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「神のお告げ」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日、4月8日は「神のお告げ」の祭日です。
大天使聖ガブリエルは、おとめマリア(聖母マリア様)に、神の子イエス・キリストがマリアから生まれることを告げました。これを「受胎告知(じゅたいこくち)」といいます。天使の言葉に、初めはとまどったマリアでしたが、神の働きを心に受けとめ「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と、神の母となる使命を受けました(新約聖書:ルカによる福音書・第1章・第26~38節)。マリアが親戚のエリザベトを訪問した際に、神の母となる喜びと主への賛美を歌った聖母マリアの歌「マニフィカト」(新約聖書:ルカによる福音書・第1章・第47~第55節)はとても美しいですね。

「神のお告げ」自体の詳しいことを説明する前に、まず、メシア(救世主)であるイエス・キリストが、後の世にお生まれになるという、旧約の時代に預言者イザヤが預言したことを説明します。旧約聖書には、次のとおり書かれています。
◯予言者イザヤの言葉
旧約聖書:イザヤ書・第7章・第14節
「それゆえ、わたしの主が御自ら
あなたたちにしるしを与えられる。
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ。」
『新共同訳聖書』から

旧約聖書:イザヤ書・第9章・第5~第6節
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、「おどろくべき指導者、力ある神、
永遠の父、平和の君」と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し
平和は絶えることがない。
王国は正義の恵みの業によって
今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」
『新共同訳聖書』から

では、なぜ預言者イザヤは預言したのでしょうか。その理由とイザヤが預言したこの時代(旧約聖書の時代)の背景を簡単に説明いたします。
預言者イザヤが生きていた当時は、ユダヤ人の王国は北のイスラエル王国と南のユダ王国(王都はエルサレム)に分かれていました。このころ、強大な新アッシリア帝国(メソポタミア地方に紀元前911年から紀元前609年にかけて存在した当時世界最大の帝国)の圧力が高まる中、ユダ王国のアハズ王は新アッシリア帝国に服従していましたが、新アッシリア帝国に敵対するアラム人の国とイスラエル王国が同盟を組んだという知らせが届き、ユダ王国のアハズ王も国民も同盟軍の侵略の脅威の前に動揺していました。

旧約聖書:イザヤ書・第7章によると、この時、預言者イザヤはアハズ王のもとに赴き、事態をおそれずに神に従うこと、そうすればアラム人の国とイスラエル王国の侵略も成功しないだろうという神からの言葉をアハズ王に伝えました。アハズ王は神の言葉を受け取るのをためらいますが、これに対し預言者イザヤは「まだ信じようとしないのか」と言い、神の言葉が正しい証拠として、「インマヌエルという名の子が生まれる」という徴(しるし)をあなたたちは受け取るだろうと告げます。インマヌエルが大きくなる前にアラム人の国もイスラエル王国も滅び、諸国が荒廃する代わりにユダ王国には未曾有の繁栄が訪れると説くのでした。

そして、後の世になってイザヤの預言が実現します。神によって遣わされた大天使聖ガブリエルが、乙女マリアに受胎告知します。これは、旧約聖書の時代に約束されたイザヤの預言が成就するためだったのです。新約聖書には、次のとおり書かれています。
◯新約聖書:ルカによる福音書・第1章・第26~第38
「さて、六か月目に、み使いガブリエルが、神のもとから、ガリラヤのナザレという町の一人のおとめのもとに遣わされた。このおとめは、ダビデ家のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。み使いは、彼女のもとに来て言った。「喜びなさい、恵まれた方よ。主はあなたとともにおられます。」この言葉にマリアは胸騒ぎし、いったい、この挨拶は何のことだろうかと思った。すると、み使いは言った。「恐れることはない。マリア。あなたは神の恵みを受けている。あなたは身籠って男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な者となり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主は、彼にその父ダビデの王座をお与えになる。彼はヤコブの家をとこしえに治め、その治世は限りなく続く。」マリアはみ使に言った、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」み使いは答えた、「聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆う。それ故、生まれる子は聖なる者、神の子を呼ばれる。あなたの親戚のエリザベトも、年老いていながら男の子を身籠っている。不妊の女と言われていたのに、はや六か月になっている。神には、何一つおできにならないことはない。」マリアは答えた、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」すると、み使いは彼女から離れ去った。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
◯新約聖書:マタイによる福音書・第1章・第22~第23節
「これはすべて、主が予言者を通して告げられたことが成就するためである。「見よ、おとめが身籠って男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は、わたしたちとともにおられる。」という意味である。
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

実は、新約聖書には『福音書』は4つありますが、「インマヌエル」が記載されているのは、『マタイによる福音書』だけなのです。旧約聖書の時代の人々は、この世にメシア(救世主)である、文字どおり平和で幸せな世にしてくれる救世主を待ち望んでいたわけです。その救世主が現れると預言者イザヤは預言し、その預言がイエス・キリストがマリア(聖母マリア様)にお宿り(受胎)になって成就し、新約聖書の時代到来となったのです。『マタイによる福音書』の福音記者であるマタイは、この福音書をとおして私たちにイエス・キリストの教え(聖句=イエスの言葉)を述べ伝え、イエス・キリストは、インマヌエルという名の意味どおり、「神は、わたしたちとともにおられる。」と最後まで説いています。それが、この福音書の最後にある次の聖句です。
◯マタイによる福音書の最後の第28章
新約聖書:マタイによる福音書・第28章・第20節
「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方とともにいる。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

つまり、神であるイエス・キリストは、ご自分がこの世に現れたことが、すでに天の国が到来したのであって、これから来るとか、将来に来るとかではないとマタイは言っているのではないでしょうか。マタイは、イエス・キリストがいつも私たちと一緒におられることが、天の国にいるということになると説いているのですね。ですから、私たち信徒は何も恐れることはありません。イエス・キリストの教えどおり、隣人への愛、赦し、善き行い、祈りに励むこと、それが信仰の証となるのではないでしょうか。
主イエス・キリストは、いつも私たちのそばにおられます。

受胎告知の絵は、古代キリスト教の昔から多くの画家によって描かれています。受胎告知の絵には、必ずといっていいほど、聖母マリア様の象徴である「ユリの花」が描かれています。ユリの花は、聖母マリア様のアトリビュートになっていますね。次の絵は、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた『受胎告知』です。左側の大天使聖ガブリエルの左手は、茎の長いユリの花を持っています(絵をクリックすると大きく見れます)。イタリアのフィレンツェにあるルネサンス絵画で有名なウフィツィ美術館に収蔵されています。
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こちらの絵は、私の大好きなスペインの画家、エル・グレコの『受胎告知』です。エル・グレコは受胎告知を何枚も描いていますが、この絵は岡山県倉敷市にある大原美術館に所蔵されています。
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【アトリビュート】
西洋絵画、特に宗教画(キリスト教絵画)には、「アトリビュート(=持物:じぶつ)」というものがあります。これは、絵を描く時の“約束事”として、特定の人物(聖人など)に密接に結びつけられたもの、例えば花、動物、小物、道具や背景などが画かれるのです。
例えば、聖母マリア様ですと、必ず画かれているのが純潔の象徴である「百合の花」ですね。「受胎告知」の絵で、大天使ガブリエルが百合の花を持っています。そして、天の真実を意味する「青色(濃紺色)のマント」です。「祈りの聖母」と「悲しみの聖母」の絵もそうですね。他にも、「12の星の冠」や足の下に「三日月」と「蛇」が画かれています。聖母マリア様の絵を見るときはよく観察しましょうね。
他にも、聖母マリアの夫である聖ヨセフは、大工であったことから大工道具がアトリビュートになっていますし、聖アガタは、乳房を切り取られたことから、乳房がアトリビュートになっています。旧約聖書の「トビト記」に出てくるトビアスを描いた絵は、必ず魚が画かれています。(「トビト記」を読めばわかります。)マグダラのマリアの絵は、必ず香油の壺とドクロが画かれています。
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「報い」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

