ゼノ神父のことば [キリスト者(クリスチャン)]

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「ゼノ死ヌヒマナイネ (ゼノ、死ぬ暇ないね)」

ゼノ・ゼブロフスキー(ポーランド:1891年~1982年)は、キリスト教カトリック教会の修道士です。「アリの町(隅田川の言問橋周辺、現在の隅田公園の界隈(台東区側)にあった、貧しい人達が住んでいた所)の神父」として知られています。第2次世界大戦の長崎市への原子爆弾投下で自らも被爆しましたが、戦後、戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に力を入れました。通称「ゼノ神父」として有名ですが、司祭(神父)ではなくコンベンツァル聖フランシスコ修道会の修道士です。このブログに2回目の掲載となります。

1890年、ポーランド貴族の父ヨーゼフ、母アンナとの間に四男として生まれました。その後、第一次世界大戦のおりに軍隊に志願し、除隊後、職を転々としていましたが、気まぐれで聞いた教会での説教に影響を受け、29才の時にコンベンツァル聖フランシスコ修道会に入会しました。1930年4月24日、そこで出会ったマキシミリアノ・マリア・コルベ神父(聖人に列聖)達と共に宣教のために来日しました。

来日後は、長崎でコルベ神父らとともに布教誌「無原罪の聖母の騎士(現在「聖母の騎士」刊行)」の出版と普及に力を入れ、日本各地に赴いてその教えを全国に広めました。コルベ神父が離日した後も、日本に残り活動を続けましたが、1945年8月9日、長崎市で被爆し、戦後は戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に尽くし、東京・浅草のバタヤ街など全国各地で「アリの町」支援活動を始めました。口癖は「ゼノ死ヌヒマナイネ」。愛嬌のある白ひげ顔とユーモラスな人柄で、宗派を問わず多くの人に親しまれたそうです。

その献身的な社会福祉活動を表して、1969年に勲四等瑞宝章、1979年に吉川英治文化賞が贈られました。またポーランドからは、1976年にポーランド人民功労勲章(現在のポーランド共和国功労勲章)第4等が授与されました。1981年2月来日した教皇・ヨハネ・パウロ2世は、ゼノ修道士の入院先を訪問して長年の活動に敬意を表しました。1982年4月24日に帰天(天国に帰ること・逝去)しました。

明治6年に江戸時代から続いたキリスト教の禁教令が廃止され、フランスを始めとして多くのキリスト教の司祭(神父・牧師)、修道士、宣教師が宣教布教のために来日しました。もちろんキリスト教の宣教布教のためですが、日本全国に出かけてハンセン病患者のための療養施設を作ったり、教育施設(学校)を作ったりして福祉・教育分野に大きな力を注いでいます。上智大学、聖心女子大学、青山学院大学、立教大学などキリスト教系の大学、中学・高校は、外国人司祭、修道士達の協力によって創立された学校です。

本来であれば、日本政府が率先してしなければならないことを外国人であるキリスト教の司祭や修道士が、異国の地である日本で、日本人のために活動しました。特に教育や貧しい人々の救援に力を注がれています。そして、多くの司祭、修道士が日本で亡くなられて葬られています。東京都府中市にあるカトリック墓地にも多くの外国人司祭、修道士のお墓があり、異国である日本で眠りについています。

この言葉は、ゼノ神父が貧しい人々の救援活動で、“死ぬ暇などないほど忙しい”ということを述べているのですが、それが口癖になっていたようです。献身、奉献という言葉では語り尽くせない働きがあります。写真は、春秋社から1966年に出版された本です。新装本が1998年に出版されましたが、現在は品切れとなっているようです。

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