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「聖ヒエロニモ・エミリアニ」のお話し [聖人・福者・尊者]

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今日2月8日は、二人の聖人の任意の記念日です。
まず一人目は、聖ヒエロニモ・エミリアニ(1486年~1537年)です。ヒエロニモは、イタリア、ヴェネチアの貴族の家に生まれ、15歳から軍隊生活を送りましたが、あるとき敵に捕えられ、砦の地下の牢獄で鉄の鎖につながれて囚われの身となりました。不運な牢獄の生活は酷い屈辱的な日々で、「もし神の恵みで自由が与えられるなら、これまでの悪い生活からきっぱりと足を洗おう」と心にかたく誓い、聖母マリア様に祈りを捧げたのでした。そうしたある日(7月26日)のこと、まったくあり得ないことが彼の身の上に起こりました。彼はまったくその姿を見られないで、堂々と敵の真ん中を通りぬけて外に出たのでした。そして、まっすぐトレヴィゾ市の聖母巡礼聖堂に向かい、鉄鎖を壁にかけて聖母マリア様に感謝しました。

この奇跡的な体験で彼は神に生涯をささげようと決心し、1518年に司祭となって病気に苦しむ人々、貧しい人々、身よりのない子どもたちの世話をしました。そして、人々の必要に応じて3つの施設をイタリアに設立し、1532年に同志とともに、ソマスコの小さな町に慈善事業を目的とした、特に身よりのない子どもの世話と教育をする修道会「ソマスキ会」を創立しました。1537年にベルガモにペストが流行したときも看護に奔走し、自らも感染して愛の殉教者として天に召されました。聖ヒエロニモは、身よりのない子ども(孤児)の守護聖人といわれています。
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「聖アガタおとめ殉教者」のお話し [聖人・福者・尊者]

【閲覧注意】この記事には、閲覧注意な画像があります。
今日2月6日は、「聖アガタおとめ殉教者」の記念日です。記念日は正式には2月5日ですが、日本では2月5日は「日本二十六聖人殉教者」の祝日となっているため、聖アガタの記念日は2月6日となります。
聖アガタ(又は「シチリアのアガタ」)はキリスト教の聖女です。カトリック教会・正教会・非カルケドン派で聖人となっています。イタリアのシチリア島・カターニアの裕福な貴族の家庭に生まれ、250年頃に殉教したとされています。15歳の時にはすでに神に身をささげ、信者として生きる決意を固めてました。

そのような美しい娘アガタと彼女の財産に目をつけた当時シチリアでも支配力を持っていたローマ総督は彼女にプロポーズします。しかし、彼女はカトリックの信徒として純潔な身でありたいという意思を貫き、申し出を頑なに拒んだため、総督の権力により迫害を受けることになります。牢屋に入れられ暴力を受け、最後には乳房を切り落とされます。
彼女は、それでも祈り続けることをやめず、奇跡的に乳房は完治します。ところが、更に総督の反感を買った彼女は火あぶりの刑にされることになりました。火あぶりにされた際に彼女を包んでいた赤いヴェールだけは、奇跡的に無傷のまま残っていたそうです。この赤いヴェールは、その後、彼女の聖遺品として現在も大切に保存されているそうです。

◯フランシスコ・エ・スルバラン(スペイン:1598年~1664年)作の『シチリアのアガタ』です。フランシスコ・デ・スルバランは、バロック期のスペインの画家です。スペイン絵画の黄金時代と言われる17世紀前半に活動した画家であり、宗教画、静物画に優れた作品を残しています。カラヴァッジオ(イタリア・バロック期の巨匠)のように、明暗の劇的な対比を見せたものが多く、「スペインのカラヴァッジョ」の呼称もあるほどです。なんと!切り取られた乳房をお盆の上に載せていますΣ( ̄ロ ̄lll)
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◯【閲覧注意】
なかなかリアルなこちらの絵は、乳房を抉り取られ肋骨が3本白く見えています( ̄◇ ̄;) 取られた乳房は、聖アガタが持っているお皿にあります。この絵の作者は不詳です。
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◯イタリアのお菓子「Le Minne di Sant’Agata(聖アガタの乳房)」です。オッパイの形したリアルなお菓子ですね( ̄▽ ̄;) 果物とナッツの入ったカッサータと呼ばれる羊乳のリコッタ、チョコチップ、フルーツのシロップ漬け(チェードロ、オレンジピール)のクリームを詰め、生地を乳房型にして乳首に砂糖漬けの赤いチェリーをトッピングしたものです。食べた~い!
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現在、カターニアの守護聖人、カトリック教会のミサの中で名前が読み上げられる七人の女性の一人(聖母マリアは除く)となっています。また、両方の乳房を切り落とされ、そのために彼女は切り落とされた乳房を盆の上に載せて持つ姿で描かれることが多いのです。聖アガタの絵はたくさんありますが、胸に布を当て出血を押さえる絵や自分の乳房をお盆にのせているという、すごく猟奇的な絵になってますね( ̄◇ ̄;) ですから、聖アガタの場合は「乳房」がアトリビュートになっています。

