聖人・福者・尊者 ブログトップ
前の10件 | -

「聖ヨセフ」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日3月19日は、「聖ヨセフ」の祭日です。
この日が日曜日や、聖週間にあたる場合は、移動されます。聖ヨセフの祭日が教会暦で祝われるようになったのは、10世紀の西方教会においてのようです。聖母マリア様の夫で、イエス・キリストの養父であるヨセフは、ユダヤの王ダビデの子孫でした。聖ヨセフは、新約聖書に記されているように「正しい人」であり、結婚する前にマリアが身ごもっていることを知ると、それを表ざたにすることなく、縁を切ろうとしました。しかし、夢に現われた天使が、マリアを妻として迎え入れ、マリアの産む子をイエスと名付けるようにとヨセフに告げたので、イエス・キリストの養父としての使命を担いました。
◯ラ・トゥール作の『大工聖ヨセフ』です。フランス・パリ市にあるルーヴル美術館の所蔵です。左側に大工仕事に励むヨセフ、右側に聖書に書かれないイエス・キリストの少年時代を描いています。キリストが最も明るく輝くように描かれ、ヨセフは十字架のような形をした道具を使い、十字架の形に置かれた木材に穴を開けています。これはキリストの死の運命の暗示ですね。
f6b893957f52947dd0246ce5c3e4b91e_ddf1a27d4c1c5201e128babd5b45ceed (1).jpg
◯新約聖書:マタイによる福音書・第1章・第18~第25節
〈イエス・キリストの誕生〉
「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが分かった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに離縁しょうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
これは、「神が私たちと共におられる」という意味である。ヨセフは目覚めて起きると、主の天使が命じたとおり、マリアを妻に迎えた。しかし、男の子が産まれるまで彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」
『聖書協会共同訳聖書』から

また、ヘロデ王が幼な子イエスを殺そうとしている計画を夢で知らされると、マリアとイエスを連れてエジプトに避難しました。
◯新約聖書:マタイによる福音書・第2章・第13~第15節
〈エジプトに避難する〉
「博士たちが帰っていくと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、幼子とその母を連れて、エジプトに逃げ、私が告げるまで、そこにいなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ退き、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「私は、エジプトから私の子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった。」
『聖書協会共同訳聖書』から

また、イエスを神殿に奉献するためにエルサレムに行き(ルカ2.22~38)、イエスが12歳の時に、エルサレムからの帰路でイエスを見失ったときは、マリアとともに心配しました。彼はガリラヤのナザレで、大工生活を営みながらイエスに労働の大切さを教えました。聖ヨセフは、イエスが30歳になる前に亡くなったといわれている。養父としてのヨセフは、中世の教会に大きな影響を与え、多くの聖人たちの生き方に示唆を与えました。彼は、キリストとマリアを守ったことからも、教会の特別な保護者とされています。
◯新約聖書:ルカによる福音書・第2章・第22~第38節
〈神殿で献げられる〉
「さて、モーセの律法に定められた清めの期間が満ちると、両親はその子を主に献げるため、エルサレムへ連れて行った。それは主の律法に、「母の胎を開く初子の男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか若い家鳩二羽を、いけにえとして献げるためであった。
その時、エルサレムにシメオンと言う人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。また、主が使わすメシアを見るまでは死ねことはない、とのお告げを聖霊から受けていた。この人が霊に導かれて神殿の境内に入った。そして、両親が幼子イエスを連れて来て、その子のために律法の定めに従っていけにえを献げようとしたとき、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
「主よ、今こそあなたはお言葉どおり
この僕を安らかに去らせてくださいます。
私はこの目であなたの救いを見たからです。
これは万民の前に備えられた救いで
異邦人を照らす啓示の光
あなたの民イスラエルの栄光です。」
父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いた。シメオンは彼らを祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう。多くの人の心が現れるためです。」
また、アシュル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年を取っていて、おとめの時に嫁いでから七年間、夫と共に暮らしたが、その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして神殿を離れず、夜も昼も断食と祈りをもって神に仕えていた。ちょうどその時、彼女も近づいて来て神に感謝を献げ、エルサレムの贖いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことをかたった。」
『聖書協会共同訳聖書』から

