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「聖テモテ司教・聖テトス司教」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日1月26日は、聖テモテ司教・聖テトス司教の記念日です。
聖テモテは、新約聖書の『使徒言行録』に登場するリュストラ(現代のトルコ南部)出身の古代(初期)キリスト教会時代の信徒で、使徒聖パウロの協力者で弟子です。ギリシア語ではティモテオス。『使徒行伝』によれば、テモテの父はギリシア人で母はユダヤ人でした。使徒聖パウロはテモテを気に入り、自らの宣教旅行に連れて行きたかったので、ユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせました。これは西暦50年前後のことであると推察されます。テモテはパウロの第2回宣教旅行、第3回宣教旅行に同行し、マケドニアなど、パウロがすでに宣教活動を行った場所に派遣されて司牧に当たっています。

この宣教旅行の間に書かれたと想定される『コリントの人々への第二の手紙』からも、テモテが使徒聖パウロのよき協力者であったことがわかります。ここでは使徒聖パウロは、テモテをコリントスの教会に派遣し、その司牧に当たらせようとしており、また『フィリピ人への手紙』などでは、テモテは使徒聖パウロと並んで書簡の差出人とされています。伝承によれば、65年に使徒聖パウロはテモテを按手し、エフェソスの司教としています。ローマ帝国の皇帝ドミティアヌスのキリスト教迫害下において殉教したと伝えられています。新約聖書にある『テモテへの第一の手紙』および『テモテへの第二の手紙』は使徒聖パウロがこのテモテに宛てる形で書かれている書簡といわれています。
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聖テトスは、新約聖書の『ガラテヤの人々への手紙』に登場する使徒聖パウロの協力者で弟子です。ギリシャ語ではティトス。『使徒言行録』にはその名前は出ていませんが、『ガラテヤの信徒への手紙』では、使徒聖パウロやバルナバと共にエルサレムでの使徒会議に参加したという記述があります。使徒聖パウロは、ギリシア人であるテトスが割礼を受けずにキリスト教徒として受け入れられたことを強調しており、テトスの両親はともに異邦人(非ユダヤ人)であった可能性が高いと思われます。

使徒聖パウロはテトスを高く評価しており、「仲間」「協力者」と呼び、その熱心さを賞賛しています。『コリントの人々への第二の手紙』では、テトスはエルサレム教会のための募金をコリントで行い、また使徒聖パウロの手紙をコリントへ届けるために派遣されています。『テモテへの第二の手紙』では、テトスはダルマティアに滞在しています。新約聖書には彼の死についての記事はありませんが、伝承によればテトスは使徒聖パウロによってクレタ島の主教(司教)に任じられ、1世紀始めにクレタ島で生涯を終えたということです。彼の名を冠した『テトスへの手紙』は、使徒聖パウロがクレタ島のテトスに宛てた手紙です。
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「使徒聖パウロの回心」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日1月25日は、「使徒聖パウロの回心」の祝日です。
パウロの回心のお話しの前に、まずは新約聖書の『使徒言行録』に記載されている事がらを語源とする「目からウロコが落ちる。」のお話しから説明いたしましょう。
” ことわざ ” としての意味は、「あることをきっかけとして、急に物事の真相や本質が分かるようになる」ということですね。これは、新約聖書の使徒言行録の第9章・第3~第18節に記載されているお話しが“目からウロコ”の語源となったのです。少々長くなりますが掲載しますね。

◯新約聖書:使徒言行録・第9章・第3〜第18節
「ところが、旅を続けてダマスコに近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、その声は仰せになった、「わたしはお前が迫害しているイエスである。さあ、立って町に入れ。お前のなすべきことが告げられであろう。」。彼に同行していた者たちには、声は聞こえたが、誰も見えないので、物も言えず立ち尽くしていた。サウロは地面から起き上がって、目を開いたが、何も見えなかった。そこで、人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。

サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、『アナニア』と呼びかけると、アナニアは、『主よ、ここにおります』と言った。すると、主は言われた。『立って、<直線通り>と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。』しかし、アナニアは答えた。『主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。』

