新約聖書:ローマの人々への手紙・第12章・第19節 [聖書]

「愛するみなさん、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「主は仰せになる『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』」と書かれています。」
注)「主」とは神様のこと。
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

『ローマの人々への手紙』は、使徒聖パウロがローマの教会にいる信徒に宛てた書簡ですが、紀元57年〜58年ごろに書かれたものです。この聖句は、旧約聖書の『申命記』第32章(モーセの歌)・第35節に、「復讐も報復もわたし(主)のもの」と書いてあり、また、旧約聖書の『レビ記』第19章・第18節に、「復讐してはならない。お前の民の子らに恨みを抱いてはならない。お前の隣人をお前自身のように愛さなければならない。わたしは主である。」と書いてあるのを根拠とし、ローマにいる信徒たちを戒める言葉になっています。
神様(主)は、人間に復讐・報復することを絶対にお許しになりません。それは復讐・報復することよって、人間に傷害・殺人などの罪を犯させることになるからですね。ですから、復讐や報復は人間に代わって神様(主)ご自身がなさるというわけです。

私たちが日常において、復讐や報復とまでいかなくても、それに近い怒りの感情を抱くことはよくあることです。相手に騙された、裏切られた、辱しめられた、嘘を広められた、恣意的に悪者にされたなどなど。そうすると、その相手に対して怒って相手を罵ったり、恨んだり、喧嘩になったり、遺恨を残して人間関係を悪くするたけでなく、やがて自分も罪を犯してしまうことになるのです。自分が悪くなくても“ 怒りを覚えた時” は、「神様が報復してくださる」と自分に言い聞かせることです。決して手出しは愚か、口でも心でも相手を罵ってはいけません。私はすでにこの聖句にしたがっています………とは言っても、まだまだ愚痴は出ますね~( ̄▽ ̄;) これはすべての人が自戒すべきことです!

それでも、「本当に神様は復讐や報復をしてくれるだろうか?」と思うのが人間の常ですね。信仰している人でも不安になる時はあるでしょう。神様を信じていても「すぐ復讐や報復がされないのはどうしてなのか?」、「いつ復讐や報復がなされるのか?」そのようなことを考えたりしますね。確かにいろいろと頭に浮かびますが、いつ復讐するとか報復するかとかは神様が決めることですし、もっと重要なことは、そもそも神様にとって、そのことが復讐や報復に値することなのか?ということもありますね。神様を信頼して信仰しているのであれば、そのようなことも神様に委ねるわけです。神様は、人間の復讐や報復をお許しにならないわけですから。全面的に神様に委ねるのです。

しかし、憤怒(怒ること)は、カトリック教会における「七つの大罪」の一つでもあります。怒りを心に留めないことが大切なのですが、その前に、そもそも復讐だとか報復だとかを思うこと自体が間違いですね。よくよく考えると、平和を願う愛である神様が、復讐だの報復だのといった人間の願いを聴き入れて実行されるでしょうか。されるわけがないですね。それでも神様が復讐や報復をされるとすれば、それこそ神様のみ摂理であると思います。怒りに駆られて復讐だの報復だのと思い煩うよりも、心を静かにして考えてみると、主がお望みになっていないことくらいすぐに分かることですね…………ということは、神様は「相手を赦せ」とおっしゃられているのではないでしょうか。イエス・キリストの一番重要な教えは「隣人への愛」と「赦し」です。神様に報復を願うよりも相手を赦しましょう。

【摂理(せつり)】
キリスト教で、創造主である神の、宇宙と歴史に対する永遠の計画・配慮のこと。神はこれによって被造物をそれぞれの目標に導く。
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新約聖書:マタイによる福音書・第7章・第6節 [聖書]

「神聖なるものを犬に与えてはならない。また、あなた方の真珠を豚に投げ与えてはならない。犬や豚はそれを足で踏みつけ、向き直って、あなた方を咬み裂くであろう。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

日本で、「豚に真珠(ぶたにしんじゅ)」という諺(ことわざ)があります。意味は「価値のわからない者に貴重なものを与えても意味がない」ということです。これは新約聖書に記載されている聖句(イエス・キリストの言葉)です。聖書が由来のことわざだったのですね。
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新約聖書:ルカによる福音書・第5章・第30~第32節、第19章・第1~第10節 [聖書]

「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちは、イエスの弟子に向かってつぶやいて言った、「どうして、あなた方は徴税人や罪人(つみびと)とともに食べたり飲んだりするのか」。そこで、イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

まず、この聖句(イエス・キリストの言葉、聖書の言葉)に出てくる言葉を説明します。
この部分で、「ファリサイ派の人々やその派の律法学者」という人たちが出てきますが、このファリサイ派・律法学者とは、自分達イスラエル人は、神に選ばれた唯一の民族で、神様との特別な契約を結んだ“神の民”であり、救いは“神の民”だけのものだと信じていました。そして、神の教えではなく、自分たち人間に都合のよい勝手な解釈によって定めた掟を、律法と称して行っている不遜な偽善者たちのことです。ですから、イスラエル人でない異邦人は神様の救いから除外されており、律法を守らない者は、徴税人ように血筋ではイスラエル人であっても、異邦人と同じように救いから除外される「罪びと」と考えていました。
その後に「徴税人(ちょうぜいにん)」という人がでてきますが、この徴税人とは、当時のユダヤ地方(シリア、ヨルダン、イスラエル辺り)を属州として支配していたローマ帝国のために、税金の取り立てを請け負っているユダヤ人のことです。異邦人であるローマ人支配者のために、同胞から厳しく税を取り立て、定められた額より多く取り立てるという搾取することで、同じユダヤ人から憎まれて「罪びと」として嫌われていたのです。

