新約聖書:マタイによる福音書・第6章・第1〜第6節 [聖書]

「人々の前で自分の善い行いを見せびらかさないように気をつけなさい。さもないと、天におられるあなた方の父のもとで、報いを受けることはできない。だから、施しをする時には、偽善者たちが人から称賛されようとして、会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。あなた方によく言っておく。彼らはすでに報いを受けている。あなたが施しをする時には右の手のすることを左の手に知らせてはならない。これは、あなたの施しを隠しておくためである。そうすれば隠れたことをご覧になるあなたの父が報いてくださる。
また、あなた方は祈る時、偽善者のようであってはならない。彼らは人に見せびらかすために、会堂や街角に立って祈るのを好む。あなたがたによく言っておく。彼らはすでに報いを受けている。あなたは祈る時は、奥の部屋に入って入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた行いをご覧になるあなたの父が報いてくださる。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

ここに記載のある「天の父」又は「父」とは、イエス・キリストの父なる神様のことを指します。この聖句(イエス・キリストの言葉・聖書の言葉)の教えは、①愛の行いと②祈りのについての正しい行い方です。
この聖句を解釈しますと、「善い行いやお祈りは、人々の前で “ いかにも私は善い行いをしていますよ!熱心にお祈りしていますよ!” と見せびらかすようであってはいけない。善い行いやお祈りは、誰にも見られずに気づかれずに行いなさい。そうすれば、神様は見ておられ、必ずや報いてくださる(善いことがある報い・天国に迎えてくれるという報い)。そうではない偽善者のような人達は、現世においてすでに報いを受けているため、将来において救いを期待できない、あるいは救われないという解釈になります。

そこで、「右の手のするところを左の手に知らせない」ですが、右手も左手も身体の左右にあります。これは両手で一対ですね。身体の両側にあっても身近にあるわけです。両方の手で握ることもできるわけです。でも、知るとか知らないとか、手に意識があるわけではありませんね。ですから、それほど近い両手であっても右手(自分)のすることは、左手(他人)に知られないようにすること。つまりこの表現は譬え(たとえ)話しで、「善い行いもお祈りも他人に知ってもらおうと思わないこと。他人に知られないように行いなさい。人に知られないことを秘めた喜びとしなさい。」ということです。偽善者は絶対にダメですよ!
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旧約聖書:シラ書(集会の書)・第19章・第13〜第17節 [聖書]

「友に問いただせ。
彼は、何もしていないかもしれない。
何かしていたとしても、二度とはしなくなるだろう。

隣人に問いただせ。
彼は、何も言っていないかもしれない。
何か言っていたとしても、二度と繰り返さないだろう。

友人に問いただせ。
しばしば中傷にすぎないものだ。
噂は一切信じるな。
心ならずも口を滑らせてしまう者もいる。

自分の舌で罪を犯したことがない者がいるだろうか。
隣人を脅す前に、問いただせ。
あとは、いと高き方の律法に任せよ。」
『聖書協会共同訳聖書』から

“ 噂(うわさ)話し ” が好きな人は多いですね~。噂話しのほとんどは人の悪口ばかりです。しかも、本当のことではなく嘘の場合が多いですね。また、本当のことであっても尾ひれが付いて、勝手に話しが大きくなっているのです。この聖句(聖書の言葉)のとおり、大切なことは噂話しをする前に、噂の主人公になっている当事者本人に聞くことです。

しかし、あえて・わざと・進んで噂をする人がいますが、それは人として絶対にしてはいけない「悪意」です。人を陥れるような悪意は、絶対にしてはいけないのです。そして、自分が噂話しの主人公になるのが嫌だったら、他人の噂話しは絶対にしないことですね。普段から気を付けなければならないことであり、私はいつも自戒としている言葉です。

私もよく噂をされます………というか根拠のない誹謗中傷ですね。まったくないことを本当のごとく噂され、周りの人たちは、嘘の内容を信じているわけです。そして「なんだあいつは悪いやつだ!けしからん!」と批判されるわけです。初めは「何とかして無実をはらさなければ!」とよく思ったのですが、今はそのようなことは思わなくなりましたね。

それは、この聖句の最後にある「いと高き方の律法に任せよ。」とあるからです。すべてを見ておられる神様に委ねなさいということです。今は信仰のお陰で「神様が本当のことを知っておられる。」と確信できるようになりましたから、まったく気にしなくなりました。それに、偽りを言う悪意のある人は、神に厳しい報い・裁きを受けることになります。

【尾ひれ(尾鰭)が付く】
一般的に多い意味(解釈)は、「話が伝わる間に、実際にないことが付け加わって大げさになること。」というものです。しかし、この解釈ですと、元々魚には尾鰭(おひれ)は付いているのに、さらに(もう一つ)付けることになるということですが、実際に尾鰭はないことではなく尾鰭はあるわけです。
私はこのような解釈ではなく、次の解釈を推奨します。
「本体となるものに付帯している部分。特に、話題に付け加えられる事柄。おまけ。」
尾鰭は魚本体の最後尾に付いているもので、いわば魚本体ではないわけです。尾鰭が「実際にないこと」ではなく、「本体となるものに付帯している」ということで、「尾鰭が目的なのではない」ということですね。あくまでも尾鰭は ” おまけ ” なのです。 つまり、「話に尾鰭がつく」とは、「誇張」とか「大げさ」という表現は否定しませんが、それよりも「本題以外のいらない部分が増える」ということですね。質的に膨らむこともありますが、単に量的に膨らむことを意味すると解釈します。なんか日本語を難しくしちゃいました?( ̄▽ ̄;)
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新約聖書:ヨハネの第一・第二の手紙「反キリスト」のお話し [聖書]