すると、主は言われた。『行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。』そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。『兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。』すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、彼は立ち上がって、洗礼を受け、食事をとって元気を取り戻した。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

◯フランスの画家ニコラス・バーナード(1733~1784)作の『聖パウロの回心』です。この絵は、聖句にある「突然、天からの光が彼の周りを照らした。」情景を描いています。パウロは落馬していますね。
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これは、イエス・キリストの使徒(弟子)である聖パウロ(当時はサウロと名乗っていた)に起こった出来事に由来しており。本来は「誤りを悟り、迷いから覚める意味」で使われていました。イエス・キリストの死後、聖パウロは当初、ユダヤ教徒としてキリスト教徒を捕まえて牢獄に送る役をしていた “ キリスト教徒を迫害する側の人間 ” でしたが、このようにして、キリスト教徒を迫害する側から、洗礼を受けてキリスト教を信仰し、福音を述べ伝える側へと正反対に “ 激変 ” しました。そして、この聖パウロがユダヤ人以外のギリシャ人やローマ人などの異邦人と言われる人々に福音宣教したことが、キリスト教が全世界に広まった理由なのです。キリスト教の興隆は、聖パウロの功績が大きいのです。
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「聖フランシスコ・サレジオ司教教会博士」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日1月24日は、「聖フランシスコ・サレジオ司教教会博士(フランス:1567年~1622年)」の記念日です。
サレジオは、ジュネーヴ(現スイス)の司教で、カトリック教会と聖公会での聖人となっています。17世紀の宗教改革の困難な時代にあって、カトリック教会の司牧者として大きな働きをしました。著作をよくしたことから作家、ジャーナリストの守護聖人となっています。著作としては「信心生活入門」などが有名ですね。貧者の友としても知られています。1622年12月28日、サヴォイア公の随員として訪れたパリで客死。長く活躍したアヌシーに葬られ、今でもその墓がアヌシーにあります。1661年に列福、1665年に列聖、1877年には教皇ピウス9世によって「教会博士」の称号を与えられました。
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サレジオは、イタリア語で「サール(地名)Salesの」という意味です。彼はサヴォイア地方の貴族の家に生まれ、自由学芸を修めたあとでアヌシーや名門パリ大学で法学を学んでいましたが、周囲の期待を裏切って世俗の栄達を捨ててカトリック教会の司祭になる道を選びました。
宗教改革期、ジュネーヴはカルヴァン派の拠点となっていたため、カトリックのジュネーヴ司教は(現南フランスの)アヌシー滞在を余儀なくされていました。この時代にジュネーヴ司教となったサレジオは、困難な状況にあっても熱心な説教やわかりやすく書かれた著作によって活躍し、優れた精神的指導者として名声を得ました。1610年には霊的指導者をしていたシャンタルの聖フラシスカと共に女子修道会「聖母訪問会」を設立しました。
19世紀、北イタリアのトリノで活躍した司祭ヨハネ・ボスコは自らの修道会の名前を聖フランシスコ・サレジオにちなんでサレジオ会と命名しました。これはフランシスコがサヴォイアゆかりの聖人であるだけでなく、彼の柔和な人柄、著作による宣教活動、貧しい人々への共感などにヨハネ・ボスコが大きな影響を受けていたからでした。
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「聖ビンセンチオ助祭殉教者」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日1月22日は、「聖ビンセンチオ助祭殉教者」の任意の記念日です。
ビンセンチオは、スペイン北東部にあるサラゴサの教会の助祭に任命され、宣教に力を尽くしていました。
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当時、ローマ帝国ディオクレチアヌス帝による最後のキリスト教迫害は、スペイン地方にも及んで激しくなっていました。ついに総督ダシアノにより、ビンセンチオは司教とともに捕えられ、信仰を捨てるように強要されましたが、それを拒んでビンセンチオはバレンシアで激しい拷問にかけられ殉教しました。彼の殉教の後、国教となったローマおいて、聖アウグスチヌスは「ローマ帝国に、ビンセンチオの名を知らない町があるだろうか。迫害者ダシアノの名がローマのすべてに知られているのは、ビンセンチオの殉教によってである」と言わしめています。
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「聖アグネスおとめ殉教者」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日1月21日は、典礼暦にはありませんが、聖アグネスおとめ殉教者(イタリア:291年~304年1月21日)の記念日です。
ローマの聖アグネスや聖イネス、聖女アグネス、聖女アニエスとも呼ばれ、13歳で殉教したと伝えられています。聖アグネスは、カトリックのミサで記念される女性の中で聖母マリア様を除いた7人の中の1人です。西方教会において、彼女は純潔・庭師・若い女性(少女)・夫婦・強姦被害者の守護聖人となっています。
◯フランシスコ・デ・スルバラン(スペイン:1598年〜1664年)作の『聖アグネス立像』です。スルバランはバロック期に活躍した画家で、特に宗教画・静物画に優れた作品を残しています。フランス・パリ市にあるルーヴル美術館所蔵です。
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ローマの上流階級の名門の家庭に生まれ、若く聡明な美少女であったアグネスには、多くの縁談がありましたが、すべて断ったのでした。そのため、彼女がキリスト信者であることが分かるとすぐ訴えられ、どんな拷問にあっても決して信仰を捨てない彼女は、ついに死刑を言い渡されました。彼女は「キリストはわたしの花婿です。最初に選んでくださったのはキリストですから、わたしはその方に従います」と言って、13歳になった304年1月21日にローマ帝国の皇帝ディオクレティアヌスの統治下で殉教しました。
後に彼女は有名になり、キリスト教を国教としたローマ皇帝コンスタンティヌスは、自分の娘に彼女の墓の前で洗礼を受けさせたといわれています。その後、墓の上には聖アグネス聖堂が建てられました。アグネスは、<羊を抱いて描かれる(羊がアトリビュート)>絵画が多いのですが、ラテン語で「子羊」を意味する「アグヌス」と似ているためだといわれています。