イエス・キリストは、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と説いています。「医者」とは、イエス・キリストのこと、「健康な人」とは、正しい人のこと、「病人」とは、罪人のことです。健康な人なら医者はいらないのであって、医者が必要なのは病人です。それと同じく正しい人であれば悔い改めはいらないのであって、罪人は悔い改めが必要であり、イエス・キリストの救いを必要としているのです。

この聖句の要約(中心)は、「罪人を招いて悔い改めさせるためである。」ということにありますね。イエス・キリストは、罪びとが今まで行ってきた罪を認め、悔い改めて救われることを望み、その救いのためにこの世に遣わされ宣教活動をなされたのです。正しい人も徴税人も他の人とまったく同じ人間であり、徴税人としてのこれまでの罪といわれる行いも、これからの生き方によってはそれまでの悪い行いである罪は赦され、新しい生き方が開けることをイエス・キリストはこのたとえ話をもって教えているのですね。

ルカによる福音書は、第19章でもう再び徴税人について書いています。「主」及び「人の子」とあるのは、イエス・キリストのことです。
◯新約聖書:ルカによる福音書・第19章・第1~第10節
「さて、イエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。そこに、ザアカイという名の男がいた。彼は徴税人の頭で、金持ちであった。彼はイエスがどんな人か見ようとしたが、人が大勢いたので、見ることができなかった。背が低かったからである。そこで、先のほうに走っていき、そこを通られるはずのイエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスはそこを通りがかると、見上げて仰せになった。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日、わたしあなたの家に泊まるつもりだ。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスをお迎えした。これを見ていた人たちはみな、つぶやき、「あの人は、罪人の所に行って宿をとった。」と言った。しかし、ザアカイは立ち上がり、主に向かって言った。「主よ、わたしは財産の半分を、貧しい人々に施します。誰かからだまし取っていたら、それを四倍にして払い戻します」。イエスは彼に仰せになった。「今日、この家に救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子が来たのは、失われたものを捜して救うためである。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

徴税人の頭(かしら)で金持ちだったザアカイは、イエスがエリコを通ったとき、先回りして、いちじく桑の木に登ってイエスを見ようとしました。ところが、それに気づいたイエスが声をかけ、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは喜んでイエスを迎えました。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と言って非難した人もありましたが、ザアカイは立ち上がって、財産の半分を貧しい人びとに施し、だまし取った人には4倍にして返すと約束しました。

金儲けしか考えなかった男が、今までの罪を悔い改め正しい生き方を芽生えさせたのです。これがイエス・キリストの福音宣教の力なのですね。過去の罪によって断罪していれば、ザアカイの回心はなかったでしょう。イエス・キリストは、裁きのために来たのではないのです「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子(イスラエル人)なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と。そうです。イエス・キリストは、罪びとを救うためにこの世にお生まれになったのです。

【徴税人】
当時のユダヤ地方(現在のシリア、ヨルダン、イスラエル辺り)を属州として支配していたローマ帝国(ローマ人)のために、税金の取り立てを請け負ったユダヤ人のことです。自分たちを支配するローマ人(異邦人)のために、同胞のユダヤ人から税を取り立て、定められた額より多く搾取するなど、同胞のユダヤ人から憎まれて「罪人」として嫌われていました。
【ファリサイ派】
ユダヤ教の指導者の一派で、律法を厳格に守り、細部に至るまで忠実に実行することによって神の正義の実現を追求しているつもりですが、その実は形式主義に陥り、人間が作った掟を大切にして神の教えをないがしろにしている人達のことです。偽善者ですね。また、自分達イスラエル人は、神に選ばれた唯一の民族で、神様との特別な契約を結んだ“神の民”であり、救いは“神の民”だけのものだと信じている人たちでした。ですから、イスラエル人でない異邦人は、神様の救いから除外されていると見下していました。新約聖書に登場する律法学者や祭司長なども同類の人たちです。

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新約聖書:ルカによる福音書・第24章・第13〜35節 [聖書]

「この日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村に向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。それで、二人は暗い顔をして立ち止まった。
その一人のクレオパと言う人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。私たちは、この方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の女たちが私たちを驚かせました。女たちが朝早く墓へ行きますと、遺体を見当たらないので、戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。それで、仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、女たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
そこで、イエスは言われた。「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこれらの苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではなかったか。」 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれてあることを解き明かされた。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いています」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるために家に入られた。
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は互いに言った。「道々、聖書を解き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」すぐさま二人は立って、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、主は本当に復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」
『聖書協会共同訳聖書』から

