今日の日記2023.4.30(抗原検査:陰性) [日記]

土曜日のお昼頃からから発熱し、最高37度4分出ています。新型コロナの疑いも考えられるため、抗原検査を昨日と今日の2回しましたが結果は陰性でした。よかったです(⌒-⌒; ) ただ、微熱がなかなか下がらないため、身体がダルいですね。しかし、食欲は旺盛です!
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「世界召命祈願の日」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日は、復活節第四主日です。1964年、時の教皇パウロ6世は、復活節第四主日を「世界召命祈願の日」と定められました。
「召命(しょうめい)」という言葉を聞くと、まず司祭(神父様)や修道士のことが浮かびますね。しかし、神様は、私達信徒を含めて一人ひとりを固有の召命に招いておられます。ですから、一人ひとりは自分に対する神の招きを識別していく必要があります。一人ひとりにその道があるのです。ある人は与えられた仕事をとおして、ある人は社会活動をとおして、ある人は家庭生活の中で、またある人は定められた特別な使命の道などで。
ですから、すべての人が神様から招かれているという根本的なことを忘れないようにしたいものですね。そのためにも、一人ひとりの心に語りかける神様の声に耳を傾け、その声に従う勇気を祈り求めることが大切になってくると思います。とにかく祈りです。祈りをとおして神様の声を聴くのです。

◯2023年「第60回世界召命祈願の日」教皇メッセージ(2023年4月30日)をお読みください。
テーマ『召命――それは恵みであり使命』
カトリック中央協議会ホームページから
https://www.cbcj.catholic.jp/2023/04/28/27017/
☆ここ5年間のテーマです。
2022年:「人類家族を築くよう呼ばれている」
2021年:「聖ヨセフ──召命の夢」
2020年:「召命についての語」
2019年:「神との約束のために危険を顧みない勇気」
2018年:「主の呼びかけを聞き、識別し、生きる」
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2023年4月の訪問教会・支援活動記録 [訪問教会・支援活動記録]

先月中旬から、ミサにおけるマスクの着用が自由になっており、聖歌隊もマスクの着用は自由です。しかし、今一つマスクを外す勇気がないというか、皆さん周りのお顔を伺っているという感じですね。早く、ミサの聖歌は聖歌隊はもちろんのこと、会衆全員で歌いたものです。今月は30日間ある中の29日間(96.6%)を6つの教会・修道院に30回訪問し、30回ミサに与って30回ご聖体を拝領させていただきました。なお、ホームレス支援活動は1回参加しました。

ところで、今年に入って1月30日から昨日4月29日まで、90日間連続してミサに与っていたのですが、体調不良により今日のミサをお休みしました。連続記録が途切れてしまいました(T . T) なにも連続してミサに与ることが目的ではありませんが、主イエス・キリストのご聖体を連続して拝領できなくなり、残念の極みであります。7月で65歳を迎えます。昨日の胸部の激痛のこともあり、無理の効かない体になりました。今日は、ベッドの上で大人しくしています(⌒-⌒; )

