお名前です。両先生とも日本の吹奏楽界の重鎮であり、音楽史に名を刻む超有名人ですね。良い時に表彰されたものです。

◯4つの吹奏楽連盟の役員を務め、役員生活40年でした。引退時の役職は次のとおりです。
一般社団法人全日本吹奏楽連盟 理事・正会員
東京都吹奏楽連盟 副理事長
東京都大学吹奏楽連盟 理事長
全日本学生吹奏楽連盟 副理事長
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感謝状の私の名前が<ペーパー・ウェイト>で隠れていますが、これは記念品です。全日吹連のマークが入っています。
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不定期連載・<私の吹奏楽人生>第1回「出会い」 [吹奏楽日記]

吹奏楽との出会いは、昭和47年・四日市市立南中学校の2年生になる前の1月でした。入学以来剣道部に所属していましたが、吹奏楽部を退部希望の友人が、先輩から「退部するなら、身代わりをつれてこい!」と言われたらしく、その身代わりを私が買って出て、剣道部を退部して吹奏楽部に入ったのでした。そのころの剣道部は、テレビで高校剣道部の青春ドラマ「打ち込め青春!」の影響で人気があり、1年生だけで30人を超えるほどおりましたから、面や胴といった防具が足りません。毎日竹刀の素振りばかりでつまらない日々を過ごしており、いつか退部してやろうと思っていたところでした。

入部した翌々月の3月の春休みに、隣の吹奏楽の強豪四日市市立港中学校から音楽のW先生が、4月からの転勤の前に吹奏楽部の実態調査?のためにやって来たのでした。その時が、恩師W先生との最初の出会いでした。まだ30歳前ぐらいだったと思います。国立三重大学教育学部出身、三重大学吹奏楽団で学生指揮、オーボエを吹いていたそうです。後に、教頭そして校長となって定年退職されました。決して大袈裟ではなく、いわゆる“人格”としての現在の私があるのは、恩師W先生のお陰です。私の人間形成に大きな影響を与えた3人の教師の一人でした。あっ(⌒-⌒; )まだお元気です!

20数名しかいなかった吹奏楽部をなんとか45人編成(当時の大編成)にするため、新入生はもちろんのこと、2年生も勧誘しました。おかげで、私の同期は野球部、サッカー部、バスケット部、茶道部などの退部者がいます。勧誘の合い言葉は「吹奏楽部に入って長野に行こう!」でした。この年の吹奏楽コンクールの東海大会は、長野市で開催されることになっていましたから、田舎者の中学生には魅力的な言葉でした。しかし、約半数は初心者でコンクールに出場したこともなく、金賞をとって三重県代表になるのは夢のまた夢の話しでしたね。ちなみに、担当楽器はトロンボーンでした。

この年の三重県吹奏楽コンクールは、勧誘で部員を寄せ集めた成果もあって、中学校大編成の部に初出場を果たしました。結果は銀賞でした。銅賞ではなくて嬉しかったことを覚えています。課題曲は岩井直溥作曲の「シンコペーデットマーチ・明日に向かって」、自由曲はロナルド・ティルマン作曲の「チェルシー組曲」でした。上出来も上出来の演奏でしたが、ステージ上で膝はガクガク手は震え(; ̄O ̄)それまでの人生で一番緊張するという経験をしました(⌒-⌒; )録音したレコードがありますから、今でも聴こうと思えば聴けます。
(つづく)
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吹奏楽日記2019.3.28(退任、そして引退) [吹奏楽日記]

昨夜、東京都大学吹奏楽連盟の平成30年度-31年度総会が、私の職場である国士舘大学で開催され、理事長職を任期満了に伴い退任いたしました。平成5年3月17日の平成5年度臨時総会で承認された第4代理事長就任から26年の歳月が経ちました。他に副理事を1年、渉外部長を1年、常任理事を8年務めました。本来であれば、理事長経験者は名誉職の顧問に就任するところですが辞退いたしました。
同時に、第5代理事長以下の新しい連盟役員が就任して新体制が発足しました。関係者の皆様には、今までに増してのご支援、ご協力を引き続きお願い申し上げるしだいです。重ねてよろしくお願い申し上げます。
美しい豪華な花束をいただきました!感謝です!
引退の花束.jpg
来月4月23日は、東京都吹奏楽連盟の平成30年度-31年度総会が開催されますが、副理事長職を任期満了に伴い退任いたします。理事を2年、常任理事を10年、副理事長を16年務めましたが、こちらも本来であれば名誉会員に就任するところですが辞退することにしています。
再来月の5月24日は、一般社団法人全日本吹奏楽連盟の平成30年度-31年度通常総会が開催されますが、理事職を任期満了に伴い退任することになっています。全日本連盟の会員連盟としての正会員を24年、理事を4期8年務めましたが、こちらも本来であれば名誉会員に就任するところですが辞退することにしています。
現在活動を休止している全日本学生吹奏楽連盟は、渉外部長を1年、監事を7年、副理事長を26年務めました。こちらは連盟規約に従い、東京都大学吹奏楽連盟理事長(東京支部長)の退任に伴い退任いたします。こちらも本来であれば名誉職の参与に就任するところですが辞退することにしています。
以上のとおり、4つの吹奏楽連盟の役員をすべて退任することになりました。各連盟の名誉職もすべて辞退します。今までご理解、ご協力、そしてご支援いただいたすべての皆様に厚くお礼申し上げるしだいです。

