新約聖書:マタイによる福音書・第7章・第7〜第11節 [聖書]

「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見出す。たたきなさい。そうすれば開かれる。誰でも求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれる。あなた方のうちに、子供がパンを求めているのに、石を与える者がいるだろうか。あるいは、魚を求めているのに、蛇を与える者がいるだろうか。あなたがたは悪い者であっても、自分の子供たちに、善い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなた方の天の父が、ご自分に求める者に、善い物を与えてくださらないことがあるだろうか。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

今日のこの聖句(イエス・キリストの言葉)は、「山上の説教」という副題のついているところの一部分です。一般的には「山上の垂訓(さんじょうのすいくん)」として有名な箇所ですね。これは、新約聖書のマタイによる福音書・第5章から第7章とルカによる福音書・第6章に記載のある、イエス・キリストが、山の上で使徒(弟子)たちと群集に語った教えのことです。是非とも第7章全体をお読みください。

この「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見出す。たたきなさい。そうすれば開かれる。」は聖書の中でも有名な箇所です。しかし、イエス・キリストの教えの主要部分は、最後にある「まして、天におられるあなた方の天の父が、ご自分に求める者に、善い物を与えてくださらないことがあるだろうか。」に集約されています。天の父とは、イエス・キリストの父である神様のことです。

イエス・キリストは、実は「求めつづけなさい、探しつづけなさい、たたき続けなさ」と“ 続けなさい ” と説かれているのです。私たちが祈り求めるものは、「ください。」とお祈りして、「はい、あげますよ。」という簡単なものではないですね。そのようなものなら、最初から祈り求めなくてもいいわけです。私たち人間が簡単に与えてもらえないものだからこそ、諦めずに求め続けなさいと説いているのです。

では、イエス・キリストは、私たちに対して何を求め、何を探し、何をたたきなさいと説いているのでしょうか。それは、「神のみ旨・み心(神の教え・お考え)」です。神のみ旨・み心を求め、神のみ旨・み心を探し、神のみ旨・み心をたたきなさいと説いておられるのです。目の前にあるような物質的な物欲的なご利益的なものではなく、み旨・み心に叶うことを求め、探し、たたきなさいということです。そうすれば「天におられるあなた方の天の父が、ご自分に求める者に、善い物を与えてくださらないことがあるだろうか。」と私たちに問いかけているのです。

そして、聖書に書かれている「種を蒔く人のたとえ」の教えを引用し、それを応用して書きますが、神のみ旨・み心を知り聞くだけの人の蒔く種は、道端に蒔かれた種と同じで、芽を出す前に人に踏みつけられ、鳥に食べられてしまいます。み旨・み心を求め探す人が蒔く種は、良い土地に落ちて芽を出し百倍の実を結びます。キリスト者の信仰は、神のみ旨・み心を知って聞いて信じることだけでなく、神のみ旨・み心を行うこと、実践すること。その“善き行い”が伴なって初めて信仰と言えるのです。これがキリスト者として非常に重要なことであると確信しています。

最後に、この聖句はイエス・キリストが「祈り求める大切さ」も説いると解釈します。祈りは、粘り強く諦めずに継続しなけなければなりませんが、そうしたからといって必ずしも私たちの願いがすべて成就するわけではありません。しかし、真剣に祈り続けるなら、祈る人自身の心が次第に良い方向に向かって変えられて行くのです。この聖句は、ある意味で祈りの勧めである以上に、イエス・キリストの父である神様の寛大な愛を示しているように感じます。

使徒である聖パウロは、新約聖書のローマへの信徒への手紙・第5章・第3~第5節で「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」と記しています。忍耐こそが希望への光となるのです。祈りも同じだと思います。忍耐を持って祈り続けるのです。そうすれば、希望の光であるイエス・キイストの父である神様が、必ずや聴き留めて報いてくださるのです。これを信じて祈りを実践することが信仰なのですね。
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新約聖書:ヨハネの手紙 一・第1章・第9節 [聖書]

「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」
『聖書協会共同訳 聖書』から

この聖句(聖書の言葉)は、カトリック教会の『赦しの秘跡(ゆるしのひせき)』のことを表しています。『赦しの秘跡』とは、カトリック教会にある7つの秘跡の一つで、罪を犯した信徒が聴罪司祭(ちょうざいしさい:神父様)に告解(こっかい:罪を告白すること)をし、罪を赦してもらうというものです。もちろん罪を赦すのは、神様であって司祭ではありません。『赦しの秘跡』として、罪の赦しのための行為ができるのは、イエス・キリストの12人の使徒(弟子)の後継者である司教と、司教の協力者である司祭だけです。

