今日の日記2026.6.11(カツオの刺身!) [日記]

今夜の夕飯のメインディッシュは、大好物のカツオの刺身でした。切り身はこの厚さがいいですね。生姜を擂る(する)のは、いつも私の担当です(⌒-⌒; ) やはりカツオは、生姜醤油で食べるのが一番です!が、ニンニクもありです!美味しかったですね~(^◇^)
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【カツオの栄養】
カツオは栄養豊富な魚として有名ですね。旬は春と秋の年に2回です。春の「初カツオ」は、身が引き締まりあっさりとした味わいで、秋の「戻りカツオ」は、脂がのった濃厚な味わいになります。100gあたりのカロリーは、初カツオが114kcal、戻りカツオが165kcalで、秋ガツオの方が脂がのっているためカロリーは高くなりますが、良質の油である不飽和脂肪酸のEPA・DHAもその分多く含まれています。
◯脂肪酸DHAとEPA
DHAは脳の働きを活性化させ,EPAは血液をサラサラにして血流をよくします。
◯たんぱく質
体力や免疫力の低下を防ぎます。魚なかでもっともたんぱく質の含有量が高いです。
◯タウリン
血合いに豊富にふくまれ、コレステロールを減らします。また、心臓や肝臓の機能を高めます。
◯ビタミンD
カルシウムの吸収をうながし、骨を強くします。
◯ビタミンB
ビタミンBのなかでも特にビタミンB12は赤血球の一成分であるヘモグロビンをつくります。また、熱に溶けやすい特徴があります。
◯ナイアシン
ナイアシンはビタミンB群の仲間で、皮膚の新陳代謝を活発にすることで、シミやくすみを予防して健康な肌づくりにはたらきます。二日酔いの原因物質であるアセトアルデヒドの分解を助けるため、お酒を飲む時のおつまみとしてもおすすめです。
◯動物性鉄分(ヘム鉄)
植物性鉄分(非ヘム鉄)より吸収率が高いのです。また、貧血予防になります。
◯アミノ酸
たんぱく質、ホルモン、酵素、抗体血液をつくります。
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『我主イエズスキリストの新約聖書』のご紹介 [聖書]

カトリック教会における文語訳聖書の定番聖書!
『主イエズスキリストの新約聖書』は、パリ外国宣教会の宣教師エミール・ラゲによって訳され、明治43年に発行された文語体の日本語訳聖書です。通称は「ラゲ訳」。当時の東京大司教の出版認可を受けています。ラテン語訳聖書のヴルガータ訳をもとに訳されたもので、カトリック教会の伝統に従って、細かい注釈がついています。当時の天主公教会(カトリック教会)において、戦後も口語訳聖書が発行されるまで暫く用いられました。発行当時は、プロテスタント教会からも評価されました。

ヴルガータ訳を基礎としてネストレ版ギリシャ語聖書を参照とし、伝道士加古義一に口述させ、明治38年頃に脱稿しましたが、さらに小野藤太、山田準、武笠三らの添削を受けました。明治41年頃、ラゲ宣教師は上京し、築地司教座聖堂に居を定め、聖書印刷に経験のある横浜福音印刷合資会社で印刷。明治43年に近代以降のカトリック教会としては初めて新約聖書全体の発行に至りました。出版経費は司教座から捻出され、その他の費用はラゲ宣教師の私財と有志の寄付金でまかなわれたそうです。

写真は、古本・古書店探索Webサイト「日本の古本屋」で、群馬県前橋市にある大閑堂書店(古書店)から10,000円で購入した『我主イエズスキリストの新約聖書』です。発行年の掲載がないのですが、書店によると「戦前(昭和期)の出版ではないか」とのことでした。保存状態はバツグンに良いです。大きさは文庫本くらいですね。全482頁です。ちなみに、明治43年の初版本は、保存状態によって150,000円〜210,000円もします!半端な金額じゃないですね( ̄◇ ̄;)貴重本なのですね。
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中表紙です。戦前のものとしては保存状態はよく、綺麗に保たれています。こんなに綺麗なのは珍しいですね。収められている文書は、「マテオ(マタイ)聖福音書」、「マルコ聖福音書」、「ルカ聖福音書」、「ヨハネ聖福音書」及び「使徒行録(使徒言行録)」です。
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昔から訳註が掲載されているのがカトリック聖書の特徴です。日ごろ馴染みのない文語体で、しかも現在の出版物と比べ印刷状態もよくないのですが、ルビが振ってありますから案外すらすらと読めますね。(*^▽^*)当時は、カトリック教会のロングセラー聖書でした。
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「ご聖体拝領の意義」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