1日(土)町田教会:受難の主日・枝の主日のミサ・18時30分から(林神父・小田神父信徒代表挨拶)
2日(日)神奈川県相模原市・相模原教会:受難の主日・枝の主日のミサ・9時30分から
3日(月)成城教会:受難の月曜日のミサ・7から
4日(火)成城教会②:受難の火曜日のミサ・7時から
5日(水)成城教会③:受難の水曜日のミサ・7時から
6日(木)神奈川県相模原市・相模原教会②:主の過越しの聖なる3日間・聖木曜日・主の晩餐
のミサ・19時から
7日(金)成城教会④:聖金曜日・主の受難のミサ・19時から(聖歌奉仕・18時から聖歌練習)
8日(土)町田教会②:復活の主日・復活の聖なる徹夜祭のミサ・19時から(成城教会で16時
から9日の聖歌練習)
9日(日)成城教会⑤:復活第一主日・日中のミサ・10時から(聖歌奉仕・8時から聖歌個人
練習、9時から聖歌隊練習、11時~12時30分聖歌隊全体練習(欠席))(1月30日から連続70日)
10日(月)成城教会⑥:復活の月曜日のミサ・7時から
11日(火)成城教会⑦:復活の火曜日のミサ・7時から
12日(水)成城教会⑧:復活の水曜日のミサ・7時から(朗読奉仕代行)
13日(木)成城教会⑨:復活の木曜日のミサ・7時から
14日(金)成城教会⑩:復活の金曜日のミサ・7時から(先唱奉仕)
15日(土)神奈川県相模原市・相模原教会③:復活の土曜日のミサ・7時から
16日(日)神奈川県相模原市・相模原教会④:神のいつくしみの主日のミサ(復活節第二主日のミサ)・7時から(朗読奉仕)
17日(月)成城教会⑪:復活節第二月曜日のミサ・7時から(朗読奉仕)
18日(火)成城教会⑫:復活節第二火曜日のミサ・7時から
19日(水)成城教会⑬:復活節第二水曜日のミサ・7時から(1月30日から連続80日)
20日(木)成城教会⑭:復活節第二木曜日のミサ・7時から
  〃  支援活動:山谷夜回りの会・19時30分から
21日(金)成城教会⑮・復活節第二金曜日のミサ・7時から(先唱奉仕)
22日(土)松原教会:復活節第二土曜日のミサ・7時から(朗読奉仕)
  〃  「蟻の街」跡地訪問(隅田公園)9時30分から
  〃  麹町・聖イグナチオ教会:復活節第二土曜日のミサ・正午12時から
  〃  ゼノ修道士お墓参り(カトリック府中墓地)14時から
  〃  北原怜子さんお墓参り(多磨霊園)15時30分から
23日(日)八王子教会:復活節第三主日のミサ・7時から
24日(月)成城教会⑯:復活節第三月曜日のミサ・7時から
25日(火)成城教会⑰:聖マルコ福音記者の祝日のミサ(復活節第三火曜日のミサ)・7時から(朗読奉仕代行)
26日(水)成城教会⑱:復活節第三水曜日のミサ・7時から
27日(木)成城教会⑲:復活節第三木曜日のミサ・7時から
28日(金)成城教会⑳:復活節第三金曜日のミサ・7時から(先唱奉仕)
29日(土)神奈川県相模原市・相模原教会⑤:シエナの聖カタリナおとめ教会博士の記念日のミサ(復活節第三土曜日のミサ)・7時から(1月30日から連続90日)
30日(日)………
以上です。
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新約聖書:ローマの人々への手紙・第13章・第13〜第14節 [聖書]

「酒盛りで大騒ぎをしたり、酔いつぶれたり、みだらな行いに耽ったり、身を持ち崩したり、争ったり、妬んだりすることなく、日中を歩くように、慎み深く生活しましょう。主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望をかなえさせようと、肉のために心を煩わせてはなりません。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖句(聖書の言葉)は、死後に聖人に列せられ、「教父(きょうふ)」と「教会博士」という称号を贈られた聖アウグスティヌスが洗礼を受ける要因となった聖書の部分です。洗礼を受ける前年の386年、ミラノの自宅で横たわって休んでいる時、隣家の庭で子ども達の遊ぶ声の中から「Tolle, lege(とって読め)」という声を聞き、近くにあった聖書を取ると、この部分が書かれているページが開かれており、そこを読んで回心したそうです。聖アウグスティヌスは、若いころ放蕩の限りを尽くし、ある女性と同棲して乱れた生活を送っていました。私は、恐れ多くも「アウグスティヌス」を洗礼名にしてしまいました!( ̄▽ ̄;)