◯新約聖書:ルカによる福音書・第2章・第41〜第52節
〈神殿での少年イエス〉
「さて、両親は毎年、過越祭にはエルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になった時も、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路に着いたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気付かなかった。道連れの中にいるものと思い込んで、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類な知人の中を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムへ引き返した。三日後にようやく、イエスが神殿の境内で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢さとその受け答えに驚愕していた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜ、こんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか。」しかし、両親には、イエスの言葉の意味が分からなかった。それから、一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親にお仕えになった。母はこれらのことをみな心に留めていた。イエスは神と人から恵みを受けて、知恵が増し、背丈も伸びていった。」
『聖書協会共同訳聖書』から
nice!(0)  コメント(0) 

「エルサレムの聖チリロ司教教会博士」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日3月18日は、エルサレムの聖チリロ司教教会博士(アレキサンドリア:313年頃~386年)の任意の記念日です。4世紀の傑出した神学者の一人でエルサレム司教です。若いころ、聖書や教父の著書を読むなど研鑽に努め、19歳のときにエルサレムの司教マカリオに選ばれて助祭となり、説教をして本を書いて人々を信仰に導きました。その後司祭となり、マカリオの後継者に選ばれ司教となっています。
cyril_jerusalem_2.jpg
当時は異端のアリウス派が広まり、グノーシス主義やユダヤ教などに対抗して正当信仰を擁護するチリロは、アリウス派の人々によって司教座から何回も追放され、16年間も流刑の身を強いられました。チリロは奇跡を起こして人々に信仰を固めさせ、異教の人たちまでも驚かせたといわれています。ギリシア語でキュリロスとも呼ばれ、エルサレムの聖キュリロスとも呼ばれています。
nice!(1)  コメント(2) 

「聖パトリック司教」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日3月17日は、「聖パトリック司教」の任意の記念日です。掲載するのが遅くなりました(⌒-⌒; )
聖パトリック(又はパトリキウス)(ラテン語でPatricius・英語でPatrick:イギリス:387年?~461年3月17日)は、アイルランドにキリスト教を広めた司教です。カトリック教会、聖公会、ルーテル教会及び正教会で聖人とされています。「アイルランドの使徒」と呼ばれ、アイルランドの守護聖人となっています。

イギリス西部にあるウェールズでケルト人(ローマ人とも)の家庭に生まれました。両親ともクリスチャンであり、母は聖書(旧約聖書の「詩編」)を教え、16歳でアイルランドの海賊に拉致されてアイルランドに奴隷として売られてしまいます。6年間、羊飼いとして働き(おそらくは北アイルランドのアントリム州)、その後神の声を聞くことになります。お告げに従って牧場を脱走し、およそ300キロを歩いて故郷のウェールズへ戻った後、神学を学ぶためヨーロッパ大陸へ渡りました。7年間神学を学んだ後に帰国します。

彼は自分を奴隷として虐待したアイルランド人らに対する愛と伝道の使命を与えられたと家族に話し(家族は伝道に反対)、432年、ローマ司教・カエレスティヌスから布教の命を受けて432年に再びアイルランドを訪れます。伝道のためにアイルランドへ行った最初の人間でも、唯一の人物でもありませんでしたが、大規模な改宗の象徴となっています。また、讃美歌の作者としても知られ、彼は365の教会を立て、12万人が回心したと伝えられています。三つ葉のクローバーに似たシャムロックを手に『三位一体』を説いたため、シャムロックは彼のシンボルとなりました。