教会で与ったミサは、このブログに「教会日記」として記事にして掲載しておりますが、ある方から「なぜ、そんなにミサに与るのですか?」と質問されましたので、その回答を記事にして掲載いたします。
回答になっているかどうか( ̄◇ ̄;)
私は、できる限り多くミサに与り、できる限り多くご聖体を拝領することを信仰生活の基本というか、信仰そのもののよりどころとしています。これは私の信念でもあるのですが、要は信仰の行いとして「一回でも多く教会を訪問し、一回でも多くミサに与り、一回でも多くご聖体を拝領する。」ということです。ただ、4月下旬に狭心症を発症し、5月から自宅で休養する時間を確保するため、残念ながら毎日ミサに与ることは今のところ制限しています。

「ご聖体拝領」は、イエス・キリストが<最後の晩餐>で、「これを、わたしの記念として行いなさい。」と制定されたもので、いわば信徒である私たちに命じられたことです。これは聖句の中でも最も重要なことです。
◯新約聖書:マタイによる福音書・第26章・第26~第30節
「さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美をささげて、それを裂き、弟子たちに与えて仰せになった。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また杯を取り、感謝をささげ、彼らに与えて仰せになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、罪の赦しのために、多くの人のために流される、わたしの血である。あなた方に言っておく。わたしの父の国で、あなた方とともに新たに飲むその日まで、今から後、ぶどうの実から造ったものを、決して飲まないであろう」。 」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

◯新約聖書:マルコによる福音書・第14章・第122~第25節
「さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美をささげ、これを裂き、弟子たちに与えて仰せになった、「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝をささげて、彼らにお与えになった。彼らはみな、その杯から飲んだ。すると、イエスは仰せになった、「これはわたしの血、多くの人のために流される契約の血である。あなた方によく言っておく。神の国で新しいぶどう酒を飲むその日まで、私は二度とぶどうの実からできたものを飲むことはない」。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

◯新約聖書:ルカによる福音書・第22章・第14~第20節
「さて、時刻になると、イエスは席に着かれ、使徒たちとともに席に着いた。イエスは仰せになった。「わたしは苦しみを受ける前に、あなた方とともに、この過越の食事をすることを切に望んでいた。あなたがたに言っておくが、神の国で過越が成就するまでは、もう二度と過越の食事をとることはない。」そして、イエスは杯を取り、感謝をささげて仰せになった。「これを取って、あなた方の間で回して飲みなさい。あなた方に言っておく。今から後、神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、決して飲まない。」それから、イエスはパンを取り、感謝をささげて、それを裂き、使徒たちに与えて仰せになった。「これは、あなた方のために与えられる、わたしの体である。わたしの記念として行いなさい。」食事を終えると、杯も同じようにして仰せになった。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約である」。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

カトリック教会では、ミサの「感謝の典礼」と「交わりの儀」において、聖体の秘跡が行われます。すなわち、パンとぶどう酒が、パンはイエス・キリストの体となり、ぶどう酒がイエス・キリストの血に変わること、これを「聖体変化」といいます。それを信徒が分け合うこと、これを「聖体拝領」といいます。これがミサの中心となるのです。
イエス・キリストは、次のとおり教えておられます。
◯新約聖書:ヨハネによる福音書・第6章・第52〜第58節
「よくよくあなた方に言っておく、人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた方のうちに命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は、わたしの内に留まり、わたしもその人に留まる。生きておられる父がわたしをお遣わしになって、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる人もわたしによって生きる。これは天から降ってきたパンである。先祖は食べたが、それでも死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、永遠に生きる」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