欲望のままに生きることなく、人への邪な思いや余計な思いを捨て、主であるイエス・キリストの教えにしたがって生きなさいと説いています。ここに「肉」とありますが、これは「身体(からだ)」のことを指していますが、つまり、“肉欲(にくよく)=性欲”のことを意味しています。性的欲望・異性への邪な情欲などに負けてはならないのです。これは信仰においてとても大切なことなのです。
私のような凡人にとっては、「欲の誘惑」は生きている証(あかし)であり課題ですね。欲が過ぎれば心が乱れ、言動や行動が乱れ、生活が乱れ、やがて人間がダメになってしまいます。仏教では「煩悩(ぼんのう)」の一つです。欲の誘惑=煩悩ですね。この煩悩を断ち切ることが、主であるイエス・キリストを身にまとうこと = イエス・キリストの教え・行いと一致することになるのですね。

話しは変わりますが、戦国時代、織田信長と徳川家康の連合軍は、「長篠の戦い」において、当時最強といわれた武田勝頼の騎馬軍団を破ります。その後、織田信長の軍勢は武田家の居城のある甲斐の国(現在の山梨県)に攻め入り、武田家を滅ぼしてしまうのですが、その際に武田家の菩提寺である恵林寺(臨済宗妙心寺派)に火を放ちました。燃え盛る恵林寺の楼上で快川紹喜(かいせん しょうき)和尚は、若い修行僧に次の句をもって励まし焼死しました。私は、居合道の修行に励んでいた時に学びました。

原文
「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」
書き下し文(読み下し文)
「安禅必ずしも山水を須いず。心頭を滅却すれば、火も自ら涼し」
(あんぜん かならずしも さんすいをもちいず。しんとうを めっきゃくすれば、ひもおのずからすずし)」

この句は、中国の6世紀の後梁(こうりょう)の時代の詩人に、杜筍鶴(と じゅんかく)という人がいますが、その詩の「夏日、悟空上人の院に題す」というのが元の句です。
「三伏門を閉ざして、一納を披す。
兼ねて松竹の房廊を蔭う無し。
安禅必ずしも山水を須いず、
心頭を滅却すれば、火も自ら涼し。」
<意訳>
夏の暑いまっさかりに、悟空上人という方は相変わらず一枚の破れ衣をキチンと身に着けて坐禅をしておられます。しかも炎熱を避ける一株の松も一本の竹もない、まったくの炎天下と同様です。この方を見ていると、坐禅をするのに静かな山中か水辺に居を求める必要はなさそうです。上人のように心頭を滅却し寒熱を超越された方は、暑さに心を煩わされることもなく、炎熱もまた楽しといった様子です。

この後半部分を快川紹喜和尚は用いたのです。
「心頭」とは、物事にこだわる分別執着の頭での考え、心での思いのことで、すなわち煩悩のことです。「滅却」とは、その心に煩わされたり、乱されたりすることを断ち切ることです。すなわち、分別執着心を断ち切って無心に徹すれば、雑音も熱さも無関係です。自分を焼き尽くす猛火の熱さ、恐ろしさに、振りまわされない自分をしっかりと確立しさえすれば、「火も自ずから涼し」ということになるのです。火は熱いものです。熱さに変わりありません。しかし、熱さをそのままに熱さとして受け取る静かな澄みきった境地を、「涼し」と表現しているのです。ものすごい極地、境地に達する言葉ですが、まさにこの境地を目指さないと煩悩は消えないですね。欲望の誘惑は、私の生涯の自戒とするところです。

【肉欲】
異性の肉体を求める性的欲望。性欲。情欲。「―におぼれる」
【煩悩】
仏教で、心身を悩まし、乱し、煩わせ、惑わし、汚す心の作用のこと。人間の苦の原因とされる。煩悩の根源は貪(とん)・瞋(しん)・痴の三惑で、それに慢・疑・悪見の三つを加えて根本煩悩ともいう。
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「関西弁講座・続編」のお話し [今日の言葉(詩・その他)]

