今日の日記2024.2.14(手作りバレンタインチョコ!) [日記]

今日は、バレンタインデーでした!(^◇^)
今年もたくさんいただきましたが、来月末で定年退職ですから、職場の女性からいただくのは最後となりました(⌒-⌒; ) いただいたチョコの中に、一つだけ手作りのチョコがありました!年配のとってもお美しい素敵な女性からいただきました。ものすごく美味しいかったです!
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「灰の水曜日」のお話し・教会日記2024.2.14(カトリック成城・聖タデオ教会「灰の水曜日のミサ・灰の式」水曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「灰の水曜日のミサ・灰の式(聖体拝領あり)」に与ってきました。今日2月14日(水)は、「灰の水曜日(はいのすいようび)」です。カトリック成城教会では、朝の7時から「灰の水曜日のミサ・灰の式」があり、午前10時と夜の19時にも「灰の式(聖体拝領あり)」を行うことになっています………ということで、今年もこのブログに「灰の水曜日のお話し」を掲載いたします。

キリスト教カトリック教会では、今日から「四旬節(しじゅんせつ)」が始まりました。イエス・キリストの復活をお祝いする「復活祭(復活の主日:今年は3月31日)」の46日前の今日が初日で、復活祭の1週間前の「聖週間」までの準備期間を四旬節といいます。この四旬節の期間は非常に大切で、カトリック教会では次の3つの行いを信仰規範として大切にしています。
①愛徳の善き行いをすること。
②祈りに専心すること。
③断食をすること。(節制すること)
【復活祭】
イエス・キリストが磔刑(たっけい)されてお亡くなり、3日後に復活されたことを記念するものです。これを「復活祭 = イースター」といいます。
【磔刑】
公開処刑の死刑で、十字架に磔(はりつけ)になって処刑される刑罰。

四旬節の初日である今日は、「灰の水曜日(はいのすいようび)」と言います。これは、神父様がミサのなかで、灰(シュロの枝を燃やし灰にして聖水で溶いたもの)を信徒の額に十字の印をつける又は灰を頭に振りかける儀式です(写真)。この意味は、次の3つに集約されます。
①「灰は、最終的に塵と終わる人間の儚さを思い起こさせるため。」という意味があること。
②灰は、古くから石鹸の代用として洗浄に使われてきたことから、「人の罪が贖われ、新たな力がもたらされる。」という意味があること。
③イエス・キリストが、エルサレム入城に際して、人々が歓喜してシュロの枝を通り道に敷いてお迎えした(新約聖書:マタイによる福音書・第21章・第8~9節)という、その歓喜のシュロの枝を燃やすことで、歓喜は消えてしまいますが、しかし、シュロの枝の灰によって死が再生につながり、復活(復活祭)の意味を先取りするという意味があること。

◯信徒を祝福する用具です。左側あるのは聖水で、右側の容器に入っているのはシュロの葉を燃やした灰です。教会で用意されたものです。
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◯灰を頭にふりかけたり、写真のように親指に灰をつけて信徒の額に十字を画いたりします。この二通りがありますが、成城教会では頭にふりかける方法です。いずれにしても、司祭(神父様)は「回心して、福音を信じなさい。」と言いながら灰をつけたり、ふりかけたりします。
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そして、断食(だんじき)が始まります!断食とは、宗教上の目的で、祈願、抗議、修業、苦行として、一定の期間、一定の飲食をしないことです。どの宗教にも見られる行為で、ユダヤ教では、施し、祈り、断食は3つの大きな宗教行為でした。キリスト教カトリック教会では、これを「大斎(だいさい)」・「小斎(しょうさい)」と言います。現代の断食は、まったく食べないということはありません。ちなみに、今日の私の朝食はバナナと牛乳でした。
【大斎】
食事の量を節制すること、つまり、1日の食事中、1食だけ充分に食事をすることができます。朝食はごく少量、他の1食は普通の半分にします。満60歳に達するまでのすべての成人が対象となります。ただし、病人や妊娠中の人は、もちろん免除されていますのでご安心ください。
【小斎】
鳥獣の肉を食べないことです。大斎は食物の量を節制するのに対し、小斎は、食物の質や美食に対する節制なのです。焼肉、シャブシャブ、ステーキ、すき焼きなど論外ですぞ!(⌒-⌒; )

イエス・キリストは、断食をするにあたり、内的な行為を大切にするようにと教えておられます。
◯新約聖書:マタイによる福音書・第6章・第16~第18節
「断食する時、偽善者のように暗い顔つきをしてはならない。彼らは断食していることを人々に見せるために、浮かぬ顔をする。あなた方によく言っておく。彼らはすでに報いを受けている。断食する時には、頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは、断食していることを、人々には知られず、隠れた所におられるあなたの父に知っていただくためである。そうすれば、隠れたことをご覧になるあなたの父が報いてくださる。」
※「父」とは、イエス・キリストの父である神様のことです。
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