キリスト教の信徒であれば、一度は「反キリスト(アンチキリスト:Antichrist)」という言葉を聞いたことがあると思います。これは、イエス・キリストに偽装して、イエスの教えに背く者、人を惑わす者のことです。新約聖書の『ヨハネの第一の手紙』と『ヨハネの第二の手紙』に書かれています。
◯ヨハネの第一の手紙・第2章・第18節
「子供たちよ、終わりの時が来ました。あなた方がかねて、反キリストが来ると聞いていたように、今や、大勢の反キリストが現れました。このことから、今が終わりの時の来たことが分かります。」
同・第2章・第22節
「偽り者とは、イエスがメシアあることを否定する者でなくて誰でしょうか。御父と御子を否定する人こそ反キリストです。」
◯ヨハネの第二の手紙・第1章・第7節
「惑わす者が大勢世に出てきて、イエス・キリストが肉のうちに来られたことを告白しません。こういう者は人を惑わす者であり、反キリストです。」
以上は『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

イエスがキリストであることを否定する者を反キリストであるとしています。キリスト教の終末論においては、真実に対極し、神から出ているものではない悪魔(サタン)の具現化であると解釈され、〈最後の審判〉の際に苦しみが与えられるとされ、救いは決して得られないとされています。
毎日の日課である祈りに励み、『使徒信条』のとおり父である神、子てあるイエス・キリスト、父と子から出る聖霊が、唯一の神であると信じ言い表すことが、信徒として信仰の証となります。ここが重要なところです。悪魔(=悪い行いをしようとする意思)は、明確に信仰を宣言せず、祈りに不熱心な信徒の心の隙に入りやすいのです。毎日のお祈りで、しっかりと『使徒信条』を唱えて信仰宣言し、熱心に祈ることで悪につけ入る隙をあたえず、悪への誘惑に打ち勝つことができるのです。熱心に祈りましょう。
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新約聖書:マタイによる福音書・第7章・第7〜第11節 [聖書]

「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見出す。たたきなさい。そうすれば開かれる。誰でも求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれる。あなた方のうちに、子供がパンを求めているのに、石を与える者がいるだろうか。あるいは、魚を求めているのに、蛇を与える者がいるだろうか。あなたがたは悪い者であっても、自分の子供たちに、善い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなた方の天の父が、ご自分に求める者に、善い物を与えてくださらないことがあるだろうか。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

先月2月19日に掲載したばかりですが、リクエストにお応えして再掲載いたします。
今日の聖句(イエス・キリストの言葉)は、「山上の説教」という副題のついているところの一部です。一般的には「山上の垂訓(さんじょうのすいくん)」として有名な箇所です。これは、新約聖書の「マタイによる福音書・第5章から第7章」と「ルカによる福音書・第6章」に記載のある、イエス・キリストが、山の上で使徒(弟子)たちと群集に語った教えのことですね。是非とも第7章全体をお読みください。

この「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見出す。たたきなさい。そうすれば開かれる。」は聖書の中でも有名な箇所です。しかし、イエス・キリストの教えの主要部分は、最後にある「まして、天におられるあなた方の天の父が、ご自分に求める者に、善い物を与えてくださらないことがあるだろうか。」に集約されています。天の父とは、イエス・キリストの父である神様のことです。

イエス・キリストは、実は「求めつづけなさい、探しつづけなさい、たたき続けなさ」と “ 続けなさい ” と説かれているのです。私たちが祈り求めるものは、「ください。」とお祈りして、「はい、あげますよ。」という簡単なものではないですね。そのようなものなら、最初から祈り求めなくてもいいわけです。私たち人間が簡単に与えてもらえないものだからこそ、諦めずに求め続けなさいと説いているのですね。

では、イエス・キリストは、私たちに対して何を求め、何を探し、何をたたきなさいと説いているのでしょうか。それは、「神のみ旨・み心」です。神のみ旨・み心を求め、神のみ旨・み心を探し、神のみ旨・み心をたたきなさいと説いておられるのです。目の前にあるような物質的な物欲的なご利益的なものではなく、キリスト者として大切な神のみ旨・み心に叶うことを求め、探し、たたきなさいということです。そうすれば。「天におられるあなた方の天の父が、ご自分に求める者に、善い物を与えてくださらないことがあるだろうか。」ということになるのです。

そして、聖書に書かれている「種を蒔く人のたとえ」の教えを引用し、それを応用して書きますが、神のみ旨・み心を知り聞くだけの人の蒔く種は、道端に蒔かれた種と同じで、芽を出す前に人に踏みつけられ、鳥に食べられてしまいます。み旨・み心を求め探す人が蒔く種は、良い土地に落ちて芽を出し百倍の実を結びます。キリスト者の信仰は、神のみ旨・み心を知って聞いて信じることだけでなく、神のみ旨・み心を行うこと、実践すること。その“善き行い”が伴なって初めて信仰と言えるのです。これがキリスト者として非常に重要なことであると確信しています。

最後に、私には、この聖句はイエス・キリストが「祈り求める大切さ」も説いておられるのだと解釈しています。祈りは、粘り強くあきらめずに継続しなけなければなりませんが、そうしたからといって必ずしも私たちの願いがすべて成就するわけではありません。しかし、真剣に祈り続けるなら、祈る人自身の心が次第に良い方向に向かって変えられて行くのです。この聖句は、ある意味で祈りの勧めである以上に、イエス・キリストの父である神様の寛大な愛を示しているように感じます。