◯アイルランドの首都ダブリンでのセント・パトリック・デーのパレードの様子です。
聖パトリックデー.jpg
原宿・表参道でのパレードの様子です。
聖パトリック.jpg
アイルランドやアイルランド移民の多いアメリカ、オーストラリアでは、“聖パトリックの祝日(St. Patrick's Day)”として盛大に祝われています。特ににアメリカでは世俗化し、カトリック信徒でない者でも緑の服を着るなどしてこの行事に参加する人も多いそうです。
日本でも「アイルランドを一般の方にもっと知ってもらおう!」を主旨に、アイリッシュ・ネットワーク・ジャパンにより、1992年からセント・パトリックス・デイ・パレードが開催されています。東京では原宿の表参道をアイルランドのシンボルカラーのグリーンやシンボルの三つ葉のクローバーデザインの衣装、小物を身につけた約1000名がパレードをします。その他、横浜や京都、日本各所でパレードやオープンイベントなどが催されています。
このブログの2019年9月16日に掲載した「四つ葉のクローバー」のお話しもご覧ください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2019-09-16
nice!(0)  コメント(0) 

「聖母マリアのしもべ会・七聖人」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日2月17日は、「聖母マリアのしもべ会・七聖人(創立者)」の任意の記念日です。
七聖人とは、いずれも北イタリアなるフロレンス市の元豪商で………、
①ボンフィリオ・デ・モナルデ
②ヨハネ・デ・ボナジュンタ
③ベネディクト・デル・アンテラ
④バルトロメオ・デリ・アミディ
⑤リコヴェロ・デ・ウグチォネ
⑥ゲラルヂノ・デ・ソステニヨ
⑦アレキシオ・ファルコニエリ
………という名前の13世紀半ばの人達でした。当時のイタリアは、ドイツ皇帝フェデリコ2世の軍勢に侵入され、国民はグエルフ人とギベリン人の二派に分裂し、町と町とが互いに争って不安定な殺伐とした世情でした。そこで、7人は人生の儚さやこの世の無情を感じてこの世を憂い、安寧を願わんがために主(神様)に仕えようと望むようになったのでした。
聖母マリア七聖人.jpg
そのようなところに、1233年8月15日の「聖母マリアの被昇天の祝日」に、聖母マリア様が彼ら個々にご出現になり、修道修行を勧められたので、彼らは決心して“アッシジの聖フランシスコ”のように自分達の財産をことごとく貧しい人々にに施し、司教の許可を得て、9月8日の「聖母マリアのご誕生」の記念日をもって、郊外のカマルチアというところにある小屋で憧れの修道生活を始めたのでした。
ある日、7人が粗末な服を身にまとい町中を歩いていると、小さな子供等がぞろぞろついて来ながら、とっても面白そうに「マリア様のしもべ!マリア様のしもべ!」とはやし立てたのでした。後に彼らの修道会が司教よって「マリアのしもべ会」と命名されたのは、この子ども達の言葉が元となったのでした。しかも、その時その子ども達の中に、幼いフィリッポ・ベニチオという子どももいましたが、この子どもが、後に「マリアのしもべ会」に入り、総長の重任をおびて同会の発展に力を尽くし、死後に聖人に列せられたのでした。

7人の質素で敬虔な生活ぶりは間もなく町中の評判になり、大勢の人々が教えを乞うべく押し掛けて来るようになり、司教の許可を得て、更にそこから36㎞ほど離れたモンテ・セナリオという静寂な場所で祈りと苦行に勤しみました。ある聖金曜日の事でした。彼らがイエス・キリストのご苦難を黙想していると、聖母マリア様が再びご出現になり、「アウグスチノ会の戒律」を用い、黒の会服を着し、また聖子の十字架の下にたたずむ聖母の苦痛を尊敬すべきことをお示しになりました。7人が早速そのみ言葉に従ったことは言うまでもありません。
そして必要にかられて、フロレンス市中にアノンチアート修道院という修道院を設けました。巡回説教をするようになると、司祭でなくては都合の悪いこともあり、彼らの6人は司教の承諾を得て“叙階の秘跡(司祭の任命)”を受けましが、ただ残る一人、アレキシオだけは謙遜の心からどうしても司祭の権力を受けようとはせず。あくまで平修道者として乞食の生活を続け、恵む者の為に主(神様)の祝福を祈って一生を送りました。