司教・司祭(聴罪司祭)は、罪の告白を聴いて「父と子と聖霊のみ名によって罪を赦す権能」を行使します。要するに神様に代わって罪を赦す宣言をするということですね。また、聴罪司祭には守秘義務があり、告白によって知り得た罪(刑法に係る罪であったとしても)について完全に秘密を守るように秘密を守る義務(守秘義務)があります。これに背けば厳罰を科せられることになります。ですから、告解した内容は厳守されます。なお、『赦しの秘跡』を受けることができるのは、洗礼を受けたカトリック教会の信徒だけです。

ちなみに、若い人たちの間で次のような会話を耳にすることがあります。
A子「今日ね、教会で神父様に罪の告白をして、神様にお赦しをいただいちゃいました!」
B太「そうなんだ~、懺悔(ざんげ)してきたんだ。」
A子「懺悔じゃないから!」
B太「だって罪の告白って懺悔のことじゃん!」
A子「なに言ってんの!?罪の告白は告解(こっかい)って言うんだよ。」
B太「なにそれ~。どう違うの?」(⌒-⌒; )

『赦しの秘跡』での告解を「懺悔(ざんげ)」と間違う人がいますが、懺悔はカトリック教会では使われず、カトリック教会での宗教的意味は全くありません。そして、お祈りの中で罪を認めるときは「罪の告白 = 告解」といいます。カトリック教会の告解はとても大切な秘跡であって、告解は懺悔ではないということです。わかりやすく言えば、懺悔は「ごめんなさい」と謝ることで、告解は「振り返り、あやまり・罪を認め神様に赦していただくこと。」です。『赦しの秘跡』で告解をし、そして、最後のところで「あなたの罪は赦されました。」と神様に代わって聴罪司祭が宣言します。これで罪が赦されたことを意味しているのですね。

【聴罪司祭(神父)】
『赦しの秘跡』において、信徒の罪の告白を聴き、赦免(赦し)を与える司祭のこと。もちろん、『赦しの秘跡』の指導を受けて秘跡を修得し、聴罪司祭としての訓練をされていますから信頼して告解できます。(告解とは、聴罪司祭に罪を告白すること。)
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旧約聖書:シラ書(集会の書)・第4章・第4節 [聖書]

「悩んで助けを求める人を拒むな。貧しい人から顔を背けるな。」

『シラ書』は、ユダヤ教とキリスト教プロテスタント諸派では外典(聖書に収録していない書物)として扱われ、カトリック教会と正教会では旧約聖書に含められている書物のうち一つで、「集会の書」もしくは「ベン・シラの知恵」とも呼ばれています。タイトルは著者のベン・シラ(シラの息子の意)に由来しています。
内容は、さまざまな教訓の集成書で、人間関係、教育や礼儀作法など、生活のあらゆる分野に及ぶ教訓が中心ですが、後半部分ではイスラエルの歴史を歌う賛歌もみられます。その背景にあるのは、” 神と律法への忠実さこそが知恵の中心である ” という思想です。

前半部分の「悩んで助けを求める人を拒むな。」という言葉は、言葉のとおり解釈・理解ができます。やはり助けを求めている人を見過ごすわけにはいかないですね。一人の人間として放っておくことはできません。必ず助けることです。これは、イエス・・キリストが説く「隣人愛」のことです。
後半部分の言葉の「貧しい人」とは、そのまま経済的に物質的に貧しい人という意味に解釈するのが普通ですが、キリスト教においては、“ 心の貧しい人=愛のない人 ” とも解釈します。 ” 心の貧しい人=愛のない人 ” ほど哀れで可哀想な人は他にはいません。私達は、そのような人から顔を背けてはならないのです。そのような人にこそ、手を差し伸べることが大切なのですね。これが善い行いとなるのです。神様は見ておられます。常に自戒すべき言葉と肝に銘じています。
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新約聖書:ルカによる福音書・第18章・第9〜第14節 [聖書]

「また、自分を正しい人間であると思い込み、ほかの人をさげすむ人々に、イエスは喩え(たとえ)を語られた、
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人であった。ファリサイ派の人は胸を張って立ち、心の中でこう祈った、「神よ、わたしがほかの人たちのように、略奪する者でも不正な者でも、姦淫を犯す者でもなく、またこの徴税人のような者でもないことを、あなたに感謝いたします。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を収めています」。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った、「神よ、罪人であるわたしを憐れんでください」。
あなたがたに言っておく。義とされて家に帰ったのは徴税人であって、ファリサイ派の人ではない。誰でも自ら高ぶる者は下げられ、自らへりくだる者は上げられる。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