使徒である聖パウロは、ローマにいる信徒への手紙の中で「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(新約聖書:ローマへの信徒への手紙・第5章・第3~第5節)」と記しています。忍耐こそが希望への光となるのです。祈りも同じだと思います。忍耐を持って祈り続けるのです。そうすれば、希望の光であるイエス・キイストの父である神様が、必ずや聴き留めて報いてくださるのです。これを信じて祈りを実践することが信仰なのですね。
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新訳聖書:ルカによる福音書・第16章・第19~第31節 [聖書]

「さて、ある金持ちがいた。彼は真紅の着物や柔らかい亜麻布の服を来て、毎日、贅沢に楽しく暮らしていた。ところが、この金持ちの門前には、ラザロという、体中にできもののある、貧しい男が座っていた。彼は、金持ちの食卓からこぼれ落ちる物で、腹を満たしたいと願っていたが、犬までも寄ってきて、その男のできものをなめていた。やがて、この貧しい男は死に、み使いたちによって、アブラハムのそのふところにいるラザロが見えた。連れていかれた。また、金持ちも死んで、葬られた。
そして、金持ちは陰府で苦しみながら目を上げると、はるか彼方に、アブラハムとそのすぐそばにいるラザロと見えた。そこで、金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロを遣わして、その指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中で悶え苦しんでいます』。
しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。お前は生きている間に善いものを授かったが、ラザロは悪いものを授かった。しかし、今、彼はここで慰められ、お前は悶え苦しんでいる。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵がある。こちらからお前たちの方へ渡ろうとしてもできず、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない』。すると、金持ちは言った、『父よ、お願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには五人の兄弟がいます。彼らもこんな苦しい場所に来ることのないよう、厳しく言い聞かせてください』。 しかし、アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者たちがいる。彼らの言うことを聞けばよい』。そこで、金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし死者の中から誰かが兄弟たちのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう』。しかし、アブラハムは言った、『もし、モーセや預言者たちに耳を傾けないなら、たとえ、誰かが死者の中から生き返っても、彼らはその言うことを聞かないであろう』。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖句(イエス・キリストの言葉)は、<金持ちとラザロ>という題がついています。このたとえ話しを読むと、単純に「貧しい人には、死後に神の救いがあり、富んでいる人には、死後に神の救いはない。」ということになりますが、それでは、この聖句の教えの意味をなしませんね。
イエス・キリストは、このたとえ話しを語る前に<不正な管理人(ル:16・1~13)>のたとえ話しを語って、「あなた方は神と富に兼ね仕えることはできない」と教えています。その話の一部始終を聞いていた金銭を愛するにファリサイ派の人たちが、「これらのすべてを聞いて、イエスをあざ笑った(ルカ:16:14)」とあります。そこで、イエス・キリストは、彼らに対しての批判を込めてこの「金持ちとラザロ」のたとえ話し語り、彼らをラザロに対し何の憐れみも持たなかった「金持ち」にたとえているのですね。
そして重要なことは、彼らファリサイ派の人たちに対して、金銭を愛して名誉と富に執着し、憐れみの心、即ち貧しい人々や弱い人々を愛する心を失うことの間違いを教えると同時に、彼らを悔い改めへと招く言葉でもあったのです。

神様の救いは、善い行いをしたから救いがあるとか、しなかったから救いがないということではあません。神様はすべての人間に対して救いの手を差し伸べているのです。貧しいしい人々や弱い人々を愛する心、すなわち憐みの心を持たず、「自分(自分たち)だけが幸せであればよい。」という考えで日々生活をしている人たちには、神様の救いがあるようには思われませんが、それでも、神様はそのような人たちをも悔い改めへと導き、すべての人を救おうとしているのです。
イエス・キリストは、貧困を愛された方です。『マタイによる福音書』第25章・第40節に、「あなた方によく言っておく。これらのわたしの兄弟、しかも最も小さい者の一人にしたことは、わたしにしたのである。」とお話しされています。ファリサイ派の人たちのように、富を愛して名誉と富に執着していないにしても、私たちも知らず知らずのうちに「憐れみの心、即ち貧しい人々や弱い人々を愛する心」を失っているかもしれません。私たちは、いま四旬節を迎えています。この40日間は復活祭への準備、すなわち悔い改めの期間です。日々の行いを回心して神様に悔い改めの祈りを捧げましょう。
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新約聖書:ルカによる福音書・第21章・第36節 [聖書]

「いつも目を覚ましていなさい。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖句(イエス・キリストの言葉)の前に、第34節で「あなた方の心が放縦や泥酔、また世の煩いにふさぎ込むことがないよう(中略)注意しなさい。」と説いておられます。イエス・キリストは、私たちの信仰生活に「目を覚まして祈る」ことの大切さえお説いておられるのです。イエス・キリストの説く<目を覚ましている状態>とは、「気をそらせることなく、注意している」ということです。すなわち、「心が鈍くならないように、霊的生活が生ぬるいものにならないように」ということです。つまり「真摯(しんし)な祈りのある信仰生活を送りなさい。」ということです。