「報い(むくい)」は、広辞苑によると次の3つの意味があります。
①善行や悪業の結果として自分の身に受ける事柄(返報)。
②善悪因果の応報。
③仕返し。
ある行為の結果として、身にはね返ってくる事柄のことで、善悪いずれについて「報い」はありますが、現在では悪い行為の結果についていうことが多いようです。聖書には、旧約聖書にも新約聖書にも「報い」についての聖句(イエス・キリストの言葉・聖書の言葉)がたくさんありますが、次の2つの聖句を掲載いたします。

◯新約聖書:コロサイの人々への手紙:第3章・第25節
「不正を行う者は、自分の行った不正に対して報いを受けるであろう。それには差別扱いはない。」
この聖句は不正という悪業の結果として、自分の身に報いを受けることになり、それには差別扱いはないということです。悪行の因果応報ですね。その報いとは、自分も不正の被害に遭うという報いであったり、苦しみという報いであったり、困窮という報いであったり、死後に地獄に落ちるという報いであったりするわけですね。これを罰といいます。

◯新約聖書:マタイによる福音書:第5章・第11~第12節
「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。」
この聖句は悪の因果応報ではなく、相手から迫害されたり、悪口を言われたり、虐められたりした人は、死後に天の国で受け取る報いに大きいものがあるというものです。ですから幸いであり、喜びなさいということです。現世は不幸でも、死後に受ける報いは天の国に入ることができるということです。

「因果応報(いんがおうほう)」の仏教用語としての意味は、善い行いをすれば善い結果が得られ,悪い行いをすれば悪い結果をもたらすということです。 善因善果、悪因悪果などと表現されます。意味はキリスト教も同じですね。聖書(旧約聖書と新約聖書を合わせて)には、「報い」という語が何十も出てきますが、人間は大なり小なり、いとも簡単に他の人を陥れたりして罪を犯しますが、中でも「悪意」だけは絶対に行ってはいけないことです。他の人に対する悪意は、極めて厳しい報いを受けることになるのです。

悪意で最も多いのが、嘘(うそ)や噂(うわさ)を吹聴することです。他の人から聴いたことを当事者にその真実を確認もせずに吹聴するわけです。つまり自分の目で見ることもせず、自分の耳で聴くこともせずということですね。しかし、困ったことに、故意にやっているはずなのに本人はなかなか気づかない、自覚さえしていないものなのです。これはその内容が真実であると思い込み、聴いたことが正しいと錯覚しているからなのですね。人格的に良心がないのか、何らかの目標や目的達成のために故意にやっているのか。

いずれにしても、悪意は人生において最も極めて厳しい報い、つまり厳しい罰を受けることになります。そのような良心の欠如は、周りのいろいろな環境に影響を及ぼします。生活環境だったり、職場環境だったりしますが、その人だけの問題ではなくなるのです。それに、自分のまわりの人にも悪い報いを与えたりするものなのです。自分の家族であったり、職場の同僚であったりするわけですね。まったくもって迷惑千万な話しです。そのような人は、聖書にあるとおり現世においてすでに報いを受けているかもしれません。

悪意を行っている、悪意を持っているということが、悪いこと(いけないこと)だと自覚した(わかった)時点で、悔い改めるべきです。主(神)は、怒るに遅く、憐れみ深く、慈しみ深い方です。悪意を行った罪を神様に告白し、赦してもらうことです。そのための悔い改めですね。カトリック教会の信徒であれば、聴罪司祭(ちょうざいしさい)に「赦しの秘跡」を授けてもらい、神様に赦してもらうことです。そして2度と悪意を持たないことです。悪意は信頼関係を壊し、人間関係を壊してしまします。心することですね。

◯旧約聖書:シラ書(集会の書)・第19章・第13〜第17節
「友に問いただせ。
彼は、何もしていないかもしれない。
何かしていたとしても、二度とはしなくなるだろう。

隣人に問いただせ。
彼は、何も言っていないかもしれない。
何か言っていたとしても、二度と繰り返さないだろう。

友人に問いただせ。
しばしば中傷にすぎないものだ。
噂は一切信じるな。
心ならずも口を滑らせてしまう者もいる。

自分の舌で罪を犯したことがない者がいるだろうか。
隣人を脅す前に、問いただせ。
あとは、いと高き方の律法に任せよ。」
『聖書協会共同訳聖書』から
最後にある「いと高き方の律法に任せよ。」は、後はすべてを見ておられる神様に委ねなさいということです。
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「神の声を聴く」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

昨日付けで定年退職となりました。今日から新しい人生の始まりです!
さて、今日は「神の声を聴く」お話しです。
私は「神の声を聴いた」という人に出会ったことはありませんが、人から聞いたことやSNSなんかで聴いたという書き込みを見たことはあります。旧約聖書を読むと、「神の声を聴いた」という神からの言葉(預言)を託された人(預言者)がたくさん登場しますが、聖書における何千年という歴史の中では、ごく少数の人でしかありません。

私も神の声を聴きたいと思いますが、信仰をしていても現実的ではないという思いが強いですね。それは、私のような人間に神様が語りかけてくれるくらいなら、その前にもっと敬虔な、信仰熱心な人に語りかけることでしょう。私は信仰に不熱心とは思いませんが、私のような程度の信仰心の人なら、この世にいくらでもいるのではないかと。

では、神の声はどのような時に、どのような人に聴こえるのか?ということですね。用もないのに神が人間に語りかけることはないと思いますし、神の声が何でもないと時に聴こえるとは思えないですね。きっと理由があるはずです。それは、神が語りかけるのは、<神がその人を必要としている時>だからだと思うのです………少し難しいかも。

しかし、神の声はすでに私たちすべての人間に語りかけられているのです。すでに私たちは聴いているのです。それはどういうことでしょうか?それは聖書です。聖書の聖句(聖書にある言葉)で、すでに私たちは神からの声を聴いているのです。聖書にある聖句は神の言葉です。直接的ではありませんが、私たちは間接的に聴いているのです。