◯私が大好きな画家カラバッジョが、1607年に制作した「エマオの晩餐」です。イタリアのミラノにある「ブレラ美術館」の所蔵です。テーブルの中央がイエス・キリストで、左右両脇がエルサレムからエマオに向かう二人です。立っている男女二人は宿屋の夫婦です。
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この聖書の聖句(イエス・キリストの言葉)は、「エマオの晩餐の物語(エマオへの旅人の物語)」として有名なところです。この箇所の情景は次のとおりです。
当時、ローマ帝国という異邦人の支配から、神の民である自分たちユダヤ民族を救ってくれると信じ、大いに望みをかけていたメシア(救世主)であるイエス・キリストが、十字架に磔(はりつけ)にされて死んでしまいました。もうエルサレムには希望も何もかもがなくなってしまい、悲嘆に暮れてエマオに向かって歩く2人の弟子たちでしたが、その途中で復活されたイエス様に出会い、希望をとり戻して喜びに満ちあふれてエルサレムに戻る姿を画いています。

この聖句ですが、実は、このエマオに向かう2人の弟子とは私たちのことなのです。私たちが寂しいとき、悲しいとき、苦しい時、そのような弱った私たちの直ぐそばを、イエス・キリストご自身が私たちと一緒に歩んでくださる。み言葉を語ってくださる。そして、主の食卓に招かれて、自ら私たちにパンと杯をお与え下さって祝福を与えてくださる。いつもどんな時も、私たちの主である復活されたイエス・キリストが傍にいて平安を与えてくださっているのです。
イエス・キリストは、私たち人間がどのような境遇にあっても、「私が一緒にいるのだから、安心しなさい。希望をもちなさい。喜んでいなさい。」と説いているのですね。だからこそ洗礼を受けた私たちは常にミサに与り、感謝を捧げてご聖体を拝領し、復活されたイエス・キリストと一致することを実感するのです。私たち信徒にとって、主であるイエス・キリストと一致していると信じることが信仰する証でもあるのです。勇気をもって福音を証しすることです。
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新約聖書:マタイによる福音書・第5章・第33~第37節 [聖書]

「『また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、《偽りの誓いをしてはいけない。誓ったことは主に対して果たさなければならない》と命じられていた。しかし、わたしはあなた方に言っておく。決して誓ってはならない。天にかけて誓ってはならない。天は神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。地は神の足台だからである。エルサレムにかけても誓ってはならない。エルサレムは偉大な王の都だからである。また、頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一筋でさえ、あなたは白くも黒くもできないからである。《はい》は《はい》、《いいえ》は《いいえ》とだけ言いなさい。それ以上のことは、悪魔から来る。』」
『原文分校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

イエス・キリストは、どのようなことがあっても「誓ってはならない」と説いています。なぜ誓ってはいけないか?という理由は、「誓いを破った時に、自分に嘘をつくことになるからである。」と文豪トルストイは解釈していますが、自分だけでなく、神に対しても嘘をつくことになります、これは、高尚な誓いをたてるより、将来において “ 嘘をつく危険を避けること ” をイエス・キリストは説いているということです。ただ、「はい」と「いいえ」と言うこと。「はい」と「いいえ」をはっきり言えさえすれば、高尚な誓いなど立てる必要はないということを説いています。

旧約聖書の時代のイスラエル人は、神に向かってよく誓願していました。そして、それを実行しないことは重大な結果を招く罪でした。そして、新約聖書の時代になって、すなわちイエス・キリストは、聖句にあるとおり「決して誓ってならない」という新しい教えを人間に与えておられます。しかし、すべての誓いが禁じられているわけではありません。たとえば、社会生活上におけることで、相手と約束を交わすこと、仕事上で契約を結ぶことなどは、社会生活を営む上で必要不可欠なことですし、契約があるからこそ法律で保障(保証)され、社会に秩序ができ、平和が保たれるのですね。

イエス・キリストが「誓ってはならない」と説いておられるのは、思慮のない誓い、神を指して誓う傲慢な誓いなどのことです。そして、前述したトルストイが述べているように、人間には誓ったことが守れるかどうか分からないから誓ってはならないということですね。私たち人間は弱い生き物です。誤った判断を下すこともあり、為すべきだと分かっていても、それを実行する力がないこともあります。誓う時には、相当な決心をしたとしても、必ずしもそれを実行できるとは限らないものですね。さらに、私たち人間には明日のことが分かりません。それを知っておられるのは神様だけです。

神様は、誓わなくてもその人間のすべてを知っておられるわけです。ということは、そもそも神の愛を信じて神を信頼しているのであれば、誓願を立てる必要などまったくないのですね。ですから「だから、あなたがたは、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」と説いておられるのです。それ以上のことを口にすると、弱い人間は、悪い者(サタン)の罠 = 悪い行いにかかる恐れがあるということですね。
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新約聖書:ルカによる福音書・第10章・第25〜第37節 [聖書]