特に、妻と娘には万感の思いで感謝をしています。土曜と日曜に演奏会、パレード、コンクール、コンテスト、講習会や各種会議などの連盟行事が開催されるため、ほとんど家庭サービスができませんでした。子どもが小さいころは、ご近所の奥様方から母子家庭に見られたこともありました。また、娘は絵を描くことが大好きで、本当は中学生時から美術部に入って好きな絵を描いて、将来は美術大学に進みたかったのだと思います。しかし、私も妻も吹奏楽経験者だったこともあり、中学も高校も吹奏楽部に入りました。
高校2年生時にオーストリアのウィーンに演奏旅行に行かせていただき、有名なウィーン楽友協会の黄金の間(ホール)で演奏会を行い、満員の観客からスタンディングオベーションを受けました。東海大学に進学してからは、2年生時から全国大会に出場させていただき、3年生時と4年生時は2年連続で全国大会金賞に輝いて大学日本一となり、私が高校生時に果たせなかった夢(全国大会出場&金賞受賞)をよくぞ果たしてくれました。父親が吹奏楽連盟の理事長ということで、相当なプレッシャーがあったと思います。本当によく頑張ってくれました。妻も娘も愚痴や不満を一切言わず、陰日向に応援してくれて好き放題やらせてもらったことに感謝感謝です。
今後は、家庭サービスに力を入れ、今までの分を取り返そうと思います!そして、キリスト教の信仰に今まで以上に敬虔となり、仕事の余暇にカトリック教会でのホームレス支援などのボランティアに励みます。
仕事は重責を担うことになり、ますます忙しくなる予感が(⌒-⌒;)!いや、確実に今まで以上に忙しくなりますね!(; ̄O ̄)一歩でも多く努力!一歩でも早く仕事!の精神です。
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吹奏楽日記2019.2.26(東京都大学吹奏楽連盟・第58回合同演奏会!) [吹奏楽日記]

今日は仕事を途中で切り上げ、江戸川区総合文化センター大ホールで開催された東京都大学吹奏楽連盟(略して「大吹連(だいすいれん)」)主催の第58回合同演奏会に行ってきました。大吹連の年間実施事業の中でも最大規模の演奏会で、連盟加盟32大学の選抜メンバーが出演しました。
私が大学1年生時に出演したのが第18回で、江東公会堂(現在の「ティアラ江東」)でした。あの時から40年(40回)も経ちました。この40年の間、大学を卒業して就職し、結婚をして家庭を持ち、子どもができ、その子どもは大学を卒業して社会人となり、私は60歳となって還暦を迎えました。すでに両親は亡くなり、この40年いろいろとありました。

さて、話を合同演奏会に戻しますが、2年生時の第19回も奏者として出演しました。あの時は渋谷公会堂でした。3年生時は学生連盟役員候補として裏方をやり、第20回記念ということで全日本吹奏楽コンクールで有名な普門館(ふもんかん・すでに解体されました)で開催されました。4年生時は学生連盟役員として演奏会運営に携わりました。ホールは新宿文化センター大ホールでした。どれもこれも思い出深いですね。他大学の学生と交流ができ、たくさんの友人ができたことが一番大きな財産であり思い出ですね。大吹連のおかげで、学生時代は充実した楽しい4年間を過ごすことができました!大吹連に感謝感謝ですね(^∇^)!
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吹奏楽日記2019.2.22(第58回合同演奏会強化合宿練習視察) [吹奏楽日記]

今日は、仕事が終わってから東京都大学吹奏楽連盟の第58回合同演奏会の合宿練習を視察するため、新木場にある東京スポーツ文化会館に行ってきました。今は帰りの電車の中です。
第58回合同演奏会は、2月26日(火)・18時開場・18時30分開演で、江戸川区総合文化センター大ホールにおいて開催されます。入場料は1.000円です。
各ステージともメンバー+スタッフで、1部のマーチングステージは83人、2部のポップスステージは73人、3部のシンフォニックステージは72人です。他にも実行委員や当日の舞台裏のお手伝いも含めて合計300人の大所帯になります。出演者は、すべて東京都大学吹奏楽連盟32大学から選抜された優秀な学生諸君です。毎年のことですが、心配なのは学生諸君の健康状態です。体調管理は自己管理ですね。インフルエンザになってしまったらアウトです!とにかく体調管理に気をつけましょう!今から当日が楽しみです!
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