聖書を通して間接的に聴いている聖句を神の言葉として受け入れることが「神の声を聴いた」ことになるのです。でも、それだけでは不十分です。その神の声を行うこと、行いが伴わないならば神の声を聴いたことにはなりません。神の言葉を実践することですね。とにかく聖書を読みましょう!よく読んで神の声を聴きましょう。聖書ならいつでも神の声を聴くことができるのです。でも、一度でいいですから直接お聴きしたいものです。もし、神の声が聴こえたら、「主よ、ここに私がおります。この私を遣わしてください。」と申し上げたいですね。
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「聖土曜日・復活の主日・聖なる復活の徹夜祭」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日3月30日(土)は、「主の過越しの聖なる3日間」の三日目「聖土曜日・復活の主日・聖なる復活の徹夜祭」です。日没後からイエス・キリストがお墓に葬られた後の大安息日で、イエス・キリストの受難と死をしのんで復活の準備をする日です。復活徹夜祭の典礼は、会衆(信徒)全員がローソクを持って行われる第一部「光の祭儀」、そして第二部「ことばの典礼」、第三部「洗礼と堅信」、第四部「感謝の典礼」の4つで構成されます。特徴としては、典礼の中で「洗礼の儀(洗礼式)」が行われることですが、これは約2,000年前のキリスト教初代教会時代からの伝統になっています。ちなみに、今夜は成城教会が誇る教会所属の聖タデオ聖歌隊で、最後の聖歌奉仕を務めます!(3月31日付けで聖歌隊を隊退します。)

◯次の絵《キリストの復活》は、イタリアの画家ピエロ・デラ・フランチェスカによって制作された作品です。制作年は1463年から1465年で、現在、イタリアのサンセポルクロ市立美術館に所蔵されています。
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「復活の聖なる徹夜祭」は、第一部「光の祭儀」で火の祝福と任意ですがローソクの祝福が行われます。典礼聖歌341番「キリストの光」を歌いながら行列して入堂します。ただ、この2年はコロナ渦にありましたから中止していました。最近はコロナ渦が収まってきてマスクが自由になりましたから、ローソクを持って行列での入堂を行う教会もあるのではないでしょうか。
第二部は「ことばの典礼」で、毎年、旧約聖書から第一朗読として「創世記」をが朗読、第三朗読で「出エジプト記」を朗読、第七朗読で「エゼキエルの予言」を朗読し、続いて新約聖書から「使徒パウロのローマの教会への手紙」が朗読されました。福音朗読は、今年はB年ですから「マルコによる福音書」の朗読です。

◯新約聖書:マルコによる福音書・第16章・第1~第7節
<復活の朝>
「さて安息日が終わり、週の第一日が明け初めるころ、マグダラのマリアと、もう一人のアリアが墓を見に来た。すると突然、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降って石に近づき、石を脇へ転がして、その上に座ったからである。その姿は稲妻のように輝き、その衣は雪のように白かった。見張りの者たっちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。み使いは婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜してるのでろうが、その方は、ここにはおられない。かねて仰せになったとおり、復活された。さあ、入って納められていた場所を見るがよい。そして、急いて行って、弟子たちにこう伝えなさい。『イエスは死者の中から復活された。あなた方よりも先にガリラヤに行かれる。あなた方はそこでイエスにお会いできる。』これが、あなた方に伝えることです」。婦人たちは大喜びで、急いで墓を立ち去っると、弟子たちに知らせるために走っていった。すると、イエスが彼女らの行く手に立っておられ、「おはよう」と声をかけられた。彼女たちは近寄って、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。すると、イエスは仰せになった、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くよう告げ知らせなさい。そこでわたしに会える。」 
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

「洗礼式の儀」は、教会によって式次順に多少の違いがありますが、一般的にはまず①洗礼志願者の紹介、②連願(諸聖人の取り次ぎを願う歌)、③水の祝福、④悪霊の拒否、⑤信仰宣言(続いて洗礼が行われます)、⑥聖香油の塗油、⑦白衣の授与、⑧ろうそくの授与、⑨洗礼名の授与となります。続いて「堅信の儀」となり、①按手、②塗油となります。そして会衆(信徒)全員に対して「洗礼の約束の更新」が行われ、①信仰宣言、②聖水の撒布があります。

私は、2012年4月7日(土)に行われた「復活の聖なる徹夜祭」で、カトリック町田教会の当時の主任司祭であった小池亮太神父さまから洗礼を授けてもらい、すでに12年が経ちました。キリスト者(クリスチャン)となって12年が経ったということですね。これからも、主であるイエス・キリストの教えにしたがい、「隣人への愛と赦し」の教えを実践してまいります。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんと共にありますように。アーメン
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「聖金曜日・主の受難の典礼」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日3月29日(金)は、「主の過越しの聖なる3日間」の二日目「聖金曜日」です。夜に「主の受難の典礼」が行われます。私が所属するカトリック成城・聖タデオ教会では、19時から「主の受難の典礼」があります。昨日に引き続き祭壇奉仕(侍者)を務めます。ちなみに、成城教会の守護聖人である使徒聖タデオは、日本語訳聖書にタダイと訳されていますが、タダイのラテン語訳がタデオです。

◯有名なルーベンスの「キリストの磔刑(たっけい:十字架の刑)」です。右下の黒い?紺色?のマントを着た悲しみのあまり今にも崩れ落ちそうな女性は、聖母マリアさまです。その身体を支えている赤いマントを着た男性は使徒のヨハネです。
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「聖金曜日」は言うまでもなく、イエス・キリストの受難と十字架上の死を記念する日です。イエス・キリストは、この日の午後3時ごろ息を引きとったとされ、その受難と死をしのび、過越しの聖なる断食が守られます。現在の断食は「大斎」と言って一日中まったく何も食べないというものではなく、1食は十分に食べて後の2食は軽く済ますというものです。「大斎・小斎」の意味は、このブログの「教会日記2024.2.14(カトリック成城・聖タデオ教会 灰の水曜日のミサ・灰の式 水曜日)」をお読みください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2024-02-14-3

夕べに行われる典礼では、感謝の祭儀(ミサ)は行われず、代わりに「十字架の崇敬」で、復活への希望のうちに十字架の勝利を賛美します。また、この日の典礼の最大の特徴は、3月24日(日)の「枝の主日」と同様に、第一部として、司祭(神父様)と複数の朗読者、さらには会衆全員の参加による「イエスの受難の朗読」が行われることです。朗読は通常、『ヨハネによる福音書』からとられています。通常は、イエス・キリスト役は司祭(神父様)、ローマ帝国の総督ポンティオ・ピラト役は信徒から1人、群集役は信徒全員、語り手は信徒から1人ですが、コロナ渦以後は朗読文(聖句)はそのままで、役は司祭と朗読担当者(信徒)で行われると思います。悲しくも感激のある朗読となります。その後に、「盛式共同祈願」があり、10ある祈願文からいくつかを祈願します。
そして、第二部として「十字架の礼拝」が行われます。司祭(神父様)が「見よ!キリストの十字架 世の救い」と言って、信徒が応唱します。これを3回繰り返します。そして、一人ずつ「十字架の礼拝(崇敬)」を行い、全員が礼拝が終わると(教会によっては、昨夜の聖木曜日「主の晩餐の夕べのミサ」で、安置所を移したご聖体が祭壇に戻される教会と明日戻す教会があります)聖体拝領が行われ、沈黙のうちに典礼は終わります。