このブログの2016年6月16日に「今日の日記2016.6.16 関西弁」を掲載して随分年月が経ちましたが、約7年ぶりに「関西弁講座・続編」を掲載いたします。
三重県四日市市生まれの私は、方言としては「伊勢弁」で、お隣の愛知県の「尾張弁(名古屋弁)」や「三河弁」の影響は受けていません。伊勢弁は完全に関西弁系の言葉で、ゆったりとした話し方が特徴ですね。例えば、「そうやに~。(そうですね。)」、「あかんわな~。(いけないですね。)」といった、語尾に「に」や「な」が付きます。三重県四日市市生まれといっても、大学進学で東京に来るまでですから、18歳までしかいませんでした。まったく関係ありませんが、ちなみに、尾張弁(名古屋弁)で、「この海老フライは美味し過ぎる。」は、「このえびふりぁあ、うまぁていかんわ。」と言います………が、現在ではあまり使われていないようですね。

そこで、久しぶりに「関西弁講座・続編」を掲載いたします。ただ、関西弁と一言で言っても、同じ関西圏でも大阪、京都、神戸などでは、微妙に違いがあります。例えば、標準語で「何をしているんですか?」は、次のようになります。
大阪では「なにしてん?」
京都では「なにしてはる?」
神戸では「なにしとぉ?」となります。
………ということで、このブログ記事では大阪で使われている言葉を中心にして掲載いたします。関西ご出身の方!監修をお願いいたします!しかし、よく考えてみると、三重県四日市市にいたのは18歳までで、18年間しか関西弁を使っていないわけです。あとの46年間は東京で生活をしているのです。こんな私に関西弁を語る資格があるのかと。まぁ、いいか( ̄▽ ̄;)

「あかん」
標準語:①いけない。②ダメ。
使用例
「食べたらあかん。」:食べてはいけません。
「そんなことしたらあかん。」:そのようなことをしてはいけません。

「あかんたれ」
標準語:①根性なし。②ダメなやつ。
使用例
「あかんたれやな~。」:ダメな人ですね〜。

「あて」※わて
標準語:①私、②自分
使用例
「これ、あてのもんです。」:これは、私のものです。

「あほくさ」
標準語:あほみたい。
使用例
「こんなあほくさいことやってられんわ。」:このようなアホみたいなこと、やっていられません。

「いける」
標準語:①大丈夫、②決まってる。
使用例:
①「おい、いけるか?しっかりせい。」:おい。大丈夫ですか?しっかりしなさい。
②「その服いけてるで~。」:その服、決まってるね。

「いてこます」
標準語:(こてんぱんに)やっつける。
使用例
「しょうもないこと言うてたら、いてこますぞ!」:つまらないことを言ってたら、やっつけますよ。

「いぬ(いね)」※「犬」ではない。
標準語:去る。
使用例
「はよ、いね!」:早く、行きなさい。

「いわす」
標準語:①痛める。②痛めつける。
使用例
①「重いもん持って腰いわしたわ。」:重いものを持って、腰をいためてしまいました。
②「てめぇ、いわしたろか!」:君、痛めてつけてあげようか!( ̄▽ ̄;)

「うち」
標準語:私
使用例
「うち、はよう行くわ。」:私、早く行きます。

「ええ」
標準語:①いい。②よい。
使用例
①「ええ気持ちや。」:いい気持ちです。
②「それでええ。」:それでよいです。

「えらい」※大学入学直後、大変な思いをした言葉です。部活で先輩に”今日は、私は疲れました。”というのを「今日は、私はえらいですわ~。」と言ったら、「お前のどこが偉いの?バカか!」と一発頂戴しました。
標準語:①大変、②すごい、③疲れる。
使用例
①「えらいこっちゃあ!」:大変だ!
②「ああ、えらいわ~(ああ、しんどいなあ。):ああ、疲れるるな~。

「えげつない」
標準語:とんでもなくひどい。
使用例
①「えげつないにおいやな~。」:とんでもないにおいですね。
②「あいつえげつないやっちゃ!」:あの人、とんでもなくひどい人です。

「おおきに」
標準語:ありがとう。
使用例
「えらいお世話になっておおきに。」:大変お世話になりありがとうございました。

「おばんです」
標準語:こんばんは。
使用例
「おばんです。だれかおりまっか?」:こんばんは。どなたかいらっしゃいますか?

