「聖チリロ隠世修道者・聖メトジオ司教」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日2月14日は、「聖チリロ隠世修道者・聖メトジオ司教」の記念日です。なお、典礼暦にはありません。
両聖人は兄弟であり、聖チリロは802年、聖メトジオは810年にギリシャのテサロニケに生まれました。当時のテサロニケは、東ローマ帝国の重要な貿易港として栄えており、さまざまな民族が居住していました。そのため、聖チリロと聖メトジオは、スラヴ人と交わり、スラヴ語を自由に話し、その風俗に親しみ、後年スラヴ族の宣教師となる素養を身につけたのでした。また、二人とも東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルに遊学し、学業に優秀な成績をあげました。聖チリロは哲学、神学の他に実践面にもすぐれ、はじめ東ローマ帝国の宮廷付き司祭として高い栄誉を与えられてました。一方の聖メトジオは、テッサリア地方の知事に任ぜられ、大いに手腕をふるった後、官職を辞して修道院に入りました。
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東ローマ皇帝ミカエル3世は、モラヴィアの国王の要請に応じて、862年、兄弟を宣教師としてモラヴィアに派遣しました。それは、教理に暗い新信者を指導すると共に、異教徒をも改宗させ、国民を善良温和なキリスト者に教化することによって国の統一を固めようとはかったからでした。このためモラヴィアの人々はまもなく教理に明るくなり、数年の間に異教徒もほとんど改宗したそうです。こうしてスラヴ族の大半をキリスト教化した2人は、868年、教皇の祝福を願いかたがた所用を果たすためにローマへ向い、時の教皇ハドリアノ2世に大いに歓迎されました。2人はしばらくローマに滞在して故郷に帰ろうとした時、聖チリロは昼夜をかけての布教活動と心労のためか、突然重病にかかり、やむなくローマの一修道院で静養しましたが、ついに869年安らかにこの世を去りました。
その後、聖メトジオは司教に叙階され、モラヴィアに帰りました。まもなくモラヴィアはドイツとの戦火に巻き込まれ、自由な司牧ができなくなりましたので、司教はパラニアに足をとどめ異教徒の改宗に尽くしました。その後、ドイツ王に投獄されたり、「メトジオは異端を伝え、正統な信仰に反する」と讒言されたりしましたが、スラブ教会のために聖書の翻訳や、聖職者の養成に力を注ぎ活躍しました。「スラブの使徒」と呼ばれています。年老いた聖メトジオは、やがて臨終の近いのを悟り、一司祭を司教に叙階して自分の後継者とし、885年に安らかにこの世を去りました。
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