<新約聖書の福音書の「磔刑(たっけい:十字架の刑)」の場面の記載>
次の4つの福音書の聖句は、『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から引用しています。
◯新約聖書:マタイによる福音書・第27章・第35~第38節
「兵士たちはイエスを十字架につけると、くじを引いてその衣を分け、そこに座って見張りをしていた。また、彼らはイエスの頭の上に、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きを掲げた。その後、二人の強盗が、一人は右に、一人は左に、イエスとともに十字架につけられた。」

◯新約聖書:マルコによる福音書・第15章・第22~第27節
「こうして、彼らはイエスをゴルゴタ――その意味は「髑髏(されこうべ)の場所」――という所へ連れて行った。そして、兵士たちは没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに飲ませようとした。イエスはお受けにならなかった。 それから、彼らはイエスを十字架につけた。そして、誰がどれを取るかをくじで決めて、その衣を分けた。さて、イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、兵士たちはイエスとともに二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。」

◯新約聖書:ルカによる福音書・第23章・第32~第33節
「ほかにも二人の犯罪者が、イエスとともに死刑に処されるために、引かれて行った。さて、「髑髏(されこうべ)」と呼ばれている所に着くと、兵士たちはイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人はイエスの右に、一人は左に十字架につけた。」

◯新約聖書:ヨハネによる福音書・第19章・第17~第19節
「イエスは、自ら十字架を担い、「髑髏(されこうべ)の場所」――ヘブライ語で「ゴルゴタ」という所へ向かって出て行かれた。その場所で。人々はイエスを十字架につけた。また、ほかの二人をも、イエスを真ん中にして、その右と左に一緒に十字架につけた。ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上につけさせた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。」
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「聖木曜日・主の過越しの晩餐の夕べのミサ」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日3月28日(木)は、「主の過越しの聖なる3日間」の初日「聖木曜日」です。私が所属するカトリック成城・聖タデオ教会では、19時から「主の過越しの晩餐(ばんさん)の夕べのミサ」が行われます。

キリスト教カトリック教会では、イエス・キリストの生涯における主なできごとを思い起こす(記念する)ことによって、イエス・キリストの " 救いの恵み " が私達に与えられるよう、全員が一致してお祈りします。イエス・キリストの「救いのみわざ」は、十字架への受難と死をとおして、復活された栄光の「主の過越し(死から生へ過越す)」にあります。このことから、これを「復活祭」として年に一度盛大に祝うようになりました。「降誕祭(クリスマス)」と共にキリスト教の最大にして最高の祭典となります。聖なる3日間は、今日3月28日の第1日目を「聖木曜日・主の過越しの晩餐の夕べのミサ」、明日3月29日の第2日目を「聖金曜日・主の受難」、明後日3月30日の第3日目を「聖土曜日:復活の主日・聖なる復活の徹夜祭」としています。そして3月31日の日曜日が「復活の主日・日中のミサ」となります。

<主の過越し>の由来
古代エジプトでアビブ(ニサン)の月に起こったとされる出来事が起源です。エジプトの地で奴隷になっていたイスラエルの民が、モーゼの先導でパレスチナの地に脱出した故事を記念するものです。ユダヤ人(イスラエルの民)にとっては重要な祭日となります。
イスラエル人は、エジプトに避難したヨセフの時代以降の長い期間の間に、奴隷として虐げられるようになっていました。神は、当時80歳になっていたモーセを民の指導者に任命して約束の地へと向かわせようとしますが、エジプトの王であるファラオがこれを妨害しようとします。そこで神は、エジプトに対して十の災いを臨ませ、その十番目の災いは、人間から家畜に至るまで、エジプトの「すべての初子(長子)を撃つ」というものでした。神は、戸口に印(家の玄関の鴨居と柱に子羊の血を塗る)のない家にその災いを臨ませることをモーセに伝える。つまり、この名称は、戸口に印のあった家にはその災厄が臨まなかった(過ぎ越された)ことに由来しています。旧約聖書の「出エジプト記」に記載されているとおりです。

◯旧約聖書:出エジプト記・第12章・第1~第8節、第11~第14節
「主はエジプトの地で、モーセとアロンに言われた。「この月はあなたがたの第一の月であり、一年の最初の月である。イスラエルの全会衆に告げなさい。『この月の十日に、祖父の家ごとに、すなわち家族ごとにそれぞれ自分たちのために小羊を一匹用意しなさい。もし、家族が小さくて小羊一匹に見合わないなら、隣の家族と共に、人数に合わせて、それぞれ食べる量に見合う小羊を選びなさい。あなたがたの小羊は欠陥のない一歳の雄の子羊でなければならず、羊か山羊の中から一匹を選ばなければならない。あなたはそれを、この月の十四日まで取り分けておき、夕暮れにイスラエルの会衆は皆集まってそれを屠る。そして、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。その夜のうちに肉を火で焼き、種なしパンに苦菜を添えて食べる。
それを食べるときは、腰に帯を締め、足にサンダルを履き、手に杖を持って、急いで食べなさい。これが主の過越である。その夜、わたしはエジプトの地を行き巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたがたがいる家の血は、あなたがたのしるしとなる。私はその血を見て、あなたがたのいる所を過ぎ越す。こうして、エジプトの地を打つとき、滅ぼす者の災いはあなたがたには及ばない。この日は、あなたがたの記念となる。あなたがたはこれを主の祭りとして祝い、とこしえの掟として代々にわたって祝いなさい。』」
『聖書協会共同訳聖書』から
◯次の絵は、有名なレオナルド・ダビンチの『最後の晩餐』です。イエス・キリストが、「この中に私を裏切ろうとしている者がいる。」と話された直後、12人の使徒(弟子)達が驚いている場面を画いています。絵が小さいので、クリックして大きくして見てください。
左側から顔(頭)順に、バルトロマイ、小ヤコブ、アンデレ、ユダ、ペトロ、ヨハネ、イエス・キリスト、トマス、大ヤコブ、フィリポ、マタイ、タデオ(タダイ)、シモン、です。このユダ(イスカリオテのユダ)がイエス・キリストを裏切ったのです。
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◇聖木曜日「主の過ぎ超し晩餐の夕べのミサ」
最後の晩餐を記念するものとして、教会の全員が一つのミサに預かり、一致の秘跡であるミサの制定(最後の晩餐で、イエス・キリストが使徒達に聖餐(ミサ〉の仕方を教えられました。)が記念されます。
また、晩餐の前にイエス・キリストが使徒達の足を洗ったことから、「洗足式(せんぞくしき)」も行われます。通常はミサの中で、実際に司祭(神父様)が、何人かの信徒の足を洗います。2020年からの3年間はコロナ渦でしたので、洗足式を中止した教会は多かったのではないでしょうか。今年は、どの教会も行いますね。
イエス・キリストは、十字架に架かる前夜に行われた「最後の晩餐」にのぞむ前に、12人の使徒(弟子)一人ひとりの足を洗いました。それは、死を覚悟したイエス・キリスト自らが、弟子達の足を洗うという奉仕を行うことで、弟子達にこれからも人に使える僕(しもべ)のようになるように、お互いの足を洗い合うようにお互いに愛し合うように(平和に暮らすように)、ということを含めて清めを行ったのですね。