「おます」
標準語:①ございます。②あります。
使用例
①「明けまして、おめでとうでおます。」:明けまして、おめでとうございます。
②「そこに座布団がおます」:そこに座布団があります。

「おもろい」
標準語:①おもしろい。(おもしろくないときは「おもろない」又は「おもんない」)
使用例
「あの映画は、おもろいな~。」:あの映画は、おもしろいですね~。

「あほ」※大阪では日常的に使われる褒め言葉!的なあつかい?関西では「あほ」は日常的に使われていますので、「あほ」と言われて怒る人は、ほぼ誰もいません。しかし、「バカ」は関西では通用しません。ちなみに大阪で、「あほ」の代わりに「バカ」を使ってみてください。必ず相手の顔色が変わり、最低でも一発は食らうことになります( ̄▽ ̄;) 逆に関東は全く反対になります。関東では「あほ」は通用しません!
標準語:アホ。
使用例
①「あほか!」※相手がしょもないことを言ったら、すばやく突っ込むために使う。
②「あんた、あほちゃうか~。」:あなた、アホではないですか。

◯その他、簡単にご紹介いたします!
こんにちは → まいど
本当 → ほんま
ダメ → あかん
そうだね → せやで
すごい → めっちゃ・ばり
むずかしい → むずい
本当 → ホンマ
早く→ はよ
ちがう → ちゃう
なんで → なんでやねん
さようなら → さいなら・ほな
とても → めっちゃ
構わない → かまへん
自転車 → ちゃり
とりあえず以上です( ̄▽ ̄;)
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教会日記2023.4.29(カトリック相模原教会「シエナの聖カタリナおとめ教会博士の記念日のミサ(復活節第三土曜日のミサ)」土曜日) [教会日記]

今朝は、カトリック相模原教会での7時からの「シエナの聖カタリナおとめ教会博士の記念日のミサ(復活節第三土曜日のミサ)」に与りました。相模原教会は約2週間ぶりとなり、そして、今日で1月30日から、なんと!90日連続してミサに与ったことになりました。
今日は、これからいろいいろと予定があったのですが、昨日の胸の痛みのことがありますので、全てキャンセルして自宅で静養することにしました。これからは食事制限が始まりますね~!( ̄▽ ̄;) 好きなものが食べれなくなる!今日も清々しい朝を迎えています!

ミサでは、シエナの聖カタリナおとめ教会博士の記念日をお祝いしてお祈りしました。
そして、まず主を讃えるお祈りを唱えました。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈り、
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」

次に、主により頼む祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈り、

そして、主に派遣の祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈り、

終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
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「シエナの聖カタリナおとめ教会博士」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日4月29日は、シエナの聖カタリナ(又はシエナのカテリーナ: 1347年~1380年)の記念日です。
彼女はドミニコ会第三会員の在俗修道女(尼僧)です。本名はカテリーナ・ベニンカーサといい、裕福な家庭の出身でした。14世紀は、教会内の分裂、ペストの流行、教皇のローマからアヴィニョンへの退去などで混乱していましたが、彼女はペスト患者や貧しい人々、刑務所にいる人々のために献身的に働き、また、手紙や著書をもって教会と国家のあいだの困難な問題、特に教皇のローマ帰還、ドミニコ会の改革のために貢献しました。
カトリック教会、福音主義ルーテル教会、聖公会で聖人。記念日は4月29日です。シエナの聖カタリナの象徴として、ユリの花、本、十字架像、心臓、茨の冠、聖痕、指輪、バラの花、骸骨、教会の小模型、教皇庁の紋章を掲げた船の小模型が用いられます。身体に現れる有形の病、火事に対する守護聖人。イタリアでは、流産、看護師、病人の守護聖人となっています。

