三木露風のことば(詩)(第1日目) [キリスト者(クリスチャン)]

「夕焼小焼の、赤とんぼ
おわれて見たのは、いつの日か

山の畑の、桑 (くわ)の実を
小籠 (こかご) に摘んだは、まぼろしか

十五で姐 (ねえ) やは、嫁に行き
お里のたよりも、絶えはてた

夕焼小焼の、赤とんぼ
とまっているよ、竿 (さお) の先」

童謡の『赤とんぼ』です。作詞した三木露風(みき ろふう:1889年~1964年)は、キリスト教カトリック教会のクリスチャンで童謡作家、歌人、随筆家です。本名は三木操(みき みさ)と言います。近代日本を代表する詩人・作詞家として、北原白秋と並び「白露時代」と称されました。若き日は日本における象徴派詩人でもありました。
兵庫県揖西郡龍野町(現在の「たつの市」)に父・三木節次郎、母・かたの長男として生まれ、5歳の時に両親が離婚し、祖父の元に引き取られて育てられました。小・中学生時代から詩や俳句・短歌を新聞や雑誌に寄稿、17歳で処女詩集を、20歳で代表作の『廃園』を出版するなど早熟の天才で、北原白秋と共に「白露」と注目されました。
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龍野中学校を中退して上京し、早稲田大学と慶應義塾大学で学んでいます。また、1916年から1924年まで北海道上磯町(現・北斗市)の「厳律シトー会トラピスト修道院」で日本文学講師を務めました。1922年にこの修道院で洗礼を受け、キリスト教カトリック教会のクリスチャンになりました。信仰に基づく詩集のほかに、随筆「修道院生活」や「日本カトリック教史」などを著し、ローマにあるバチカン市国の教皇庁から「キリスト教聖騎士」の称号を授与、1963年に紫綬褒章受章、1964年12月21日に交通事故で亡くなりました。

この詩は、童謡『赤とんぼ』の歌詞です。露風が作詞、山田耕筰が作曲した日本の名曲ですね。『赤とんぼ』 には、心の深いところで私たちを和ませ、心を震わせる何かがあると思います。露風が鈴木三重吉の「赤い鳥運動」に参加し、童謡を手掛けて1921年に童謡集『真珠島』を出版。この中にある『赤とんぼ』を山田耕筰が作曲して広く知られるようになりました。このブログに3回目の掲載になります。ちなみに、山田耕筰のお墓は、東京都あきる野市にある「西多摩霊園」にあります。

◯『赤とんぼ』の歌詞の説明
三木露風は、5歳の時に両親が離婚し、それ以降は母親とは生き別れで祖父に養育されることになりました。実際には、子守り奉公の姐や(ねえや)に育てられ、そのときの印象を歌にしたものです。
ですから、詩の第一節にある「おわれてみたのは」を漢字で書くと、「追われてみたのは」ではなく、「(背)負われて、見たのは」であり、姐やの背中におんぶされて肩越しに見た赤い夕焼けという意味なのですね。姐やは、数えの15歳で嫁に行ったと詞にあります。これは、当時の農家は極めて貧しかったものですから、口減らしもあっての子守り奉公をし、そして若くして嫁いでいったわけですが、嫁入り先でも農家の労働力として、働きづめの一生を送ったのではないかと思います。
また、「お里のたよりも絶えはてた」の意味は、お母さんは離婚して実家に帰るのですが、そのお母さんが5歳の息子を不憫に思い、実家の近くに住む娘を子守り奉公に出すように図り、彼はお母さんには会えないのですが、時々実家に帰る姐やを通してお母さんの消息を聞くことができ、お母さんも姐やを通して息子の消息を知ることができたのです。しかし、姐やが他家に嫁に行くことになって、もうお母さんの消息も途絶えてしまったという、とても悲しい詩(歌詞)となっています。