7人の中で、最初にこの世を去ったのはヨハネ・ボナジュンタでした。彼は1251年8月13日、ミサを献げた後、自分の死すべき事を兄弟達に告げ、司祭服を着たまま聖書の主イエズス・キリストの御受難の顛末を読んでもらい「父よ我が魂を御手にまかせ奉る!」という所に至って腕を広げ、その言葉の通り自分の霊魂を天主の御手に返したのでした。最も長寿を保ったのはアレキシオで、彼は1310年2月17日、百十歳の高齢でフロレンス市に永眠しました。後に、教皇レオ13世から列聖されています。その創立した修道会は今や全世界に広まり、修道院はおよそ70、修道者は約800人に及んでいます。
nice!(1)  コメント(0) 

「聖バレンチノ(バレンタイン)司祭殉教者」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日2月14日は、「聖バレンチノ(バレンタイン)司祭殉教者」の記念日です。なお、典礼歴にはありません。
ローマ皇帝クラディウスのキリスト教迫害下にあって、バレンチノはローマの司祭として熱心に宣教し、苦しむ人、貧しい人、病める人を助け導いていました。バレンチノの宣教をやめさせるように命令を受けたローマ判事アステリアは、目の不自由な娘がバレンチノの祈りによって治ったことから、家族全員で洗礼を受けキリスト教徒となりました。そのため皇帝は、バレンチノをはじめアステリアらを処刑しました。

バレンチノは、子どもをはじめ家畜などの病気を治しましたので、子どもや家畜の守護の聖人として人びとから親しまれていました。「ローマ殉教録」によると、この日に同名の司教が殉教しており、それらの伝説や奇跡などが重なったと考えられます中世になると、バレンチノの記念日に異性に愛の告白のカードを渡す慣習が広まり、恋に悩む人たちがバレンチノに取り次ぎを願いました。古代ローマで豊作を祈願するルペルカリア祭(2月中旬)に、女性が愛の手紙を書いて壺に入れ、手紙を受け取った男性がその女性をデートに誘うという習慣があり、それに結び付けられたといわれています。

『カトリック中央協議会』公式ホームページから
質問:「バレンタインデーって、教会と関係あるのでしょうか?」
回答:「あります。しかし残念ながら、贈り物をする習慣は教会とは関係ありません。」
バレンタインデーとはもともと、聖バレンチノの殉教を記念する日でした。ではなぜ、バレンチノが恋人たちの保護者としてあがめられるのでしょか?それは、バレンチノはイタリア・ウンブリア地方のテルニ(Terni)の司教で、ローマ皇帝によって処刑された殉教者と伝えられています(同じ日に記念する同じ名前の殉教者がいるのでややこしい)。
当時ローマ帝国の兵士たちは、「士気が落ちる」という理由で、結婚を禁止されていたとか。バレンチノは、こっそり若い恋人たちを結び付けていたそうです。それが皇帝クラウディオの怒りを買い、捕らえられ、270年(269年?)、棍棒や石でなぐり殺されたと言われています。
世界のカトリック教会では2月14日、聖チリロ隠世修道者と聖メトジオ司教を記念します。2人は9世紀に活躍した兄弟で、聖チリロはキリール文字でスラブ語の典礼書を作成した人物です。聖メトジオは司教になり、パンノニア(いまのハンガリー)で宣教。ヴェレラド(いまのチェコ)で亡くなりました。
(『毎日の読書』、『毎日のミサ』より)
nice!(0)  コメント(0) 