イエス・キリストから宝石の冠と茨の冠とを差し出され、その場でひざまずいて、茨の冠の方を選んだのでした。幼い頃からイエス・キリストの花嫁になることを決め、親が薦める結婚には見向きもしませんでした。彼女の禁欲の行は有名です。隠遁生活をやめた後は病人や貧しい人達のために働きました。また彼女は囚人たちのために信仰の教えを説き多くの死刑囚が回心しました。彼女は地獄、煉獄、天国などの多くの幻視も受けた聖女です。
「私は十字架に磔にされたキリストによってどんな事でも行えます。なぜなら、キリストはご自分の被造物に対し、彼らが耐えられない重荷は置かれないと知っているからです。」
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◯『カタリナの祈り』
「永遠の神よ、あなたの光のうちに私たちは光を見ます。
主よ、お願いですから
この光をすべての人々の上に注いでください。
見えない人たちに、
あなたを愛し、あなたを望み、あなたを知るように、
彼らに目を与えてください。
あなたに感謝します。
私に多くの人々を愛するように
広い心を与えてくださったことを心から感謝いたします。
彼らをあなたの光で照らしてください。
主よ、私をあわれんでください。
そしてあなたの味わい深い祝福を注いでください。
アーメン。」

【教会博士】
教会博士とは、カトリック教会におけるキリスト教用語で、聖人の中でも特に学識にすぐれ、信仰理解において偉大な業績を残した人に送られる称号のことです。
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今日の日記2023.4.28(胸痛!病院へ!) [日記]

初めに「安心してください、はいてますよ!」じゃなくて、「ご安心ください、大丈夫です!」だ。とにかく明るい安村さんを真似してる場合じゃない!
今日は、勤務中に胸に激しい痛みが起こり、職場近くの病院の循環器科で受診しました。胸部レントゲン、心電図などの検査をし、薬を処方してもらい職場に復帰しました。血圧を計測したら、いつも上は128・下は77くらいですが、計測結果は上が167・下が90もありました。先月も帰宅途中の電車の中で急に胸に痛みが起こり、途中下車してホームのベンチで休んだことがありました( ̄▽ ̄;)

本来であれば、その翌日に病院に行くのが正解でした。再来月に65歳となります。すでにあちこち故障している身体です。もっともっと気を付けるべきでしたね。とにかく反省するしだいです( ̄▽ ̄;) 私の父は、心筋梗塞で救急車で救急病院に搬送され、あと数分遅ければ死んでいたところを九死に一生を得ています。父の兄(叔父)は心筋梗塞で亡くなっています。そして、父の父親(祖父)は心臓発作(心筋梗塞か?)で亡くなったそうです。私は、父の家系を継いでいるようですね。これは遺伝ですね!?

今日お世話になった病院の先生に紹介状を書いてもらいましたから、来月の連休明けくらいに北里大学附属病院で徹底的に検査をしてもらうことになりました。これからは食事制限もあるのでしょうね?あ~ぁ、大好物の唐揚げ、天ぷら、脂身の多いロースカツ、ラーメン、バターをいっぱい塗ったトースト、生クリームいっぱいのケーキ、お饅頭、あんころ餅などなど絶対にダメなんでしょうね(⌒-⌒; )
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教会日記2023.4.28(カトリック成城・聖タデオ教会「復活節第三金曜日のミサ」金曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「復活節第三金曜日のミサ」に与りました。朝は暖かいですね。日中は25度で夏日になります!今日も清々しい朝を迎えています!

ミサでは、先唱奉仕を担当しました。
そして、まずは主を讃えるお祈りを唱えました。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈り、
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」

次に、主により頼む祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈り、

そして、主に派遣の祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈り、

終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
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新約聖書:マタイによる福音書・第5章・第14~第16節 [聖書]