私の亡くなった母のことですが、2005年9月23日、入院していた母を病院に見舞い、気分転換ということで車椅子に母を乗せ、病院の玄関前の芝生の上で飛んでいる赤とんぼ見ながら、母と私、妻、娘の4人で歌った思い出の歌でもあります。その7日後に母は他界しました。74歳でした。私達の故郷に対する懐かしい気持ちを思い起こさせ、故郷を愛おしむ気持ちが自然と湧き起こります。胸がジーンとしてつい目頭が熱くなる思いになり、そしてそれは、年齢を重ねるごとに強くなる気がします。この歳になっても、この歌の意味を想いながら亡き母を慕って歌うと、必ず涙が出てきます。やはり日本人ですね。

【姐や(ねえや)】
年の若い女中や下女を親しんで呼んだ言葉です。
【口減らし(くちべらし)】
家計の負担を軽くするために、子どもを奉公に出したり養子にやったりして、養うべき家族の人数を減らすことです。
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「裁いてはならない!」のお話し [聖書]

◯新約聖書:マタイによる福音書・第7章・第1~第2節
「裁いてはならない。裁かれないためである。あなた方が人を裁くように、あなた方は裁かれ、あなた方が量るその升で、あなた方にも量り与えられる。」
◯新約聖書:ルカによる福音書・第6章・第37節
「『裁いてはならない。そうすれば、あなた方も裁かれない。人を罪に定めてはならない。そうすれば、あなたがたも罪に定められない。赦しなさい。そうすれば、あなた方も赦される。」
以上『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この2つの福音書の聖句(イエス・キリストの言葉)は、「自分が人から裁かれないためには、人を裁いてはいけない。」と自己保身を教えているのではありません。人間が人間を裁く行為を戒めて、赦すことを説いてる聖句です。でも、「人を裁くことによって罪を犯してしまうから。」ということも確かに考えられないこともないのですが、この聖句はそういう意味ではありません。
「生死の与奪(よだつ)」と「裁き」は、神様がなさることであって、私たち人間が行うことはではないのです。生死は神様が与奪されることですから、殺人はもとより自殺も殺人と同じなのです。ですから、神様から与えられた命を自ら捨てる自殺は大罪となるのですね。裁きも同じです。人間の裁きができるのは神様お一人の他には誰もいないのです。このことが重要です。

そして、新約聖書の他のところに、次のとおり書かれています。注)「主」とは神様のこと。
◯新約聖書:ローマの人々への手紙・第12章・第19節
「愛するみなさん、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「主は仰せになる『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』」と書かれています。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
人間が人間を裁く行為は、必ずや報復を呼び、それが大きくなって紛争となり、やがて戦争となるのです。平和を愛するイエス・キリストは、平和そのものですから、私たち人間に裁いてはならない、報復してはならない、だから「あなたたち人間は、赦しなさい。」と説いておられるのですね。それは、「人間を裁くのは、神である私のすることである。」ということなのです。

ところで、現在の日本では「裁判員制度」があり、私たち信徒はこの聖句との関係で悩むことになると思います。各人の良心に従って判断することになると思いますが、裁判員を辞退することは基本的にはできないことになっています。ただ、法律等で認められた事情がある場合は辞退することは可能です。しかし、宗教上の信条で辞退することは可能なのか?正解はわかりません。私は、死刑制度の廃止に賛成でもあり、裁判員は辞退することにしています。それでも選任されれば、過料を支払ってでも不参加を選択することになります。それは、私には信仰の確固たる信条・信念があり、聖書にある聖句を人生の使命としているからです。
参考:日本カトリック司教協議会・社会司教委員会編「なぜ教会は社会問題にかかわるのかQ&A」のQ30「裁判員制度について………」
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教会日記2023.6.26(カトリック成城・聖タデオ教会「年間第12月曜日のミサ」月曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「年間第12月曜日のミサ」に与りました。体調不良のため、この2ヶ月間は先唱奉仕と朗読奉仕の担当日だけ朝ミサに与りました。でも今日からは、以前のように毎日とはいかないかもしれませんが、できる限り朝ミサに与ろうと思います。やはりミサに与るのはいいですね~!(*^▽^*)
朝からどんよりとした曇り空ですが、天気予報では日中は晴れて30度を超える真夏日になるそうですよ( ̄◇ ̄;) 熱中症にならないように、こまめに水分補給をしましょう。今日も清々しい朝を迎えています!