「聖チリロ隠世修道者・聖メトジオ司教」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日2月14日は、「聖チリロ隠世修道者・聖メトジオ司教」の記念日です。なお、典礼暦にはありません。
両聖人は兄弟であり、聖チリロは802年、聖メトジオは810年にギリシャのテサロニケに生まれました。当時のテサロニケは、東ローマ帝国の重要な貿易港として栄えており、さまざまな民族が居住していました。そのため、聖チリロと聖メトジオは、スラヴ人と交わり、スラヴ語を自由に話し、その風俗に親しみ、後年スラヴ族の宣教師となる素養を身につけたのでした。また、二人とも東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルに遊学し、学業に優秀な成績をあげました。聖チリロは哲学、神学の他に実践面にもすぐれ、はじめ東ローマ帝国の宮廷付き司祭として高い栄誉を与えられてました。一方の聖メトジオは、テッサリア地方の知事に任ぜられ、大いに手腕をふるった後、官職を辞して修道院に入りました。
Cyril-methodius-small.jpg
東ローマ皇帝ミカエル3世は、モラヴィアの国王の要請に応じて、862年、兄弟を宣教師としてモラヴィアに派遣しました。それは、教理に暗い新信者を指導すると共に、異教徒をも改宗させ、国民を善良温和なキリスト者に教化することによって国の統一を固めようとはかったからでした。このためモラヴィアの人々はまもなく教理に明るくなり、数年の間に異教徒もほとんど改宗したそうです。こうしてスラヴ族の大半をキリスト教化した2人は、868年、教皇の祝福を願いかたがた所用を果たすためにローマへ向い、時の教皇ハドリアノ2世に大いに歓迎されました。2人はしばらくローマに滞在して故郷に帰ろうとした時、聖チリロは昼夜をかけての布教活動と心労のためか、突然重病にかかり、やむなくローマの一修道院で静養しましたが、ついに869年安らかにこの世を去りました。
その後、聖メトジオは司教に叙階され、モラヴィアに帰りました。まもなくモラヴィアはドイツとの戦火に巻き込まれ、自由な司牧ができなくなりましたので、司教はパラニアに足をとどめ異教徒の改宗に尽くしました。その後、ドイツ王に投獄されたり、「メトジオは異端を伝え、正統な信仰に反する」と讒言されたりしましたが、スラブ教会のために聖書の翻訳や、聖職者の養成に力を注ぎ活躍しました。「スラブの使徒」と呼ばれています。年老いた聖メトジオは、やがて臨終の近いのを悟り、一司祭を司教に叙階して自分の後継者とし、885年に安らかにこの世を去りました。
nice!(0)  コメント(0) 

「聖カタリナ・リッチおとめ」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日2月13日は、「聖カタリナ・リッチおとめ(1522~1590年)」の記念日です。なお、典礼歴にはありません。
カタリナは、イタリア、フィレンツェに生まれ、幼いころからトスカーナのドミニコ会修道院で教育を受けました。14歳で誓願を立て、1542年の四旬節にイエスの受難を黙想していたときに重い病にかかり、復活したイエスの幻を聖土曜日に見るまで病床に伏していました。
◯アゴスティーノ・マスッチ(イタリア:1691~1758年)作の「リッチの聖カタリナのエクスタシー」です。マスッチは、バロック後期またはロココ時代のイタリアの画家でした。
Agostino_Masucci_-_The_Ecstasy_of_Saint_Catherine_of_Ricci_-_(MeisterDrucke-633714).jpg
以後12年間、毎木曜日の正午から金曜日の午後4時まで、カタリナは脱魂状態になり、イエスの受難を体験したのでした。イエスから与えられる数々のビジョンにより、彼女は人びとから注目され、教皇、枢機卿、司教をはじめ彼女のもとには、多くの人びとが意見を求めに訪れました。しかし、カタリナは決して誇ることなく、良識ある態度と強い自制心によって修道生活を送り、共同体のために尽くしました。1560年には修道院の院長となって会員を導き、賛美歌を作曲するなど教会の典礼にも貢献しました。
nice!(0)  コメント(0) 