単に言葉を唱えるだけの祈りではなく、「いつも目を覚ましている状態で祈る」ということです。信仰生活において心に火を灯し続けるのは祈りです。情熱が冷めそうな時、祈りは心に再び火をつけ、物事の中心である神のもとへとわたしたちを立ち返らせます。祈りは魂を眠気から覚まし、本当に大切なこと、人生の目的に焦点を当てさせてくれます。どんなに忙しくても祈りを疎かにはできません。それがたとえ「主イエス・キリスト、私たちを哀れんでください」という短い祈りであっても、いつも心が目覚めているように祈ることです。そのような祈りのある信仰生活のことです。

次に、前述の聖句「いつも目を覚ましていなさい。」と解釈が類似している聖句とその解釈を掲載しておきます。これは、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈りなさい」とイエス・キリストは説いておられます。
◯新約聖書:マタイによる福音書・第26章・第41節
「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈りなさい。心ははやっていても、肉体は弱いものだ。」

◯新約聖書:マルコによる福音書・第14章・第38節
「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈りなさい。心ははやっていても、肉体は弱いものだ。」

◯新約聖書:ルカによる福音書・第22章・第40節・第46節
「誘惑に陥らないように祈りなさい。」、「誘惑に陥らないように、起きて祈りなさい。」
以上の聖句は、『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖句は、イエス・キリストが磔刑(十字架の刑)に処せられる前夜、ゲッセマネの園で律法学者やファリサイ派の人々に捕らえられる直前に、弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と説かれた場面でのことです。
誘惑はサタン(悪魔)の行いと捉えます。私たちが誘惑に対して戦う時、武器となるのが “ 祈り ” なのです。それがどのような誘惑であろうと、祈りは欠かすことのできない武器となるのです。サタンが誘惑する目的は、私たちを罠にはめて神様の恩寵(おんちょう)から遠ざけることなのです。「神様から遠ざける。」とは、言い方を変えると、誘惑に陥って「悪い行いをさせる。(してしまう。)」ということです。

祈りは神様との交わりであり、誘惑の目的と正反対のものです。祈りは、私たちから神様への交わりをつなげてくれます。その祈りの中で神様に近づく時、神様から与えられる慈しみ、慰めと愛、そして敵に立ち向かう勇気を与えてくれるのですね。
ここでは、誘惑は弟子たちが陥る可能性のあるものであり、それに対する正しい対応は祈りであることが語られています。ですから、祈りと誘惑は正反対のものなのです。もし彼らが祈らなければ、誘惑に陥る結果になることは明らかだったのです。

祈りの中で神様との交わりを持ち、神様とつながり、自分の必要な励ましや助けを祈りの中でいただくことは、誘惑への防御となります。決して誘惑が来ないという意味ではありません。しかし、ここで確かなのは、もし誘惑が来たら、もしくは誘惑が来る時、祈りは私達の信仰を堅固にさせると共に、誘惑の罠にはまることから逃れさせてくれるのです。私の最も自戒とすることです。

【真摯】
真面目でひたむきなこと。
【誘惑】
心をまどわせ、悪い道へさそいこむこと。また、そのさそい。「悪い仲間に-される」、「-にうちかつ」
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旧約聖書:ヨナ書・第1章・第4〜第11節 [聖書]

今日は、旧約聖書にある『ヨナ書』です。
『ヨナ書』は、旧約聖書文書の一つで、ユダヤ教では「後の預言者」に、キリスト教では「預言書」に分類されっています。キリスト教でいう「十二小預言書」の5番目に位置します。全4章からなり、内容は預言者のヨナと神のやりとりが中心になっています。ヨナが大きな魚(鯨?)に飲まれる話が有名。著者は不明です。物語になっていますから、はっきり申し上げてとっても長いですが、わかりやすいストーリーです。要約から読んでいただいてもかまいません。ここで「主(しゅ)」とあるのは、神様のことです。

「〈ヨナの逃亡〉
主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。「立って、あの大いなる都ニネベに行き、人々に向かって呼びかけよ。彼らの悪が私の前に上ってきたからだ。」しかし、ヨナは立ち上がると、主の御顔(みかお)を避け、タルシシュに向けて逃亡を図った。彼がヤッファに下ると、タルシシュ行きの船が見つかったので、主の御顔を避けてタルシシュへ行こうと、船賃を払って人々と共に船に乗り込んだ。
だが、主が海に向かって大風を起こされたので海は大しけとなり、船は今にも砕けそうになった。船乗りたちは恐怖のあまりそれぞれの神に向かって叫び、海に積み荷を投げ捨て、船を軽くしようとした。一方ヨナは、船底に降りて横たわり、寝入っていた。やがて、船長がヨナのところに来て言った。「なぜ寝ているのか。さあ起きて、あなたの神を呼びかけなさい。そうすれば、神は我々のことを顧み、滅ばさずにおかれるかもしれない。」

人々は互いに言った。「さあ、この災が我々に降りかかって来たのは誰のせいなのか、くじを引いて確かめよう。」そこで、彼らがくじを引くと、ヨナに当たった。彼らはヨナに言った。「さあ、我々に話してほしい。この災難が我々に降りかかったのは、誰のせいか。あなたの仕事は何か。あなたはどこから来たのか。国はどこで、どの民族の出身か。」ヨナは彼らに言った。「私はヘブライ人です。海と陸とを創られた天の神、主を畏れる者です。」人々は非常に恐れ、ヨナに「あなたは何をしたのか。」ヨナが、主の御顔を避けて逃亡した伝えたので、人々はその経緯を知った。