<新約聖書の福音書にある「最後の晩餐」の記載>
◯新約聖書:マタイによる福音書・第26章・第20~第29節
「さて、夕方になると、イエスは十二人の弟子とともに食卓に着かれた。一同が食事をしていると、イエスは仰せになった。「あなた方によく言っておく。あなた方の一人が、わたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは深く心を痛め、「主よ、まさかわたしではないでしょう」と口々に言い始めた。イエスは答えて仰せになった。「わたしと一緒に鉢に手を浸した者がわたしを裏切る。まことに、人の子は、自分について書き記されているとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、不幸である。その人はむしろ生まれなかったほうがよかったであろう」。すると、裏切り者のユダが口を挟んで、「先生、まさかわたしではないでしょう」と言うと、イエスは仰せになった。「いや、そうだ」。さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美をささげて、それを裂き、弟子たちに与えて仰せになった。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また杯を取り、感謝をささげ、彼らに与えて仰せになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、罪の赦しのために、多くの人のために流される、わたしの血である。あなた方に言っておく。わたしの父の国で、あなた方とともに新たに飲むその日まで、今から後、ぶどうの実から造ったものを、決して飲まないであろう。」 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけていった。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

◯新約聖書:マルコによる福音書・第14章・第17~第25節
「さて、夕方になると、イエスは十二人とともに来られた。一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは仰せになった、「あなた方によく言っておく。あなたがたのうちの一人で、わたしとともに食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは深く心を痛め、「まさかわたしではないでしょう」と口々に言い出した。そこで、イエスは仰せになった。「十二人の一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者が、それである。人の子は、まことに書き記されているとおりに、人の子は去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は不幸である。むしろその人は、生まれなかったほうがよかったであろう。」
さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美をささげ、これを裂き、弟子たちに与えて仰せになった、「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝をささげて、彼らにお与えになった。彼らはみな、その杯から飲んだ。すると、イエスは仰せになった、「これはわたしの血、多くの人のために流される契約の血である。あなた方によく言っておく。神の国で新しいぶどう酒を飲むその日まで、私は二度とぶどうの実からできたものを飲むことはない。」そして、一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

◯新約聖書:ルカによる福音書・第22章・第14~第23節
「さて、時刻になると、イエスは席に着かれ、使徒たちとともに席に着いた。イエスは仰せになった。「わたしは苦しみを受ける前に、あなた方とともに、この過越の食事をすることを切に望んでいた。あなたがたに言っておくが、神の国で過越が成就するまでは、もう二度と過越の食事をとることはない。」そして、イエスは杯を取り、感謝をささげて仰せになった。「これを取って、あなた方の間で回して飲みなさい。あなた方に言っておく。今から後、神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、決して飲まない。」
それから、イエスはパンを取り、感謝をささげて、それを裂き、使徒たちに与えて仰せになった。「これは、あなた方のために与えられる、わたしの体である。わたしの記念として行いなさい。」食事を終えると、杯も同じようにして仰せになった。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約である」。「しかし、見なさい。わたしを裏切る者が、わたしとともに食卓に手を置いている。人の子は定められたとおり去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は不幸である。」すると、彼らは、いったい自分たちの中の誰が、そんなことをしようとしているのかと、互いに議論をし始めた。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

<新約聖書の福音書にある「洗足」の記載>
◯新約聖書:ヨハネによる福音書・第13章・第4~第15節
「イエスは食事の席を立って、上衣を脱ぎ、手ぬぐいを取って身に着けられた。それから、たらいに水をくんで、弟子たちの足を洗っては、身に着けていた布で拭き始められた。(中略)さて、イエスは弟子たちの足を洗い終わり、上衣を着て再び食事の席に着くと、仰せになった。「わたしがあなた方に対して行ったことが分かるか。あなた方は、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。そのとおりだからである。それで、主であり、先生であるこのわたしが、あなた方の足を洗ったからあには、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなた方に対して行ったとおりに、あなた方も行うようにと、模範を示したのである。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

<マメ知識>
洗足学園音楽大学(前身は「平塚裁縫女学校」)の創立者である前田若尾女史は、この新約聖書のヨハネによる福音書の聖句から、学校名を「洗足」と名付けられたそうです。同校の校歌に「たがいに足を洗えとのりし、み教え守るここの学びや」とあります。洗足学園音楽大学は、キリスト教系の学校(ミッション・スクール)ではありませんが、創立者の前田若尾女史がキリスト教プロテスタント教会の敬虔なクリスチャンであったことから聖書の聖句を採用されたのですね。ちなみに、ドラマ・映画『のだめカンタービレ』の撮影場所になった大学です!
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「聖週間」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日3月23日(土)の夕刻から「聖週間」が始まります。今夜から明日は「受難の主日(枝の主日)」です。キリスト教会において「降誕祭(クリスマス)」と並んで最も重要な「復活祭(イースター)」前の「聖週間」が始まり、3月31日(日)の「復活祭(復活の主日)」の前日までの一週間を「聖週間(せいしゅうかん)」といいます。また「受難週(じゅなんしゅう)」ともいいますが、この受難とは、イエス・キリストが十字架で磔刑(たっけい:十字架のはりつけの刑)されたことをいいます。
今夜3月23日(土)から明日の3月24日(日)は「受難の主日=枝の主日(えだのしゅじつ)」で、月曜日からは次のようになります。
3月25日(月)は「受難の月曜日」
3月26日(火)は「受難の火曜日」
3月27日(水)は「受難の水曜日」
3月28日(木)は「聖木曜日・主の晩餐の夕べのミサ」
3月29日(金)は「聖金曜日・主の受難の祭儀」・「過ぎ越しの聖なる断食(大斎・小斎)」
3月30日(土)は「聖土曜日」・夜から「復活の主日(復活祭)・復活の聖なる徹夜祭」です。通常はこの復活の聖なる徹夜祭で「入信式(洗礼式)」が行われます。28日(木)からは最も重要な「聖なる三日間」となります。
3月31日(日)は「復活の主日(復活祭)・日中のミサ」です。

◇受難の主日=枝の主日(えだのしゅじつ:「棕梠(シュロ)の主日」ともいいます)
聖週間の初日となる「受難の主日=枝の主日」は、キリスト教カトリック教会では祝日で、復活祭の一週間前の日曜日に当たります。この祝日は、イエス・キリストが子ろばに乗り、エルサレムに入城した時を記念するものです。新約聖書の「ヨハネによる福音書」では、エルサレムに来たイエス・キリストを、イエス・キリストの通る道で棕梠(シュロ)の木の枝を振ったり道に敷きつめたりして、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」と叫び喜び迎えました。