◯聖アグネス教会(英語: St Agnes' Episcopal Church)
京都府京都市上京区にある、聖アグネスを守護聖人とする日本聖公会の教会です。平安女学院京都キャンパスの敷地内に所在する聖堂は、日本聖公会京都教区(京都府、富山県、石川県、福井県、滋賀県、三重県、奈良県、和歌山県の教会、および大阪府の1教会)の中心となる主教座聖堂(カテドラル)であるとともに、地域の教会(パリッシュ・チャーチ)、平安女学院の礼拝堂(チャペル)という3つの役割を兼ね備えています。1898年(明治31年)に竣工したレンガ造り・ゴシック様式の建物は、ジェームズ・ガーディナーによる設計で、京都市指定有形文化財になっています。
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「聖セバスティアヌス殉教者」のお話し [聖人・福者・尊者]

昨日1月20日は、聖セバスティアヌス殉教者(フランス:不詳~287年)の任意の記念日でした。昨日掲載するのを忘れていました。聖セバスティアヌス様ごめんなさい。
聖セバスティアノとも呼ばれ、フランスのナルボンの貴族の家に生まれました。若いころにキリスト信徒となりましたが、ローマ帝国の皇帝ディオクレティアヌスのキリスト教迫害が最も激しい時代で、セバスティアヌスは自ら信徒であることを隠してローマの軍隊に入隊しました。皇帝の目にとまって近衛兵となり、野心を抱かず皇帝への忠誠と神のために働くことだけに力を注いでいました。

キリスト教徒への迫害が激しくなってくると、セバスティアヌスは信者仲間を励ますために支援をしていましたが、ついに密告によってセバスティアヌスがキリスト信者であることを知った皇帝は激怒し、弓で彼を射殺すよう命じました。セバスティアヌスはかろうじて一命を取りとめ、皇帝のキリスト教徒に対する残虐な迫害を公然と非難し、再び死刑に処せられ殉教しました。遺体が発見されるとアッピア街道そばに葬られ、のちに聖セバスティアヌス教会が建てられました。