ヨハネ福音書の聖句(イエス・キリストの言葉)は、なんとも生々しい表現となっていますね〜( ̄◇ ̄;)この部分だけを読んだり聞いたりすると、「人肉を食べたり血を飲んだりするとは、狂ったオカルト集団か!?」となりますね〜( ̄◇ ̄;)決してそうではなく、「人の子」とは、イエス・キリストのこと。「肉を食べ」と「血を飲む」とは、イエス・キリストの御言葉(みことば)を聴き、その教えを行うということであり、ミサにおいては最後の晩餐での教えどおり、聖体を拝領することになります。実際ミサでは、イエス・キリストの肉=体として、パンの代わりに「ホスチア」というウェハースのような丸いものをいただきます。そして、イエス・キリストの血としてぶどう酒となりますが、ミサでは司祭(神父様)だけが飲みます。

元上智大学神学部教授でイエズス会士の故ネメシェギ神父様は、イエス・キリストの著書である『キリスト教とは何か(P111〜P112)』で、「ミサこそ、キリスト者の生命の泉であり、イエスが最大の愛をもって私たちに与えた、最大の贈り物です。(中略)したがってミサのときに、イエス自身が聖霊の力によってわたしたちと共にあり、いのちをもたらす死の姿を表すパンとぶどう酒の形態のもとに、人々を自分の死と復活に合体させるのです。」と述べています。つまり、ミサでのご聖体拝領は、復活されたイエス・キリストの豊かな恵みに与るためなのです。
イエス・キリストの身体をいただく=ご聖体を拝領するということは、「イエス・キリストの復活された体が自分の体に入る」ということになり、すべてにおいて「イエス・キリストと一致する」ことを意味します。

先ほどのネメシェギ神父様は、同じ著書(P113〜P114)で「教会の初めから、イエスが復活したあの日、すなわち日曜日に信者たちは一堂に集まり、「主の晩餐」を執り行ってきました。後の時代になって、教会は特別のおきてで、日曜日ごとにミサに与ること、また少なくとも毎年一度イエスの復活祭あたりに聖体をいただくことを、信者の義務にしました。しかし、わたしたちに聖体の秘跡を残したイエスの恵みの素晴らしさを少しでも理解したキリスト者ならば、このようなことを煩わしい義務としてではなく、優れた特権と感じ、できるだけ頻繁にイエスが開いているこの宴会に与り、イエスの体をいただくに違いありません。」と述べています。
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「キリストの聖体」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日6月11日は、「キリストの聖体」の祭日です。
「キリストの聖体」の祭日は、本来、「三位一体の主日」の週の木曜日に祝われますが、日本のようにキリスト者(クリスチャン)が少ない国では、平日にミサに参加するのが難しいため、日本のカトリック教会は木曜日ではなく、「三位一体」の主日(先週の土曜日の夜と日曜日)直後の日曜日に祝うように配慮しているのです。
「聖体の秘跡」は、「主の晩餐(ばんさん)」の記念が初代教会時代からとても大切にされてきました。イエス様の死という出来事が神に覚えられ、新たにされ、終末の成就が宣言されます。今日(今日夜と明日の日曜日)を祝う「キリストの聖体」の祝日が定められたのは、聖体に対する信心が高まった13世紀のことです。教皇ウルバノ4世が教令を発布した1264年から、この祭日はローマ教会全体で祝われるようになったのでした。。

初代教会から「パンを裂く」こと、「杯から飲む」ことの集いは、信徒たちにとってキリストに出会い、交わり、生きる糧をいただく最も大切な神秘として非常に大事にされてきました。今日、教会は、復活祭の季節をとおして記念したキリストの過ぎ越しの神秘をあらためて受け止めます。キリストの聖体の祭日は、教会が聖体と共に歩み、神にささげられていくという姿勢を受け止めなおす日です。キリストが偉大な賜物、聖体を与えてくださったことに、感謝と賛美をささげる日となります。

