教会日記2023.4.13(カトリック成城・聖タデオ教会「復活の木曜日のミサ」木曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「復活の木曜日のミサ」に与りました。昨日は、暑かったですね〜夏日でした。今朝は少し肌寒いですね。今日も清々しい朝を迎えています。
◯教会の外周植え込みに咲いているネモフィラです………たぶん(⌒-⌒; ) 鮮やかなブルーで、かわいい花ですね。この季節の草花です。ネモフィラの花言葉は「可憐」、「どこでも成功」や「あなたを赦す」などです。 アメリカ原産で、ヨーロッパに渡ってもしっかり根付いたことから「どこでも成功」という花言葉がつけられたといわれています。 「可憐」はその見た目からで、「あなたを赦す」はギリシャ神話が由来だそうです。可憐ですが、誰かさんのことですね!?さて、この花のように可憐なのは誰のことでしょう?(*^▽^*)
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ミサの前後に私的なお祈りを捧げました。
まずは、主を讃える祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈り、
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」

次に、主により頼む祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈り、

そして、主に派遣の祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈り、

終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
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「派遣の祝福」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日は、このブログの2019年5月7日に掲載した「派遣の祝福のお話し」を再掲載いたします。内容はキリスト者(クリスチャン)向けですので、一般の方はご興味があれば読んでくださいね。それでは、まず「派遣の祝福」が行われるミサの式次第を見てみましょう。ミサの最後のところで、ミサに与って(出席して)いる会衆(信徒)全員がご聖体を拝領した後、「拝領祈願」が行われ、続いて「閉祭の儀」が行われます。次のとおりの次第になります。

ご聖体を拝領した後からミサの終わりまでの次第
◯拝領祈願
典礼係:「立ちましょう。」
司 祭:「祈りましょう。」
※沈黙のうちに、しばらく祈ります。
司 祭:「(前文はその主日ごとにかわります。)……わたしたちの主イエス・キリストによって。」
会 衆:「アーメン。」
◯閉祭の儀
お知らせ:必要な場合には、ここで短いお知らせが行われます。
典礼係:お知らせで座った場合「立ちましょう。」
司 祭:「派遣の祝福を行います。」
<派遣の祝福>
司 祭:「主は皆さんとともに。」
会 衆:「また、あなたとともに。」
司 祭:「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように。」
※司祭は、祝福しながら会衆に向けて十字架のしるしをします。
会 衆:「アーメン。」
<閉祭のあいさつ>
司祭「感謝の祭儀を終わります。行きましょう、主の福音を告げ知らせるために。」
会衆「神に感謝。」
<閉祭の歌>
※聖歌を歌いながら退堂する司祭を見送ります。
以上のとおりです。

拝領祈願が終わってから、教会行事などに係る短いお知らせの後、司祭は「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように。」と会衆に派遣の祝福を与え、会衆は「アーメン」と応えます。
続いて司祭は、「行きましょう、主の平和のうちに。」という派遣の言葉をもってミサを結びます。「行きましょう。」と送り出しますが、これはラテン語では “Ite, missa est “ という、「行け!」という強い意味があります。ミサの中で、御言葉(みことば)と命のパン(ご聖体)によってイエス・キリストと結ばれた私達は、この派遣の祝福によって、イエス・キリストによる“福音(救いの良き知らせ)”を人々にもたらすために、信徒各々の生活する場に派遣されていきます。

<派遣の祝福>は、つまり神様からの祝福です。ヨハネによる福音書の第20章・第21節に「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす。」とおっしゃられたイエス・キリストご自身が、私たち人間の罪を贖い、私たちが住むこの地上に神の国を建設するために御父(おんちち)から派遣されて来られたように、私たちもイエス・キリストによって派遣されて行くのです。

イエス・キリストは、天に上げられる前に、マタイによる福音書の第28章・第19~第20節にある「あなた方は行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け、わたしがあなた方に命じたことを、すべて守るように教えなさい。わたしは代の終わりまで、いつもあなたが方とともにいる。」とおっしゃられ、使徒(弟子)達にその使命を与えられました。