彼女が捧げ持つ乳房の形との関連から、聖アガタは鐘職人やパン屋の守護聖人とされているのですが、近代に入ると、乳房と言うことで乳癌患者の守護聖人ともされていますね。また、1551年にオスマン帝国がマルタ島に侵攻したときは、人々は聖アガタにとりなしを祈りました。結果的にマルタ島は守られたため、彼女はマルタの守護聖人となっています。そして、他にもエトナ火山が爆発したとき、彼女の遺物によって町を救ったと伝えられることから、火災予防の守護聖人にもなっています。

【アトリビュート】
西洋絵画、特に宗教画(キリスト教絵画)には、「アトリビュート(=持物:じぶつ)」というものがあります。これは、絵を描く時の“約束事”として、特定の人物(聖人など)に密接に結びつけられたもの、例えば花、動物、小物、道具や背景などが画かれるのです。
例えば、聖母マリア様ですと、必ず画かれているのが純潔の象徴である「百合の花」ですね。「受胎告知」の絵で、大天使ガブリエルが百合の花を持っています。そして、天の真実を意味する「青色(濃紺色)のマント」です。「祈りの聖母」と「悲しみの聖母」の絵もそうですね。他にも、「12の星の冠」や足の下に「三日月」と「蛇」が画かれています。聖母マリア様の絵を見るときはよく観察しましょうね。
他にも、聖母マリアの夫である聖ヨセフは、大工であったことから大工道具がアトリビュートになっていますし、聖アガタは、乳房を切り取られたことから、乳房がアトリビュートになっています。旧約聖書の「トビト記」に出てくるトビアスを描いた絵は、必ず魚が画かれています。(「トビト記」を読めばわかります。)マグダラのマリアの絵は、必ず香油の壺とドクロが画かれています。
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「福者ユスト高山右近殉教者」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日2月3日は、「福者ユスト高山右近殉教者」の記念日です。
「福者ユスト高山右近殉教者の列聖を求める祈り」を掲載しました。高山右近のことは、このブログの2018年2月9日に掲載した「高山右近が「列福」されました!」をご覧ください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2017-02-09

◯『福者ユスト高山右近殉教者の列聖を求める祈り』
「すべての人の救いを望まれる神よ、
福者ユスト高山右近は、福音に忠実に従う道を選び、
すべての地位と名誉を捨て、
祖国から追放されて殉教を遂げました。
幾多の困難を進んで受け入れ、
あなたの愛を力強くあかしした右近が、
世界のすべての人の希望となり、
聖人の列に加えられますように。
(右近の取り次ぎを願い、各自の意向を沈黙のうちに捧げる)
いつくしみ深い神よ、
福者ユスト高山右近の取り次ぎによって、
わたしたちの心からの願いを聞き入れてください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。」
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「聖ブリジッタおとめ」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日2月1日は、聖ブリジッタ(アイルランド:453年〜524年)の記念日です。なお、教会歴にはありません。信仰深い家庭に生まれ、幼いときから修道女になることを志していました。貧しい人びとの世話をするなど常に神と隣人への愛に生き、18歳になると数人の同志とともに神に従って生きる生活を始めました。司祭メル(後のアイルランドの司教)のもとで誓願を立て、ギルデアにアイルランド最初の女子修道院を建てました。
◯アイルランドの守護聖人の聖パトリック(左側)と聖ブリジッタ(右側)のメダイです。
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ブリジッタは人々の霊的・物質的生活の向上に努め、修道院を学問と芸術の場としました。彼女の行ないは人々に影響を与え、「ゲール人のマリア」として慕われるようになりました。彼女の遺体は、アイルランドの守護の聖人である聖パトリックのそばに葬られました。彼女はブライドとも呼ばれ、聖パトリックとともにアイルランドの守護聖人として親しまれています。
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「聖ヨハネ・ボスコ司祭」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日1月31日は、ジョヴァンニ・メルキオッレ・ボスコ(イタリア:1815年8月16日~1888年1月31日)司祭の記念日です。通称をドン・ボスコといいます。ドンとはイタリア語で司祭への敬称です。ヨハネはジョヴァンニを日本のキリスト教式に読んだものですね。19世紀に活躍した北イタリアのカトリック司祭、教育者です。カトリック修道会であるサレジオ会、扶助者聖母会(サレジアン・シスターズ)の創立者でもあります。カトリック教会及び聖公会で聖人であり、カトリック教会では出版関係者の守護聖人となっています。
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ボスコは、1835年から1841年までキエリの大神学校で哲学、神学を学んだ後、1841年、当時のサルデーニャ王国の首都トリノで1841年司祭に叙階されました。19世紀後半のイタリア統一運動と産業革命の中で青少年たちが放置される現実に直面し、もっとも貧しい青少年たちのために生涯を捧げることを決意し、1859年にサレジオ会を設立し、1872年に扶助者聖母会を設立しました。学校事業、社会事業を通じて多くの人々を導き、1888年1月31日に帰天し1934年に列聖されました。
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「聖トマス・アクィナス司祭教会博士」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日1月28日は、典礼暦にはありませんが、「聖トマス・アクィナス司祭教会博士(イタリア:1225年頃~1274年)」の記念日です。私が所属するカトリック成城教会の主任司祭山本量太郎神父様の霊名(洗礼名)でもありあす。
中世ヨーロッパ、イタリアの神学者、哲学者で、シチリア王国出身のドミニコ修道会士です。大著である『神学大全』で知られるスコラ学の代表的神学者です。カトリック教会と聖公会で聖人とされており、カトリック教会の33人の教会博士の一人となっています。
◯この《聖トマス・アクィナス》は、画家のカルロ・クリヴェッリによって制作された作品で、制作年は1476?年から1476年です。イギリスのロンドン・ナショナルギャラリーに所蔵されています。
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『聖トマス・アクィナスの祈り』
「私の神よ、私があなたを忘れても
あなたは私を忘れないでください