彼らはヨナに言った。「あなたをどうすれば、海は静まるのだろうか。」海は依然として荒れ狂ったままであった。ヨナは言った。「私を担いで、海に投げ込んでください。そうすれば海は静まるでしょう。この大しけがあなたがたを襲ったのは、私のせいだと分かっています。」人々は船を漕ぎ、陸に戻そうとしたが、できなかった。海は彼らに逆らって荒れ狂ったままであった。ついに彼らは主に向かって叫んだ。「ああ、主よ、この男の命のために、我々を滅ぼさないでください。無実の者を殺すという血の責めを我々に負わせないでください。あなたは主、思いのままになさるお方です。」こうして、彼らがヨナを捕らえ、海に投げ込むと、海は荒れるのをやめた。 人々は非常に主を畏れ、いけにえを献げて誓いを立てた。

〈ヨナの救助〉
主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませたので、ヨナは三日三晩その魚の腹の中にいた。(途中「ヨナの祈り」は省略)主が魚に命じると、魚はヨナを陸地に吐き出した。
◯ピーテル・ラストマン(オランダ:1583年〜1633年)作の『ヨナと鯨』です。レンブラントやヤン・リーフェンスの師匠として知られる画家です。鯨が、ヨナを陸地に吐き出したところを描いています。
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〈ニネベの悔い改め〉
主の言葉が再びヨナに臨んだ。「さあ、立って、あの大いなる都ニネベに行き、私があなたに語る宣告を告げよ。」ヨナは立って、主の言葉に従い、ニネベへと向かった。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。ヨナはまず都に入り、一日かけて歩き、「あと四十日で、ニネベは滅びる。」と告げた。すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、大きな者から小さな者に至るまで粗布をまとった。このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がり、王衣を脱ぎ、粗布を身にまとい、灰の上に座った。王はニネベに王と大臣たちによる布告を出した。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ口にしてはならない。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に向かって叫び求めなさい。おのおの悪の道とその手の暴虐から離れなさい。そうすれば、神は思い直され、その燃える怒りを収めて、我々は滅びを免れるかもしれない。」

神は、人々が悪の道を離れたことを御覧になり、彼らに下すと告げていた災いを思い直され、そうされなかった。このためヨナは非常に不愉快になり、怒って、主に訴えた。「ああ、主よ、これは私がまだ国にいたときに言っていたことではありませんか。ですから、私は先にタルシシュに向けて逃亡したのです。あなたが恵みに満ち、憐れみ深い神であり、怒るに遅く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される方であることを私は知っています。主よ、どうか今、私の命を取り去ってください。生きているより死んだほうがましです。」

しかし、主は言われた。「あなたは怒っているが、それは正しいことか。」すると、ヨナは都を出てその東にとどまり、そこに小屋を作り、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。神である主がとうごまを備えた。それはヨナを覆うまでに伸び、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消えた。ヨナは喜び、とうごまがすっかり気に入った。ところが翌日の明け方、神は一匹の虫に命じてとうごまをかませたので、とうごまは枯れてしまった。日が昇ると、神は東風に命じて熱風を吹きつけさせた。また、太陽がヨナの頭上に照りつけたので、彼はすっかり弱ってしまい、死を願って言った。「生きているより死んだほうがましです。」
神はヨナに言われた。「あなたはとうごまのことで怒るが、それは正しいことか。」ヨナは言った。「もちろんです。怒りのあまり死にそうです。」主は言われた。「あなたは自分で労することも育てることもなく、ただ一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまをさえ惜しんでいる。それならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、右も左もわきまえない十二万人以上の人間と、無数の家畜がいるのだから。」」
『聖書協会共同訳聖書』から

この話しの要約は次のとおりです。
主人公は、預言者のヨナ(男性)です。ヨナは、神様から「イスラエルの敵国であるアッシリアの首都ニネヴェに行って「(ニネヴェの人々が犯している悪い行いのために)40日後に滅ぼされる」という預言を伝えるよう命令されます。
しかし、ヨナは敵国であるアッシリアに行くのが嫌で、船に乗って反対の方向のタルシシュに逃げ出すのですが、神様はそうはさせず、船を嵐に遭遇させるわけです。船乗りたちは誰の責任で嵐が起こったのか “ くじ ” を引きます。そのくじはヨナに当たったので、船乗りたちは彼を問い詰めると、彼は自分がヘブル人で海と陸を造られた天の神、主を畏れていることを告白します。ヨナは「自分を海に投げれば嵐はおさまる」と船乗りたちに言います。最初、船乗りたちは陸にたどり着こうと努力していましたが、ヨナの言うとおり彼の手足をつかんで海に投げ込みました。そうすると海は静まりました。しかし、ヨナは神様が用意した大きな魚に飲み込まれ、3日3晩魚の腹の中にいて神様の命令によって海岸に吐き出されました。

ヨナは悔い改め、ニネヴェに行って神様の言葉を告げると、意外なことに人々はすぐに悔い改めました。指導者達はニネヴェの人々に悔い改めと断食を呼びかけ、人々が悔い改めを実行したため、神様は考え直してニネヴェを滅ぼすことを中止しました。ところが、ヨナは、一度は滅ぼすと言ったにもかかわらず、それを中止してイスラエルの敵であるニネヴェの人々を赦した(ゆるした)神様の寛大さに激怒するのです。
ヨナは、その後小屋を建ててニネヴェがどうなるか見るためにそこに住んでいると、その小屋の横に神様がトウゴマの木を茂らせました。ヨナはトウゴマが影を作り日よけになったので喜ぶのですが、神様は虫を送ってトウゴマの木を枯らしてしまうのです。ヨナが激怒して、「怒りのあまり死にそうだ」と訴えると、神様はヨナに向かい、「ヨナがたった1本のトウゴマの木を惜しんだのだから、神である私が12万人以上の人間と無数の家畜がいるニネヴェを惜しまないことがあろうか。」と諭すのです。

