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「枯れ木も山の賑わい」のお話し [今日の言葉(ことわざ)]

このことわざは、間違う人が案外と多いのです。
枯れ木も山に風情を添えるのに役立つ意から、正解は「つまらないものでも、ないよりはましである」ことをたとえた言葉です。ただ、文化庁が発表した平成16年度「国語に関する世論調査」では、本来の意味である「つまらないものでも、ないよりはまし」で使う人が38.6%、間違った意味である「人が集まればにぎやかになる」で使う人が35.5%という結果となっています( ̄▽ ̄;)
また、同じように意味を取り違いそうな言葉で、「情けは人のためならず」があります。このブログの6月2日に掲載した「情けは人のためならずのお話し」をお読みください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2023-06-02-1
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「情けは人のためならず」のお話し [今日の言葉(ことわざ)]

丁度一年前ごろのお話しです。
仕事が終わって帰宅する電車で座っていたら、目の前に立っていた二人が、次の言葉の意味について議論し始めました。議論となった言葉は「情けは人のためならず」です。私は知っているつもりだったのですが、聴いていて自信がなくなり、不安になって家に着いてから辞書で調べました………とりあえず正解でした!( ̄▽ ̄;)

案外と意味を間違っている人が多い言葉に、「情けは人のためならず」があります。本来の意味は、「人に思いやりを掛けておけば、結果として、いつか自分にも良い報いが訪れる。」という意味の言葉です。決して「人に情をかけると、その人のためにならない。」ということではありません………ということで、「情けは人のためならず」を辞書で調べました!
◯『日本国語大辞典 第2版(小学館)』
【情けは人(ひと)の為(ため)ならず】
情をかけておけば,それがめぐりめぐってまた自分にもよい報いが来る。人に親切にしておけば必ずよい報いがある。(補注:情をかけることは,かえってその人のためにならないと解するのは誤り。)
◯『大辞林 第3版(三省堂)』
【情けは人の為(ため)ならず】
情を人にかけておけば,巡り巡って自分によい報いが来るということ。(近年,誤って本人の自立のために良くないと理解されることがある。)

ここに掲載した2つの辞書では、両方とも「人に情をかけておけば、巡り巡って自分によい報いが来る。」を意味としています。そして、「誰かに情を掛けることは,その人のためにならない」という解釈が誤りであることを指摘しています。この言葉を本来とは違う意味で理解してしまうのは,「ためならず」の解釈を誤ってしまうからだと考えられます。
もし「情けは人のためにならず」のように、「ために」の「に」が入っているというのであれば、「その人のためにならない」と受け取れるでしょう。しかし、「人のためならず」の「ならず」は、断定の「なり」+打ち消しの「ず」ですから、「である+ない=~でない」という意味になり、「人のためでない(=自分のためである)」と読み取る必要があります。ここのところがはっきりしないことが「人のためにならない」と解釈する人がいる理由だと思います。

この言葉について、いろいろ調べていたら、実はこの「情けは人のためならず」は、新渡戸稲造(にとべいなぞう)博士が作った詩の一部分でした。新渡戸博士が書いた大正4年発売の『一日一言』に書かれているそうです。人生に役立つ言葉が366日(一年)分書いてあり、しかも、言葉が分かりやすくて読みやすいそうです。是非読んでみようと思います。では、この『一日一言』の「4月23日“恩を施しては忘れよ”」を全文を読んでみましょう。
「施せし情は人の為ならず おのがこゝろの慰めと知れ 我れ人にかけし恵は忘れても ひとの恩をば長く忘るな」
意味は、「情けは他人のためではなく自分自身のためにかけるものだ。だから自分が他人にした良いことは忘れてもいい。でも、人から良くしてもらったことは絶対に忘れてはいけない。」という意味ですね。
今読める本は、次のとおりです!
『新訳 一日一言 「武士道」を貫いて生きるための366の格言集』
著者:新渡戸稲造
出版:PHP研究所
定価:880円(税込)