ミサでは、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と、まず主を讃えて祈り、
そして、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
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旧約聖書:シラ書(集会の書)・第30章・第21〜第25節 [聖書]

「お前の魂を悲しみに委ねるな。
好き好んで自ら悩むな。
心の楽しみは人間の命であり
喜びは人の長寿につながる。
気を紛らわせて、お前の心を慰め
悲しみを遠くへ追い払え。
悲しみは多くの者を滅したからだ。
悲しんでも何の得にもならない。
妬みと憤りは寿命を縮め
気苦労は人の老化を早める。
朗らかな心は、食欲を旺盛にし
食べ物にも気を配るようになる。」
『聖書協会共同訳聖書』から

『シラ書』は、『集会の書』又は『ベン・シラの知恵』とも呼ばれています。ユダヤ教及びキリスト教でもプロテスタント教会では、使用する聖書(旧約聖書)には収録されていない、すなわち「外典(がいてん)」ですが、キリスト教のカトリック教会及び日本正教会(ギリシャやロシアの正教会など)では、使用する聖書(旧約聖書)に収録して、すなわち「正典」としています。内容は、さまざまな教訓の集成です。人間関係、教育や礼儀作法など、生活のあらゆる領域に及ぶ教訓が中心になっています。いわゆる格言集の一種です。

この聖句(聖書の言葉)には、副題として「晴れやかな心」とあります。「妬みと憤りは寿命を縮め、気苦労は人の老化を早める。」お言葉のとおりです!気苦労=悲しみ、妬み、恨み、憤り・怒り、思い煩いなどは、何の益にもならないのです。「朗らかな心は、食欲を旺盛にし」そして、「食べ物にも気を配るようになる。」のです、最後のところがいいですね~私にピッタリです(⌒-⌒;)説明はいらないですね。お読みいただいたとおりです!
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『ウルガータ全訳 舊約聖書 光明社版』のご紹介 [聖書]

今日は、北海道札幌市にある光明社から昭和29年から34年にかけて出版された『ウルガータ全訳 舊(旧)約聖書(全4分冊)』のご紹介です。2019年7月に神奈川県横浜市伊勢佐木町にある古書専門店「馬燈書房」で購入したものです。確か30,000円ほどしたと思います( ̄◇ ̄;)書き込みやページ折れもなく、外観の経年変化のみのものすごく良好な保存状態です。文語訳聖書が好きなこともあり、いつも読むのが楽しみですヽ(´▽`)/
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この旧約聖書は文語訳で、口語訳の旧約聖書が出版されるまで、カトリック教会が使用したものですが、なんと!この『ウルガータ全訳 舊約聖書』が出版されるまで、カトリック教会には断片的に訳されたもの以外に旧約聖書の全訳はありませんでした。そういう意味においては、当時は画期的な出版でした。また、カトリック教会の伝統に則り、各文書の初めに文書の説明があり、各ページには訳注が載っています。大きさは文庫本くらいですが、1巻1,000ページ前後はあります。現在では、非常に貴重な聖書となっています。
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次のとおり、全4分冊になっています。各文書は掲載されている名称のまま記載しましたが、( )は、現在の『原文校訂による口語訳 フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』に記載されている各文書の名称を掲載しました。なお、現在の旧約聖書の文書掲載順と多少違いがあります。ちなみに、掲載した定価は発行時の値段ですが、昭和29年の教員の初任給が7,800円ですから、当時としては高価だったのでしょうね。
◯第1巻(昭和29年9月1日発行)革装:650円、上装:500円
創世記、出エジプト記、レヴィ記(レビ記)、民數紀略(民数記)、申命記、ヨズエ記(ヨシュア記)、士師記、ルト記(ルツ記)