◯カトリック教会のクリスチャンである有名なピーテル・パウル・ルーベンス(ドイツ:1577年~ 1640年)作の「聖セバスティアヌス」です。中世ごろには、すでに<矢をあびる青年(矢がアトリビュート)>として絵画などに描かれ、兵士・弓術家の保護者になっていました。とにかく、セバスティアヌスの描かれている絵は多いのですが、裸で木に縛られて全身に矢が刺さり、血を流してしている描写のものばかりですから、とっても痛そうな絵になっていますΣ( ̄ロ ̄lll)
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【アトリビュート】
西洋絵画、特に宗教画(キリスト教絵画)には、「アトリビュート(=持物:じぶつ)」というものがあります。これは、絵を描く時の“約束事”として、特定の人物(聖人など)に密接に結びつけられたもの、例えば花、動物、小物、道具や背景などが画かれるのです。
例えば、聖母マリア様ですと、必ず画かれているのが純潔の象徴である「百合の花」ですね。「受胎告知」の絵で、大天使ガブリエルが百合の花を持っています。そして、天の真実を意味する「青色(濃紺色)のマント」です。「祈りの聖母」と「悲しみの聖母」の絵もそうですね。他にも、「12の星の冠」や足の下に「三日月」と「蛇」が画かれています。聖母マリア様の絵を見るときはよく観察しましょうね。
他にも、聖母マリアの夫である聖ヨセフは、大工であったことから大工道具がアトリビュートになっていますし、聖アガタは、乳房を切り取られたことから、乳房がアトリビュートになっています。旧約聖書の「トビト記」に出てくるトビアスを描いた絵は、必ず魚が画かれています。(「トビト記」を読めばわかります。)マグダラのマリアの絵は、必ず香油の壺とドクロが画かれています。
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「聖マルガリタ」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日1月18日は典礼歴にはありませんが、聖マルガリタ(ハンガリ:1242年1月27日~1270年1月18日)の記念日です。
ハンガリー王国アールパード朝の王女で、ハンガリー国王ベーラ4世とマリア・ラスカリナ王妃の第9子です。28歳の若さでこの世を去りました。1943年11月19日、教皇ピウス12世によって列聖され、祝日は命日の1月18日と定められました。
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クロアチア王国のクリスの要塞において、10人兄弟の9番目の娘として生まれ、モンゴル帝国のハンガリーへの侵攻による政情不安のため、両親はブダペストのドミニコ会修道院に4歳のマルギトを預けました。マルガリタは12歳になると修道女になることを決意して、ボヘミア王オタカル2世からの結婚の申し込みを始め、全ての縁談を断り、修道女としてのつましい暮らしを望みました。
マルガリタは、四旬節の間はほとんど何も食べず眠らずに過ごし、自ら進んで汚い仕事を行いました。祈りと苦行に励み、謙遜な態度を保ち、貧しい人々への寛大な愛を行なった彼女は、人々から慕われました。マルガリタが王女のころ、彼女のもとで働き使えていた召使いのアグネスは、「王女でありながら、私たちより謙遜な方であった。」と語っています。マルガリタは、絵画では通常、「手に本と白い百合の花(アトリビュート)」を持った姿で描かれています。遺物の一部はハンガリーのエステルゴム、パンノンハルマ、ジェールに保存されています。

