「光輪(こうりん)」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

4月末に狭心症になり、5月から体調のことを考えてミサに与る日を制限していますが、以前は、平日は早朝7時からの「朝ミサ」、土曜・日曜は「主日のミサ」、毎日ミサに与っていました。過去最高連続記録は、2020年6月20日から12月31日までの195日間です。そして、1カ月間でミサに与った回数の過去最高記録は、2019年8月の31日間に12の教会・修道院に52回訪問(1日に1~3箇所の教会に訪問、1回の訪問で1~3回のミサ)し、56回ミサに与り56回ご聖体を拝領させていただいたことです。

なにも記録のためにミサに与っているわけではありませんし、回数が多いとか少ないとかの問題でもありません。私はできる限り多くミサに与り、できる限り多くご聖体を拝領することを信仰生活の基本というか、信仰そのもののよりどころとしています。ご聖体拝領は、イエス・キリストの身体をいただくことですが、これはイエス・キリストと一致するということです。イエス様の教えに聴き従い、福音を述べ伝え、その教えを善き行いとして実践するということの糧(かて)をいただくということです。
ですから、これは私の信念でもあるのですが、信仰の行いとして「一回でも多く教会を訪問し、一回でも多くミサに与り、一回でも多くご聖体を拝領する。」ということにです。聖堂の中でしたら、ミサ中又はお祈り中に倒れて死んでも本望とするところです………が、まわりは迷惑ですよね( ̄▽ ̄;)

これをある信徒の方に話したら、
「あまり敬虔すぎると、そのうちに頭に ” 輪っか ” ができるよ!」
と言われてしまいました( ̄▽ ̄;)

この方は、「光輪(こうりん)」のことを「輪っか」と言っているのですね。光輪とは、絵画でイエス様、聖母マリア様、天使や聖人の頭上に画かれる光の輪のことです。本当にできたら凄い!けど、絵画として描かれているのは、生きている人ではなく、この世にいない人ばかりですよね( ̄▽ ̄;)
◯アンドレア・デル・ヴェロッキオ(イタリア:1435年頃~1488年)作の『キリストの洗礼』です。ヴェロッキオはイタリア・ルネサンス期の画家で、彫刻家、建築家、鋳造家、金細工師です。この絵は有名ですね。イエス・キリストが、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受ける場面を画いています。中央がイエス・キリスト、右側が洗礼者ヨハネ、左側はヨハネの弟子です。それぞれ光輪がありますね。
キリストの洗礼.jpg
◯これは、フランスの「ルルドの聖母マリア様」のご像です。とてもお美しいです!手を合わせてロザリオをお持ちですね。頭の後ろに光輪があります。
ルルドの聖母マリア様.jpg
光輪は、美術・映像において描かれる、人の頭部を取り巻く光線や光の円または円盤のことです。多くの宗教的図像で聖人や神聖な人物を表すために使用されており、様々な時代の支配者や英雄の図像にも使用されています。光輪は、美徳や純真の意味があり、美徳と純真の象徴です。神聖なものを崇敬する象徴として画かれているとのことです。高貴な精神を持つ人物は、その頭部からオ-ラやまばゆい光が発せられていると考えられていました。キリスト教だけでなく、古代ギリシア時代から古代ローマ、キリスト教、ヒンドゥー教、仏教、イスラム教などの宗教美術では、神聖な人物は、頭の周りまたは身体全体に円形の光輪が描かれることがあります。
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旧約聖書:出エジプト記・第20章・第2〜第3節 [聖書]

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」
『新共同訳聖書』から

これは、有名なモーセの「十戒」の第一に定められている聖句です。神は唯一であるということで、キリスト教は「一神教」です。日本のように山の神、川の神、火の神などなど「多神教」ではありませんね。ちなみに、イスラーム(イスラム教)も一神教です。
その唯一の神様を信じて洗礼を受け、キリスト者(クリスチャン)=キリスト教の信徒になったわけです。ところが、その信徒の中に、新型コロナウイスルに感染しないようにと、「占い」ばかり気にしている方がいるのです(; ̄O ̄)それも何人もいるのです。

「占い」は、多神教を信じる日本人の弱いところかもしれませんね。新聞、雑誌やテレビで占いをやっています。12星座占い、四柱推命、六星占術、風水、手相占い、血液型占い、運勢占から、心霊術や霊媒術までいろいろとあります。全部占っていたら、その日の占いは吉凶すべてに該当しますね(⌒-⌒; )
私たちは、毎日元気に過ごそうと願いますが、明日の自分の命はどうなるか分かりません。毎日毎日、ニュースや新聞で交通事故などが報道され、いろいろなことが原因でケガをしたり、人の命が亡くなっています。私たち人間は、それを回避しょうと占いなどに頼って(信じて)行動してしまうわけですね。

実は、このような占いや呪い(まじない)は、「わたしをおいてほかに神があってはならない」とおっしゃっている神様のお言葉に反する冒涜(ぼうとく)になりかねません( ̄▽ ̄;) 占いを崇拝しているわけではないにしても、神を全面的に信頼しないということは、キリスト者が忌み嫌う偶像崇拝にもなりかねません。人間には一寸先のことは分かりません。イエス・キリストへの深い信頼があればこそ、私たち一人ひとりを愛してくださっている神が、私たちのためによく計らってくださらないはずがないと、神のみ旨に委ねることができるのです。

今後も心配ごとがあった場合、私たちの信仰がぐらついて心がふらふらしていると、つい「あの占いはよく当たるよ!」との評判が気になって、その占いに頼って信じてしまいます。これは、私たちの不信仰のなせるわざであり、神への信頼のなさと言えます。神ではなく、このような占いの力を借りて心の平安を得ようとすることは、信仰を持つ者のすべきことではありませんね。このような信徒の共通点は、普段からほとんど祈らない人たちですね。お祈りに熱心な信徒に、占いを信じて一喜一憂する人は一人もいません。注意すべきことです!
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