このイエス・キリストがエルサレムに入城した時の、その群衆の様子をミサの中で思い起こすため、皆さんは聖歌を歌いながら、棕梠(シュロ)の枝をもって神父様から祝別(祝福)のため、聖水をかけてもらいます。その日が今夜と今日のミサとなります。祝福(祝福)を受けた枝はもらって帰り、来年の「灰の水曜日」の前に、灰を作るために教会で集めるまで家の中に飾っておきます。
また、この日の典礼の最大の特徴は、司祭(神父様)と複数の朗読者、さらには会衆(=信徒)全員の参加による「イエスの受難の朗読」が行われることです。朗読は今年は典礼の聖書朗読配分がA年ですので、『マタイによる福音書』の第27章・第11〜第54節からとられています。多くの教会では、イエス・キリスト役は司祭(神父様)、ローマ帝国のシリア州総督であったポンティオ・ピラト役は信徒から1人、群集役は会衆全員で語り手は信徒から1人です。悲しくも感激のある朗読となります。

◯ピーテル・パウル・ルーベンス作の「キリストのエルサレム入城」で 1632年の作品です。シュロの葉を手にしてイエス様に振ってますね。フランス最古の美術館の一つである「ディジョン美術館」蔵です。
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〈入城の福音〉
今年のミサにおける聖書朗読配分が「B年」となっていますから、次の『マタイによる福音書』が朗読されます。ミサでは、司祭と十字架を先頭にして、会衆(信徒)が行列して聖堂に入ります。
◯新約聖書:マタイによる福音書・第21章・第1~第11節
「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山に面したベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、私のところに引いて来なさい。もし、誰かが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われたことが実現するためであった。
「シオンの娘に告げよ。
『見よ、あなたの王があなたのところに来る。
へりくだって、ろばに乗り、
荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に上着を掛けると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の上着を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。
主の名によって来られる方に
祝福があるように
いと高きところにホサナ。」
イエスがエルサレムに入られると、都中の人が、「一体、これはどういう人だ」と言って騒いだ。群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。」
『聖書協会共同訳聖書』から

◇聖木曜日「主の晩餐」(この日のミサは「主の晩餐の夕べのミサ」と言います。)
聖木曜日(せいもくようび)は、復活祭前の週の木曜日のこと。「洗足木曜日(せんぞくもくようび)」とも呼ばれます。聖木曜日からの三日間は特に尊重され、「聖なる三日間」と呼びます。イエス・キリストと使徒たちの「最後の晩餐(さいごのばんさん)」を記念する日であり、その席でイエスが(へりくだりの行いとして)弟子たちの足を洗ったという記述が福音書に見られるため、「洗足木曜日」という呼称が生まれました。また、カトリック教会ではこの日を「司祭職の制定の日」としており、司教が司祭たちに聖香油を渡す慣習があります。
◯新約聖書:コリントの信徒への手紙一・第11章・第23〜第26節
「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを献げてそれを裂き、言われました。『これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。』
食事の後、杯も同じようにして言われました。『この杯は、私の血による新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこれを行いなさい。』だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲む度に、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
『聖書協会共同訳聖書』から

◯新約聖書:ヨハネによる福音書・第13章・第1〜第15節 ※「洗足」
「過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。夕食のときであった。すでに悪魔は、シモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた。イエスは、父がすべてをご自分の手に委ねられたこと、また、ご自分が神のもとに帰ろうとしていることを悟り、夕食の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手拭いを取って腰に巻かれた。それから、たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手拭いで拭き始められた。(中略)こうしてイエスは弟子たちの足を洗うと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「私があなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ。そう言うのは正しい。私はそうである。それで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。」
『聖書協会共同訳聖書』から

◇聖金曜日「主の受難」
聖金曜日(せいきんようび)は、復活祭前の週の金曜日のこと。「主の受難日」とも呼ばれます。『ヨハネによる福音書:第18章・第1〜第19節・42節』にある記述をもとにイエスの受難を思い起こす特別な典礼や祈りが行われます。カトリック教会では聖金曜日には断食を行う習慣があます。断食といっても完全な絶食ではありませんが、「大斎(たいさい)」と「小斎(しょうさい)」を行います。「大斎・小斎」の説明は、このブログの「灰の水曜日のお話し・教会日記2024.2.14(カトリック成城・聖タデオ教会 灰の水曜日のミサ・灰の式 水曜日)」をお読みください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2024-02-14-3
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「恩寵(おんちょう)」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

恩寵については、このブログに何度か書きましたが、再び掲載いたします。
一般的にいうところの【恩寵(おんちょう)】とは、辞書には「神や君主の愛やめぐみ」とあります。キリスト教における恩寵(ラテン語: Gratia)とは、「神の人間に対する働きかけ」であり「神の人類に対する慈愛」を意味しています。恩恵、聖寵、神の恵み、恵みともいいます。

カトリック教会の教父(きょうふ)・教会博士の称号を持つ聖アウグスティヌスは、恩寵(神の恵み、恩恵)を強調したことから<恩恵の博士>と呼ばれています。「私たちは、どのようにして神を把握することが出来るだろうか。」という問題に、聖アウグスティヌスは、「神はその超越的な本性上、我々の地上的で不完全な思惟によっては把握され得ない。私たちは神の啓示によって、愛と信仰を通じて把握することができるのみであって、神についての知識は私たちには用意されていない。」と述べています。

では、その神が全てを創造されたとするならば、人間の罪深さや悪が存在するのはなぜなのか?聖アウグスティヌスは、自身を含めて人間の罪深さをよく感じており、自由に考え、選択する能力を原初の人間・アダムにのみ認めました。アダムは神より「罪を犯さないことができる」という自由を与えられていましたが、神の信頼に背いて原罪を犯し(神様から食べてはいけないと言われた木の実を食べたこと)、これによって人間は自由を失い、「罪を犯さざるをえない」という悪状態に陥ったと解釈しています。

このような私たち罪深い人間は、ただ神の恩寵によってのみ救われることができる存在であるということです。その恩寵は神が与える無償の愛ですが、誰が神の恩寵を受けて救われるかは神のご意志によってあらかじめ定められているという「予定説」を表明しています。また、神の恩寵は教会を通じてのみ預かることができるとし、このことによって教会に対する信仰の基盤が確立されたということです。しかし、現在のカトリック教会は、この聖アウグスティヌスの見解を「予定説」としては捉えていないそうです。

私は、神の恩寵というものは、まず「信仰をとおして神から得られるもの」であって、それは「信仰するすべての人間に与えられているもの」であると考えます。それを、人間が自ら<恩寵の外へ逸脱>すること、つまり神の慈しみや恵みというものから、自らが遠ざかることがあるということです。その多くは<誘惑>によって心にサタンが入り込み、恩寵の圏外に出てしまう = 悪を行って罪を犯してしまうのですね。神の恩寵は、恩寵の圏内にいる者 = 信仰と善き行いに励む者に恵まれるものと解釈しています。