このブログに過去に何度も掲載してきましたが、イエス・キリストの<たとえ話し>の中でも特に有名であり、わかりやすい話しの内容となっています。聖書の該当する部分を掲載いたしました。
「すると、一人の律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして尋ねた、
『先生、どうすれば、永遠の命を得ることができますか。』
そこでイエスが仰せになった。
『律法には何と書いてあるか。あなたはどう読んでいるのか』。
すると、彼は答えた。
『《心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛せよ。また、隣人をあなた自身のように愛せよ》とあります。』
イエスは仰せになった。
『あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、生きるであろう。』
すると、彼は自分を正当化しようとして、
イエスに『わたしの隣人とはだれですか』と言った。
イエスはこれに答えて仰せになった。
『ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、強盗に襲われた。彼らはその人の衣服をはぎ取り、打ちのめし、半殺しにして去っていった。たまたま、一人の祭司がその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。また、同じように、一人のレビ人がそこを通りがかったが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていた、一人のサマリア人がその人のそばに来て、その人を見ると憐れに思い、近寄って、傷口に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をした。それから、自分のろばに乗せて宿に連れていき、介抱した。翌日、サマリア人はデナリオン銀貨二枚を取り出し、宿の主人に渡して言った。《この人を介抱してください。費用がかさんだら、帰ってきた時に払います。》さて、あなたは、この三人のうち、強盗に襲われた人に対して、隣人となったのは、誰だと思うか。』
律法の専門家が、『憐れみを施した人です。』と言うと、
イエスは仰せになった。
『では、行って、あなたも同じようにしなさい。』」
『原文校訂による口語訳 フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

◯フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(オランダ:1853年〜1890年)作の『善きサマリア人』です。
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聖書のこの部分は、「善きサマリア人のたとえ」と言われている有名なところです。イエス・キリストが話された喩え話し(たとえばなし)の状況設定(背景)は、エルサレムからエリコに下っていく途中の出来事で、当時のユダヤ人とサマリア人の関係は、ユダヤ人がサマリア人を見下して一切交際せず、とにかく仲が悪い断絶された関係でした。そのサマリア人がユダヤ人を助けるという、異例中の異例ともいえる話しの内容になっており、質問した法律の専門家には、到底考えも及ばない状況設定となっているのです。

また、「律法の専門家」とは、当時の律法学者(ユダヤ人)のことで、律法・教義を厳格に守っている民の指導者と自負してはいますが、実際、その中身は形骸化しており、聖書にある神の教えをないがしろにし、自分たち人間が勝手に作った決まり事を掟にして、貧困者などの弱者を自らは一切救済しようとしない当時の特権階級的な人たちのことです。イエス・キリストは、この人たちのことを見抜いており、たとえ話しをもって、まず「隣人を自分のように愛すること」の一つとして、誰彼なく慈愛をもって困っている人を助けることの大切さを教えています。この行為が愛ですね。この教えが律法学者にはまったくないのです。

そして、イエス・キリストは、問題を提出したことを弁明したり、自分は正しいことをしていると面目を保つための言い訳をする律法学者に対して、その間違った教えや不遜な考えを改めさせ、『行ってあなたも同じようにしなさい。』と諭しています。私たちも、この「善いサマリア人」にならなければなりません。人を助けるのに、国の違いや人種の違いだけでなく、その時の状況・状態にこだわることは何もないですよね。困っている人=慈しみと憐みを必要とする人には、誰彼問わず助けるという愛の手を差し伸べるべきですね。これぞまさしくイエス・キリストの教えである善い行いです。私たちの信仰も、ただ信じるだけでなく、福音の実践である善い行いが伴う信仰でありたいものです。

【なぜ、ユダヤ人はサマリア人が嫌いか?】
サマリア人がユダヤ人から嫌わる理由には歴史があるのです。ダビデ王とソロモン王親子の治世は、王国は隆盛を誇り平和が続きましたが、ソロモン王の死後、イスラエルはエルサレムを首都とする「南ユダ国」とサマリアを首都とする「北イスラエル王国」に分裂しました。その後、紀元前722年に北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、僅かに残ったサマリア人はアッシリア人の血が混じった汚らわしいユダヤ人として南ユダ国のユダヤ人から嫌われることになったのです。
その後、南ユダ国も紀元前586年はバビロニア帝国に滅ぼされ、バビロニア帝国はユダヤ人を捕囚として50年間、チグリス、ユーフラテス流域の首都バビロンで過ごす(第二回バビロン捕囚)ことになりました。その後、ユダヤ人は帰還が許さ、エルサレムに戻り破壊された神殿の再建に力を注ぎます。そうしてユダヤ人とサマリア人の関係は親戚の関係ではあっても、アッシリア人の血が混じった汚らわしいユダヤ人として忌み嫌う関係がイエス・キリストの時代まで続いていたのです。
ちなみに、たとえ話に登場する祭司は、神殿の職務を司る者で教え導く任務にあった人であり、レビ人(びと)はイスラエル十二部族の一つで祭司に相応しい部族として任務を担ってきた人です。ただし、イエス・キリストの生きていた時代は、祭司職の役割が細分化するにつれてレビ人は祭司の下働きをする階級となっていました。

【善きサマリア人の法】
善きサマリア人の法(よきサマリアびとのほう、英:Good Samaritan laws)は、災難に遭ったり急病になったりした人など(窮地の人)を救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗してもその結果につき責任を問われない」という趣旨の法律です。誤った対応をして訴えられたり処罰を受ける恐れをなくして、その場に居合わせた人による傷病者の救護者の合理的な救護行為を法的に保護し、またそのような救護を促進しようとの意図があります。アメリカやカナダ、オーストラリアなどで施行されており、近年、日本でも立法化すべきか否かという議論がなされているそうです。
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新約聖書:ヨハネの第一の手紙・第1章・第9節 [聖書]