【徴税人】
当時のユダヤ地方(現在のシリア、ヨルダン、イスラエル辺り)を属州として支配していたローマ帝国(ローマ人)のために、税金の取立て役を請け負ったユダヤ人のことです。自分たちを支配するローマ人のために、同胞のユダヤ人から税を取り立て、定められた額より多く搾取するなど、同胞のユダヤ人から憎まれて罪人として嫌われていました。
【ファリサイ派】
ユダヤ教の指導者の一派で、律法を厳格に守り、細部に至るまで忠実に実行することによって神の正義の実現を追求しているつもりですが、その実は形式主義に陥り、人間が作った掟を大切にして神の教えをないがしろにしている人たちのことです。偽善者ですね。また、自分達イスラエル人は、神に選ばれた唯一の民族で、神様との特別な契約を結んだ “ 神の民 ” であり、救いは “ 神の民 ” だけのものだと信じている人たちでした。ですから、イスラエル人でない異邦人は、神様の救いから除外されていると見下していました。新約聖書に登場する律法学者や祭司長なども同類の人たちです。

この聖句(イエス・キリストの言葉)には、祈るために神殿に上がった2人の人が登場しています。1人はファリサイ派の人で、もう1人は徴税人です。ファリサイ派の人は市民から社会的に認められている地位のある人ですが、徴税人は、異邦人で支配者であるローマ帝国(ローマ人)に協力し、税金を多く搾取することでユダヤ人から嫌われ憎まれていました。ところが、「神よ、罪人であるわたしを憐れんでください」と言葉少なく、正直に謙虚にお祈りした徴税人の方が、神様から赦されて祝福を受けて家へ帰ったのです。偽善者のファリサイ派の人も、まったく誉められた人間ではありませんが、なにか不公平な感じがしないわけではないですね。

しかし、イエス・キリストが私たちに教えてくださることは、「神にその赦しと祝福を受けて愛されることの妨げになるのは、私たちの『罪そのものよりも傲慢な心』である。」とはっきりと教えてくださっています。つまり、人々に認められ地位のあるファリサイ派の人たちでも、自惚れた傲慢な心(偽善者の態度)で祈っていては救われないのです。一方、たとえ人々から罪びとと罵られていても、徴税人のように神様に対して自分の罪を正直に認め素直で謙虚になって祈れば救われるのです。私たちも日々犯した罪の赦しを願うのであれば、その前に私たちの心にある<傲慢な心>を取り除かなければなりません。毎日ミサに与ってご聖体を拝領し、熱心に祈りに励んでいても、<傲慢な心>では信仰生活はまったく意味をなしません。とにかく正直で謙虚な心を持つことです。謙虚になって祈りましょう。

◯カトリック教会では、高慢(こうまん)は大罪です。次に上げるのは、カトリック教会が定める「七つの大罪」です。なんか漢字の練習問題みたいですが。どこぞやの高校入試の国語の問題に、大罪の一つが漢字の問題として出たそうですよ(^_^;)
【七つの大罪】
一、傲慢:ごうまん(高慢:こうまん)
二、貪欲:どんよく(強欲:ごうよく)
三、嫉妬:しっと(羨望:せんぼう)
四、憤怒:ふんど(激高:げきこう)
五、貪食:どんしょく(暴食:ぼうしょく)
六、色欲:しきよく(肉欲:にくよく)
七、怠惰:たいだ(堕落:だらく)
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新約聖書:ルカによる福音書・第15章・第11〜第32節 [聖書]

今日は、新約聖書の中でも特に有名な「放蕩息子の帰還(帰郷)」又は「放蕩息子のたとえ話し」といわれている箇所のお話しを掲載いたします。少々長くなりますが、最後まで根気よく読んでくださいね。それから、このブログに「放蕩息子の期間・関西弁編」もあります!是非お読みください!関西弁は、落語調になっていますからとっても面白いですよ!
掲載は次のアドレス https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/archive/20140413 の掲載となります。

「イエスは仰せになった。「ある人に二人の息子があった。弟が父に向かって言った、『お父さん、わたしがもらうはずの財産の分け前をください』。そこで、父は資産を二人に分けてやった。いく日もたたないうちに、弟はすべてをまとめて、遠い国に旅立った。そこで放蕩に身を持ち崩し、財産を無駄使いしてしまった。すべてを使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こり、彼は食べる物にも困るようになった。そこで、その地方のある人のところに身を寄せたところ、その人は、彼を畑にやって豚を飼わせた。

彼は、豚の食べる蝗豆(いなごまめ)で、空腹を満たしたいほどであったが、食べ物を与えてくれる人は誰もいなかった。そこで、息子は本心に立ち返って言った、『父の所では、あんなに大勢の雇い人がいて、食べ物があり余っているのに、わたしはここで飢え死にしょうとしている。そうだ、父のもとに行こう。そうしてこう言おう、<お父さん、わたしは天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました。もう、あなたの子と呼ばれる資格はありません。どうか、あなたの雇い人の一人にしてください>』。そこで、彼は立って父のもとへ行った。

