田中耕太郎のことば [キリスト者(クリスチャン)]

「実に宗教こそは、道徳に生命を、人類に希望を、政治に理想を、世界に平和を与えるものであります。」

この記事は、このブログに過去に掲載した記事を再掲載しています。
~衆議院議会において「宗教的情操教育二関スル決議」が採択された際の演説より~昭和21年、衆議院において「宗教的情操教育二関スル決議」が共産党を除く、圧倒的多数で採択されました。その内容は、世界平和のために、「宗教家、教育家の奮起を促し宗教的自覚による隣人愛、無我奉仕の思想を普及徹底させると共に、教育の根底に宗教的情操の陶冶を尊重せしめ、もって道義の昂揚と文化の向上を期さなければならない。」というものです。この言葉のとおりですね。説明はいりません。

田中耕太郎(鹿児島県鹿児島市:1890年(明治23年)~1974年)は、法学者で法哲学者です。東京帝国大学大学法学部長、第1次吉田内閣の文部大臣、第2代最高裁判所長官、国際司法裁判所判事、日本学士院会員、日本法哲学会初代会長です。文化勲章、勲一等旭日桐花大綬章を受章。死後に大勲位菊花大綬章を叙勲され正二位を追贈されました。
裁判官・検察官であった田中秀夫の長男として鹿児島県鹿児島市に生まれ、第一高等学校に入学し、東京帝国大学法科大学法律学科に進学、在学中の1914年(大正3年)に高等文官試験行政科(現在の「国家公務員総合職試験(Ⅰ種試験)」)に首席合格、1915年(大正4年)、東京帝国大学を首席で卒業して恩賜(おんし)の銀時計をもらっています。大変優秀だったのですね。
内務省に勤務しますが、1年半で退官して東京帝国大学助教授となりました。このころ、無教会主義キリスト教の内村鑑三の門下生となっています。欧米留学後、1923年(大正12年)に東京帝国大学教授に就任、結婚して妻の峰子夫人の影響によりカトリック信仰の真理性を確信するようになり、1926年(大正15年)4月に岩下壮一を代父として、上智大学初代学長ヘルマン・ホフマンより洗礼を受けています。1974年、聖母病院においてし帰天(逝去)しました。
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