【アトリビュート】
西洋絵画、特に宗教画(キリスト教絵画)には、「アトリビュート(=持物:じぶつ)」というものがあります。これは、絵を描く時の“約束事”として、特定の人物(聖人など)に密接に結びつけられたもの、例えば花、動物、小物、道具や背景などが画かれるのです。
例えば、聖母マリア様ですと、必ず画かれているのが純潔の象徴である「百合の花」ですね。「受胎告知」の絵で、大天使ガブリエルが百合の花を持っています。そして、天の真実を意味する「青色(濃紺色)のマント」です。「祈りの聖母」と「悲しみの聖母」の絵もそうですね。他にも、「12の星の冠」や足の下に「三日月」と「蛇」が画かれています。聖母マリア様の絵を見るときはよく観察しましょうね。
他にも、聖母マリアの夫である聖ヨセフは、大工であったことから大工道具がアトリビュートになっていますし、聖アガタは、乳房を切り取られたことから、乳房がアトリビュートになっています。旧約聖書の「トビト記」に出てくるトビアスを描いた絵は、必ず魚が画かれています。(「トビト記」を読めばわかります。)マグダラのマリアの絵は、必ず香油の壺とドクロが画かれています。
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「聖アントニオ修道院長」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日1月17日は、聖アントニオ修道院長(エジプト:251年ごろ~356年)の記念日です。
聖大アントニウスとも呼ばれ、修道士生活の創始者とされています。ちなみに、「パドヴァの聖アントニオ」とは違う人物です。アレクサンドリアのアタナシオスによると、251年頃、エジプトのコーマで生まれ、敬虔な両親にキリスト教徒としての教育を受けたということです。20歳前に両親と死別し、その後財産を貧しい者に与え、自らは砂漠に籠もり苦行生活に身を投じて祈りと黙想をし、そして手仕事によってわずかな日用の糧を得ていました。孤独と禁欲の苦行のなかにあって、度々襲ってくる誘惑を常に克服し、また、多くの隠遁者を訪ねて彼らの長所に倣おうと努めました。305年頃、聖大アントニウスが町で行った説教に心を打たれた修道僧らと開いたのが修道院の始まりということです。しかし彼はそれでも飽きたらず、再び修行に励み356年、105歳という長寿を全うしたと伝記には記されているそうです。
………ということで、聖大アントニウスは<修道士生活の創始者>として有名なのですが、他にも有名なことがあります。それは、「聖アントニオ(聖アントニウス)の誘惑」として絵画の題材(テーマ)になっており、多くの画家が画いているということです。砂漠での修道生活で、サタン(悪魔)からあらゆる誘惑に遭って痛めつけられ苦しめられるものの、常に打ち勝って修道生活を続けたのでした。一度、サタンに殺されますが、神により再び命を与えられ、より一層修道生活に励んだという伝説もあります。