私があなたを見捨てても
あなたは私を見捨てないでください

私があなたから離れても
あなたは私から離れないでください

私が逃げだしても呼びもどし
反抗しても引き寄せ
倒れても起きあがらせてください

私の神、主よ、お願いいたします
いかなるむなしい考えによっても
あなたから遠ざかることのない目覚めた心を

いかなるよこしまな意向によっても
ゆがめられることのないまっすぐな心を
 
いかなる逆境にもめげず
勇敢に立ち向かう強い心を

いかなる卑しい情欲によっても
打ち負かされることのない自由な心を
主よ、私にお授けください

主よ、お願いいたします
あなたを求める意志を
あなたを見いだす希望を
信仰をもってあなたを待ち望む堅忍を
そして、ついにあなたを所有できる確信を
主よ、この私にお与えください。」

このお祈りの言葉を読むと、信徒ではない一般の皆さんは「なんとわがままで自分勝手なご都合主義的な言葉なのでしょうか!」と思われるでしょうね。しかし、キリスト教の信徒であれば、この祈りの言葉は、「なんと素直な神を信頼したお祈りの言葉なのでしょうか!」となります。そうなのです。私たちクリスチャンの祈りは、神を信頼した神に願う祈りなのです。聖トマス・アクィナスのように、自分をさらけ出して、すべてを神に委ねる姿勢が大切なのです。私たちも幼子のように素直になって祈らなければなりませんね。
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「聖アンジェラ・メリチ」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日1月27日は、聖アンジェラ・メリチの任意の記念日です。
聖アンジェラ・メリチ(イタリア:1474年頃~1540年)は、カトリック教会の修道女で教育者です。また、女子修道会である「聖ウルスラ修道会」の創立者です。
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聖アンジェラ・メリチは、北イタリアの裕福な農民の家庭で生まれました。10歳の頃に両親、13歳の頃に姉が亡くなり、彼女はフランシスコ会第三会に入会し、一般社会で修道者のような生活を送りました。 ある日、湖沿岸の町に住む子供の教育水準の低さに驚嘆し、彼らの教育について考え始め、同じ第三会会員の女性らを集めて計画を立てました。活動は農村から都会へと移しましたが、戦争により混乱状態にありました。その中で彼女は、和睦に力を注ぎ、敵対した貴族同士を和解させ、神聖ローマ帝国皇帝や各地の領主から大切に扱われたといわれています。平和に貢献したのですね。

