教会日記2023.4.10(カトリック成城・聖タデオ教会「復活の月曜日のミサ」月曜日) [教会日記]
今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「復活の月曜日のミサ」に与りました。キリスト教の二大典礼の復活祭(もう一つは降誕祭)が終わりました。四旬節が始まってから長かったですね〜。やっと主イエス・キリストが復活されました。そのイエス様は、新約聖書のマタイによる福音書・第28節・第20節の最後にあるとおり、「わたしは代の終わりまで、いつもあなた方とともにいる。」とおっしゃられています。なんと心強いお言葉でしょうか。これからもイエス様の教えである隣人への愛、赦し、善き行いに、心を新たにして励みましょう!
◯成城教会の祭壇左右にある聖母マリア様のご像と成城教会の守護聖人である聖タデオ様のご像です。白いゆりの花は、聖母マリア様の象徴です。
ミサの前後に私的なお祈りを捧げました。
まずは、主を讃える祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈り、
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい朝を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
次に、主により頼む祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈り、
そして、主に派遣の祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈り、
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
◯成城教会の祭壇左右にある聖母マリア様のご像と成城教会の守護聖人である聖タデオ様のご像です。白いゆりの花は、聖母マリア様の象徴です。
ミサの前後に私的なお祈りを捧げました。
まずは、主を讃える祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈り、
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい朝を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
次に、主により頼む祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈り、
そして、主に派遣の祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈り、
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
新約聖書:ルカによる福音書・第5章・第30~第32節、第19章・第1~第10節 [聖書]
「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちは、イエスの弟子に向かってつぶやいて言った、「どうして、あなた方は徴税人や罪人(つみびと)とともに食べたり飲んだりするのか」。そこで、イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
まず、この聖句(イエス・キリストの言葉、聖書の言葉)に出てくる言葉を説明します。
この部分で、「ファリサイ派の人々やその派の律法学者」という人たちが出てきますが、このファリサイ派・律法学者とは、自分達イスラエル人は、神に選ばれた唯一の民族で、神様との特別な契約を結んだ“神の民”であり、救いは“神の民”だけのものだと信じていました。そして、神の教えではなく、自分たち人間に都合のよい勝手な解釈によって定めた掟を、律法と称して行っている不遜な偽善者たちのことです。ですから、イスラエル人でない異邦人は神様の救いから除外されており、律法を守らない者は、徴税人ように血筋ではイスラエル人であっても、異邦人と同じように救いから除外される「罪びと」と考えていました。
その後に「徴税人(ちょうぜいにん)」という人がでてきますが、この徴税人とは、当時のユダヤ地方(シリア、ヨルダン、イスラエル辺り)を属州として支配していたローマ帝国のために、税金の取り立てを請け負っているユダヤ人のことです。異邦人であるローマ人支配者のために、同胞から厳しく税を取り立て、定められた額より多く取り立てるという搾取することで、同じユダヤ人から憎まれて「罪びと」として嫌われていたのです。
イエス・キリストは、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と説いています。「医者」とは、イエス・キリストのこと、「健康な人」とは、正しい人のこと、「病人」とは、罪人のことです。健康な人なら医者はいらないのであって、医者が必要なのは病人です。それと同じく正しい人であれば悔い改めはいらないのであって、罪人は悔い改めが必要であり、イエス・キリストの救いを必要としているのです。
この聖句の要約(中心)は、「罪人を招いて悔い改めさせるためである。」ということにありますね。イエス・キリストは、罪びとが今まで行ってきた罪を認め、悔い改めて救われることを望み、その救いのためにこの世に遣わされ宣教活動をなされたのです。正しい人も徴税人も他の人とまったく同じ人間であり、徴税人としてのこれまでの罪といわれる行いも、これからの生き方によってはそれまでの悪い行いである罪は赦され、新しい生き方が開けることをイエス・キリストはこのたとえ話をもって教えているのですね。
ルカによる福音書は、第19章でもう再び徴税人について書いています。「主」及び「人の子」とあるのは、イエス・キリストのことです。
◯新約聖書:ルカによる福音書・第19章・第1~第10節
「さて、イエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。そこに、ザアカイという名の男がいた。彼は徴税人の頭で、金持ちであった。彼はイエスがどんな人か見ようとしたが、人が大勢いたので、見ることができなかった。背が低かったからである。そこで、先のほうに走っていき、そこを通られるはずのイエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスはそこを通りがかると、見上げて仰せになった。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日、わたしあなたの家に泊まるつもりだ。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスをお迎えした。これを見ていた人たちはみな、つぶやき、「あの人は、罪人の所に行って宿をとった。」と言った。しかし、ザアカイは立ち上がり、主に向かって言った。「主よ、わたしは財産の半分を、貧しい人々に施します。誰かからだまし取っていたら、それを四倍にして払い戻します」。イエスは彼に仰せになった。「今日、この家に救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子が来たのは、失われたものを捜して救うためである。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