◯テニールス,ダーフィット作の『聖アントニウスの誘惑』です。こっ!これは!ハーレム状態です!ものすごくわかりやすい誘惑ですね~(; ̄O ̄) 男性にとっては、最も簡単に誘惑に陥り罪を犯しやすい状況です! (⌒-⌒; ) 聖アントニオは両手で頭を抱え、苦悩・苦痛に顔をゆがめています!この絵は、サタンが裸の女性に化けて聖アントニオを誘惑し、罪を犯せて信仰を捨てさせ、神から遠ざけようとしているところを画いています。聖アントニオは、罪を犯すことなく神に身を捧げて生涯を終えていますから、この絵の状況から祈りによってサタンを退散させたのでしょうね。
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私だったら………たやすく陥落するか?あぶない!あぶない!( ̄▽ ̄;) いやいや、信仰に生きている敬虔な私にそのようなことがあろうはずがありません!サタンに誘惑されたら、天軍の総帥である大天使聖ミカエル様にお祈りを捧げます!
◯この絵は、大天使聖ミカエルが、サタンを退治しているところです。
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大天使聖ミカエルの祈り』祈祷文
◯口語訳
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私達を守り、
凶悪な企み(たくらみ)に打ち勝つことができますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することができないようにお願いいたします。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食い尽くそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めてください。
アーメン」
◯文語訳
「大天使聖ミカエル、
戦いにおいてわれらを護り、
悪魔の凶悪なる謀計(はかりごと)に勝たしめ給え。
天主のかれに命を下し給わんことを伏して願い奉る。
あゝ天軍の総帥、
霊魂をそこなわんとてこの世をはいかいするサタン
およびその他の悪魔を、天主の御力によりて地獄に閉込め給え。
アーメン。」
(最後に「至聖なるイエズスの聖心、われらをあわれみたまえ。」を3回繰り返す)
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「カイサリアの聖バジリオ司教教会博士・ナシアンズの聖グレゴリオ司教教会博士」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日は、カイサリアの聖バジリオ司教教会博士とナシアンズの聖グレゴリオ司教教会博士の記念日です。
カイサリアの聖バジリオ司教教会博士(330年ごろ〜379年)とナシアンズの聖グレゴリオ司教教会博士(329年〜390年)の二人は、小アジア、カパドキアのカイサリア近郊に生まれ、バジリオは、カイサリア、コンスタンティノープルで教育を受け、他方、グレゴリオもカイサリア、アレキサンドリアで学びました。その後、2人は当時学問の最高峰といわれた アテネ大学に学び、生涯の友となって互いに研鑽の道を歩みました。バジリオは、卒業後帰郷し、将来を有望視される教授となりましたが、徳の高い姉マクリーナの影響のもとに修道生活を送る決心をしました。グレゴリオも、初め弁論家となりましたが、修道生活を志してともに隠遁生活に入りました。
◯カイサリアの聖バジリオ司教教会博士とナシアンズの聖グレゴリオ司教教会博士
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バジリオは、各地に修道士を訪ねた後、カイサリアの近くに修道院を建てました。隠遁生活では兄弟愛を行うことが少ないことを悟った彼は、共同体生活の形態に変えて会則を作りました。バジリオの修道生活の形態は広がってゆき、「西方の修道生活の父」と呼ばれる聖ベネディクトに対して、「東方の修道生活の父」と呼ばれました。当時はアリウス派の異端が広がっていましたので、バジリオは正当信仰の擁護を主張して闘いました。また、370年にはカイサリアの司教に任じられ、教区内に貧しい人びとの施設、病院などを建てて貢献しました。
グレゴリオは、381年コンスタンティノープルの司教に任じられましたが、すぐに辞職して説教活動に力を注ぎました。彼は雄弁家であり文学者でした。特に三位一体論は優れたものであり、西方に影響を与えました。2人は、説教や神学の本を数多く著わして教会博士と称されました。また、バジリオの弟である聖グレゴリオ(ニッサ)も聖人であり、彼ら3人はカパドキア3大教父と呼ばれています。
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「聖トマス・ベケット司教殉教者」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日12月29日は、聖トマス・ベケット司教殉教者の記念日です。
聖トマス・ベケット(1118年~1170年12月29日)は、イングランドの聖職者でカンタベリー大司教(在任:1162年 - 1170年)です。ノルマン人富裕層の両親の子としてロンドンに生まれました。1142年ごろ、カンタベリー大司教シオボルド・オブ・ベックの元に仕え、イングランド王ヘンリー2世に大法官として仕えていましたが、大司教に叙階された後は教会の自由をめぐってヘンリー2世と対立するようになり、さらには他の司教の支持も失い1164年、国外へ逃亡しました。逃亡先のポンティニー修道院は、当時追放された他のイングランドの高位聖職者達がトマス・ベケットをはじめ、多数滞在していたそうです。
◯写真は、カンタベリー大聖堂内のベケット殺害現場です。壁に飾られている剣の剣先方向が殺害現場です。カンタベリー大聖堂は、イギリスのイングランド南東部ケント州のカンタベリーにある教会で、イングランド国教会の総本山です。ユネスコの世界遺産に登録されています。
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ヘンリー2世との和解は1170年に成ったものの、ヘンリー2世の息がかかった司教に対し、ベケットが懲戒を行い、当時ノルマンディーに滞在していたヘンリー2世は激怒し、その意を汲んだ4人の騎士がカンタベリーに向け渡海、12月29日の夕刻、ベケットはカンタベリー大聖堂において暗殺されました。目撃者の証言によると最後の言葉は「喜んで私は、イエスの名のために、また教会を守るために死ぬ」であったと伝えられています。1173年、ローマ教皇アレクサンデル3世はベケットを列聖し、以後多くの巡礼者がカンタベリー大聖堂に訪れることになりました。翌1174年7月12日、ヘンリー2世はベケットの墓の前で罪を告白して悔い改めました。
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