◯第2巻(昭和30年12月15日発行)革装:700円、上装:550円
サムエル記略(サムエル記)上、サムエル記略(サムエル記)下、列王記略(列王記)上、列王記略(列王記)下、歴代史略(歴代誌)上、歴代史略(歴代誌)下、エスドラス第一書(エズラ記)、エスドラス第二書(エズラ記)、トビア書(トビト記)、ユディト書(ユディト記)、エステル書(エステル記)、ヨブ記

◯第3巻(昭和32年5月10日発行)革装:620円、上装:480円
詩編、箴言、伝道書(コレヘト)、雅歌、知書(知恵の書)、集会書(シラ書)、附録:詩編(新テキスト)

◯第4巻(昭和34年2月11日発行)革装:680円、上装:530円
イザヤ預言書(イザヤ書)、イェレミア預言書(エレミア書)、イェレミア哀歌(哀歌)、バルク預言書(バルク書)、エゼキエル預言書(エゼキエル書)、ダニエル預言書(ダニエル書)、オゼー預言書(ホセア書)、ヨニル預言書(ヨエル書)、アモス預言書(アモス書)、アブディア預言書(オバデア書)、ヨナ預言書(ヨナ書)、ミケア預言書(ミカ書)、ナフム預言書(ナホム書)、ハバクク預言書(ハバクク書)、ソフォニア預言書(ゼファニア書)、アゲオ預言書(ハガイ書)、ザカリア預言書(ゼカリア書)、マラキア預言書(マラキ書)、マカベ前書(マカバイ記第一)、マカベ後書(マカバイ記第二)
以上です。
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教会日記2023.6.25(カトリック相模原教会「年間第12主日のミサ」日曜日) [教会日記]

今日は、日曜日ですが仕事で出勤です。出勤する前にJR横浜線淵野辺駅で途中下車し、カトリック相模原教会で7時からの「年間第12主日のミサ」に与りました。相模原教会は、5月20日(土)以来、約一か月ぶりです。今日の都心の日中は、天気予報では最高気温は31度で真夏日です!体感気温は35度近くの猛暑日になってしまいますね( ̄◇ ̄;) とにかく熱中症にならないように、こまめに水分補給をしましょう!
◯聖母マリア様と聖ルドビコ茨木様のご像です。
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ミサでは、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と、まず主を讃えて祈り、
そして、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
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旧約聖書:歴代誌上・第4章・第10節 [聖書]

「ヤベツがイスラエルの神に「どうか私を祝福して、私の領土を広げ、御手(みて)が私と共にあって災いを遠ざけ、私が苦しむことのないようにしてください。」と呼びかけると、神は彼の求めをかなえられた。」
『聖書協会共同訳聖書』から

『歴代誌(れきだいし)』は、旧約聖書に収録されたユダヤの歴史書です。歴代誌という書名は、聖書の日本語訳者によって様々に表記され、歴代志、歴代史、歴代の書、歴代誌略などとも表記されます。2巻に分かれており、ダビデ王の死までが書かれた巻は(上)や第一、第一巻などと呼ばれ、バビロン捕囚までが書かれた巻は(下)や第二、第二巻などと呼ばれています。同じ旧約聖書の中にある『サムエル記』、『列王記』と内容が重複しています。ユダヤ教では“預言書”でなく“諸書”の一つに数えられています。ユダヤ教でいう「聖書」とは、キリスト教では新約聖書との関係で「旧約聖書」という名称なのですが、ユダヤ教では「聖書」のことです。

キリスト教では歴史書として『列王記』と同列に扱われ、その後に収められています。「歴代誌」という題名は、教父ヒエロニムスが初めて使用したものだそうです。ギリシア語聖書では「パレレイポメナ(省略されたもの)」というタイトルがついていて、『列王記』などの歴史書の補足という意味合いを持たされています。この書物の原作者は、伝統的にエズラであると伝えられていますが、文体や記述法がよく似通っているため、批評学的『エズラ記』や『ネヘミヤ記』と同じ著者グループによって書かれたものではないかと考えられています。