ところで、この「情けは人のためならず」は、キリスト教では何というか?を聖書を調べてみました。そうしたら、新約聖書の『ルカによる福音書』の第6章・第38節に「与えなさい。そうすれば、あなた方にも与えられる。」がありました。これはイエス・キリストの聖句(イエス様の言葉)です。この聖句が一番近いと思います。仏教では、「因果応報(いんがおうほう)」ですね。「善い行いをすれば、良い報いがある。」ということです。ただし、因果応報には、「悪い行いをすれば、悪い報いがある。」という意味もあります(⌒-⌒; )
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「実るほど頭を垂れる稲穂かな」のお話し [今日の言葉(ことわざ)]

読み方は「みのるほど こうべをたれる いなほかな」となります。
意味は「立派な人ほど謙虚な姿勢である」ということです。稲が成長すると実を付け、その重みで実(頭)の部分が垂れ下がってくることから、立派に成長した人間、つまり人格者ほど頭の低い謙虚な姿勢であるということを指すことわざとなりました。「頭を垂れる」という言葉自体に、「相手に敬意を払って自分を謙る」という意味がありますから、稲が立派に成長するに従って、稲穂の部分(稲が実を付けている部分)が垂れ下がってくる様子を稲と稲穂を成長していく人間に例えているのです。

これは<人としてのあり方>を稲穂に見立てていることわざでもあります。稲は、苗のころから若い緑色の葉をまっすぐに空に向かってすくすくと成長し、やがて実を付ける稲穂に成長します。そして、稲穂の中の実(籾)が成長してくると、実の重みで自然と稲穂の部分が垂れ下がり、とても美しい黄金色(こがねいろ)になっていきます。その成長の過程では、台風にや干ばつに見舞われ、風雨の強い日、寒い日暑い日を乗り越えなければ、立派な稲に成長して豊かな実を付けることはできません。

このような成長の過程を人間に例えて、子どものころから真っすぐに上を向いて立派に成長し、いろいろな環境で絶えずやってくる試練、複雑な人間関係で苦労をし、これを乗り越えて立派な人格を形成した人物は、偉くなればなるほど、頭の低い謙虚な姿勢になっていくという意味として表現しています。稲のこの生態の例えるところは、同時に見た目や肩書きは立派だが、中身が伴っていない人は、虚勢を張って威張るだけの小物であり、人格者とは程遠い人物であるということも示していますね。

高齢者は、歳をとっているわけですから稲穂が垂れている人はいると思いますが、若い人ではやはり肉体的にも精神的にも成長期ですから難しいですね。でも若い人でもいるのですよ!それは誰でもが知っているアメリカ大リーグの超有名なスーパースター大谷翔平選手です!まったく威張ることなく、若いのにいつも謙虚な姿勢で気遣いのできる立派な人物です!すでに稲穂が垂れているのです( ̄▽ ̄;) 私もこのような人間になりたいと生きてきましたが………(⌒-⌒; ) 未だに成就なり難しですね。
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「信賞必罰(しんしょうひつばつ)」のお話し [今日の言葉(ことわざ)]

信賞必罰とは、「賞罰を厳格に行うこと。賞すべき功績のある者には必ず賞を与え、罪を犯し、罰すべき者は必ず罰する。」という意味の言葉です。中国の戦国時代の法家であった韓非(かんぴ)の著書に『韓非子(かんぴし)』がありますが、これに「信賞必罰(しんしょうひつばつ)」の語源となった内容が書かれています。『韓非子』は、春秋戦国時代の思想・社会の集大成と言えるもので、戦国時代の君子(指導者)が実践すべき七つの行動原理(七術)の二つとして、「信賞」と「必罰」を挙げています。

それでは、『韓非子』の一節を見てみましょう。
公曰く、「戦わざるを得る無きを奈何する」
狐子、対えて曰く「信賞必罰、其れ以て戦するに足りん」
公曰く「刑罰の極みは安くにか至る」
対えて曰く「親貴を辟らず、法を愛する所に行え」
文公曰く「善し」

これを現代文に訳すと、
文公は「どうやって戦わざるを得ないようにさせるのか?」と聞くと、
狐子は「信賞必罰によって戦わせることができます」と答え、
文公は「刑罰の限度はどこまでだろうか?」と聞くと、
狐子は「ご主君に親しい者、身分の高い者でも避けず、寵愛する者にも刑罰を行います」と答えてました。
文公は「わかった」と言いました。
となります。

