教会日記2023.4.24(カトリック成城・聖タデオ教会「復活節第三月曜日のミサ」月曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「復活節第三月曜日のミサ」に与りました。今日は、貧困者・弱者救済に生涯を献げられたゼノ修道士のご命日です。ホームレス支援活動に関わる人たちにご加護がありますように、ゼノ修道士様に取り次を願いお祈りをしました。今日も清々しい朝を迎えています!
◯ゼノ修道士のことは、このブログの2017年2月17日に掲載した「ゼノ神父のことば」をお読みください。https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2017-02-17
ミサでは、まずは主を讃える祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈り、
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」

次に、主により頼む祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈り、

そして、主に派遣の祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈り、

終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
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新約聖書:ローマの人々への手紙・第12章・第19節 [聖書]

「愛するみなさん、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「主は仰せになる『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』」と書かれています。」
注)「主」とは神様のこと。
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

「ローマの人々への手紙」は、使徒聖パウロがローマの教会にいる信徒に宛てた書簡ですが、紀元57年〜58年ごろに書かれたものです。この聖句は、旧約聖書の「申命記」第32章(モーセの歌)・第35節に、「復讐も報復もわたし(主)のもの」と書いてあり、また、旧約聖書の「レビ記」第19章・第18節に、「復讐してはならない。お前の民の子らに恨みを抱いてはならない。お前の隣人をお前自身のように愛さなければならない。わたしは主である。」と書いてあるのを根拠とし、ローマにいる信徒たちを戒める言葉になっています。
神様(主)は、人間に復讐・報復することを絶対にお許しになりません。それは復讐・報復することよって、人間に傷害・殺人などの罪を犯させることになるからですね。ですから、復讐や報復は人間に代わって神様(主)ご自身がなさるというわけです。

私たちが日常において、復讐や報復とまでいかなくても、それに近い怒りの感情を抱くことはよくあることです。相手に騙された、裏切られた、辱しめられた、嘘を広められた、恣意的に悪者にされたなどなど。そうすると、その相手に対して怒って相手を罵ったり、恨んだり、喧嘩になったり、遺恨を残して人間関係を悪くするたけでなく、やがて自分も罪を犯してしまうことになるのです。自分が悪くなくても“怒りを覚えた時”は、「神様が報復する」と自分に言い聞かせることです。決して手出しは愚か、口でも心でも相手を罵ってはいけません。私はすでにこの聖句にしたがっています………とは言っても、まだまだ愚痴は出ますね~( ̄▽ ̄;) これはすべての人が自戒すべきことです!

それでも、「本当に神様は復讐や報復をしてくれるだろうか?」と思うのが人間の常ですね。信仰している人でも不安になる時はあるでしょう。神様を信じていても「すぐ復讐や報復がされないのはどうしてなのか?」、「いつ復讐や報復がなされるのか?」そのようなことを考えたりしますね。確かにいろいろと頭に浮かびますが、いつ復讐するとか報復するかとかは神様が決めることですし、もっと重要なことは、そもそも神様にとって、そのことが復讐や報復に値することなのか?ということもありますね。神様を信頼して信仰しているのであれば、そのようなことも神様に委ねるわけです。神様は、人間の復讐や報復をお許しにならないわけですから。全面的に神様に委ねるのです。

しかし、憤怒(怒ること)は、カトリック教会における「七つの大罪」の一つでもあります。怒りを心に留めないことが大切なのですが、その前に、そもそも復讐だとか報復だとかを思うこと自体が間違いですね。よくよく考えると、平和を願う愛である神様が、復讐だの報復だのといった人間の願いを聴き入れて実行されるでしょうか。されるわけがないですね。それでも神様が復讐や報復をされるとすれば、それこそ神様のみ摂理であると思います。怒りに駆られて復讐だの報復だのと思い煩うよりも、心を静かにして考えてみると、主がお望みになっていないことくらいすぐに分かることですね…………ということは、神様は「相手を赦せ」とおっしゃられているのではないでしょうか。イエス・キリストの一番重要な教えは「隣人への愛」と「赦し」です。神様に報復を願うよりも相手を赦しましょう。

【摂理(せつり)】
キリスト教で、創造主である神の、宇宙と歴史に対する永遠の計画・配慮のこと。神はこれによって被造物をそれぞれの目標に導く。
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