56歳のとき、自分の人生を振り返り自分が信仰教育を活動とする会を作ることが使命だと気づき、信仰教育を中心とする新しい形態の団体を設立し、その保護者としてドイツのケルンで有名であった殉教者の一人である聖ウルスラを選び、後にその会を 「ウルスラ会」 としました。当時の女子修道会は、観想生活が中心であり、外部への活動は革命的なことでありました。最初は一般信者の会として発足し、彼女の死後、女子への一般教育を授ける修道会へと発展しました。晩年は世間から聖人として慕われたが、彼女は素朴な女性でありました。1540年に死去。1808年に列聖されました。
彼女の死後、会はミラノ司教 カロロ・ボロメオによって正式に組織化され、アンジェラ会とウルスラ会に分かれました。聖ウルスラ修道会は、シスターたちあ1936年に来日し、仙台市、東京などで、学校教育や福祉活動などを行ない社会に貢献しています。

◯<聖アンジェラ・メリチのことば>
「彼女たちの唯一の宝として、イエス キリストを持つように。
なぜなら、愛もまた、そこに存在するからです。
固い信仰と希望を神に置きなさい。
なぜなら、神はすべてにおいて、あなた方を助けてくださるからです。
いそいそと元気よく行いなさい。
信じなさい。
努力しなさい。
希望しなさい。
心から神に向かって叫びなさい。
親愛なるあなた方の子供たちに対して、
やさしさと人間味をもってください。
あなた方が神に願われるすべての恵みが、間違いなく願われるよりも、
もっと豊かに与えられることを、わたしはあなた方に堅く約束いたします。
彼女たちがしばしば悩みや困難にぶつかるとしても、
それらは、速やかに過ぎ去り、
確かに、喜びと幸せに変わってゆくでしょう。
イエス キリストにおいて、尊敬しあい、助けあい、
支えあう愛徳の強い絆によってお互いが結ばれますように。
時代と必要に従って、もし、新しい規定、
または、何らかの修正をしなければならないならば、
よき勧告と賢明さをもってしてください。」
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「聖テモテ司教・聖テトス司教」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日1月26日は、聖テモテ司教・聖テトス司教の記念日です。
聖テモテは、新約聖書の『使徒言行録』に登場するリュストラ(現代のトルコ南部)出身の古代(初期)キリスト教会時代の信徒で、使徒聖パウロの協力者で弟子です。ギリシア語ではティモテオス。『使徒行伝』によれば、テモテの父はギリシア人で母はユダヤ人でした。使徒聖パウロはテモテを気に入り、自らの宣教旅行に連れて行きたかったので、ユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせました。これは西暦50年前後のことであると推察されます。テモテはパウロの第2回宣教旅行、第3回宣教旅行に同行し、マケドニアなど、パウロがすでに宣教活動を行った場所に派遣されて司牧に当たっています。

この宣教旅行の間に書かれたと想定される『コリントの人々への第二の手紙』からも、テモテが使徒聖パウロのよき協力者であったことがわかります。ここでは使徒聖パウロは、テモテをコリントスの教会に派遣し、その司牧に当たらせようとしており、また『フィリピ人への手紙』などでは、テモテは使徒聖パウロと並んで書簡の差出人とされています。伝承によれば、65年に使徒聖パウロはテモテを按手し、エフェソスの司教としています。ローマ帝国の皇帝ドミティアヌスのキリスト教迫害下において殉教したと伝えられています。新約聖書にある『テモテへの第一の手紙』および『テモテへの第二の手紙』は使徒聖パウロがこのテモテに宛てる形で書かれている書簡といわれています。
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聖テトスは、新約聖書の『ガラテヤの人々への手紙』に登場する使徒聖パウロの協力者で弟子です。ギリシャ語ではティトス。『使徒言行録』にはその名前は出ていませんが、『ガラテヤの信徒への手紙』では、使徒聖パウロやバルナバと共にエルサレムでの使徒会議に参加したという記述があります。使徒聖パウロは、ギリシア人であるテトスが割礼を受けずにキリスト教徒として受け入れられたことを強調しており、テトスの両親はともに異邦人(非ユダヤ人)であった可能性が高いと思われます。