ところが、まだ遠く離れていたのに、父は息子を見つけ、憐れに思い、走り寄って首を抱き、口づけを浴びせた。息子は父に向かって言った。『お父さん、わたしは天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました。もうあなたの子と呼ばれる資格はありません』。しかし、父は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を出して、この子に着せなさい。手には指輪をはめ、足には履き物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を引き出して屠りなさい。食事をして祝おう。この子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。やがて、祝宴が始まった。

さて、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。そこで僕の一人を呼ぶと、いったい何事かと尋ねた。すると、僕は答えた。『弟さんがお帰りになりました。無事に弟さんを迎えたので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです』。兄は怒って家に入ろうとしなかった。そこで、父が出て来て宥める(なだめる)と、兄は父に向かって言った、『わたしは長年お父さんに仕え、一度も言いつけに背いたことはありません。それなのに、わたしが友人と祝宴を開くために、子山羊一匹もくださいませんでした。
ところが、あなたのあの息子が娼婦どもにあなたの財産をつぎ込んで帰って来ると、彼のためには肥えた子牛を屠られます』。すると父は言った。『子よ、お前はいつもわたしとともにいる。わたしのものはすべてお前のものだ。しかし、お前の弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、祝宴を開いて、喜び合うのはあたり前ではないか』。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

聖書のこの箇所は、新約聖書「ルカの福音書」の第15章に登場するイエス様が語った喩(たとえ)話しです。父と2人の息子(兄弟)が登場するので、「2人の息子のたとえ」や他に「放蕩息子の帰還(帰郷)」などともいわれています。このたとえ話は、昔から有名で「完全なる小品、短編物語中の最高傑作、福音書の中の真珠」とも言われています。
簡単に要約しますと、「ある父親に2人の息子(兄弟)がありました。しかし、ある日、次男坊は父親から遺産の分け前(生前分与)を受け取って遠い国へと出ていってしています。そして、お金と自由を得た勢いで放蕩の限りを尽くし、とうとうすべてを失ってしまいました。墜ちるところまで墜ちたとき、彼は初めて自分の過ち(罪)に気づきます。そして、合わせる顔がないと思いつつも、謝罪の気持ちと救い(赦し)を求めて、かつて飛び出したお父さんの家に帰ってきたのでした。
彼はどんなに叱られても仕方がないと思っていたでしょう。しかし、父親は帰ってきた息子をしっかりと抱きしめて、「死んだ息子が生き返った」と喜んで、盛大な祝宴を開いてくれました。この譬え話で最も感動的な部分がここにあります。
ところが、それを聞いた長男は釈然としない気持ちにかられます。自分は何年もお父さんの言うとおりに忠実に働いてきたけれど、あんな風に祝宴を開いてもらったことは一度もないことを思うと、怒りのようなものさえこみ上げてきます。この長男の様子を聞いた父親はすぐにとんで行き、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と、長男を宥め、2人の息子がそれぞれに父の愛を受けていることを諭したというものです。」ということです。

この聖句(物語)は、放蕩息子の①帰還を待ちわび、②息子を赦し、③喜ぶ父親の物語となっています。ここでの父親とは「神様」のことですね。弟は放蕩息子で「罪びと」です=私たちのことを指しています。兄とは当時の「神の教えに反して形式的で偽善的な律法しか教えないユダヤ教ファリサイ派(ユダヤ人)や律法の専門家の人々」のことを指しています=これも私たちのことですね。ですから、この聖句(物語)に出てくる「父親」を「神様」と読み替え、「息子(弟)」を「私たち=罪びと」と読み替えると理解しやすくなります。
兄の訴えは正当な発言であるように感じられますが、兄は一つの大切なことを忘れています。父親はそのことを説明して兄に語りかけます。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」と。この父親は今、弟と兄との間に立っています。兄弟としての関係を失ってしまった2人の間にです。父親は兄弟の和解のために、帰還した弟にではなく兄に語りかけます。「ところが、あなたのあの息子が」と、もはや弟だと思えないで憎悪をむき出しにする兄に向かって、父は「子よ」と語りかけます。

このたとえ話しの結論は、「悔い改めるのは、もちろん父親から離れて放蕩の限りをつくして散財した弟であるが、実はもっとも悔い改めを必要としているのは兄の方である。」というものです。イエス・キリストが説く悔い改めとは、弟のように、父親が額に汗水流して働いて蓄財した財産を、放蕩の限りをつくして散財した罪を悔い改めて父の家へと立ち返ることだけではありません。絶望と死の淵から命へと向かって立ち上がるのが、弟の悔い改めであったとすれば、兄が今必要としているのは、①弟との和解であり、②ねたみと憎悪を取り去ることであり、③弟への赦しです。そして、④父とともにあることの豊かさを再認識 = 感謝すること、これこそが兄のなすべき悔い改めなのです。つまり、日々神様の恩恵を受けている私達が、神様への感謝の気持ちを忘れている状態と同じなのです。私たちがなすべき回心のわざに他ならないということです。