◯次の絵は、有名な『最後の晩餐』の絵は、レオナルド・ダ・ビンチの作品です。ミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に描かれたもので、420 x 910 cm の巨大なものです。フレスコ技法ではなく、乾いた漆喰にテンペラで描かれています。レオナルドは、1495年から制作に取りかかり、1498年に完成させました。
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イエス・キリストが、最後の晩餐で「あなた方によく言っておく。あなた方の一人が、わたしを裏切ろうとしている。」とお話しになった後、12人の使徒(弟子)たちが驚いている場面を画いています。画像が見にくいのでクリックして大きくして見て下さい。
左側から顔(頭の一位置)順に、バルトロマイ、小ヤコブ、アンデレ、ユダ、ペトロ、ヨハネ、イエス・キリスト、トマス、大ヤコブ、フィリポ、マタイ、タデオ(タダイ)、シモン、です。このユダ(イスカリオテのユダ)がイエス・キリストを裏切ったのです。

新約聖書の3つの福音書にある「最後の晩餐」の場面の記載箇所です。ミサにおいて行われるご聖体の拝領 = キリストの御体(おんからだ)とキリストの御血(おんち)= 「キリストの聖体」の拝領は、最後の晩餐において行われたことをミサにおいて再現しているのです。ただし、現在のミサでは、御血は司祭(神父様)だけが信徒を代表して拝領します。
<新約聖書の福音書にある「最後の晩餐」の記載>
◯新約聖書:マタイによる福音書・第26章・第26~第30節
「さて、夕方になると、イエスは十二人の弟子とともに食卓に着かれた。一同が食事をしていると、イエスは仰せになった。「あなた方によく言っておく。あなた方の一人が、わたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは深く心を痛め、「主よ、まさかわたしではないでしょう」と口々に言い始めた。イエスは答えて仰せになった。「わたしと一緒に鉢に手を浸した者がわたしを裏切る。まことに、人の子は、自分について書き記されているとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、不幸である。その人はむしろ生まれなかったほうがよかったであろう」。すると、裏切り者のユダが口を挟んで、「先生、まさかわたしではないでしょう」と言うと、イエスは仰せになった。「いや、そうだ」。さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美をささげて、それを裂き、弟子たちに与えて仰せになった。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また杯を取り、感謝をささげ、彼らに与えて仰せになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、罪の赦しのために、多くの人のために流される、わたしの血である。あなた方に言っておく。わたしの父の国で、あなた方とともに新たに飲むその日まで、今から後、ぶどうの実から造ったものを、決して飲まないであろう。」 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけていった。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

◯新約聖書:マルコによる福音書・第24章・第17~第26節
「さて、夕方になると、イエスは十二人とともに来られた。一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは仰せになった、「あなた方によく言っておく。あなたがたのうちの一人で、わたしとともに食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは深く心を痛め、「まさかわたしではないでしょう」と口々に言い出した。そこで、イエスは仰せになった。「十二人の一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者が、それである。人の子は、まことに書き記されているとおりに、人の子は去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は不幸である。むしろその人は、生まれなかったほうがよかったであろう。」
さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美をささげ、これを裂き、弟子たちに与えて仰せになった、「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝をささげて、彼らにお与えになった。彼らはみな、その杯から飲んだ。すると、イエスは仰せになった、「これはわたしの血、多くの人のために流される契約の血である。あなた方によく言っておく。神の国で新しいぶどう酒を飲むその日まで、私は二度とぶどうの実からできたものを飲むことはない。」そして、一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

◯新約聖書:ルカによる福音書・第22章・第14~第23節
「さて、時刻になると、イエスは席に着かれ、使徒たちとともに席に着いた。イエスは仰せになった。「わたしは苦しみを受ける前に、あなた方とともに、この過越の食事をすることを切に望んでいた。あなたがたに言っておくが、神の国で過越が成就するまでは、もう二度と過越の食事をとることはない。」そして、イエスは杯を取り、感謝をささげて仰せになった。「これを取って、あなた方の間で回して飲みなさい。あなた方に言っておく。今から後、神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、決して飲まない。」
それから、イエスはパンを取り、感謝をささげて、それを裂き、使徒たちに与えて仰せになった。「これは、あなた方のために与えられる、わたしの体である。わたしの記念として行いなさい。」食事を終えると、杯も同じようにして仰せになった。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約である」。「しかし、見なさい。わたしを裏切る者が、わたしとともに食卓に手を置いている。人の子は定められたとおり去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は不幸である。」すると、彼らは、いったい自分たちの中の誰が、そんなことをしようとしているのかと、互いに議論をし始めた。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
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