教会日記2023.4.12(カトリック成城・聖タデオ教会「復活の水曜日のミサ」水曜日) [教会日記]
今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「復活の水曜日のミサ」に与りました。今日は、暖かい朝となりウィンドブレーカーは脱いできました。天気予報では、日中は25度になるそうです。もう夏日ですね。
◯早朝6時20分の成城教会です。白いハナミズキが満開です!
ミサの前後に私的なお祈りを捧げました。
まずは、主を讃える祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈り、
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
次に、主により頼む祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈り、
そして、主に派遣の祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈り、
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
◯早朝6時20分の成城教会です。白いハナミズキが満開です!
ミサの前後に私的なお祈りを捧げました。
まずは、主を讃える祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈り、
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
次に、主により頼む祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈り、
そして、主に派遣の祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈り、
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
新約聖書:ルカによる福音書・第24章・第13〜35節 [聖書]
「この日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村に向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。それで、二人は暗い顔をして立ち止まった。
その一人のクレオパと言う人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。私たちは、この方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の女たちが私たちを驚かせました。女たちが朝早く墓へ行きますと、遺体を見当たらないので、戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。それで、仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、女たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
そこで、イエスは言われた。「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこれらの苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではなかったか。」 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれてあることを解き明かされた。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いています」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるために家に入られた。
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は互いに言った。「道々、聖書を解き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」すぐさま二人は立って、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、主は本当に復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」
『聖書協会共同訳聖書』から
◯私が大好きな画家カラバッジョが、1607年に制作した「エマオの晩餐」です。イタリアのミラノにある「ブレラ美術館」の所蔵です。テーブルの中央がイエス・キリストで、左右両脇がエルサレムからエマオに向かう二人です。立っている男女二人は宿屋の夫婦です。
この聖書の聖句(イエス・キリストの言葉)は、「エマオの晩餐の物語(エマオへの旅人の物語)」として有名なところです。この箇所の情景は次のとおりです。
当時、ローマ帝国という異邦人の支配から、神の民である自分たちユダヤ民族を救ってくれると信じ、大いに望みをかけていたメシア(救世主)であるイエス・キリストが、十字架に磔(はりつけ)にされて死んでしまいました。もうエルサレムには希望も何もかもがなくなってしまい、悲嘆に暮れてエマオに向かって歩く2人の弟子たちでしたが、その途中で復活されたイエス様に出会い、希望をとり戻して喜びに満ちあふれてエルサレムに戻る姿を画いています。
この聖句ですが、実は、このエマオに向かう2人の弟子とは私たちのことなのです。私たちが寂しいとき、悲しいとき、苦しい時、そのような弱った私たちの直ぐそばを、イエス・キリストご自身が私たちと一緒に歩んでくださる。み言葉を語ってくださる。そして、主の食卓に招かれて、自ら私たちにパンと杯をお与え下さって祝福を与えてくださる。いつもどんな時も、私たちの主である復活されたイエス・キリストが傍にいて平安を与えてくださっているのです。
イエス・キリストは、私たち人間がどのような境遇にあっても、「私が一緒にいるのだから、安心しなさい。希望をもちなさい。喜んでいなさい。」と説いているのですね。だからこそ洗礼を受けた私たちは常にミサに与り、感謝を捧げてご聖体を拝領し、復活されたイエス・キリストと一致することを実感するのです。私たち信徒にとって、主であるイエス・キリストと一致していると信じることが信仰する証でもあるのです。勇気をもって福音を証しすることです。
その一人のクレオパと言う人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。私たちは、この方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の女たちが私たちを驚かせました。女たちが朝早く墓へ行きますと、遺体を見当たらないので、戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。それで、仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、女たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
そこで、イエスは言われた。「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこれらの苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではなかったか。」 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれてあることを解き明かされた。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いています」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるために家に入られた。
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は互いに言った。「道々、聖書を解き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」すぐさま二人は立って、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、主は本当に復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」
『聖書協会共同訳聖書』から
◯私が大好きな画家カラバッジョが、1607年に制作した「エマオの晩餐」です。イタリアのミラノにある「ブレラ美術館」の所蔵です。テーブルの中央がイエス・キリストで、左右両脇がエルサレムからエマオに向かう二人です。立っている男女二人は宿屋の夫婦です。
この聖書の聖句(イエス・キリストの言葉)は、「エマオの晩餐の物語(エマオへの旅人の物語)」として有名なところです。この箇所の情景は次のとおりです。
当時、ローマ帝国という異邦人の支配から、神の民である自分たちユダヤ民族を救ってくれると信じ、大いに望みをかけていたメシア(救世主)であるイエス・キリストが、十字架に磔(はりつけ)にされて死んでしまいました。もうエルサレムには希望も何もかもがなくなってしまい、悲嘆に暮れてエマオに向かって歩く2人の弟子たちでしたが、その途中で復活されたイエス様に出会い、希望をとり戻して喜びに満ちあふれてエルサレムに戻る姿を画いています。
この聖句ですが、実は、このエマオに向かう2人の弟子とは私たちのことなのです。私たちが寂しいとき、悲しいとき、苦しい時、そのような弱った私たちの直ぐそばを、イエス・キリストご自身が私たちと一緒に歩んでくださる。み言葉を語ってくださる。そして、主の食卓に招かれて、自ら私たちにパンと杯をお与え下さって祝福を与えてくださる。いつもどんな時も、私たちの主である復活されたイエス・キリストが傍にいて平安を与えてくださっているのです。
イエス・キリストは、私たち人間がどのような境遇にあっても、「私が一緒にいるのだから、安心しなさい。希望をもちなさい。喜んでいなさい。」と説いているのですね。だからこそ洗礼を受けた私たちは常にミサに与り、感謝を捧げてご聖体を拝領し、復活されたイエス・キリストと一致することを実感するのです。私たち信徒にとって、主であるイエス・キリストと一致していると信じることが信仰する証でもあるのです。勇気をもって福音を証しすることです。