神の愛は、何時いかなる時も分け隔てなく誰にでも(罪びとであっても)注がれているのであって、私たち自身が嫉妬、貪欲、傲慢、激情、怠惰、色欲、貪食などの悪意で、自らそれを拒んでいるのですね。イエス・キリストは、この放蕩息子のたとえ話しで、私たち人間に<神の際限のない愛と赦し>、そして、どのような罪を犯しても<悔い改めて神に立ち返ること>を説いているのです。

◯私の部屋にはレンブラント・ファン・レイン作の『放蕩息子の帰還写』の絵(写)が飾ってあります。左側の膝まずいてみすぼらしい姿をしているのが放蕩息子で、両手で抱えるようにしているのが父親です。そして、右側に立ってこの二人を見下しているのが兄です。
『放蕩息子の帰還』 レンブラント・ファン・レイン作 ・1666-1668年頃
エルミタージュ美術館蔵
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◯関係書籍のご紹介
放蕩息子の物語に関係する書籍はたくさん出版されていますが、中でもこの本は一番わかりやすい本です。お勧めいたします。是非お読みください!
書名:『放蕩息子の帰郷―父の家に立ち返る物語―』
著者:ヘンリ・ナウエン
訳者:片岡 伸光
出版社:「あめんどう」
刊行年:2003年
単行本:206ページ・A5版
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新約聖書:マタイによる福音書・第11章・第28〜第30節 [聖書]

「労苦し、重荷を背負っている者はみな、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしの心は柔和で謙遜であるから、わたしの軛(くびき)を受け入れ、わたしに学びなさい。そうすれば、あなた方は魂の安らぎを見出す。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
『原文校訂によるフランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖句(イエス・キリストの言葉)「労苦し、重荷を背負っている者はみな、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」で、私は何度も癒やされて安らぎを得ることができ、表現が極端かもしれませんが “ 息をする ” ことができました。私と同じように、この聖句で癒やされた人はたくさんいるのではないでしょうか。
この現代社会で、疲れていない人なんていないと思います。大人も子どもも、体も心も疲れ果てているのです。人付き合いが下手で人間関係がうまくいかない。勉強しても成績が上がらない。いわれのない悪口を噂された。常にトップを目指さなければならない…………などなど、これでは疲れないわけがありませんね( ̄▽ ̄;)

イエス・キリストは、そんな私たちに対して「休ませてあげよう」とおっしゃられています。でも現実問題として多くの人は休んでいられない状況にあるわけです。しかし、間題は “ 私たちが何によって疲れ果てているか、何によって安らぎを得て、癒やしを得て平安を得ようとしているのか ” ということではないでしょうか。
よく言われる “ 心地よく疲れる ” というのとでは訳が違うのです。そうではなく、仕事では緊張の連続であり、常に強いられ、もう心身共にくたくたになり、心が押しつぶされるように疲弊しているというのが、多くの人の「疲れ」の現状ではないでしょうか。自殺者の心境にはなれませんが、その心境に近いかもしれません。

イエス・キリストは、私たちが苦しむ様子を、農具を取り付けられて畑で働かされている家畜の姿として表現しています。「軛(くびき)を負い。」という言葉ですね。重い軛をつけられて疲れきっている私たちに、イエス・キリストは「私のもとに来なさい」とおっしゃられます。あなたがたが担いでいる軛を外しなさいと。
本当はものすごくありがたい言葉ですが、そうは簡単にはいかないですよね。どうしてか?私たちはこの軛をもって働き、生活し、生きてきたのですから。重たい軛に耐えて、うまく担いで上手に畑を耕すこと、効率よく働き、その能力にしたがって評価され、それが長年当たり前の社会だとして生きてきたわけですからね。

イエス・キリストは “ 軽い軛を与える ” とおっしゃられています。休ませるといっても、何もしなくてもいいのではありませんね。職場の休憩時間ではないわけです。そのような休み時間を約束したのではないのです。イエス・キリストが約束した休み・安らぎとは、実は「軛を付け替えること」だったのです。ここが重要です。
私たちを疲れさせているのは、軛の重さや仕事の量ではなく、質や強いられる犠牲の大きさでもなく、「本質的な意味や目的に共感できないことで疲れている。」のではないでしょうか。世間の波に飲み込まれ、世間の物差しで自分を測って、 " 本当の自分らしさ ” を見失っているからではないでしょうか。これがポイントです。