洗礼を受け私たち信徒は、イエス・キリストの教えを直接受けた使徒をはじめ、現代の司祭や修道士と同じように福音を述べ伝える使命(ミッション)を担っています。不幸な境遇にある人々、病に苦しむ人々、貧困にあえぐ人々に、キリスト者(クリスチャン)は、聖書にある福音書に書かれた聖句(イエス・キリストの言葉)を告げ知らせることによって希望をもたらすことができるのです。

ルカによる福音書の第10章・第4節に「あなた方は財布も袋、また履き物も携えてはならない。」とおっしゃられ、使徒(弟子)たちを派遣される際の主の御言葉は“神のみを頼りにしなさい”という派遣の原点となるものでした。私たちは、生活の場である家庭、生活の糧を得る職場において、あるいはボランティアなどの社会活動において、自分にできる言葉と善き行いをもって伝えるのです。

とは言っても、では具体的にどうするの?ですよね。それは上記に書いた「自分にできる言葉と善き行いをもって、イエス・キリストの教えを伝えること。」ということに尽きます。それが福音を述べ伝えることになります。でも、突如として聖書の福音書に書かれている「殺すなかれ、盗むなかれ、姦淫するなかれ。」と話したところで、なかなか聞いてもらえないですよね……と言うより、

私の場合、ただでさえ怪しいおじさんと思われているのに、ますます怪しいおじさんになってしまいますね( ̄▽ ̄;) 話すのは簡単ですが、これを聞いて理解して実践してもらうには、話す機会を考えるとか、もっと優しい言葉に言い換えるとか、何かの話しに混ぜて話すなどの工夫も必要になります。これは私の職場での経験ですが、同僚から「あいつは絶対に赦さない!」という怒りに満ちた言葉がありました。そこで私は「今まで生きてきて、赦してもらいたいと思ったことの一つや二つはあったよね。これからも赦してもらいたいと思うことは必ずありますよ。だったら今、その人を赦すべきではないですか。」と諭しました。これはイエス・キリストの「赦し」の教えですね。イエス・キリストの教えを伝えることが、なによりも立派な宣教となることを改めて認識した機会でした。

そして、善き行いを自ら実行してまわりの人に影響を与え、善き行いをする仲間を増やすことも大切なことですね。ホームレスなど困っている人を助けるボランティアに参加するとか、困っている人を救済するための支援募金をするなど、日常において実践することです。もっと簡単なことでは、高齢者が横断歩道を渡ろうとしていたら、手を差し伸べて一緒に渡るとか、階段で難儀をしている人の荷物を持ってあげるとか、ちょっとした親切(=愛)も福音につながるものがあるのではないでしょうか。ちなみに私の場合は、このブログに聖書の聖句、偉人の名言、世の中の格言、キリスト教に関連する話しなどを掲載することが、福音を述べ伝える宣教方法の一つとなっています。

また、人(=隣人)のために祈ることは福音に通じることです。人のために祈ることはイエス・キリストが説いておられる「隣人への愛」となります。これは大切なことですね。弛まず祈ることは私達信徒にとって当たり前の務めですが、自分のためでなく、困っている弱い立場の人々のために祈ることは、これも福音の述べ伝えることに通じるものがあります。
私は、毎日朝夕に。
「慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
とお祈りしています。

◯補足説明
間違ってはいけないのは、聖書の福音書に書かれている「福音(救いの良き知らせ)」を述べ伝えることが宣教(目的)であって、決して勧誘することではありません。これを間違う人がいるのですね。勧誘するために派遣されるのではありません。福音を聴いた人が自ら納得して洗礼を希望することは正解ですが、勧誘するために福音を述べ伝えるのではありませんから………勧誘ありきでは、どこぞの新興宗教団体と同じになってしまいます(; ̄O ̄)
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