聖スコラスチカおとめ」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日 2月10日は、「聖スコラスチカおとめ」の記念日です。
聖スコラスチカ(イラリア:480年ごろ~542年ごろ)は、イタリア中部のヌルシアの裕福な信仰深い家に生まれ、ヨーロッパの修道院制を確立して「修道生活の父」と呼ばれる聖ベネディクトの妹です。
生後まもなく母を亡くし、父と兄によって育てられました。兄(聖ベネディクト)が山にこもって修道生活を始めると、スコラスチカも修道生活を送り、神に生涯をささげたいと望むようになりました。やがて兄が創設したモンテ・カッシーノ修道院の近くに家を建て、祈りと労働の生活を始めたところ、彼女のところに「祈りと労働に専念する生活をしたい。」と願う女性達が集まり、その家は修道院となって彼女は院長として会員たちを導きました。
聖スコラスチカ.jpg
当時、ベネディクト会修道院には異性が入ることはできなかったので、兄妹は年に1度、修道院の中間にある農家で出会い、神、祈りそして修道生活について語りあったそうです。死期が近づいたことを感じたスコラスチカは、兄ともっと神について語り明かしたいと思ったところ、彼女の切なる祈りが嵐を起こし、帰ろうとする兄の足を引きとめたといわれています。その3日後、彼女は息を引き取り天に召され、兄は妹の魂が白い鳩のように昇天していくのを見たそうです。兄妹はモンテ・カッシーノにある同じ墓に眠っています。
nice!(0)  コメント(0) 

「聖アポロニア」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日2月9日は、「聖アポロニア(生年不詳~249年)」の祝日です。なお、典礼歴にはありません。
聖アポロニアは、ローマ帝国時代のアレクサンドリアで殉教したキリスト教徒です。アレクサンドリアで殉教したため、「アレクサンドリアのアポロニア」とも呼ばれています。カトリック教会、東方正教会、コプト正教会で聖人とされています。
◯写真の絵は、17世紀フランドルの画家ヤーコブ・ヨルダーンスの手がけた宗教画のひとつ「聖アポロニアの殉教」です。アントウェルペンのアウグスティノ修道参事会の依頼により同会の祭壇画として制作されました。逸話で有名な聖アポロニアの抜歯の場面です。抜歯される聖女アポロニアは痛々しい姿ながら胸の前で腕を交差させ、天上を見上げ聖母マリアの降臨(聖母マリア様がアポロニアの魂を迎えにきたのですね。)を幻視しています。また抜歯するアレクサンドリアの暴徒や異教の神像を指差す異教の祭司、画面下部で火刑の炎を熾す暴徒などが画かれています。
聖アポロニア2.jpg
言い伝えによると、彼女は歯を全て乱暴に引き抜かれたか、粉々にされるという拷問を受けたということです。このために、歯科学や歯痛を患う者、歯に関する問題のあるすべての人の守護聖人として崇敬されています。多くの絵は、歯を引き抜くための“はさみ(又は「歯」)”を手にした姿で描かれている場合が多いです。歯が痛い時は、聖アポロニア様にお祈りしましよう!それと、歯科医院が苦手な人も!お祈りしてくださいね。

当時アポロニアは、教会内の協力者を務め非常に尊敬されました。アレクサンドリア市で異教の偶像を破壊したことから捕らえられ、柱に繋がれ歯を抜かれる(又は殴られて歯が折れたとされる)などの暴行を受けた後、市外で火刑に処されました。一説では改宗しないと火刑にすると脅されるも自ら炎の中へ飛び込んだそうです。この悲惨な話しは、ヤコブス・デ・ウォラギネの著した「黄金伝説(1260年頃)」により広まりました。
nice!(0)  コメント(0) 

「聖ジュゼッピーナ・バキータ」のお話し [聖人・福者・尊者]

バキータ.jpg
今日2月8日は、二人の聖人の任意の記念日です。二人目は、「聖ジュゼッピーナ・バキータ(又はバキタ:スーダン:1869年~1947年)」の任意の記念日です。
彼女は修道女、カトリック教会の聖人でスーダンの守護聖人となっています。バキータは、西スーダン・ダルフール地方の村オルゴッサで、村の有力者の家に生まれました。彼女が9歳の時、アラブ人の奴隷狩りにあって誘拐され、その後8年もの間、エル・オベイドやハルトゥームの奴隷市場で5度も売られました。この過酷な経験が精神的外傷となって、彼女は自分の名前を忘れてしまい、奴隷達からアラビア語の名前バキータ(「幸運」の意味)を与えられました。洗礼名のジュゼッピーナは成人してからです。