イエス・キリストは柔和で謙遜で真実で優しい方です。それ以上に、イエス・キリストは十字架の苦しみをご経験された私たちの救い主です。ですから私たち人間の苦労や痛みを知っていらっしゃるのですね。軛を取り替えること → 仕事の目的を変えること → それは自分の人生観、価値観を変えることに他ならないと思います。
安らぎと癒やしはそこに約束されるのです。疲れて二進も三進もいかない人は、役に立たないような無駄ないらないプライドなど捨ててしまい、毎日の生活に平安と癒しを得られるように、今までの既存の生活環境&仕事環境から思い切って方向転換しましょう!人生は一つだけではありません!いろいろと選択肢があるのです。

生涯のすべてに信頼をおいてイエス・キリストを信じること。これが信仰なのですが、イエス・キリストに自分のすべてをゆだねることができること。これが信仰しているという証ではないでしょうか。このゆだねることこそ「軛を付け替えること」ではないでしょうか。だからこそ既存の状態から思い切って方向転換できるのです。
イエス・キリストはそばで見ておられます。祈りましょう。
【軛(くびき)】
車の轅(ながえ)の先端につけて、車を引く牛馬の頸の後ろにかける横木。
【輈(ながえ)】
「長柄」のこと。馬車・牛車などの前方に長く突き出ている2本の棒。先端に軛(くびき)をつけて牛や馬にひかせる。
◯図の矢印が軛(くびき)、牛の両側の横棒が輈(ながえ)です。
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◯2頭立ての軛(くびき)です。とっても重そうですね。
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新約聖書:ヤコブの手紙・第3章・第2〜第12節 [聖書]

今日は、日本語訳の違う次の2つの聖書から聖句(イエス・キリストの言葉、聖書の言葉)をご紹介いたします。訳の違いで、ニュアンスに少々違いが生じます。

「私たちは皆、度々、過ちを犯します。言葉で過ちを犯さないなら、それは体全体を制御することのできる完全な人です。馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を操ることができます。また船を見なさい。あのように大きくて、風に激しくあおられていても、ごく小さい舵によって、舵取りの望む方に操られて行きます。同じように、舌も小さな器官ですが、大言を吐くのです。
見なさい。いかに小さな火が大きな森を燃やすことか。舌もまた火です。舌は、私たちの体の器官の中で、不義の世界を成しています。それは、体全体を汚し、人生の歩みを、自らもゲヘナの火によって焼き尽くされます。あらゆる種類の獣や鳥、地を這うものや海の生き物は、人類が治めており、また治めてきました。しかし、舌を治めることのできる人は一人もいません。
舌は、制することのできない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私たちは舌で、父なる主をほめたたえ、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪っています。同じ口から、賛美と呪いが出て来るのです。私のきょうだいたち、このようなことがあってはなりません。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水が湧き出るでしょうか。私のきょうだいたち、いちじくの木がオリーブの実をつけたり、ぶどうの木がいちじくの実をつけたりすることができるでしょうか。塩水が甘い水を生むこともできません。」
『聖書協会共同訳聖書』から

「わたしたちはみな、しばしば過ちを犯すものです。もし言葉で過ちを犯さない人がいるなら、その人は全身を制御することのできる完全な人です。馬を御するために、その口に轡(くつわ)をはめれば、馬の体全体を意のままに動かすことができます。また、船を見てください。それがどんなに巨大で、強い風に吹きまくられていても、ごく小さい舵一つで、舵取りは意のままにそれを操ることができます。同じく、舌は小さな器官ですが、大言壮語することができます。
また、火を見てください。どんな小さな火でも、大きな森を燃やすことができます。舌は火です。不義の世界である舌は、体の器官の一つであり、全身を汚し、人生の車輪を燃やし、自らも地獄の火によって燃えたたされます。あらゆる種類の獣、鳥、這うもの、海の生き物は、人間によって支配されており、またこれまで支配されきました。これに反し、誰も舌を支配することはできません。
舌は疲れをしらない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、また、この舌をもって、神にかたどって造られた人々とを呪います。この同じ口から賛美と呪いが出てくるのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。同じ泉から甘い水と苦い水が湧き出るでしょうか。わたしの兄弟たちよ、いちじくの木がオリーブの実をつけ、ぶどうの木がいちじくの実をつけたりすることがありえますか。塩分を含む泉は、真水を出だすことはできないのです。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

