新約聖書:ルカによる福音書・第6章・第27〜第36節 [聖書]

「しかし、わたしは耳を傾けているあなた方に言う。敵を愛し、あなた方を憎む者に善を行いなさい。呪う言う者を祝福し、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者に、もう一方の頬を向けなさい。上着を奪う者には、下着をも拒んではならない。求める者には、誰にでも与えなさい。あなたの持ち物を奪おうとする者から、取り戻そうとしてはならない。あなた方は、人からしてほしいとことを、人にもしなさい。あなた方を愛する人を愛したからといって、何の恵みがあろうか。罪人でさえ、自分を愛する人を愛している。あなた方によくしてくれる人に、善いことをしたからといって、何の恵みがあるだろうか。罪人でさえ、そうしている。返してくれるあてのある人に貸したからといって、何の恵みがあるだろうか。返してもらえるのなら、罪人でさえ罪人に貸している。しかし、あなた方はあなた方の敵を愛しなさい。人に善を行いなさい。また、何もあてにしないで貸しなさい。そうすれば、あなたがたの報いは大きく、あなた方は、いと高き方の子らとなる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い方だからである。あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖書の部分は、イエス・キリストの聖句(言葉)です。この部分には、「憐れみ」という題がついています。ここを信徒ではない一般の方が読むと、いゃ、信徒が読んでも「聖書は難しいな~。」と感じますよね(; ̄O ̄)と同時に「なんと、理不尽な!」と思われるでしょうね。そこで、書いている内容を一つひとつ見てみましょう。
まず、最初に次の9つの聖句(言葉)です。
①敵を愛しなさい。
②あなた方を憎む者に善を行いなさい。
③呪う言う者を祝福しなさい。
④あなた方を侮辱する者のために祈りなさい。
⑤あなたの頬を打つ者に、もう一方の頬を向けなさい。
⑥上着を奪う者には、下着をも拒んではならない。
⑦求める者には、誰にでも与えなさい。
⑧あなたの持ち物を奪おうとする者から、取り戻そうとしてはならない。
⑨あなた方は、人からしてほしいとことを、人にもしなさい。
以上の9項目です。一般の方からすれば非常に “ 理不尽 ” な内容かと思います。それでも⑦と⑨の2項目は理解できると思います。しかし、普通ならば⑤、⑥及び⑧は絶対に拒絶しますよね。信徒ではない方からすると①~④も疑問を呈したくなるのではないかと思います。ただ、イエス・キリストの聖句のこの部分は、12使徒(12人の弟子)を対象に=信徒である私たちに説いているので、一般の人達に説く場合と違って厳しい内容になっています。

では、なぜイエス・キリストはこのようなことをおっしゃられているのでしょうか?それは、まず「敵を愛しなさい。」の「愛」とはなにか?を説明します。キリスト教(=イエス・キリスト)の愛は、アガペー(=真実の愛)であって、情熱的な恋愛の愛(エロース)や家族的な暖かい愛(フィーリア)ではないのです。アガペーとは、「他人の真の幸福(福利)に対する親切でゆるがない積極的な愛」なのです。アガペーは憎しみ、妬み、呪いや侮辱などに妨げられず、報いや結果などに制限されず、ただただ神様の本質を表しているものです。ですから、敵を愛せよという姿勢は、敵を感情的に好きになれということではなく、自分のためだけでなく、他人のために生きるという愛の姿勢なのですね。これを社会で行為として実践しなさいと説いているのです。

前述した理不尽なことの①と②は、お互いにやり返したり、仕返しを行なったり、自分を苦しめた相手のやり方を自分自身で行なってはならないという戒めの原理=信条を示しています。この原理=信条の後、③以下に具体的な例が教えとして列挙されています。この教えは、同様なやり方で報復や反撃をすることではなく、イエス・キリストの教えの原理ある「愛と赦し」、寛大さにしたがって行動しなさいということなのです。それが神の国の原理だからです。その神とは、仕返しをする方ではなく、恩知らずで利己的な人に対してでさえ、愛のある親切な方なのです。

最後に⑨の「あなた方は、人からしてほしいとことを、人にもしなさい。」を説明します。このブログに以前掲載しましたが、この言葉は、聖書の中でも “ 黄金律 ” と言われるほど重要な聖句(イエス・キリストの言葉)です。黄金律(Golden Rule)とは、「宗教、道徳や哲学で見出される「他人にしてもらいたいと思うような行為をせよ」という内容の倫理学的言明」のことです。
旧約聖書の『トビト記』の第4章・第15節に、「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない。」とあり、孔子(弟子及び孫弟子が書いた)は『論語』の中で、「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ。」と説いておられますし、ユダヤ教では「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな。」とあり、ヒンドゥー教では「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない。」とあり、イスラーム(イスラム教)では「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである。」と、すべて逆説的に書かれています。

私たちは、よく人にしてもらいたいと思うことはたくさんあるようですが、人にしてあげるとなると、あまり気が付くことも少ないものです。その人がしてもらいたいことをしてあげれるように、普段から心がけることが大切ですね。また、その逆説的には、「自分が嫌だと思うことは、人にはするな。」となります。私の自戒すべき言葉です。
クリスチャン作家の三浦綾子さんのエッセイ『あさっての風』に、「「理解してほしい、慰めてほしい」という、人から受ける姿勢から、「理解してあげたい、慰めてあげたい」という、与える姿勢に変わる時、悩みのほとんどは解決していることを、わたしはその時から今まで、何十回となく経験させられてきたのである」と書かれています。
三浦さんは、まさに「人にしてもらいたい。」が、「人にしてあげたい。」という “ 与える姿勢 ” に変わった時、今まで悩んでいたことが解決されたと、そのことを経験をとおして自覚されたということです。素晴らしいことですね。
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