韓非はあえて強調していのは「必罰」です。
<法を犯した者は必ず罰して威光を示すこと>
「愛情が多すぎると、法は成り立たず、威光を働かせないと、下の者が上の者を侵す。刑罰を厳しくしなければ、禁令は行きわたらない。」として、わかりやすい例を挙げて解説しています。「麗水という川には砂金が出ます。私的な採金は法で禁じられ、捕まれば磔(はりつけ)にされますが、金を採る者はあとを絶たず、処刑された死体で川がせき止められるほどになりました。これはうまくすれば捕まらず、一攫千金も夢ではないからです。例えば、「お前に天下をやるから、そのかわり命はもらう。」と言われたとします。必ず殺されるとわかっていれば、天下をもらおうと名乗り出るものはいないのです。」必罰の威光が行き届いているかどうかが大事であって、見逃しの例外などの抜け道をつくってはならないと戒めています。

次に「信賞」です。
<功労者には必ず賞をあたえ、全能力を発揮させること>
「賞が薄く、かつあてにならないならば、臣下は働こうとしない、賞が厚く、かつ確実に行われるならば、臣下は死をもいとわない。」として、わかりやすい例を挙げて解説しています。
「魏の武候の武将に、孫子と並び称される兵法家の呉起(ごき)がいました。呉起は、西河地方の守りを任されて、国境近くにある敵の砦を取り除こうと考えました。地元の農民を動員するために、北門の外に一本のかじ棒を置いて、こんな布告を出しました。「この棒を南門まで運んだ者には、上等の土地と屋敷をとらせる」。布告を信じかねて誰も動きません。しかし、やっと運ぶものが現れたので、約束通りの土地と屋敷を与えました。
呉起は続いて、東門の外に赤豆一石を置いてまた布告を出しました。「豆を西門まで運んだ者には、前回と同じほうびをとらせる」。すると農民たちは先を争って運びました。そこでいよいよ肝心の布告を出しました。「明日、砦を攻めるが、一番乗りしたものには、上等の土地・屋敷のほかに大夫の地位をあたえよう」。臆病な農民たちも、先を争って砦に殺到し、たちまちこれを占領しました。労が必ず報いられると信じられれば、動かぬ者などいないのです。」ということです。

私は、社会人もそうですが、学校教育や子育て(しつけ)は、この信賞必罰が大切になると思います。社会における行動規範や人間の理性がまだ育っていない子どもには、やはり「善い行い(=功績)をすれば「必ずほめる(=賞を与える)」こと、悪い行い(罪を犯すこと)をすればが「必ずしかる(=罰を与える)」ことです。善悪、良し悪しの判断を理解させるためにメリハリをつけることが大切ですね。ただし、どちらも愛情を持ってということが重要です。特に愛情のない叱り方をしてはいけません。それは、なぜ悪いのかを理解できないからです。理解できない叱り方では意味をなしませんね。

ただ、私たちキリスト者(クリスチャン)は、イエス・キリストの教えである「赦し」があります。次は、このブログの2月28日(火)の記事に掲載した聖句です。
◯新約聖書:マタイによる福音書・第18章・第21~第35節
「その時、ペトロが近寄ってきて、イエスに尋ねた。「主よ、わたしの兄弟が私に罪を犯した場合、何度、赦さなければなりませんか。七回までですか」。イエスはお答えになった、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までである。それ故、天の国は次のように喩えられる。
「一人の王が僕たちと貸借の決済をしようとした。決済が始まると、一万タラントンの負債のある者が王の前に連れ出された。しかし、返済することができなかったので、主人はその人自身と、その妻や子もたち、および所有物すべて売って、返済するように命じた。この僕はひれ伏し、『もうしばらくお待ちください。きっと全部お返ししますから』と哀願した。そこで、その僕の主人は憐れに思って、彼を赦し、借金を免じてやった。
ところが、この僕は外に出ると、自分に百デナリオンの負債のある同僚に出会った。彼はその同僚の喉元を絞めつけ、『借金を返せ』と言った。この同僚はひれ伏して、『もうしばらく待ってくれ、返すから』としきりに願った。しかし、彼は承知せず、その同僚を引き立てていき、負債を返すまでといって牢獄に入れた。この一部始終を見てい同僚らは大いに心を痛め、主君の前に出て、事の次第を告げた。
そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『不届きな僕だ。お前が嘆願したから、わたしは負債をいっさい免じてやった。わたしがお前を憐れんだように、お前もあの仲間を憐れむべきではなかったか。』主人は怒って、負債を全部返すまでといって、彼を拷問係りに引き渡した。もしあなた方の一人ひとりが、自分の兄弟を心から赦さないなら、天におられるわたしの父も、あなた方に対して同じようになさるであろう。」
『原文校訂口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