「口は災いの元(くちはわざわいのもと)」とはよく言ったものですね。今も昔も変わりはありませんね。人間関係を良くするも悪くするも、口から発声した「言葉」しだいです。どんなの言葉でも、大切なことは「その言葉に人を思い遣る心があるか。」ですね。これを「慈しみの心」と言います。この心があれば相手を傷つけることはありません。難しいことかもしれませんが、普段からどんな小さなことでも気を配っていればできるようになると思います………が、まったく私の一番自戒とすることです( ̄◇ ̄;) 65歳になっても反省ばかりです。つい先日も失敗したばかりですΣ( ̄ロ ̄lll) よかれと思って言ったことが、混乱を引き起こしてしまうことになるのです。 “ お節介焼き ” な性格の私には、「言い過ぎ」と「言葉足らず」も同じですね。今日の聖句(聖書の言葉)は、本当に身に浸みます(⌒-⌒; )

【くつわ(轡)】
馬具(ばぐ)の一種で、馬の口にはめて手綱(たづな)をつなぎ、馬を制御するための金具のこと。
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新約聖書:コリントの人々への第二の手紙・第13章・第13節 [聖書]

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、みなさん一同とともにありますように。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

今日の聖句(聖書の言葉)は、ミサの司式の冒頭(ミサの一番最初のところ)で司祭の言葉に採用されている聖句です。今日は、ミサに関係することですので、信徒の方しかわからない内容ですね。ご了承ください。
<開祭の儀>
「入祭のあいさつ」のところで、
司祭:十字を切りながら「父と子と聖霊のみ名において」と唱えます。
会衆:司祭と一緒に十字を切ってから「アーメン」と唱えます。
司祭:「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんと共に。」と唱えます。
会衆:「また あなたとともに」と応唱します。
そして司式は「回心の祈り」に入っていきます。

この司祭の唱える「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんと共に。」は、『コリントの人々への第二の手紙』の最後にある第13章の第13節からの引用です。この聖書の聖句(聖書の言葉)は、キリスト教の根本である「三位一体の神」を見事に表現しています。私は、私的な手紙やメールの相手がクリスチャンであれば、最後の結びとして「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが◯◯さんと共にありますように。」と書くようにしています。ただし、クリスチャンではない方への手紙には意味が通じない(理解できない)ですから使えないですね( ̄▽ ̄;)
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「誘惑」のお話し [聖書]

今日のお話しは「誘惑」です。
誘惑について、聖書には次のとおり書いてあります。
◯新約聖書:ヤコブの手紙・第1章・第14〜第15節
「人はそれぞれ、自分の欲に引かれ、
そそのかされて誘惑に陥るのです。
そして、欲は身籠って罪を生み、
罪は熟して死を生み出します。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

「誘惑」は、ほとんどにおいて悪です。たとえその誘惑が善であったとしても、「欲」が絡めば悪となります。ですから誘惑のあるところに欲があり、その欲に陥る(負ける)と「罪」が待っています。そして罪は、やがて「死」へのつながっていくのです。
私たちが気をつけなければならないことは、絶対に誘惑にのらないことです。これに負けてしまうと、欲をはらんで罪を犯すことになるからです。この世の中の悪いことの始まりは、すべて誘惑ですね。善い(良い)ことで誘惑するとは言わないですからね。
その誘惑ですが、私たちキリスト者で一番重要なお祈りである『主の祈り』の最後にある言葉は「誘惑におちいらせず、悪からお守りください。」です。この一番重要なお祈りの最後に、誘惑という言葉が出てくることからも、その重要性が理解できますね。
また、私が毎日朝夕お祈りする『聖母の御助け(おんたすけ)を求める祈り』の祈祷文にも、「……私たちをお助けくださいますよう、心から祈り求めます。特に、困難に出会時、病気の時、誘惑を受けた時、罪を犯した時……」とあります。それほど、昔からこの誘惑が人間の最大で永遠の課題なのです。それは食欲、金欲、物欲、性欲、名誉欲などなど、誘惑は欲から発生するのです。

◯この聖句の意味
「そそのかされて誘惑に陥る」ということですが、私はそそのかされて誘惑に陥るのではなく、「自ら進んで自発的に陥った」という解釈をします。つまり「自分の意思で誘惑に陥った」ということです。誘惑の意味は、辞書には「人を迷わせて、悪い道にさそいこむこと。」とありますから、「自分の外から・相手から来た誘惑を自分が受けて悪い道に誘い込まれた。」ということですが、そうではなく、誘惑を受けて「自ら欲を出して、自らの意思で行って、自ら罪を犯してしまう。」ということです。すべては自分の意思で判断して行ったことなのです。意思の問題です。