教会の長い歴史の中で、断食はイエス・キリストの受難にあずかる行為として大切にされていましたが、同時に行為だけが優先し、断食することが目的化してしまった時代もありました。現在、教会はイエス・キリストの精神に戻り、祈りと愛の業との関連で断食を意義づけています。具体的には、カトリック教会では、「大斎」と「小斎」を定め、償いと克己(こっき:自分の感情・欲望・邪念などにうちかつこと。)を行わせ、イエス・キリストの受難に倣うようにしています。

大斎も小斎も各自の判断にまかされています。特に愛徳のわざ、信心業、節制のわざを実行することをもって替えることができ、14歳以上の人が守ることになります。大斎の日は灰の水曜日と聖金曜日で、小斎の日は毎金曜日ですが、その日が祭日に当たるときには小斎とはなりません。この期間に、好きなタバコやお酒を断つなどをしている人は案外といますね………そのまま禁煙に結びついたという人もいますが、禁酒したという人は未だ聞いたことがありませんね~( ̄▽ ̄;)

ちなみに、「灰の水曜日」の前、つまり四旬節の始まる直前に、世界各地で「謝肉祭(カーニバル)」というお祭りが行われていますが、古代・中世のキリスト教者(クリスチャン)達は、四旬節に肉食を断っていたので、その前に肉のごちそうを食べて大いに騒いでいたそうです。その習慣が今も続いているのですが、現在では宗教的な意味合いは薄れてしまい、日本のクリスマスのように商業的になっていますね。キリスト教会とは直接関係ありませんので、あしからず!( ̄▽ ̄;)

灰の式が終わって、能登半島地震でお亡くなりになられた方の永遠の安息と被災された皆さんに主の平安とお恵みがありますようお祈りし、被災地が一刻も早く復興できますようにとお祈りいたしました。
そして、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
と、まず主を讃えて祈り、
次に、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私たちの父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私たちの主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました
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「セント・バレンタインデー」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

この記事は、このブログに過去に掲載した記事を再掲載しています。
先ほど、このブログに「聖バレンチノ(バレンタイン)司祭殉教者のお話し」を掲載したばかりですが、今度は、「セント・バレンタインデーの起源」について、一般的に伝えられているお話しを掲載いたします。

ローマ帝国当時、ローマでは2月14日は女神・ユノの祝日でした。ユノはすべての神の女王であり、家庭と結婚の神でもあります。翌2月15日は、豊年を祈願する(清めの祭りでもある)ルペルカリア祭の始まる日でした。当時の若い男たちと娘たちは生活が別で、祭りの前日、娘たちは紙に名前を書いた札を桶(壺)の中に入れることになっていました。翌日、男たちは桶から札を1枚引き、引いた男と札の名の娘は、祭りの間パートナーとして一緒にいることと定められていました。そして多くのパートナーたちはそのまま恋に落ち、そして結婚したそうです♡
ところが、ローマ帝国皇帝・クラウディウス2世は、愛する人を故郷に残した兵士がいると士気が下がるという理由で、ローマでの兵士の婚姻を禁止したといわれています。キリスト教司祭だったバレンチノ(バレンタイン)は秘密に兵士を結婚させていましたが、捕らえられ処刑されたということです。処刑の日は、ユノの祭日であり、ルペルカリア祭の前日である2月14日があえて選ばれました。バレンチノは、ルペルカリア祭に捧げる生贄とされたということです。このためキリスト教徒にとっても、この日は祭日となり、恋人たちの日となった………という説が一般的です。

この伝説?には、史実の信憑性に問題があり、他に異論も異説もあるそうです。現在では伝説話しとして認識されています。カトリック教会における祝日の扱いは、「第2バチカン公会議」後の典礼改革で、史実の上で実在が明らかでない聖人たちがカトリック教会の典礼暦から整理された際に、2月14日の聖バレンチノの記念日は取り除かれました。要するに伝説の域を出ないということですね( ̄▽ ̄;)

日本では、1936年と1952年に神戸のモロゾフ菓子店がチョコを贈る習慣を宣伝し(流行らなかったそうですが)、1958年に東京のメリーチェコレートカンパニーが宣伝し(これも初めは流行らなかったようですが)、次第に盛んになって現在に至っているとのことです。日本の場合は、クリスマス(イエス・キリストの降誕祭)と同様にキリスト教に関係なく、完全に商業主義になっていますね…………でもチョコレートは欲しいです!
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「聖バレンチノ(バレンタイン)司祭殉教者」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日2月14日は、「聖バレンチノ(バレンタイン)司祭殉教者」の記念日です。なお、典礼歴にはありません。
ローマ皇帝クラディウスのキリスト教迫害下にあって、バレンチノはローマの司祭として熱心に宣教し、苦しむ人、貧しい人、病める人を助け導いていました。バレンチノの宣教をやめさせるように命令を受けたローマ判事アステリアは、目の不自由な娘がバレンチノの祈りによって治ったことから、家族全員で洗礼を受けキリスト教徒となりました。そのため皇帝は、バレンチノをはじめアステリアらを処刑しました。