さて、『アヴェ・マリアの祈り』では、その祈祷文(ラテン語)の冒頭部分に"Ave Maria,gratia plena" と「恩寵」を意味する"gratia" が入っており、以前にカトリック教会で唱えられていた文語訳の「天使祝詞」では、「聖寵(せいちょう)」と訳されていました。現在の口語訳では「恵み」と訳されています。
◯『アヴェ・マリアの祈り』
「アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
主はあなたとともにおられます。
あなたは女のうちで祝福され、
ご胎内の御子イエスも祝福されています。
神の母聖マリア、
わたしたち罪びとのために、
今も、死を迎える時も、お祈りください。
アーメン」

【教父】
教父とは、カトリック教会におけるキリスト教用語で、古代から中世初期、2世紀から8世紀ごろまでのキリスト教著述家のうち、特に正統信仰の著述を行い、自らも聖なる生涯を送ったと歴史の中で認められてきた人のことです。
【教会博士】
教会博士とは、カトリック教会におけるキリスト教用語で、聖人の中でも特に学識にすぐれ、信仰理解において偉大な業績を残した人に送られる称号のことです。
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「日本の信徒発見の聖母」と「プティジャン神父」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日3月17日は、「日本の信徒発見の聖母」の祝日です。
写真は、信徒発見に貢献したパリ外国宣教会のベルナール・プティジャン神父様です。
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ベルナール・プティジャン(フランス:1829年~1884年)は、カトリック教会の宣教師です。パリ外国宣教会会員として幕末の日本を訪れ、後半生を日本の布教にささげました。1865年、大浦天主堂での「隠れキリシタンの発見(信徒発見)」の歴史的瞬間に立ち会ったことで有名です。フランス生まれのプティジャン神父は、1854年に司祭に叙階され、1859年にパリ外国宣教会に入会して日本への布教を志しました。当時の日本はキリスト教を禁じている江戸時代であり、外国人の入国が困難であったため、とりあえず琉球に渡って那覇で日本語と日本文化を学びました。1862年(文久2年)、ついに横浜に上陸し、翌年長崎に移りました。

任務は長崎の大浦の居留地に住むフランス人の司牧ということでした。後にプティジャン神父は日仏通商条約にもとづき、長崎の西坂(日本二十六聖人の殉教地)を見ることができる丘の上に居留地に住むフランス人のために教会を建築する許可を得ました。こうして建てられたのが大浦天主堂です。プティジャン神父は1868年には日本代牧区司教に任命され、1873年(明治6年)にキリシタン禁制が解かれる(政府が黙認する)と、長崎を拠点にキリスト教布教や日本人信徒組織の整備と日本人司祭の養成、教理書や各種出版物の日本語訳に力を注ぎ、1884年(明治17年)に帰天(死去)し、大浦天主堂内に埋葬されました。

大浦天主堂は当時は珍しい洋風建築でしたので評判となり、近隣住民は「フランス寺」とか「南蛮寺」と呼び見物に訪れました。プティジャン神父は訪れる日本人に教会を開放し、自由に見学することを許しました。本来居留フランス人のために建てられた天主堂を、興味本位で訪れる日本人に対して解放し見学を許していたのには理由がありました。それは、長崎がキリスト教殉教者の土地であることから、密かに未だ信徒が潜んでいるのではないか、もしかすると訪れて来る日本人の中に信徒がいるのではないかというわずかながらの期待があったからなのです。プティジャン神父は、付近の村々を歩いて詮索していたそうです。

はたして1865年(元治2年)3月17日(旧暦2月20日)の午後、プティジャン神父が庭の手入れをしていると、やってきた15人ほどの男女が教会の扉の開け方がわからず難儀していました。彼が扉を開いて中に招き入れると一行は内部を見て回り、プティジャン神父が祭壇の前で祈っていると、一行の一人で杉本ゆりと名乗る中年の女性が彼のもとに近づき、「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ(私たちの信仰はあなたの信仰と同じです)」と。プティジャン神父は「本当ですか。どこから来たのですか。」と。女性は「私たちは皆浦上の者です。そこの殆どの者が同じ気持ちです。」と。答えた女性は直ぐに問いかけました。「サンタ・マリアの像はどこですか。」それを聴いたプティジャン神父 はその時もはや何の疑いもなく、キリシタンの子孫に向き合っているのだと確信したのでした。

◯大浦天主堂にある当時そのままの「信徒発見の聖母マリア像」です。私は、高校2年生の修学旅行で大浦天主堂を訪れた時に拝見いたしました!
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彼は全員を聖マリア像の前に案内はしました。あらためて皆が膝まずき一心に祈りました。彼らは心に満ちた喜びをもう抑えることができずこう言ったそうでう。「そうです、まさにこれが聖母マリアさまです。見てご覧、彼女の腕の中の神の子イエスさまを。」これがまた大きな確信となりました。浦上から来た彼らこそ280年近くの間、死の危険を犯してまでキリスト教の信仰を守っていた“潜伏キリシタン”といわれる人々でした。プティジャン神父は大いに驚き、大いに喜んだそうです。数年前に日本公開となった、遠藤周作原作・マーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙-サイレンス-』で画かれている迫害された人々の子孫です。あの人々の信念が結実した瞬間でした。なお、映画『沈黙-サイレンス-』のこは、このブログの2017年1月19日に掲載した「映画『沈黙-サイレンス-』のお話し」をお読みください。https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2017-01-29

プティジャン神父はこの仔細をヨーロッパへ書き送ったところ、ローマのバチカンをはじめ、ヨーロッパ中で大きなニュースとなりました。以後、続々と長崎各地で自分たちもキリシタンであるという人々が名乗り出てきました。プティジャン神父は、見学を装って訪れる日本人信者に対して秘密裏にミサや指導を行いました。しかし、堂々とキリスト教の信者であることを表明する者が現れたため、江戸幕府のキリスト教禁教政策を引き継いだ明治政府(日本政府)は、この状況を見過ごすことができず、江戸時代と同じように信徒を弾圧をし迫害することになりました。(これを「浦上四番崩れ」といいます。)

ところが、当時の日本の政府は、諸外国との不平等条約の解消に力を注いでいる最中でしたが、政府による一連の弾圧行為の情報が欧米諸国に伝わり、「キリスト教徒を弾圧するなど、そのような野蛮な日本とは対等な条約など結ぶことはできない!」ということで、これがキリスト教弾圧政策に圧力をかける結果に繋がりました。この諸外国の圧力に慌てた日本政府は、江戸時代より続いたキリスト教禁教政策を取りやめ、明治6年に全国にあったキリスト教禁教の「高札(こうさつ:市民に広報するため市中に立てられた掲示板)」を取り除き、やっとキリスト教の信仰が黙認される状況を作りました。その後、極めて限定的ですが、公式に信教の自由(キリスト教の信仰)が認められたのは、『大日本帝国憲法』が発布された明治22年(1889年)になってからのことです。しかし、真の意味において平等に信教の自由が認められたのは、『日本国憲法』が施行された昭和22年(1947年)からのことでした。
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「派遣の祝福」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

