新約聖書:マタイによる福音書・第5章・第14~第16節 [聖書]

カトリック成城・聖タデオ教会の外壁内側にある新約聖書のマタイによる福音書・第5章・第14節にある「あなた方は世の光である」のレリーフです。
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◯新約聖書:マタイによる福音書・第5章・第14~第16節
<世の光>
「あなた方は世の光である。山の上にある町は、隠れることはできない。ともしびをともして、升の下に置く人はいない。燭台の上に置く。こうすれば、家にいるすべての人々のために輝く。このように、あなた方の光を人々の前に輝かせなさい。そうすれば、人々はあなた方の善い行いを見て、天におられるあなた方の父をほめたたえるであろう。」
◯新約聖書:マルコによる福音書・第4章・第21~第25節
<ともしびと升>
「また弟子たちに仰せになった。「ともしびを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためであろうか。燭台の上に置くためではないか。まことに、隠されているもので露わにされていないものはなく、また、秘密にされたもので、公にならないものはない。聞く耳があれば、聞きなさい」。また仰せになった、「注意して話を聞きなさい。あなた方が量るその升で、あなた方も量り与えられ、しかも、さらに増し加えられる。持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。」
◯新約聖書:ルカによる福音書・第8章・第16~第18節
<ともしびの喩(たとえ)>
「ともしびをともして、それを器で覆ったり、寝台の下に置く人はいない。燭台の上に置いて、入ってくる人たちに明かりが見えるようにする。隠れたもので露わにならないものはなく、秘められたもので、知られないもの、公にならないものはない。だから、どのように聞くかに気をつけなさい。持っている者は与えられ、もっていない者は、持っていると思うものまで取り上げられる。」
◯新約聖書:ルカによる福音書・第11章・第33~第36節
<目は体のともしび>
「ともしびをともして、隠れた所や升の下に置く人はいない。燭台の上に置いて、入ってくる人たちに、明かりが見えるようにする。目は体のともしびである。目が健やかであれば、全身が明るい。しかし目を患えば、体は闇となる。だから、あなたのうちにある光が闇とならないよう、気をつけなさい。もし、あなたの全身が明るく、少しも闇の部分がなければ、ともしびがその輝きであなたを照らす時のように、全身が明かりに満ちたものとなる。」
以上は『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

これはイエス・キリストが、弟子たちに説かれた聖句(イエス・キリストの言葉)です。
暗闇を明るくする光、どこにも隠すことができない光、それは人や周りを照らすだけでなく、「人々の心を明るくする」というニュアンスもあります。つまり「他者のためのあり方」を示しているのです。ロウソクは、自分の身を溶かし削って、人や周りを照らします。他者のために自分の存在を燃やし続けるという「他者を活かすために自分は小さい者となっていく」こと。「光」は、それはまさにイエス・キリストの自己犠牲の人生そのものであったわけです。

この聖句「あなた方は世の光である」は、イエス・キリストに従う弟子たちは、すでに「世の光」であるということを意味しています。イエスの教えに聴き従う者たちが光である根拠は、真の光である神の子イエス・キリストがその従う弟子たち、すなわち私たち洗礼を受けた信徒たちの身体の中に住み、私たちの身体は神の神殿となっているからです。

イエス・キリストは、山の上にある家やともし火を置く燭台の話しなどをたとえ話しとして話されていますが、光の特徴は「隠れることができない」ことにあると私たちに教えますね。したがって世の光は、隠されずに輝かすことによって人々を引きつける求心力的な働きを意味しています。神の神殿である私たちは、同時に光輝く存在でもあるのです。

イエス・キリストは、この第16節で「このように、あなた方の光を人々の前に輝かせなさい。そうすれば、人々はあなた方の善い行いを見て、天におられるあなた方の父をほめたたえるであろう。」と説いておられます。これはもちろん自分自身をひけらかすことではありません。あなた方の光とは、キリスト・キリストから授かった福音(み言葉であり教え)です。この光を人々の前に明らかにするか?しないか?の信徒としての責任を問うているのです。

また、「人々はあなた方の善い行いを見て、天におられるあなた方の父をほめたたえるであろう。」ですが、「善い行い」とは何を意味するのでしょうか。貧困にあって生活に困窮している人、病に冒され絶望している人、無実の罪で訴えられて窮地にある人などなど、このような人(弱者)たちを救う行為が善い行いです。つまり、イエス・キリストが一番に説いておられる「隣人への愛」のことですね。これは、人を救う神の慈しみに照らして他者を愛しぬくことを意味しています。善い行いは自己満足のためでもなく、義務としてでもなく、まして名誉のためでもなく、私たちが神の愛に気づいて神をあがめるようにとの、礼拝の心をこめて行うように勧められているのです。
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