徴税人の頭(かしら)で金持ちだったザアカイは、イエスがエリコを通ったとき、先回りして、いちじく桑の木に登ってイエスを見ようとしました。ところが、それに気づいたイエスが声をかけ、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは喜んでイエスを迎えました。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と言って非難した人もありましたが、ザアカイは立ち上がって、財産の半分を貧しい人びとに施し、だまし取った人には4倍にして返すと約束しました。
金儲けしか考えなかった男が、今までの罪を悔い改め正しい生き方を芽生えさせたのです。これがイエス・キリストの福音宣教の力なのですね。過去の罪によって断罪していれば、ザアカイの回心はなかったでしょう。イエス・キリストは、裁きのために来たのではないのです「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子(イスラエル人)なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と。そうです。イエス・キリストは、罪びとを救うためにこの世にお生まれになったのです。
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
まず、この聖句(イエス・キリストの言葉、聖書の言葉)に出てくる言葉を説明します。
この部分で、「ファリサイ派の人々やその派の律法学者」という人たちが出てきますが、このファリサイ派・律法学者とは、自分達イスラエル人は、神に選ばれた唯一の民族で、神様との特別な契約を結んだ“神の民”であり、救いは“神の民”だけのものだと信じていました。そして、神の教えではなく、自分たち人間に都合のよい勝手な解釈によって定めた掟を、律法と称して行っている不遜な偽善者たちのことです。ですから、イスラエル人でない異邦人は神様の救いから除外されており、律法を守らない者は、徴税人ように血筋ではイスラエル人であっても、異邦人と同じように救いから除外される「罪びと」と考えていました。
その後に「徴税人(ちょうぜいにん)」という人がでてきますが、この徴税人とは、当時のユダヤ地方(シリア、ヨルダン、イスラエル辺り)を属州として支配していたローマ帝国のために、税金の取り立てを請け負っているユダヤ人のことです。異邦人であるローマ人支配者のために、同胞から厳しく税を取り立て、定められた額より多く取り立てるという搾取することで、同じユダヤ人から憎まれて「罪びと」として嫌われていたのです。
イエス・キリストは、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と説いています。「医者」とは、イエス・キリストのこと、「健康な人」とは、正しい人のこと、「病人」とは、罪人のことです。健康な人なら医者はいらないのであって、医者が必要なのは病人です。それと同じく正しい人であれば悔い改めはいらないのであって、罪人は悔い改めが必要であり、イエス・キリストの救いを必要としているのです。
この聖句の要約(中心)は、「罪人を招いて悔い改めさせるためである。」ということにありますね。イエス・キリストは、罪びとが今まで行ってきた罪を認め、悔い改めて救われることを望み、その救いのためにこの世に遣わされ宣教活動をなされたのです。正しい人も徴税人も他の人とまったく同じ人間であり、徴税人としてのこれまでの罪といわれる行いも、これからの生き方によってはそれまでの悪い行いである罪は赦され、新しい生き方が開けることをイエス・キリストはこのたとえ話をもって教えているのですね。
ルカによる福音書は、第19章でもう再び徴税人について書いています。「主」及び「人の子」とあるのは、イエス・キリストのことです。
◯新約聖書:ルカによる福音書・第19章・第1~第10節
「さて、イエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。そこに、ザアカイという名の男がいた。彼は徴税人の頭で、金持ちであった。彼はイエスがどんな人か見ようとしたが、人が大勢いたので、見ることができなかった。背が低かったからである。そこで、先のほうに走っていき、そこを通られるはずのイエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスはそこを通りがかると、見上げて仰せになった。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日、わたしあなたの家に泊まるつもりだ。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスをお迎えした。これを見ていた人たちはみな、つぶやき、「あの人は、罪人の所に行って宿をとった。」と言った。しかし、ザアカイは立ち上がり、主に向かって言った。「主よ、わたしは財産の半分を、貧しい人々に施します。誰かからだまし取っていたら、それを四倍にして払い戻します」。イエスは彼に仰せになった。「今日、この家に救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子が来たのは、失われたものを捜して救うためである。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
徴税人の頭(かしら)で金持ちだったザアカイは、イエスがエリコを通ったとき、先回りして、いちじく桑の木に登ってイエスを見ようとしました。ところが、それに気づいたイエスが声をかけ、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは喜んでイエスを迎えました。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と言って非難した人もありましたが、ザアカイは立ち上がって、財産の半分を貧しい人びとに施し、だまし取った人には4倍にして返すと約束しました。
金儲けしか考えなかった男が、今までの罪を悔い改め正しい生き方を芽生えさせたのです。これがイエス・キリストの福音宣教の力なのですね。過去の罪によって断罪していれば、ザアカイの回心はなかったでしょう。イエス・キリストは、裁きのために来たのではないのです「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子(イスラエル人)なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と。そうです。イエス・キリストは、罪びとを救うためにこの世にお生まれになったのです。