バキータは奴隷の間、彼女の所有者の息子に幾度も殴られる暴行を受け、後に彼女は4度目の所有者となるオスマン帝国の軍人に、最もひどい虐待を受けました。彼は自分の所有する奴隷に「彼のものである印」として、刃物で傷を付け入れ墨をしたのです。何年も後にバキータがイタリア語で書いた自伝には、小麦粉の入った皿、塩の皿、刀、それらを女性たちが持ってきて、彼女たちがバキータの肌の上に刃物をつきたてて奴隷を示す模様を刻み、傷口を小麦粉と塩で埋めて傷口が盛り上がるようにしたのでした。バキータの胸元、腹、腕には60種類以上の模様がありました。

彼女の最後の購入者となったのは、イタリアの領事カッリスト・レニャーニでした。彼はバキータに優しく接し、彼女を自由にすべく計画しました。1885年、彼は16歳のバキータを友人アウグスト・ミキエーリに託し、ミキエーリは、自分の娘ミンミーナの乳母としてバキータをイタリアへ連れ帰りました。1888年か1889年、バキータとミンミーナは、ミキエーリが仕事で紅海へ向かった間、ヴェネツィアのカノッサ女子修道会の保護のもとに置かれていました。1890年、バキータは自分の意志で洗礼を受け、洗礼名ジュゼッピーナ・マルガリータ(Giuseppina Margarita)を授かりました。

ミキエーリ夫妻が帰国してバキータとミンミーナを呼び寄せると、バキータは修道会を離れるのを嫌がりました。ミキエーリ夫人は出させようとしますが、バキータとミンミーナがヴェネツィアで入学した最上の学校は、裁判所に訴え出ました。イタリアの法廷は「どんな場合でもイタリアの法律は奴隷制度を承認しない、バキータが奴隷であったことは一度もない。」と宣告しました。バキータはもはや成人になっており、自分で自分の運命をコントロールすることができると知った最初の出来事となりました。彼女は女子修道会に残ることを選択しました。1896年、彼女は正式に修道女となりました。1902年、彼女は北イタリアのスキーオに家を与えられ、そこで余生を暮らしました。

スキーオで暮らした45年間、ジュゼッピーナは自宅に女性門番を雇っていました。そして、彼女が地元のコミュニティーとの連絡役を果たしていました。彼女の優しさ、穏やかな声、絶えない笑顔はよく知られるようになり、ヴィチェンツァの住民達は、彼女のことを「ラ・ノストラ・マードレ・モレッタ(La nostra madre moretta・私たちの小さな褐色の母)」と呼びました。彼女の特別な献身と高潔さの評判は教書に記され、彼女は回顧録を公にし、自身の経験を他人に話しました。これらが彼女の高名をイタリア中に広めることになりました。最晩年、バキータは苦痛と病が著しかったのですが、彼女は朗らかさを保ち、何かを尋ねられるといつも笑みを浮かべて『主のお望みのままに』と答えました。

死が迫ったとき、彼女の記憶は奴隷だった頃に逆戻りし、錯乱の中で「どうか鎖を外してください・・・重すぎるのです。」と叫んだそうです。ジュゼッピーナは1947年2月8日に帰天(天国に帰ること・死ぬこと)しました。3日間、彼女の遺体が安置され、何千もの人々が彼女に敬意を払いにやってきました。彼女を列聖してほしいという声がすぐに起こり、彼女の死からわずか12年後の1959年に審査が開始され、1978年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ジュゼッピーナを列聖の最初の段階である尊者とし、1992年5月17日、彼女は列福され2月8日が彼女の記念日とされました。2000年10月1日、彼女は列聖され聖人となりました。彼女は現代アフリカの聖人であり、虐待と奴隷に関連した聖人として列聖されました。
nice!(0)  コメント(0) 
前の10件 | - 聖人・福者・尊者 ブログトップ