使徒聖パウロはテトスを高く評価しており、「仲間」「協力者」と呼び、その熱心さを賞賛しています。『コリントの人々への第二の手紙』では、テトスはエルサレム教会のための募金をコリントで行い、また使徒聖パウロの手紙をコリントへ届けるために派遣されています。『テモテへの第二の手紙』では、テトスはダルマティアに滞在しています。新約聖書には彼の死についての記事はありませんが、伝承によればテトスは使徒聖パウロによってクレタ島の主教(司教)に任じられ、1世紀始めにクレタ島で生涯を終えたということです。彼の名を冠した『テトスへの手紙』は、使徒聖パウロがクレタ島のテトスに宛てた手紙です。
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「使徒聖パウロの回心」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日1月25日は、「使徒聖パウロの回心」の祝日です。
パウロの回心のお話しの前に、まずは新約聖書の『使徒言行録』に記載されている事がらを語源とする「目からウロコが落ちる。」のお話しから説明いたしましょう。
” ことわざ ” としての意味は、「あることをきっかけとして、急に物事の真相や本質が分かるようになる」ということですね。これは、新約聖書の使徒言行録の第9章・第3~第18節に記載されているお話しが“目からウロコ”の語源となったのです。少々長くなりますが掲載しますね。

◯新約聖書:使徒言行録・第9章・第3〜第18節
「ところが、旅を続けてダマスコに近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、その声は仰せになった、「わたしはお前が迫害しているイエスである。さあ、立って町に入れ。お前のなすべきことが告げられであろう。」。彼に同行していた者たちには、声は聞こえたが、誰も見えないので、物も言えず立ち尽くしていた。サウロは地面から起き上がって、目を開いたが、何も見えなかった。そこで、人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。

サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、『アナニア』と呼びかけると、アナニアは、『主よ、ここにおります』と言った。すると、主は言われた。『立って、<直線通り>と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。』しかし、アナニアは答えた。『主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。』

すると、主は言われた。『行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。』そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。『兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。』すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、彼は立ち上がって、洗礼を受け、食事をとって元気を取り戻した。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

◯フランスの画家ニコラス・バーナード(1733~1784)作の『聖パウロの回心』です。この絵は、聖句にある「突然、天からの光が彼の周りを照らした。」情景を描いています。パウロは落馬していますね。
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これは、イエス・キリストの使徒(弟子)である聖パウロ(当時はサウロと名乗っていた)に起こった出来事に由来しており。本来は「誤りを悟り、迷いから覚める意味」で使われていました。イエス・キリストの死後、聖パウロは当初、ユダヤ教徒としてキリスト教徒を捕まえて牢獄に送る役をしていた “ キリスト教徒を迫害する側の人間 ” でしたが、このようにして、キリスト教徒を迫害する側から、洗礼を受けてキリスト教を信仰し、福音を述べ伝える側へと正反対に “ 激変 ” しました。そして、この聖パウロがユダヤ人以外のギリシャ人やローマ人などの異邦人と言われる人々に福音宣教したことが、キリスト教が全世界に広まった理由なのです。キリスト教の興隆は、聖パウロの功績が大きいのです。
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「聖フランシスコ・サレジオ司教教会博士」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日1月24日は、「聖フランシスコ・サレジオ司教教会博士(フランス:1567年~1622年)」の記念日です。
サレジオは、ジュネーヴ(現スイス)の司教で、カトリック教会と聖公会での聖人となっています。17世紀の宗教改革の困難な時代にあって、カトリック教会の司牧者として大きな働きをしました。著作をよくしたことから作家、ジャーナリストの守護聖人となっています。著作としては「信心生活入門」などが有名ですね。貧者の友としても知られています。1622年12月28日、サヴォイア公の随員として訪れたパリで客死。長く活躍したアヌシーに葬られ、今でもその墓がアヌシーにあります。1661年に列福、1665年に列聖、1877年には教皇ピウス9世によって「教会博士」の称号を与えられました。
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サレジオは、イタリア語で「サール(地名)Salesの」という意味です。彼はサヴォイア地方の貴族の家に生まれ、自由学芸を修めたあとでアヌシーや名門パリ大学で法学を学んでいましたが、周囲の期待を裏切って世俗の栄達を捨ててカトリック教会の司祭になる道を選びました。
宗教改革期、ジュネーヴはカルヴァン派の拠点となっていたため、カトリックのジュネーヴ司教は(現南フランスの)アヌシー滞在を余儀なくされていました。この時代にジュネーヴ司教となったサレジオは、困難な状況にあっても熱心な説教やわかりやすく書かれた著作によって活躍し、優れた精神的指導者として名声を得ました。1610年には霊的指導者をしていたシャンタルの聖フラシスカと共に女子修道会「聖母訪問会」を設立しました。
19世紀、北イタリアのトリノで活躍した司祭ヨハネ・ボスコは自らの修道会の名前を聖フランシスコ・サレジオにちなんでサレジオ会と命名しました。これはフランシスコがサヴォイアゆかりの聖人であるだけでなく、彼の柔和な人柄、著作による宣教活動、貧しい人々への共感などにヨハネ・ボスコが大きな影響を受けていたからでした。
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