バレンチノは、子どもをはじめ家畜などの病気を治しましたので、子どもや家畜の守護の聖人として人びとから親しまれていました。「ローマ殉教録」によると、この日に同名の司教が殉教しており、それらの伝説や奇跡などが重なったと考えられます中世になると、バレンチノの記念日に異性に愛の告白のカードを渡す慣習が広まり、恋に悩む人たちがバレンチノに取り次ぎを願いました。古代ローマで豊作を祈願するルペルカリア祭(2月中旬)に、女性が愛の手紙を書いて壺に入れ、手紙を受け取った男性がその女性をデートに誘うという習慣があり、それに結び付けられたといわれています。

『カトリック中央協議会』公式ホームページから
質問:「バレンタインデーって、教会と関係あるのでしょうか?」
回答:「あります。しかし残念ながら、贈り物をする習慣は教会とは関係ありません。」
バレンタインデーとはもともと、聖バレンチノの殉教を記念する日でした。ではなぜ、バレンチノが恋人たちの保護者としてあがめられるのでしょか?それは、バレンチノはイタリア・ウンブリア地方のテルニ(Terni)の司教で、ローマ皇帝によって処刑された殉教者と伝えられています(同じ日に記念する同じ名前の殉教者がいるのでややこしい)。
当時ローマ帝国の兵士たちは、「士気が落ちる」という理由で、結婚を禁止されていたとか。バレンチノは、こっそり若い恋人たちを結び付けていたそうです。それが皇帝クラウディオの怒りを買い、捕らえられ、270年(269年?)、棍棒や石でなぐり殺されたと言われています。
世界のカトリック教会では2月14日、聖チリロ隠世修道者と聖メトジオ司教を記念します。2人は9世紀に活躍した兄弟で、聖チリロはキリール文字でスラブ語の典礼書を作成した人物です。聖メトジオは司教になり、パンノニア(いまのハンガリー)で宣教。ヴェレラド(いまのチェコ)で亡くなりました。
(『毎日の読書』、『毎日のミサ』より)
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「聖チリロ隠世修道者・聖メトジオ司教」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日2月14日は、「聖チリロ隠世修道者・聖メトジオ司教」の記念日です。なお、典礼暦にはありません。
両聖人は兄弟であり、聖チリロは802年、聖メトジオは810年にギリシャのテサロニケに生まれました。当時のテサロニケは、東ローマ帝国の重要な貿易港として栄えており、さまざまな民族が居住していました。そのため、聖チリロと聖メトジオは、スラヴ人と交わり、スラヴ語を自由に話し、その風俗に親しみ、後年スラヴ族の宣教師となる素養を身につけたのでした。また、二人とも東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルに遊学し、学業に優秀な成績をあげました。聖チリロは哲学、神学の他に実践面にもすぐれ、はじめ東ローマ帝国の宮廷付き司祭として高い栄誉を与えられてました。一方の聖メトジオは、テッサリア地方の知事に任ぜられ、大いに手腕をふるった後、官職を辞して修道院に入りました。
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東ローマ皇帝ミカエル3世は、モラヴィアの国王の要請に応じて、862年、兄弟を宣教師としてモラヴィアに派遣しました。それは、教理に暗い新信者を指導すると共に、異教徒をも改宗させ、国民を善良温和なキリスト者に教化することによって国の統一を固めようとはかったからでした。このためモラヴィアの人々はまもなく教理に明るくなり、数年の間に異教徒もほとんど改宗したそうです。こうしてスラヴ族の大半をキリスト教化した2人は、868年、教皇の祝福を願いかたがた所用を果たすためにローマへ向い、時の教皇ハドリアノ2世に大いに歓迎されました。2人はしばらくローマに滞在して故郷に帰ろうとした時、聖チリロは昼夜をかけての布教活動と心労のためか、突然重病にかかり、やむなくローマの一修道院で静養しましたが、ついに869年安らかにこの世を去りました。
その後、聖メトジオは司教に叙階され、モラヴィアに帰りました。まもなくモラヴィアはドイツとの戦火に巻き込まれ、自由な司牧ができなくなりましたので、司教はパラニアに足をとどめ異教徒の改宗に尽くしました。その後、ドイツ王に投獄されたり、「メトジオは異端を伝え、正統な信仰に反する」と讒言されたりしましたが、スラブ教会のために聖書の翻訳や、聖職者の養成に力を注ぎ活躍しました。「スラブの使徒」と呼ばれています。年老いた聖メトジオは、やがて臨終の近いのを悟り、一司祭を司教に叙階して自分の後継者とし、885年に安らかにこの世を去りました。
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