この聖句は、「ヤベツの祈り」といわれ、主である神様へお願いする有名なお祈りの言葉です。この「私の領土を広げ、御手(みて)が私と共にあって災いを遠ざけ、苦しむことがないようにしてください。」は、キリスト教関係者の間では、これから創業(起業)、新規事業や新規開店など、これから何か事業を始めようとしている人へ贈る<祝福の言葉>としてよく引用されます。なんだかものすごく勇気づけ後押ししてくれる言葉ですね!
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ミサの祭器・祭具:その1「アルバ」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

「アルバ(Alba)」は、カトリック教会のミサなどで使われる祭服のことです。祭服の中で最も基本的なもので、すべての奉仕者に共通した祭服です。もともとローマ人が下衣として用いていました。写真のとおり、白い布で作られた全身をすっぽり覆う長服で、Albaとはラテン語で「白い」という意味です。  
昨年11月末の待降節から実施された新しい「ミサ式次第」では、ミサにおける祭服の着用が、祭壇奉仕者(侍者)だけでなく朗読奉仕者もアルバの着用が勧められています。私が所属するカトリック成城・聖タデオ教会では、7月から、土曜日18時開式、日曜日の10時開式の主日のミサでアルバを着ることになりました。ただし、男女共用でアルバか、洗礼式で使用する首にかける白衣を簡略化したものかを選択するこなとになっており、女性はベールも選択肢となっています。
◯写真左側は、私が持っているアルバです。襟まわりと腰紐があったのですが、どこにあるのか?行方不明になっています(⌒-⌒; ) 写真右側は、一般的なアルバの見本です。
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私は、以前所属していたカトリック町田教会で、祭壇奉仕者(侍者)を臨時に3ヶ月ほどやっていたことがあるものですから、その時に購入したものを持っています。本来なら教会備え付けのアルバを使用するのですが、身長180cmの私に合う長さのアルバがなく、いつも私だけ膝下半分からズボンが見えていて、なんか不恰好でした(⌒-⌒; ) ………ということで個人的に買ったのでした。12回ほどしか使っていませんが、来月は朗読奉仕を担当することになり、5〜6年しまったままでしたのでクリーニングに出しました………それが、出来上がりを見たら、なんかアイロンをアテた折り目が違っているかも?です( ̄◇ ̄;)まぁ、いいか(T_T)
◯私が、以前アルバを着ていた時に首からぶら下げていた木製の十字架(写真)です。今も持っています!どこかに!?探します!(⌒-⌒; )
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大きさは、縦11.5㎝・横7.5㎝です(聖母マリア様のカフスボタンと比べると分かりやすい?)。一般財団法人日本聖書教会の直営店、港区青山にある「バイブルハウス南青山」で10年ほど前に購入したものです。(この十字架は、現在販売していません。)新進気鋭の若手工芸家が製作したものですが、その方の名前を忘れてしましました(⌒-⌒; ) とても綺麗できちんとした作りをしています。シルバー製の十字架よりも、木製十字架の方が軽くて暖かみがあって好きですね。祭壇奉仕者(侍者)をやっていた時は、いつもカバンに入れて持ち歩いていました。
◯首からぶら下げて普段使いにするには大き過ぎなのですが、写真のようにミサにおける祭壇奉仕者(侍者、聖体奉仕者)が着用するアルバに付けるには適当な大きさですね。
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【祭壇奉仕者】
よく侍者(じしゃ)と言いますが、正式には「祭壇奉仕者(さいだんほうししゃ)と呼ばれ、集会祭儀やミサにおいて神さまと人々に奉仕する人のことです。典礼が行われる場(祭壇や朗読台、司式席や会衆席など)と典礼で用いられるもの(パンやぶどう酒、祭器や祭服など)の準備をし、集まった人々が、心を合わせて祈ることが出来るように司祭の手助けをする役割をもっています。
古くは「侍祭」と呼ばれ、5世紀頃の記録によれば、ロウソクの火を灯し、ぶどう酒や水の準備をし、教皇が聖別したご聖体(ホスチア)を他の教会に運ぶ役割をもっていました。トリエント公会議(16世紀)で「侍祭」は、司祭候補者だけに限られました。しかしミサを捧げるためには最低一人、司祭の祈りに応答する者が必要だとされたことから、「侍祭」がいない場合は、「侍者」あるいは「ミサ答え」と呼ばれる少年が奉仕するようになりました。
第二バチカン公会議の典礼刷新を受けて、教皇パウロ六世は、司祭候補者だけに限られていた「侍祭」を廃止し、新たに信徒にも委託できる「教会奉仕職」と「宣教奉仕職」という二種類の奉仕職を定めました。さらに典礼秘跡省は、長年、男性だけに限られていた祭壇への奉仕を女性にも認めました。祭壇への奉仕は、男性でも女性でも、洗礼を受けている信者ならば果たすことができる務めとなりました。
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教会日記2023.6.24(カトリック成城・聖タデオ教会「洗礼者聖ヨハネの誕生のミサ」土曜日) [教会日記]