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するなら、真実で正しい方である神は、わたしたちの罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

罪を犯した人間にとって大切なことは、即座に自分の①犯した罪を認めて②回心し、③犯した罪を告白して④神に赦しを乞うことです。①~④の順にしたがって赦しを乞います。キリスト教の中でも、カトリック教会の信徒(カトリック教会の洗礼を受けた人)であれば、司祭(神父)に「赦しの秘跡(ゆるしのひせき)」を授けてもらうことができます。つまり、司祭(神父)に罪を告白して神様に罪を赦してもらうことです。
カトリック教会には、7つの秘跡がありますが、それは、洗礼の秘跡、堅信の秘跡、聖体の秘跡、赦しの秘跡、病者の塗油の秘跡、叙階の秘跡、婚姻の秘跡です。ここでは、各々の秘跡の詳細説明はしませんが、今日は上記の聖書に関係する「赦しの秘跡」を説明しましょう。

「赦しの秘跡(ゆるしのひせき)」は、キリスト教カトリック教会における「7つの秘跡」の1つです。7つの秘跡とは、①洗礼、②堅信(洗礼後、神の前で行う信仰告白)、③聖体、④婚姻(結婚)、⑤病者の塗油、⑥赦し(告解)、⑦叙階(司祭を任命する儀式)のことです。ちなみに、プロテスタント教会には秘跡はありません。
赦しの秘跡は、聴罪司祭(ちょうざいしさい:司祭=神父)のもとで、自分の犯した罪を告解(こっかい:告白)し、罪の赦しを願うことにより、神からの罪の赦しが与えられるという“しるし”です。この秘跡は、回心、悔い改め、和解、いやしの秘跡とも呼ばれています。赦しの秘跡に必要な行為は、①痛悔(犯した罪を悔やむこと)、②司祭への罪の告白、③償いを果たす決意及びその実行です。

カトリック教会での赦しの秘跡の位置付けはとても重要で、大罪を犯した場合はもちろん、年に一度は必ず行うべきものとされています。特に待降節や四旬節の期間などに聴罪司祭に告解を行うことが多いですね。告解は、カトリック教会の洗礼を受けた人だけしかできません。聴罪司祭が赦しを信徒に授けます。司祭(神父)は、叙階の秘跡(後日説明いたします)において神(イエス・キリスト)から権能を授けられており、その権能をもって神様の赦しを与えます。

人間は、生きていくうちにいろんな罪を犯します。人を恨んでしまったり、言葉で心に傷つけてしまったりなど小さな罪も犯します。盗んでしまったり、取り返しのつかない大きな罪も犯します。その罪の告白をとおして、その罪における神様からの赦しと和解を得ることが告解です。昨夜から復活祭に向けての「聖週間」に入りました。まだ、赦しの秘跡を受けて罪の告白をし、神の赦しを得ていない方は、早く赦しの秘跡を受けましょう!「聖なる三日間」までに!

◯写真は、カトリック教会の聖堂にある一般的な ” 告解室(告解部屋) ” です。左側の部屋に聴罪司祭が入り、ドアの空いている部屋(右側)に告解する信徒が入ります。跪(ひざま)ずいて格子戸(隣の部屋にいる司祭)に向かって罪の告白をします。
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古い教会の聖堂には、このような昔ながらの豪華な造りの告解室があります。この形式の告解室では、罪の告白する場所が外側にありますから、信徒の顔や話す内容が他の人に知られてしまいそうですね~(⌒-⌒; )
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よく「懺悔(ざんげ)」と間違う人がいますが、懺悔という言葉はカトリック教会では使われず、カトリック教会の宗教的意味は全くありません。そして、お祈りの中で罪を認めるときは「罪の告白」といいます。ですからカトリック教会では告解はとても大切な秘跡ですので、◯告解 = ✕懺悔ではないと考えられます。わかりやすく言えば “ 懺悔はごめんなさい ” と謝ることですね。告解は今までの行いや言動を振り返り、誤り・罪を認め神様に赦していただくことです。告解の最後に「あなたの罪は赦されました。」と聴罪司祭が言います。これは「罪の赦し」を意味しています。

【告解】
カトリック教会では、赦し秘跡のことをいいます。聴罪司祭に自らの罪を明かす行為のことです。
【聴罪司祭】
告解(告白)を聴き、「父と子と聖霊の御名(みな)によって」罪を赦す権能を行使する司祭(神父様)のこと。また、聴罪司祭には守秘義務があり、告白によって知った罪についての完全な秘密を守るように義務づけられていて、これに背けば厳罰を科せられることになっています。
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新約聖書:ルカによる福音書・第6章・第27〜第36節 [聖書]