この物語の “ 教え ” は、「どんなに罪深い人間でも、悔い改めれば神は救いの手を差し伸べられ、神の深い憐れみと大いなる愛は永久(とこしえ)にある。」ということです。悪い行いをしているニネヴェの人々を滅ぼそうとしていた神様が、ヨナを使って回心するよう呼びかけさせたら、ニネヴェの人々はすぐに悔い改めたのでした。それで神様は怒りの手を挙げるのを止め、ヨナに諭したように慈しみの愛をもってニヌヴェの人々を赦したのです。神様は、どのような罪人にも悔悛の機会を与え、悔い改めれば深い愛をもって憐れみを示してくださるのですね。
ちなみに、「預言者」ですが、「予言者」ではありません。預言者とは、神様から降った言葉を「預かって(あずかって)」民衆に伝える者ということです。もう一つの予言者は、自らが将来のことを「予め(あらかじめ)」予想する者ということです。聖書に出てくるのは、すべて神様の言葉を預かって伝える役目がある「預言者」の方です。

【とうごま】
トウゴマ(唐胡麻)は、トウダイグサ科(APG分類:トウダイグサ科)の植物で、ヒマ(蓖麻)ともいいます。原産地の熱帯東部アフリカとインドでは低木、または高さ6メートルを超える高木となりますが、温帯では一年草で高さ約3メートル。現在では、世界の熱帯と温帯で油脂植物として広く栽培されています。ヒマシ油がとれます。写真はトウゴマです。同じトウゴマですが、葉の形状に多少の違いがあいます。
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旧約聖書:箴言・第24章・第17~第18節 [聖書]

「敵が倒れても喜んではならない。
彼がつまずいてもこころを躍らせるな。
主がそういうあなたを見て不快とされるなら
彼への怒りを翻すされるであろう。」
『新共同訳聖書』から

旧約聖書では、『箴言(しんげん)』は、キリスト教では知恵文学の一つとして『詩編(しへん)』の後に置かれています。内容は<教訓集>で、様々な徳や不徳とその結果、日常における知恵や忠告等となっています。『箴言』中の格言の多くは、ソロモン王によって作られたとされていますが、これは、律法に関する五書がモーセの名で呼ばれているように、知恵文学(箴言、コヘレトの言葉、雅歌)はソロモンの名で呼ばれるからだそうです。実際は、複数の作者の言葉が収められています。

1.まず、この聖句(聖書の言葉)の前段部分の説明
まず「敵」という言葉は、自分の競争相手だったり、復讐したい相手だったり、嫌っている人のことというのが一般的ですが、ここでいうところの敵とは、自分に悪意を持って危害や損害などを与える人のことです。そのような人が「倒れる」、「つまづく」などをした時、喜んだり心躍らせたりしてはいけないと説いています。普通の人だったら「ざま~みろ!」とか、「そら見たことか、罰が当たったんだ!」とか言って大笑しそうです!

2.この聖句の別のところで、神様は次のとおり教えておられます。
◯新約聖書:ローマの人々への手紙・第12章・第19~第21節
「愛するみなさん、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「主は仰せになる、『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と書かれているからです。しかし、次のようにも書かれています、「敵が飢えてうるなら食べさせよ、渇いているなら飲ませよ。そのようにすることで、あなたは敵の頭に燃える炭火を積むからである」。悪に負けてはなりません。むしろ善をもって悪に勝ちなさい。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖句は、使徒であるパウロが、ローマの信徒に宛てた手紙に書いている言葉です。神様は、人間に復讐(報復)することを絶対にお許しになりません。それは復讐(報復)することよって、人間に暴力などの罪を犯させることになるからですね。ですから、復讐(報復)は人間に代わって神様ご自身がなさるというわけです。このことは非常に大切なことです。

3.次に、2を受けて最初の聖句に戻って後段部分の説明
相手が「倒れる」、「つまづく」などをした時に喜んだり心躍らせたりする自分を主(神様)が見て、不快になって怒を収めてしまわれるということです。せっかく自分に代わって神様が復讐してくださるのに、それを止めてしまわれるということです。大いに残念なこと!?です!か?

4.この聖句は、「赦さない人間への戒めの言葉」ですね。
私たちが日常において、復讐(報復)とまでいかなくてもそれに近い感情を抱くことはよくあることです。自分はまったく悪くないにもかかわらず!そうすると、これは何かきっかけがあるとその相手と喧嘩になってしまうのですね。復讐(報復)は、聖書にも書かれていますが、神様がなされることであって人間のすることではないのです。そして、何よりも大切なことは相手を赦すことです。本気で心の底から赦すことです。難しいことであると思いますが、でも赦さなければなりません。

