新約聖書:マタイによる福音書・第6章・第1〜第6節 [聖書]

「人々の前で自分の善い行いを見せびらかさないように気をつけなさい。さもないと、天におられるあなた方の父のもとで、報いを受けることはできない。だから、施しをする時には、偽善者たちが人から称賛されようとして、会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。あなた方によく言っておく。彼らはすでに報いを受けている。あなたが施しをする時には右の手のすることを左の手に知らせてはならない。これは、あなたの施しを隠しておくためである。そうすれば隠れたことをご覧になるあなたの父が報いてくださる。
また、あなた方は祈る時、偽善者のようであってはならない。彼らは人に見せびらかすために、会堂や街角に立って祈るのを好む。あなたがたによく言っておく。彼らはすでに報いを受けている。あなたは祈る時は、奥の部屋に入って入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた行いをご覧になるあなたの父が報いてくださる。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

ここに記載のある「天の父」又は「父」とは、イエス・キリストの父なる神様のことを指します。この聖句(イエス・キリストの言葉・聖書の言葉)の教えは、①愛の行いと②祈りのについての正しい行い方です。
この聖句を解釈しますと、「善い行いやお祈りは、人々の前で “ いかにも私は善い行いをしていますよ!熱心にお祈りしていますよ!” と見せびらかすようであってはいけない。善い行いやお祈りは、誰にも見られずに気づかれずに行いなさい。そうすれば、神様は見ておられ、必ずや報いてくださる(善いことがある報い・天国に迎えてくれるという報い)。そうではない偽善者のような人達は、現世においてすでに報いを受けているため、将来において救いを期待できない、あるいは救われないという解釈になります。

そこで、「右の手のするところを左の手に知らせない」ですが、右手も左手も身体の左右にあります。これは両手で一対ですね。身体の両側にあっても身近にあるわけです。両方の手で握ることもできるわけです。でも、知るとか知らないとか、手に意識があるわけではありませんね。ですから、それほど近い両手であっても右手(自分)のすることは、左手(他人)に知られないようにすること。つまりこの表現は譬え(たとえ)話しで、「善い行いもお祈りも他人に知ってもらおうと思わないこと。他人に知られないように行いなさい。人に知られないことを秘めた喜びとしなさい。」ということです。偽善者は絶対にダメですよ!
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。