「しかし、わたしは耳を傾けているあなた方に言う。敵を愛し、あなた方を憎む者に善を行いなさい。呪う言う者を祝福し、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者に、もう一方の頬を向けなさい。上着を奪う者には、下着をも拒んではならない。求める者には、誰にでも与えなさい。あなたの持ち物を奪おうとする者から、取り戻そうとしてはならない。あなた方は、人からしてほしいとことを、人にもしなさい。あなた方を愛する人を愛したからといって、何の恵みがあろうか。罪人でさえ、自分を愛する人を愛している。あなた方によくしてくれる人に、善いことをしたからといって、何の恵みがあるだろうか。罪人でさえ、そうしている。返してくれるあてのある人に貸したからといって、何の恵みがあるだろうか。返してもらえるのなら、罪人でさえ罪人に貸している。しかし、あなた方はあなた方の敵を愛しなさい。人に善を行いなさい。また、何もあてにしないで貸しなさい。そうすれば、あなたがたの報いは大きく、あなた方は、いと高き方の子らとなる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い方だからである。あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖書の部分は、イエス・キリストの聖句(言葉)です。この部分には、「憐れみ」という題がついています。ここを信徒ではない一般の方が読むと、いゃ、信徒が読んでも「聖書は難しいな~。」と感じますよね(; ̄O ̄)と同時に「なんと、理不尽な!」と思われるでしょうね。そこで、書いている内容を一つひとつ見てみましょう。
まず、最初に次の9つの聖句(言葉)です。
①敵を愛しなさい。
②あなた方を憎む者に善を行いなさい。
③呪う言う者を祝福しなさい。
④あなた方を侮辱する者のために祈りなさい。
⑤あなたの頬を打つ者に、もう一方の頬を向けなさい。
⑥上着を奪う者には、下着をも拒んではならない。
⑦求める者には、誰にでも与えなさい。
⑧あなたの持ち物を奪おうとする者から、取り戻そうとしてはならない。
⑨あなた方は、人からしてほしいとことを、人にもしなさい。
以上の9項目です。一般の方からすれば非常に “ 理不尽 ” な内容かと思います。それでも⑦と⑨の2項目は理解できると思います。しかし、普通ならば⑤、⑥及び⑧は絶対に拒絶しますよね。信徒ではない方からすると①~④も疑問を呈したくなるのではないかと思います。ただ、イエス・キリストの聖句のこの部分は、12使徒(12人の弟子)を対象に=信徒である私たちに説いているので、一般の人達に説く場合と違って厳しい内容になっています。

では、なぜイエス・キリストはこのようなことをおっしゃられているのでしょうか?それは、まず「敵を愛しなさい。」の「愛」とはなにか?を説明します。キリスト教(=イエス・キリスト)の愛は、アガペー(=真実の愛)であって、情熱的な恋愛の愛(エロース)や家族的な暖かい愛(フィーリア)ではないのです。アガペーとは、「他人の真の幸福(福利)に対する親切でゆるがない積極的な愛」なのです。アガペーは憎しみ、妬み、呪いや侮辱などに妨げられず、報いや結果などに制限されず、ただただ神様の本質を表しているものです。ですから、敵を愛せよという姿勢は、敵を感情的に好きになれということではなく、自分のためだけでなく、他人のために生きるという愛の姿勢なのですね。これを社会で行為として実践しなさいと説いているのです。

前述した理不尽なことの①と②は、お互いにやり返したり、仕返しを行なったり、自分を苦しめた相手のやり方を自分自身で行なってはならないという戒めの原理=信条を示しています。この原理=信条の後、③以下に具体的な例が教えとして列挙されています。この教えは、同様なやり方で報復や反撃をすることではなく、イエス・キリストの教えの原理ある「愛と赦し」、寛大さにしたがって行動しなさいということなのです。それが神の国の原理だからです。その神とは、仕返しをする方ではなく、恩知らずで利己的な人に対してでさえ、愛のある親切な方なのです。

最後に⑨の「あなた方は、人からしてほしいとことを、人にもしなさい。」を説明します。このブログに以前掲載しましたが、この言葉は、聖書の中でも “ 黄金律 ” と言われるほど重要な聖句(イエス・キリストの言葉)です。黄金律(Golden Rule)とは、「宗教、道徳や哲学で見出される「他人にしてもらいたいと思うような行為をせよ」という内容の倫理学的言明」のことです。
旧約聖書の『トビト記』の第4章・第15節に、「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない。」とあり、孔子(弟子及び孫弟子が書いた)は『論語』の中で、「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ。」と説いておられますし、ユダヤ教では「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな。」とあり、ヒンドゥー教では「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない。」とあり、イスラーム(イスラム教)では「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである。」と、すべて逆説的に書かれています。

私たちは、よく人にしてもらいたいと思うことはたくさんあるようですが、人にしてあげるとなると、あまり気が付くことも少ないものです。その人がしてもらいたいことをしてあげれるように、普段から心がけることが大切ですね。また、その逆説的には、「自分が嫌だと思うことは、人にはするな。」となります。私の自戒すべき言葉です。
クリスチャン作家の三浦綾子さんのエッセイ『あさっての風』に、「「理解してほしい、慰めてほしい」という、人から受ける姿勢から、「理解してあげたい、慰めてあげたい」という、与える姿勢に変わる時、悩みのほとんどは解決していることを、わたしはその時から今まで、何十回となく経験させられてきたのである」と書かれています。
三浦さんは、まさに「人にしてもらいたい。」が、「人にしてあげたい。」という “ 与える姿勢 ” に変わった時、今まで悩んでいたことが解決されたと、そのことを経験をとおして自覚されたということです。素晴らしいことですね。
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新約聖書:ルカによる福音書・第15章・第1〜第7節 [聖書]