カトリック成城・聖タデオ教会の外壁内側にある新約聖書のマタイによる福音書・第5章・第14節にある「あなた方は世の光である」のレリーフです。
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◯新約聖書:マタイによる福音書・第5章・第14~第16節
<世の光>
「あなた方は世の光である。山の上にある町は、隠れることはできない。ともしびをともして、升の下に置く人はいない。燭台の上に置く。こうすれば、家にいるすべての人々のために輝く。このように、あなた方の光を人々の前に輝かせなさい。そうすれば、人々はあなた方の善い行いを見て、天におられるあなた方の父をほめたたえるであろう。」
◯新約聖書:マルコによる福音書・第4章・第21~第25節
<ともしびと升>
「また弟子たちに仰せになった。「ともしびを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためであろうか。燭台の上に置くためではないか。まことに、隠されているもので露わにされていないものはなく、また、秘密にされたもので、公にならないものはない。聞く耳があれば、聞きなさい」。また仰せになった、「注意して話を聞きなさい。あなた方が量るその升で、あなた方も量り与えられ、しかも、さらに増し加えられる。持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。」
◯新約聖書:ルカによる福音書・第8章・第16~第18節
<ともしびの喩(たとえ)>
「ともしびをともして、それを器で覆ったり、寝台の下に置く人はいない。燭台の上に置いて、入ってくる人たちに明かりが見えるようにする。隠れたもので露わにならないものはなく、秘められたもので、知られないもの、公にならないものはない。だから、どのように聞くかに気をつけなさい。持っている者は与えられ、もっていない者は、持っていると思うものまで取り上げられる。」
◯新約聖書:ルカによる福音書・第11章・第33~第36節
<目は体のともしび>
「ともしびをともして、隠れた所や升の下に置く人はいない。燭台の上に置いて、入ってくる人たちに、明かりが見えるようにする。目は体のともしびである。目が健やかであれば、全身が明るい。しかし目を患えば、体は闇となる。だから、あなたのうちにある光が闇とならないよう、気をつけなさい。もし、あなたの全身が明るく、少しも闇の部分がなければ、ともしびがその輝きであなたを照らす時のように、全身が明かりに満ちたものとなる。」
以上は『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

これはイエス・キリストが、弟子たちに説かれた聖句(イエス・キリストの言葉)です。
暗闇を明るくする光、どこにも隠すことができない光、それは人や周りを照らすだけでなく、「人々の心を明るくする」というニュアンスもあります。つまり「他者のためのあり方」を示しているのです。ロウソクは、自分の身を溶かし削って、人や周りを照らします。他者のために自分の存在を燃やし続けるという「他者を活かすために自分は小さい者となっていく」こと。「光」は、それはまさにイエス・キリストの自己犠牲の人生そのものであったわけです。

この聖句「あなた方は世の光である」は、イエス・キリストに従う弟子たちは、すでに「世の光」であるということを意味しています。イエスの教えに聴き従う者たちが光である根拠は、真の光である神の子イエス・キリストがその従う弟子たち、すなわち私たち洗礼を受けた信徒たちの身体の中に住み、私たちの身体は神の神殿となっているからです。

イエス・キリストは、山の上にある家やともし火を置く燭台の話しなどをたとえ話しとして話されていますが、光の特徴は「隠れることができない」ことにあると私たちに教えますね。したがって世の光は、隠されずに輝かすことによって人々を引きつける求心力的な働きを意味しています。神の神殿である私たちは、同時に光輝く存在でもあるのです。

イエス・キリストは、この第16節で「このように、あなた方の光を人々の前に輝かせなさい。そうすれば、人々はあなた方の善い行いを見て、天におられるあなた方の父をほめたたえるであろう。」と説いておられます。これはもちろん自分自身をひけらかすことではありません。あなた方の光とは、キリスト・キリストから授かった福音(み言葉であり教え)です。この光を人々の前に明らかにするか?しないか?の信徒としての責任を問うているのです。

また、「人々はあなた方の善い行いを見て、天におられるあなた方の父をほめたたえるであろう。」ですが、「善い行い」とは何を意味するのでしょうか。貧困にあって生活に困窮している人、病に冒され絶望している人、無実の罪で訴えられて窮地にある人などなど、このような人(弱者)たちを救う行為が善い行いです。つまり、イエス・キリストが一番に説いておられる「隣人への愛」のことですね。これは、人を救う神の慈しみに照らして他者を愛しぬくことを意味しています。善い行いは自己満足のためでもなく、義務としてでもなく、まして名誉のためでもなく、私たちが神の愛に気づいて神をあがめるようにとの、礼拝の心をこめて行うように勧められているのです。
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