教会日記2023.4.11(カトリック成城・聖タデオ教会「復活の火曜日のミサ」火曜日) [教会日記]
今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「復活の火曜日のミサ」に与りました。だんだん暖かくなってきましたが、やはり朝は寒いですね。すでにコートは着ていませんが、まだウィンドブレーカーは着てないと寒いです。
ミサの前後に私的なお祈りを捧げました。
まずは、主を讃える祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈り、
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
次に、主により頼む祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈り、
そして、主に派遣の祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈り、
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
ミサの前後に私的なお祈りを捧げました。
まずは、主を讃える祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈り、
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
次に、主により頼む祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈り、
そして、主に派遣の祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈り、
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」のお話し [今日の言葉(ことわざ)]
読み方は「みのるほど こうべをたれる いなほかな」となります。
意味は「立派な人ほど謙虚な姿勢である」ということです。稲が成長すると実を付け、その重みで実(頭)の部分が垂れ下がってくることから、立派に成長した人間、つまり人格者ほど頭の低い謙虚な姿勢であるということを指すことわざとなりました。「頭を垂れる」という言葉自体に、「相手に敬意を払って自分を謙る」という意味がありますから、稲が立派に成長するに従って、稲穂の部分(稲が実を付けている部分)が垂れ下がってくる様子を稲と稲穂を成長していく人間に例えているのです。
これは<人としてのあり方>を稲穂に見立てていることわざでもあります。稲は、苗のころから若い緑色の葉をまっすぐに空に向かってすくすくと成長し、やがて実を付ける稲穂に成長します。そして、稲穂の中の実(籾)が成長してくると、実の重みで自然と稲穂の部分が垂れ下がり、とても美しい黄金色(こがねいろ)になっていきます。その成長の過程では、台風にや干ばつに見舞われ、風雨の強い日、寒い日暑い日を乗り越えなければ、立派な稲に成長して豊かな実を付けることはできません。
このような成長の過程を人間に例えて、子どものころから真っすぐに上を向いて立派に成長し、いろいろな環境で絶えずやってくる試練、複雑な人間関係で苦労をし、これを乗り越えて立派な人格を形成した人物は、偉くなればなるほど、頭の低い謙虚な姿勢になっていくという意味として表現しています。稲のこの生態の例えるところは、同時に見た目や肩書きは立派だが、中身が伴っていない人は、虚勢を張って威張るだけの小物であり、人格者とは程遠い人物であるということも示していますね。
高齢者は、歳をとっているわけですから稲穂が垂れている人はいると思いますが、若い人ではやはり肉体的にも精神的にも成長期ですから難しいですね。でも若い人でもいるのですよ!それは誰でもが知っているアメリカ大リーグの超有名なスーパースター大谷翔平選手です!まったく威張ることなく、若いのにいつも謙虚な姿勢で気遣いのできる立派な人物です!すでに稲穂が垂れているのです( ̄▽ ̄;) 私もこのような人間になりたいと生きてきましたが………(⌒-⌒; ) 未だに成就なり難しですね。
意味は「立派な人ほど謙虚な姿勢である」ということです。稲が成長すると実を付け、その重みで実(頭)の部分が垂れ下がってくることから、立派に成長した人間、つまり人格者ほど頭の低い謙虚な姿勢であるということを指すことわざとなりました。「頭を垂れる」という言葉自体に、「相手に敬意を払って自分を謙る」という意味がありますから、稲が立派に成長するに従って、稲穂の部分(稲が実を付けている部分)が垂れ下がってくる様子を稲と稲穂を成長していく人間に例えているのです。
これは<人としてのあり方>を稲穂に見立てていることわざでもあります。稲は、苗のころから若い緑色の葉をまっすぐに空に向かってすくすくと成長し、やがて実を付ける稲穂に成長します。そして、稲穂の中の実(籾)が成長してくると、実の重みで自然と稲穂の部分が垂れ下がり、とても美しい黄金色(こがねいろ)になっていきます。その成長の過程では、台風にや干ばつに見舞われ、風雨の強い日、寒い日暑い日を乗り越えなければ、立派な稲に成長して豊かな実を付けることはできません。
このような成長の過程を人間に例えて、子どものころから真っすぐに上を向いて立派に成長し、いろいろな環境で絶えずやってくる試練、複雑な人間関係で苦労をし、これを乗り越えて立派な人格を形成した人物は、偉くなればなるほど、頭の低い謙虚な姿勢になっていくという意味として表現しています。稲のこの生態の例えるところは、同時に見た目や肩書きは立派だが、中身が伴っていない人は、虚勢を張って威張るだけの小物であり、人格者とは程遠い人物であるということも示していますね。
高齢者は、歳をとっているわけですから稲穂が垂れている人はいると思いますが、若い人ではやはり肉体的にも精神的にも成長期ですから難しいですね。でも若い人でもいるのですよ!それは誰でもが知っているアメリカ大リーグの超有名なスーパースター大谷翔平選手です!まったく威張ることなく、若いのにいつも謙虚な姿勢で気遣いのできる立派な人物です!すでに稲穂が垂れているのです( ̄▽ ̄;) 私もこのような人間になりたいと生きてきましたが………(⌒-⌒; ) 未だに成就なり難しですね。