「さて、徴税人や罪人たちがみな話しを聞こうとして、イエスのもとに近寄ってきた。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを受け入れて、食事をともにしている」とつぶやいた。
そこで、イエスは彼らに次の喩えを語られた。
あなた方のうちに、百匹の羊を持っている者がいるとする。そのうちの一匹を見失ったら、九十九匹を荒れ野に残して、見失った一匹を見つけ出すまで、跡をたどって行くのではないだろうか。そして見つけ出すと、喜んで自分の肩に乗せて、家に帰り、友人や近所の人々を呼び集めて言うだろう、『一緒に喜んでください。見失ったわたしの羊を見つけましたから』。あなた方に言っておく、このように、悔い改める一人の罪人のためには、悔い改めの必要のない九十九人の正しい人のためよりも、もっと大きな喜びが天にある。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖句(イエス・キリストの言葉・聖書の言葉)ですが、まず「百匹の羊を持っている者」とは、神様=イエス・キリストのことで、「見失った一匹の羊」とは罪びとのことです。そして、「九十九匹」とは正しい人という意味です。この聖句は、「悔い改める一人の罪びとのためには、悔い改めの必要のない九十九人の正しい人のためよりも、もっと大きな喜びが天にある。」という意味になります。
九十九匹を荒れ野に残すという大きな危険を冒してまでも、羊飼いは見失った一匹の羊のために探し出そうとするのですね。つまり、神様=イエス・キリストは、たった一人の罪びとであっても大切な存在なのだと説いているのです。そして、神の恩寵(おんちょう)の外に出て行った罪を犯した罪びとでも、悔い改めて恩寵の中に戻ってこれるように、神様=イエス・キリストは、救い出すのですね。

◯このイエス様のご絵は、とても神様への愛に深い敬虔な方からいただきました。罪びとの私にぴったりなご絵です………ということは、イエス様の肩に乗っているのは私ということですね(⌒-⌒; )
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このたとえ話しは、イエス・キリストが、徴税人や罪びとを招いて食事をしていることをファリサイ派の人たちが咎めたことに対する、イエス・キリストの反論から始まっています。この「ルカによる福音書」と同じ趣旨の内容が載っている「マタイによる福音書 (第18章・第10〜第14節)」では、イエス・キリストは弟子たちに向かって、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、天におられるあなた方の父(神様)のみ旨ではない。」と説いておられます。
◯新約聖書:ルカによる福音書・第5章・第30~第32節
「ファリサイ派の人々やその他の律法学者たち、イエスの弟子たちに向かってつぶやいて言った。「どうして、あなた方は徴税人や罪人とともに食べたり飲んだりするのか」。そこで、イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
◯新約聖書:マタイによる福音書・第9章・第10〜第13節
「イエスが家で食卓に着いておられた時のことである。徴税人や罪人たちが大勢やって来て、イエスや弟子たちとらともに食卓に着いていた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに言った。「どうして、あなた方の先生は、徴税人や罪人と食事をともにすれるのか」。これを聞いて、イエスは仰せになった、「医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である。『わたしが望むのは犠牲(いけにえ)ではなく、憐れみである』ということが何を意味するか、学んできなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

解釈は、次のとおりです。
この部分で、「ファリサイ派の人々(やその他の律法学者)」という人たちが出てきますが、このファリサイ派・律法学者たちとは、自分達イスラエル人は、神に選ばれた唯一の民族で、神様との特別な契約を結んだ“神の民”であり、救いは“神の民”だけのものだと信じていました。ですから、イスラエル人でない異邦人は、神様の救いから除外されており、神様の教えをないがしろにして、自分たち人間の勝手な解釈によって形骸化している律法信奉している人たちです。自分たちの律法を守らない者は、血筋ではイスラエル人であっても、異邦人と同じように救いから除外される「罪びと」と考えられていました。

その後に「徴税人(ちょうぜいにん)」という人たちが出てきますが、この徴税人とは、当時のユダヤ地方(イスラエル辺り)を属州として支配していたローマ帝国(ローマ人)のために、税金の取り立てを請け負ったユダヤ人のことです。ローマ人(異邦人)支配者のために、同胞から税を取り立て、定められた額より多く取り立てるということで、同じユダヤ人から憎まれて「罪びと」として嫌われていました。

イエス・キリストは、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招いて悔い改めさせるためである。」と説いておられます。「医者」とはイエス・キリストのことで、「健康な人」とは正しい人、そして、「病人」とは罪びとという喩(たとえ)えになっていますが、「罪びとを招いて悔い改めさせるためである。」ということです。つまり、健康な人なら医者はいらないのであって、医者が本当に必要なのは病人です。それと同じく正しい人であれば悔い改めはいらないのであって、罪びとは悔い改めが必要であり、イエス・キリストの救いを必要としているのです。
イエス・キリストは、罪人が悔い改めて救われることを望み、そのために宣教活動をされました。徴税人も他の人と同じ人間であり、徴税人としてのこれまでの行いは、これからの生き方によっては、それまでの悪い行いは赦され、新しい生き方が開けることをイエス・キリストは説いておられるのです。
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新約聖書:ルカによる福音書・第5章・第12〜第16節 [聖書]

◯『新共同訳聖書』から
「さて、イエスがある町におられたとき、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。」