人は怒った時に、自分を相手と同じレベルか、それ以下にして怒っているから頭にくるのです。それでは気分は最悪ですよね。これを決して上から目線ではないのですが、慈しみと憐みの心を持って相手を見てあげるのです。「なんと、かわいそうな人なんだろう。」と。それができれば、赦すことなど何でもないことです。
ですから、自分が悪くなくても “ 怒りを覚えた時 ” は、「神様が報復する」と自分に言い聞かせることです。決して手出しは愚か、口でも相手を罵ってはいけません。私はすでに実践していますが………と言ってもまだ愚痴は出ますが。これは最も自戒すべきことです。
主(神様)は、相手がどのような悪人でも、私たち人間が、倒れたり物事につまずいたりした人を見て喜んだりすることは不快に思われるのです。相手がどのような悪人であれ、人の弱みに付け込むようなことは、褒められたことではありませんね。それは相手を赦していないということです。すべては慈しみと憐みの心を持つべきことなのです。
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新約聖書:マタイによる福音書・第18章・第21〜第35節 [聖書]

私の人生における克服すべき課題の一つに「人を赦すこと。」があります。このブログのタイトルに「愛と赦し」とあるのは、第一に「隣人への愛」と「人への赦し」がイエス・キリストの最大の教えであること。第二にこの「愛と赦し」が私の人生における課題であり信仰生活における糧としているからです。
2012年に洗礼を受けてから随分と人を赦せるようになりましたが、それでもまだ赦すという意識に躊躇する時があります。やはり、人生における永遠の課題なのでしょうか。これは、人を赦すことがいかに難しいかということですね。人を赦すことが簡単にできるなら、何も人生における課題にはなりませんね。
人を赦すことがどれほど難しいか、誰もが経験されていることだと思います。今まで生きてきて、どれだけの人を赦してこなかったか。肉親であるはずの親兄弟・家族でさえ、たまに ” 赦せない部分 ” を見つけてしまうことがあります。肉親でさえ赦せないと思うのですから、他人であればなおさら赦すことが難しくなりますよね。それでも、イエス・キリストは次のとおり「とことん赦しなさい。」と説いておられます。

◯新約聖書:マタイによる福音書・第18章・第21~第35節
「その時、ペトロが近寄ってきて、イエスに尋ねた。「主よ、わたしの兄弟が私に罪を犯した場合、何度、赦さなければなりませんか。七回までですか」。イエスはお答えになった、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までである。それ故、天の国は次のように喩えられる。
「一人の王が僕たちと貸借の決済をしようとした。決済が始まると、一万タラントンの負債のある者が王の前に連れ出された。しかし、返済することができなかったので、主人はその人自身と、その妻や子もたち、および所有物すべて売って、返済するように命じた。この僕はひれ伏し、『もうしばらくお待ちください。きっと全部お返ししますから』と哀願した。そこで、その僕の主人は憐れに思って、彼を赦し、借金を免じてやった。
ところが、この僕は外に出ると、自分に百デナリオンの負債のある同僚に出会った。彼はその同僚の喉元を絞めつけ、『借金を返せ』と言った。この同僚はひれ伏して、『もうしばらく待ってくれ、返すから』としきりに願った。しかし、彼は承知せず、その同僚を引き立てていき、負債を返すまでといって牢獄に入れた。この一部始終を見てい同僚らは大いに心を痛め、主君の前に出て、事の次第を告げた。
そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『不届きな僕だ。お前が嘆願したから、わたしは負債をいっさい免じてやった。わたしがお前を憐れんだように、お前もあの仲間を憐れむべきではなかったか。』主人は怒って、負債を全部返すまでといって、彼を拷問係りに引き渡した。もしあなた方の一人ひとりが、自分の兄弟を心から赦さないなら、天におられるわたしの父も、あなた方に対して同じようになさるであろう。」
『原文校訂口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

これは聖句(イエス・キリストの言葉)です。イエス・キリストは、使徒(弟子)のペトロの質問に対して「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と説いておられます。7回✕70倍=490回は喩え(たとえ)ですね。とにかく、徹底して赦しなさいと説いているのです。そこには赦す条件など微塵もないのです。この喩え話しですが、「王」とあるのは神様のことで、「僕」とは私たちのこと(罪人のこと)、「負債」とは罪のことです。「負債を帳消しにする」とは、すべての罪を赦すという解釈となります。ここでいう「兄弟」とは、隣人を含めて自分に関係する人などのことです。「天の父」とはイエス・キリストの父なる神様のことです。

ちなみに、「一万タラントン借金している」とありますが、約2000年前のことですが具体的にどのくらいの程度の金額になるのか計算してみましょう。
<10,000タラントンとはどのくらいの金額なのか?>
2,000年前当時の価値観や物価が違いすぎますから比較にはなりませんが( ̄▽ ̄;)、無謀であることは承知の上で、無理やりこれを現代の金額に換算してみます。
日本のサラリーマンの平均年収が4,673,000円(令和元年度)です。これを1年365日毎日働いたとすると、4,673,000円/365日で、1日分の賃金が12,803円となります。1タラントンは6,000デナリオンで、当時1デナリオンは1日分の賃金ですから、1デナリオン・12,803円×6,000デナリオン=1タラントン・76,818,000円となります。そうるすと、1タラントン・76,818,000×10,000タラントン=768,180,000,000円となります。7,681億8千万円です。この計算方式が間違っていなければ考えられない金額となりますΣ( ̄ロ ̄lll)

王は「こんな返済不可能のような莫大な借金を帳消しにしてやったのに、たかが100デナリオン=100日分の賃金くらいの借金を赦さないとは何事か!」ということですね。これは借金の返済を喩え話しにしているのですが、これを聖書本文の解釈 = 神様の言葉にすると、「このような大きな罪を犯したのを赦してやったのに、隣人の極めて小さな罪を赦さないとは何事か!」ということになります。
私たちは、今まで赦してもらいたいと思ったことがあったはずです。実際に赦してもらったこともあるはずです。そして、これからも赦してもらいたいと願う時が必ずも来ます。それは必ず来るのです。その時に赦してもらいたいなら、普段から人を赦すべきなのです。憎しみや恨みをもって毎日生活をしていても良いことは何もないですね。赦しましょう。とにかく赦すことです。人を赦さないのなら、自分も赦されないのです。