これは聖句(イエス・キリストの言葉)です。イエス・キリストは、使徒(弟子)のペトロの質問に対して「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と説いておられます。7回✕70倍=490回は喩え(たとえ)ですね。とにかく、徹底して赦しなさいと説いているのです。そこには赦す条件など微塵もないのです。この喩え話しですが、「王」とあるのは神様のことで、「僕」とは私たちのこと(罪人のこと)、「負債」とは罪のことです。「負債を帳消しにする」とは、すべての罪を赦すという解釈となります。ここでいう「兄弟」とは、隣人を含めて自分に関係する人などのことです。「天の父」とは、イエス・キリストの父なる神様のことです。

私たちが克服すべき人生における課題の一つに「人を赦すこと。」があります。このブログのタイトルに「愛と赦し」とあるのは、「隣人への愛」と「人への赦し」がイエス・キリストの教えであるからです。人を赦すことがどれほど難しいか、簡単にできるなら何も人生における課題にはなりません。人を赦すことが誰もが経験されていることだと思います。今まで生きてきて、どれだけの人を赦してこなかったか。肉親であるはずの家族でさえ、たまに”赦せない部分”を見つけてしまうことがあります。家族でさえ赦せないのなら、他人であればなおさらのことですよね。それでも、イエス・キリストは「とことん赦しなさい。」と説いておられます。

ここで、私たちキリスト者(クリスチャン)が悩むというか判断が難しくなるのは、人が罪を犯したとき、罰を与えてよいのか?という疑問です。結論は「よい」ということになります。現在の人間社会は、法律が整備されて「法による秩序」が守られています。そのおかげで平和な社会が実現されているわけです。(まぁ、ロシアのウクライナ侵攻のような、国際法を踏みにじっていることもありますが。)ということは、罰は肯定せざるを得ないということです。しかし、その人への罰は肯定しても、その人が心の底から悔い改めているのなら、とにかく赦すべきなのです。「罪を憎んで人を憎まず。」ですね。私たちは、いつか赦してもらいたいと願う時が必ず来ます。それは必ず来るのです。その時に赦してもらいたいなら、普段から人を赦すべきなのです。憎しみや恨みをもって毎日生活をしていても良いことは何もないですね。赦しましょう。とにかく赦すことです。人を赦さないのなら、自分も赦されないのです。

ところで、「罪を憎んで人を憎まず」は、犯した罪は悪いから罰するべきだが、罪を犯すには事情もあったのだろうから、その人まで憎むのはよくないという意味です。『孔叢子』刑論にある孔子の言葉「古之聴訟者、悪其意、不悪其人(昔の裁判所では訴訟を取り裁くとき、罪人の心情は憎んだが人そのものは憎まなかった)」から。「憎む」は「悪む」とも書きます。
『ヨハネによる福音書』の第8章にも「罪を憎んでも人を憎まず」という物語があり、孔子の「罪を憎んで人を憎まず」と同じ意味と解釈されています。
◯新約聖書:ヨハネによる福音書・第8章・第3~第11節
「律法学者とファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った、「先生、この女は姦通をしている時に捕まったのです。モーセは律法の中で、このような女は石で投げつけて殺すようにと、わたしたちに命じています。ところで、あなたはどうお考えますか。」こう言ったのは、イエスを試みて、訴え出る口実を得るためであった。イエスは身をかがめて、地面に指で何かを書き始められた。しかし、彼らが執拗に問い続けるので、イエスは身を起こして仰せになった。「あなた方のうち中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい。」そして、再び身をかがめて、地面に何か書いておられた。これを聞くと、人々は年長者から始まって、一人、また一人と去っていった。イエス一人が、真ん中にいた女とともに残られ。イエスは身を起こして仰せになった。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」彼女は、「主よ、誰も」と答えた。イエスは仰せになった、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。そしてこれからは、もう罪を犯してはならない。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