このブログに過去に掲載した記事を加筆して再掲載いたします。
記事の内容は信徒(クリスチャン)向けですので、信徒ではない一般の方はご興味があれば読んでくださいね。それでは、まず「派遣の祝福」が行われるミサの式次第を見てみましょう。ミサの最後のところで、ミサに与って(出席して)いる会衆(信徒)全員がご聖体を拝領した後、「拝領祈願」が行われ、続いて「閉祭の儀」が行われます。次のとおりの次第になります。

ご聖体を拝領した後からミサの終わりまでの次第
◯拝領祈願
典礼係:「立ちましょう。」
司 祭:「祈りましょう。」
※沈黙のうちに、しばらく祈ります。
司 祭:「(前文はその主日ごとにかわります。………わたしたちの主イエス・キリストによって。」
会 衆:「アーメン。」
◯閉祭の儀
お知らせ:必要な場合には、ここで短いお知らせが行われます。
典礼係:お知らせで座った場合「立ちましょう。」
司 祭:「派遣の祝福を行います。」
<派遣の祝福>
司 祭:「主は皆さんとともに。」
会 衆:「また、あなたとともに。」
司 祭:「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように。」
※司祭は、前述の式次第文を読みながら会衆に向けて十字架のしるしをして祝福します。
会 衆:「アーメン。」
<閉祭のあいさつ>
司祭「感謝の祭儀を終わります。行きましょう、主の福音を告げ知らせるために。」
会衆「神に感謝。」
<閉祭の歌>
※聖歌を歌いながら退堂する司祭を見送ります。
以上のとおりです。

拝領祈願が終わってから、教会行事などに係る短いお知らせの後、司祭は「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように。」と会衆に派遣の祝福を与え、会衆は「アーメン」と応えます。
続いて司祭は、「行きましょう、主の福音を告げ知らせるために。」という派遣の言葉をもってミサを結びます。「行きましょう。」と送り出しますが、これはラテン語では “Ite, missa est “ という、「行け!」という強い意味があります。ミサの中で、御言葉(みことば)と命のパン(ご聖体)によってイエス・キリストと結ばれた私たちは、この派遣の祝福によって、イエス・キリストによる “ 福音(救いの良き知らせ) ” を人々にもたらすために、信徒各々の生活する場に派遣されていきます。

以上のとおり、このミサ自体が福音宣教に派遣するという意味をもっているからですが、<派遣の祝福>は、つまり神様からの祝福です。イエス・キリストは、天に上げられる前に使徒(弟子)たちに福音宣教の使命を与えています。それは聖書にはっきりと書かれています。
◯マタイによる福音書:第28章・第19~第20節
「あなた方は行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け、わたしがあなた方に命じたことを、すべて守るように教えなさい。」
◯マルコによる福音書:第16章・第15節
「全世界に行き、造られたすべてのものに福音を宣べ伝えなさい。」
◯ルカによる福音書:第24章・第47節
「罪の赦しへ導く悔い改めが、エルサレムから始まり、すべての民に宣べ伝えられる。あなたがたはこれらのことの証人である。」
◯ヨハネによる福音書:第20章・第21節
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす。」

洗礼を受けた私たち信徒は、イエス・キリストの教えを直接受けた使徒をはじめ、現代の司祭や修道士と同じように福音を述べ伝える使命(ミッション)を担っています。不幸な境遇にある人々、病に苦しむ人々、貧困にあえぐ人々に、信徒(クリスチャン)は、聖書にある福音書に書かれた聖句(イエス・キリストの言葉)を告げ知らせることによって癒しと希望をもたらすことができるのですね。

ルカによる福音書の第10章・第4節に「あなた方は財布も袋、また履き物も携えてはならない。」とおっしゃられ、使徒(弟子)たちを派遣される際の主の御言葉は “ 神のみを頼りにしなさい ” という派遣の原点となるものでした。私たちは、生活の場である家庭、生活の糧を得る職場において、あるいはボランティアなどの社会活動において、自分にできる言葉と善き行いをもって伝えるのです。

とは言っても、では具体的にどうするの?ということですよね。それは上記に書いた「自分にできる言葉と善き行いをもって、イエス・キリストの教えを伝えること。」ということに尽きます。それが福音を述べ伝えることになります。でも、突如として聖書の福音書に書かれている「殺すなかれ、盗むなかれ、姦淫するなかれ。」と話したところで、なかなか聞いてもらえないですよね……( ̄▽ ̄;)

………というより、私の場合は、ただでさえ怪しいおじさんと思われているのに、ますます怪しいおじさんになってしまいますね( ̄▽ ̄;) 話すのは簡単ですが、これを聞いて理解して実践してもらうには、相手との話す機会というか間合いを考えるとか、もっと優しい言葉に言い換えるとか、何かの話しに混ぜて話すなどの工夫も必要になりますよね。一方的な押し付け話しはまったくダメですぞ!

これは私の職場での経験ですが、同僚から「あいつは絶対に赦さない!」という怒りに満ちた言葉がありました。そこで私は「今まで生きてきて、赦してもらいたいと思ったことの一つや二つはあったよね。これからも赦してもらいたいと思うことは必ずありますよ。だったら今、その人を赦すべきではないですか。」と諭しました。これはイエス・キリストの「赦し」の教えですね。イエス・キリストの教えを伝えることが、なによりも立派な宣教となることを改めて認識した機会でした。

そして、善き行いを自ら実行してまわりの人に影響を与え、善き行いをする仲間を増やすことも大切なことですね。ホームレスなど困っている人を助けるボランティアに参加するとか、困っている人を救済するための支援募金をするなど、日常において実践することです。もっと簡単なことでは、高齢者が横断歩道を渡ろうとしていたら、手を差し伸べて一緒に渡るとか、階段の下で難儀をしている人の荷物を持ってあげるとか、ちょっとした親切 = 愛も福音につながるのではないでしょうか。

また、人 = 隣人のために祈ることは福音に通じることです。人のために祈ることはイエス・キリストが説いておられる「隣人への愛」となります。これは大切なことですね。弛まず祈ることは、私たち信徒にとって当たり前の日々の務めですが、自分のためでなく、救いを求めている人たち、困っている弱い立場の人たちのために祈ることは、これも福音の述べ伝えることに通じるものがあります。
私は、毎日朝夕に。
「慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私たちの主イエス・キリストによって。アーメン」
とお祈りしています。

ちなみに、私が福音宣教活動の一環としているのは、福音宣教の方法を世界に発信できるインターネットという形態を使い、ブログというツールで福音宣教活動をしています。このブログに聖書にあるイエス・キリストの聖句、偉人の名言、世の中の格言、お祈りの祈祷文、キリスト教に関連する話しなどを掲載することが、福音を述べ伝える宣教方法の一つとなっています。ただし、絶対に間違ってはいけないのは、福音の宣教であって信徒の勧誘ではありません。宣教 = 勧誘ではありません!どこかの新興宗教団体の勧誘のようではいけないのです。
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