欲には際限がありません。ですから人間は日々の生活において自制しなければならないのです。下世話な例ですが、ダイエットをしている人は多いと思いますが、食欲にまかせるままにした結果、肥満によって糖尿病などの成人病を患うことになるのです。自制しなかったことによる報いですね。ところで、フランシスコ教皇は「欲は、あなたの見方を狂わせる。断食してみると、あらゆることに対して見方を変えられます。それは貪欲の誘惑から遠ざけ、愛のために苦悩する力を与えてくれるのです。」と述べておられます。私の最も自戒としなければならないお言葉です。
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旧約聖書:箴言・第24章・第17~第18節 [聖書]

「敵が倒れても喜んではならない。
彼がつまずいてもこころを躍らせるな。
主がそういうあなたを見て不快とされるなら
彼への怒りを翻すされるであろう。」
『新共同訳聖書』から

旧約聖書にある『箴言(しんげん)』は、キリスト教では知恵文学の一つとして『詩編(しへん)』の後に置かれています。内容は<教訓集>で、様々な徳や不徳とその結果、日常における知恵や忠告等となっています。『箴言』中の格言の多くは、ソロモン王によって作られたとされていますが、これは、律法に関する五書がモーセの名で呼ばれているように、知恵文学(箴言、コヘレトの言葉、雅歌)はソロモンの名で呼ばれるからだそうです。実際は、複数の作者の言葉が収められています。

◯では、この聖句(聖書の言葉)の解釈をしましょう。
1.まずは前段部分の説明です。
まず「敵」という言葉は、自分の競争相手だったり、復讐したい相手だったり、嫌っている人のことというのが一般的ですが、ここでいうところの敵とは、過去に自分に悪意を持って危害や損害などを与えた人、あるいは将来的に予想される人のことです。そのような人が「倒れる」、「つまづく」などをした時、喜んだり心躍らせたりしてはいけないと説いています。普通の人だったら「ざま~みろ!」、「そら見たことか!」とか「罰が当たったんだ!」と言って大笑いして大喜びそうですよね。

2.この聖句の別のところで、神様は次のとおり教えておられます。
◯新約聖書:ローマの人々への手紙・第12章・第19~第21節
「愛するみなさん、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「主は仰せになる、『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と書かれているからです。しかし、次のようにも書かれています、「敵が飢えてうるなら食べさせよ、渇いているなら飲ませよ。そのようにすることで、あなたは敵の頭に燃える炭火を積むからである」。悪に負けてはなりません。むしろ善をもって悪に勝ちなさい。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖句は、使徒であるパウロが、ローマの信徒に宛てた手紙に書いている言葉です。神様は、人間に復讐(報復)することを絶対にお許しになりません。それは復讐・報復することよって、人間に暴力などの罪、強いては殺人の罪を犯させることになるからですね。ですから、復讐・報復は人間に代わって神様ご自身がなさるというわけです。このことは非常に大切なことです………私はこの聖句でどれだけ救われたことか。

3.次に、2を受けて最初の聖句に戻って後段部分の説明
相手が「倒れる」、「つまづく」などをした時に喜んだり心躍らせたりする自分を主(神様)が見て、不快になって怒を収めてしまわれるということです。せっかく自分に代わって神様が復讐してくださるのに、それを止めてしまわれるということです。大いに残念なことです!………でも、本当に残念なことですか?

4.この聖句は、「赦さない人間への戒めの言葉」ですね。
私たちが日常において、復讐・報復とまでいかなくてもそれに近い感情を抱くことはよくあることです。自分はまったく悪くないにもかかわらず!そうすると、これは何かきっかけがあるとその相手と喧嘩になってしまうのですね。復讐・報復は、聖書にも書かれていますが、神様がなされることであって人間のすることではないのです。そして、何よりも大切なことは相手を “ 赦す ” ことです。本気で心の底から赦すことです。難しいことであると思いますが、それでも赦さなければならないのです。

人は怒った時に、自分を相手と同じレベルか、それ以下にして怒っているから頭にくるのです。それでは気分は最悪ですよね。これを決して上から目線ではないのですが、慈しみと憐みの心を持って相手を見てあげるのです。「なんと、かわいそうな人なんだろう。」と。それができれば、赦すことなど何でもないことです。
ですから、自分が悪くなくても “ 怒りを覚えた時 ” は、「怒ることは神様がする」と自分に言い聞かせることです。決して手出しは愚か、口でも相手を罵ってはいけません。私はすでに実践しています………と言ってもまだ愚痴は出ます。これは最も自戒すべきことです。
神様は、相手がどのような悪人でも、私たち人間が倒れたり、物事につまずいたりした人を見て喜んだりすることは、決して良しとはしません。不快に思われるだけです。相手がどのような悪人であれ、人の弱みに付け込むようなことは、褒められたことではありませんね。それは相手を赦していないという証拠です。すべては慈しみと憐みの心を持って相手を赦すべきことなのです。
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