不定期連載・<私の吹奏楽人生>第4回「高校!」 [吹奏楽日記]

高校に進学するに当たっては、もちろん学力の問題もありますが、私の場合、「吹奏楽の上手い高校」という選択基準もありました。そこで、この2つの基準を学区内でクリアする高校が三重県立白子(しろこ)高等学校でした。当時は全日制普通科と家政科でしたが、現在は、普通科、普通科文化教養(吹奏楽)コース及び生活創造科があります。前身は、大正9年(1920年)に創立された三重県立河芸高等女学校という女子校で、なんと!今年(2020年)で創立100周年!を迎えました。昔は地元の三重大学をはじめ、国立大学や有名私立大学に多くの生徒が進学する学校でした。

場所は、私が住んでいた四日市市の隣の鈴鹿市の伊勢湾沿いにあります。まぁ、学校のまわりは、西方は丘陵地帯まで続く田畑に囲まれており、東方は数百メートルで海岸(伊勢湾)に出ることができ、白子漁港があります。よく海水浴しました。当時は、まったくビルのない超田舎の白子町にある学校でした。しかし、歴史のある土地で、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた時、徳川家康は少人数の家来と共に鉄砲造りで有名だった堺(大阪府堺市)見物に来ておりましたが、身の危険を感じて奈良の生駒山から鈴鹿を超え、白子浜から漁師の船で三河に脱出したのでした。

また、大黒屋光太夫(だいこくや こうだゆう)のロシア漂着話しが有名ですね。光太夫以下16名を乗せた神昌丸は天明2年(1782年)に江戸に向けて白子から出港しましたが、暴風雨に巻き込まれ、アリューシャン列島・アムチトカ島まで流されてしまいました。光太夫はシベリアを横断して当時の首都・サンクトペテルブルクまで行き、ロシア皇帝エカチェリーナ2世から帰国の許しを得て寛政4年(1792年)にアダム・ラクスマンに伴われて根室へ上陸し、10年ぶりに日本への帰国がかなったのでした。その波乱に満ちた人生史は、小説や映画などで度々取りあげられています。

とにかく超田舎でした。しかし、果てしない田畑の広がる伊勢平野の鈴鹿にあって、自然環境と勉学環境はバツグンでした!なんといっても、F1日本グランプリや鈴鹿8時間耐久ロードレースなどの開催で知られる国際レーシングコース&レジャー施設のあるホンダが経営する「鈴鹿サーキット」が学校と数キロのところにあり、平日にレースがあると授業中にレーシングカーの爆音が聞こえ、また、近くに「ゼネラルフーズ」のコーヒー工場があるものですから、窓を開けているとコーヒーの匂いが漂ってくるのでした( ̄▽ ̄;) 高校生の生活環境?としては最高のところに学校がありました!

…………ということで、今回は進学した高校の話しで終わりますが、次回は前年度三重県吹奏楽コンクールで優勝した四日市南中学校(吹奏楽部)卒業の私が、鳴り物入りで入部した白子高校吹奏楽部での挫折と活躍を数回にわたって掲載いたします!乞うご期待!なお、前回までのお話しは、「吹奏楽日記2020.8.19(不定期連載〈私の吹奏楽人生〉再開!)」をご覧ください!https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2020-08-19
ちなみに。「不定期連載・〈私の吹奏楽人生〉第1回「出会!」」は次のアドレスをご覧ください!
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2019-03-30
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