「派遣の祝福」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日は、このブログの2019年5月7日に掲載した「派遣の祝福のお話し」を再掲載いたします。内容はキリスト者(クリスチャン)向けですので、一般の方はご興味があれば読んでくださいね。それでは、まず「派遣の祝福」が行われるミサの式次第を見てみましょう。ミサの最後のところで、ミサに与って(出席して)いる会衆(信徒)全員がご聖体を拝領した後、「拝領祈願」が行われ、続いて「閉祭の儀」が行われます。次のとおりの次第になります。

ご聖体を拝領した後からミサの終わりまでの次第
◯拝領祈願
典礼係:「立ちましょう。」
司 祭:「祈りましょう。」
※沈黙のうちに、しばらく祈ります。
司 祭:「(前文はその主日ごとにかわります。)……わたしたちの主イエス・キリストによって。」
会 衆:「アーメン。」
◯閉祭の儀
お知らせ:必要な場合には、ここで短いお知らせが行われます。
典礼係:お知らせで座った場合「立ちましょう。」
司 祭:「派遣の祝福を行います。」
<派遣の祝福>
司 祭:「主は皆さんとともに。」
会 衆:「また、あなたとともに。」
司 祭:「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように。」
※司祭は、祝福しながら会衆に向けて十字架のしるしをします。
会 衆:「アーメン。」
<閉祭のあいさつ>
司祭「感謝の祭儀を終わります。行きましょう、主の福音を告げ知らせるために。」
会衆「神に感謝。」
<閉祭の歌>
※聖歌を歌いながら退堂する司祭を見送ります。
以上のとおりです。

拝領祈願が終わってから、教会行事などに係る短いお知らせの後、司祭は「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように。」と会衆に派遣の祝福を与え、会衆は「アーメン」と応えます。
続いて司祭は、「行きましょう、主の平和のうちに。」という派遣の言葉をもってミサを結びます。「行きましょう。」と送り出しますが、これはラテン語では “Ite, missa est “ という、「行け!」という強い意味があります。ミサの中で、御言葉(みことば)と命のパン(ご聖体)によってイエス・キリストと結ばれた私達は、この派遣の祝福によって、イエス・キリストによる“福音(救いの良き知らせ)”を人々にもたらすために、信徒各々の生活する場に派遣されていきます。

<派遣の祝福>は、つまり神様からの祝福です。ヨハネによる福音書の第20章・第21節に「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす。」とおっしゃられたイエス・キリストご自身が、私たち人間の罪を贖い、私たちが住むこの地上に神の国を建設するために御父(おんちち)から派遣されて来られたように、私たちもイエス・キリストによって派遣されて行くのです。

イエス・キリストは、天に上げられる前に、マタイによる福音書の第28章・第19~第20節にある「あなた方は行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け、わたしがあなた方に命じたことを、すべて守るように教えなさい。わたしは代の終わりまで、いつもあなたが方とともにいる。」とおっしゃられ、使徒(弟子)達にその使命を与えられました。

洗礼を受け私たち信徒は、イエス・キリストの教えを直接受けた使徒をはじめ、現代の司祭や修道士と同じように福音を述べ伝える使命(ミッション)を担っています。不幸な境遇にある人々、病に苦しむ人々、貧困にあえぐ人々に、キリスト者(クリスチャン)は、聖書にある福音書に書かれた聖句(イエス・キリストの言葉)を告げ知らせることによって希望をもたらすことができるのです。

ルカによる福音書の第10章・第4節に「あなた方は財布も袋、また履き物も携えてはならない。」とおっしゃられ、使徒(弟子)たちを派遣される際の主の御言葉は“神のみを頼りにしなさい”という派遣の原点となるものでした。私たちは、生活の場である家庭、生活の糧を得る職場において、あるいはボランティアなどの社会活動において、自分にできる言葉と善き行いをもって伝えるのです。

とは言っても、では具体的にどうするの?ですよね。それは上記に書いた「自分にできる言葉と善き行いをもって、イエス・キリストの教えを伝えること。」ということに尽きます。それが福音を述べ伝えることになります。でも、突如として聖書の福音書に書かれている「殺すなかれ、盗むなかれ、姦淫するなかれ。」と話したところで、なかなか聞いてもらえないですよね……と言うより、

私の場合、ただでさえ怪しいおじさんと思われているのに、ますます怪しいおじさんになってしまいますね( ̄▽ ̄;) 話すのは簡単ですが、これを聞いて理解して実践してもらうには、話す機会を考えるとか、もっと優しい言葉に言い換えるとか、何かの話しに混ぜて話すなどの工夫も必要になります。これは私の職場での経験ですが、同僚から「あいつは絶対に赦さない!」という怒りに満ちた言葉がありました。そこで私は「今まで生きてきて、赦してもらいたいと思ったことの一つや二つはあったよね。これからも赦してもらいたいと思うことは必ずありますよ。だったら今、その人を赦すべきではないですか。」と諭しました。これはイエス・キリストの「赦し」の教えですね。イエス・キリストの教えを伝えることが、なによりも立派な宣教となることを改めて認識した機会でした。

そして、善き行いを自ら実行してまわりの人に影響を与え、善き行いをする仲間を増やすことも大切なことですね。ホームレスなど困っている人を助けるボランティアに参加するとか、困っている人を救済するための支援募金をするなど、日常において実践することです。もっと簡単なことでは、高齢者が横断歩道を渡ろうとしていたら、手を差し伸べて一緒に渡るとか、階段で難儀をしている人の荷物を持ってあげるとか、ちょっとした親切(=愛)も福音につながるものがあるのではないでしょうか。ちなみに私の場合は、このブログに聖書の聖句、偉人の名言、世の中の格言、キリスト教に関連する話しなどを掲載することが、福音を述べ伝える宣教方法の一つとなっています。

また、人(=隣人)のために祈ることは福音に通じることです。人のために祈ることはイエス・キリストが説いておられる「隣人への愛」となります。これは大切なことですね。弛まず祈ることは私達信徒にとって当たり前の務めですが、自分のためでなく、困っている弱い立場の人々のために祈ることは、これも福音の述べ伝えることに通じるものがあります。
私は、毎日朝夕に。
「慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
とお祈りしています。

◯補足説明
間違ってはいけないのは、聖書の福音書に書かれている「福音(救いの良き知らせ)」を述べ伝えることが宣教(目的)であって、決して勧誘することではありません。これを間違う人がいるのですね。勧誘するために派遣されるのではありません。福音を聴いた人が自ら納得して洗礼を希望することは正解ですが、勧誘するために福音を述べ伝えるのではありませんから………勧誘ありきでは、どこぞの新興宗教団体と同じになってしまいます(; ̄O ̄)
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。