◯ジャン・ガロ著、大滝玲子訳『愛のいのり』から
出版:女子パウロ会・1981年・182ページ・税込み756円
“ 人を赦すことを教えてください! ”
「主が、私たちを赦してくださるように、
私たちにも、人を赦すことを教えてください。
ほんのわずかな間でも、
恨みを心に留めることなく、
すぐに赦すことを教えてください。

口先だけでなく、心の底から、
すっかり赦すことを教えてください。
条件をつけたり限定したりせずに、
完全に赦すことを教えてください。
いったん赦したら、
決して過去のことを持ち出したりせず、
すべてを水に流して、
赦すことを教えてください。

真心から赦すことを教えてください。
無礼や侮辱など、
全く受けなかったかのように、
その人に接することができる力を与えてください。
私自身も、多くのことで
人に赦してもらわなければならないのです。

どうか、謙虚な心で赦すことを教えてください。
私に害を加えた人を、まえ以上に大切にし、
その人のために祈りながら、
寛容に赦すことを教えてください。
何度でも、際限なく赦す、
忍耐深さを与えてください。
主よ、人を赦すことを教えてください。
主が赦してくださるように、
広い心で赦すことを教えてください。」
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新約聖書:マタイによる福音書・第7章・第7〜第11節 [聖書]

「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見出す。たたきなさい。そうすれば開かれる。誰でも求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれる。あなた方のうちに、子供がパンを求めているのに、石を与える者がいるだろうか。あるいは、魚を求めているのに、蛇を与える者がいるだろうか。あなたがたは悪い者であっても、自分の子供たちに、善い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなた方の天の父が、ご自分に求める者に、善い物を与えてくださらないことがあるだろうか。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

今日のこの聖句(イエス・キリストの言葉)は、「山上の説教」という副題のついているところの一部分です。一般的には「山上の垂訓(さんじょうのすいくん)」として有名な箇所ですね。これは、新約聖書のマタイによる福音書・第5章から第7章とルカによる福音書・第6章に記載のある、イエス・キリストが、山の上で使徒(弟子)たちと群集に語った教えのことです。是非とも第7章全体をお読みください。

この「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見出す。たたきなさい。そうすれば開かれる。」は聖書の中でも有名な箇所です。しかし、イエス・キリストの教えの主要部分は、最後にある「まして、天におられるあなた方の天の父が、ご自分に求める者に、善い物を与えてくださらないことがあるだろうか。」に集約されています。天の父とは、イエス・キリストの父である神様のことです。

イエス・キリストは、実は「求めつづけなさい、探しつづけなさい、たたき続けなさ」と“ 続けなさい ” と説かれているのです。私たちが祈り求めるものは、「ください。」とお祈りして、「はい、あげますよ。」という簡単なものではないですね。そのようなものなら、最初から祈り求めなくてもいいわけです。私たち人間が簡単に与えてもらえないものだからこそ、諦めずに求め続けなさいと説いているのです。

では、イエス・キリストは、私たちに対して何を求め、何を探し、何をたたきなさいと説いているのでしょうか。それは、「神のみ旨・み心(神の教え・お考え)」です。神のみ旨・み心を求め、神のみ旨・み心を探し、神のみ旨・み心をたたきなさいと説いておられるのです。目の前にあるような物質的な物欲的なご利益的なものではなく、み旨・み心に叶うことを求め、探し、たたきなさいということです。そうすれば「天におられるあなた方の天の父が、ご自分に求める者に、善い物を与えてくださらないことがあるだろうか。」と私たちに問いかけているのです。

そして、聖書に書かれている「種を蒔く人のたとえ」の教えを引用し、それを応用して書きますが、神のみ旨・み心を知り聞くだけの人の蒔く種は、道端に蒔かれた種と同じで、芽を出す前に人に踏みつけられ、鳥に食べられてしまいます。み旨・み心を求め探す人が蒔く種は、良い土地に落ちて芽を出し百倍の実を結びます。キリスト者の信仰は、神のみ旨・み心を知って聞いて信じることだけでなく、神のみ旨・み心を行うこと、実践すること。その“善き行い”が伴なって初めて信仰と言えるのです。これがキリスト者として非常に重要なことであると確信しています。

最後に、この聖句はイエス・キリストが「祈り求める大切さ」も説いると解釈します。祈りは、粘り強く諦めずに継続しなけなければなりませんが、そうしたからといって必ずしも私たちの願いがすべて成就するわけではありません。しかし、真剣に祈り続けるなら、祈る人自身の心が次第に良い方向に向かって変えられて行くのです。この聖句は、ある意味で祈りの勧めである以上に、イエス・キリストの父である神様の寛大な愛を示しているように感じます。

使徒である聖パウロは、新約聖書のローマへの信徒への手紙・第5章・第3~第5節で「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」と記しています。忍耐こそが希望への光となるのです。祈りも同じだと思います。忍耐を持って祈り続けるのです。そうすれば、希望の光であるイエス・キイストの父である神様が、必ずや聴き留めて報いてくださるのです。これを信じて祈りを実践することが信仰なのですね。
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