今日は、仕事はお休みです。夕方から出かけ、カトリック成城・聖タデオ教会での18時からの「洗礼者聖ヨハネの誕生のミサ」に与りました。本来であれば、今夜は「年間第12主日のミサ」なのですが、今日24日が「洗礼者聖ヨハネの誕生」の祭日ですので、聖ヨハネの誕生をお祝いしてお祈りしました。日中は、晴れて蒸し暑い日となりました(⌒-⌒; ) 最高気温は29度ということでしたが、体感気温は30度を超えて真夏日になっていましたね。熱中症にならないように、こまめに水分補給をしましょう!

ミサでは、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と、まず主を讃えて祈り、
そして、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
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「洗礼者聖ヨハネの誕生」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日6月24日は、「洗練者聖ヨハネの誕生」の祭日です。
洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日は、カトリック教会だけでなく、正教会(ギリシャ正教会・ロシア正教会由来の教派)、聖公会(イングランド国教会由来の教派)、プロテスタント教会のルーテル派も祭日となっています。イエス・キリストの半年前に生まれたとされるため、「主の降誕(降誕祭:クリスマス)」の半年前の6月24日に誕生日が定められたそうです。キリスト教で、誕生日が聖名祝日となっているのは、イエス・キリスト、聖母マリア、そして洗礼者ヨハネの3名だけです。イエス・キリストに先駆けた洗礼者ヨハネは、聖人の中でも特別な存在となっています。

◯レオナルド・ダ・ヴィンチ作の《洗礼者聖ヨハネ》です。ダ・ヴィンチ晩年の作品で、この作品と《モナリザ》及び《聖アンナと聖母子》は、生涯手元に置き加筆していたことでも知られています。ダ・ヴィンチは、多くの作品に人差し指で天を指差すポーズを取らせていますが、これはキリストの到来を予告する悔悛を説いてるとされています。制作年は1513年から1516年で、現在はルーヴル美術館に所蔵されています。
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エルサレムにある神殿の聖所で、その日の務めを果たしていたザカリア(妻エリザベトの夫)に大天使カブリエルが現れ、ヨハネの誕生を告げられたことが『ルカによる福音書』に次のとおり書かれています。
◯新約聖書:ルカによる福音書:第1章・第13~第17節
「み使いは言った、「恐れることはない、あなたの妻エリザベトは男の子を産む。その子をヨハネと名づけなさい。あなたは喜び楽しみ、多くの人もその誕生を喜ぶ。その子は、主の前に偉大な者になになるからである。彼はぶどう酒も、強い酒を飲まず、母の胎内にいる時から聖霊に満たされ、イスラエルの多くの子らを、彼らの神である主のもとに立ち返らせる。彼はエリヤの霊と力をもって主に先立って行き、父の心を子に、不従順な者を正しい人の思いに立ち返らせて、心構えのできた民を、主のために用意する。」
『原文校訂による口語訳フランシス会聖書研究所訳注聖書』から
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