【罪を憎んで人を憎まず】
「犯した罪は悪いから罰するべきであるが、罪を犯すには事情などがあったのだろうから、その人まで憎むのはよくない。」ということです。『孔叢子(くそうし・こうそうし)』刑論にある孔子の言葉「古之聴訟者、悪其意、不悪其人(昔の裁判所では訴訟を取り裁くとき、罪人の心情は憎んだが人そのものは憎まなかった)」からの言葉です。「憎む」は「悪む」とも書きます。『孔叢子(くそうし・こうそうし)』は、古代中国の儒家の書物で、秦・漢時代から魏晋の間頃に成立した全23篇の書物です。
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ユダヤのことわざ(第4日目) [今日の言葉(ことわざ)]

「汝の友人の一部は
汝を非難し、他は称讃す。
汝を非難する人々に近づき、
称讃する人々より遠ざかれ。」

このことわざは、人間関係の妙を得ていますね。このことわざに似た言葉ですが、私が若いころ、父からよく言われれていたのが、「嫌な上司と煩い(うるさい)部下は、遠ざけることなくよく付き合いなさい。」です。自分にとって気持ちの良い人間関係にある人よりも、自分にとって嫌な避けたい人と人間関係が良くなるように努力することが、生きていく上で大切だということです。好き好んで敵をつくる必要はなく、良好な人間関係を築きましょう!
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ユダヤのことわざ(第3日目) [今日の言葉(ことわざ)]

「子供は、両親が家で
話すことを街でしゃべる。」

子どもは、いつでも正直なものです。夫婦喧嘩をしたら子どもが他所で喋りますよ!(⌒-⌒; ) 皆様のご家庭に平安あれ!
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ユダヤのことわざ(第2日目) [今日の言葉(ことわざ)]

「みずからを高きにおく者は、
神によりて低きに堕とされ、
みずからを低きにおく者は、
神によりて高きに上げられる。」

聖書にある言葉ですね。普段から上から目線の高慢・傲慢な人は、やがてドン底に落とされ、普段から自らを低くして謙虚な人は、やがて称賛を受ける人格者となるのです。歴史が物語っていますね。いつも神様は見ておられます。
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ユダヤのことわざ(第1日目) [今日の言葉(ことわざ)]

「人には口が一つなのに、
耳は二つあるのは何故か。
それは自分が話す倍だけ
他人の話を聞かなければならないからだ。」

う〜ん!なるほど!納得のお言葉です!ポーランドのことわざにある「耳が2つ、舌が1つ与えられているのは、少なくしゃべり、多く聞くためである。」と同じですね。確かにそうです!自分の意見を発言するだけではダメで、他の人の意見は、自分の意見を発言する時よりも、何倍も気を遣ってきちんと聴くべきですね。
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ユダヤのことわざ(第4日目) [今日の言葉(ことわざ)]

「汝の友人の一部は
汝を非難し、他は称讃す。
汝を非難する人々に近づき、
称讃する人々より遠ざかれ。」

このことわざは、人間関係の妙を得ていますね。このことわざに似た言葉ですが、私が若いころ、父からよく言われれていたのが、「嫌な上司と煩い(いるさい)部下は、遠ざけることなくよく付き合いなさい。」です。自分にとって気持ちの良い人間関係にある人よりも、自分にとって嫌な避けたい人と人間関係が良くなるように努力することが、生きていく上で大切だということです。好き好んで敵をつくる必要はなく、良好な人間関係を築きましょう!
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ユダヤのことわざ(第3日目) [今日の言葉(ことわざ)]

「子供は、両親が家で
話すことを街でしゃべる。」

子どもは、いつでも正直なものです。夫婦喧嘩をしたら子どもが他所で喋りますよ!(⌒-⌒; ) 家庭に平安あれ!
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