この聖句にある「重い皮膚病」は、カトリックとプロテスタント諸教会の協力による『新共同訳聖書』が完成した最初のころに出版されたものには「ライ病」となっていましたが、その後、現在の「重い皮膚病」という言葉に改訳され出版されました。そして、昨年の12月に、世界最大の聖書翻訳ネットワークである聖書協会世界連盟による最新の研究成果と、国内の聖書学者、日本語の専門家ら延べ148人の委員により、8年という歳月をかけて翻訳作業が行われた新しい共同訳『聖書協会共同訳聖書』では、「重い皮膚病」は、「規定の病」という言葉に変わっています。私も購入して新約聖書の4つの福音書を読みました。

◯『聖書協会共同訳聖書』から
「イエスがある町におられたとき、そこに、全身規定の病を患っている人がいた。イエスを見てひれ伏し、「主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります」と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「私は望む。清くなれ」と言われると、たちまち規定の病は去った。イエスは彼に厳しくお命じになった。「誰にも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」しかし、イエスの評判はますます広まり、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気を治してもらうために集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。」

そこで、この新しい聖書をお読みになった皆さんは、この「規定の病」って何のこと?と思いますよね。私も思いました!「ライ病」という病気は、現在では完治する病気なのですが、昔から最も差別をされた病気であることは皆さんよくご存知のことと思います。この病気に罹った人は、法律によって療養所に隔離されて生活しなければならなかったばかりか、病気に対する偏見のために、親兄弟や親戚から絶縁されて生きなければなりませんでした。「ライ病」という名前が、そのように患者さんに対して非常に辛く苦しい人生を強いた過去がありますので、「ライ病」という名称は使われなくなり、「ハンセン病」という名称となったしだいです。

しかし、そうであるならば、なぜ聖書に「ライ病」に換えて「ハンセン病」という呼称にしなかったのでしょうか?それは「ハンセン病」とは言えない他の病気が含まれていると思われるからです。それで現在の『新共同訳聖書』では「重い皮膚病」と訳されているのですね。しかし「重い皮膚病」という言い方は、現代ではほとんどの人が「アトピー性皮膚炎」のことを思い浮かべますよね。(私もアトピー性皮膚炎なのです!子どものころは、ひどい汗疹(あせも)でした)そうするとこれも聖書の意味するところとは違うことになってしまいます。ちなみに、「重い皮膚病」は、新約聖書の原文のギリシャ語では「レプラ」という言葉になっています。

この新約聖書の原文のギリシャ語「レプラ」は、イエス・キリストが使っていたヘブライ語では「ツァラアト」といいますが、この訳語をめぐって、訳語が「ライ病」から「重い皮膚病」へと改訳され、特定の病を指す差別的なニュアンスを避け、「律法で規定された病」との意味合いで「規定の病」と訳すことになったそうです。その根拠となったのは、旧約聖書の『レビ記』です。この『レビ記』に記載されている<宗教的に意味を持つ病の規定>がその根拠となっています。それで「規定の病」に変更されたそうです。長くなりますが、『レビ記』の<宗教的に意味を持つ病の規定>の箇所を新しい共同訳聖書の『聖書協会共同訳聖書』から掲載いたします。

◯旧約聖書:レビ記・第13章〈規定の病〉第2~第46節
「皮膚に腫れか吹き出物、あるいは斑点があって、規定の病になるなら、その人は祭司アロンか、祭司であるその子らの一人のもとに連れて行かれる。祭司がその皮膚の患部を調べて、その患部の毛が白く変わり、症状の下まで及んでいるなら、それは規定の病である。祭司はそれを確認したら、その人を汚れていると言い渡す。皮膚に白い斑点があっても、皮膚の下までは及んでおらず、その毛も白く変わっていなけば、祭司は患者を七日間 隔離する。七日目に祭司が調べて、患部はそのままで皮膚に広がっていなければ、祭司はその人をさらに七日間隔離する。七日目に祭司が再び調べて、その患部に光沢がなく、皮膚に広がっていなければ、祭司はその人を清いと言い渡す。それは吹き出物にすぎないので、衣服を洗えば、その人は清い。しかし祭司に見せて清いと言い渡された後、吹き出物がひどくなったなら、再び祭司に見せなければならない。吹き出物が皮膚に広がっているのを祭司が確認するなら、祭司はその人を汚れていると言い渡す。それは規定の病である。
規定の病の患部が現れた者は祭司のもとへ連れて行かれる。皮膚に白いはれがあり、毛が白く変わり、腫れの中にただれが確認されると、それは皮膚にできる慢性の規定の病で、祭司はその人を汚れていると言い渡す………(中略:このような言葉が46節まで続きます)………重い規定の病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」
『聖書協会共同訳聖書』から

【ハンセン病】
ハンセン病は、1873年にノルウェー人の医師ハンセンが、この病気の原因である「ライ菌」を発見し、その医師ハンセンの名前を病名にしたのですね。ライ菌は極めて感染力が弱く、体の弱った人や栄養状態が悪い人にしか発病しません。また、1943年(昭和18年)に特効薬のプロミンが発見された結果、ハンセン病は治る病気となりました。そして現在は、日本ではほとんど新しい患者は発生していないということです。
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