教会日記2023.6.27(カトリック成城・聖タデオ教会「年間第12火曜日のミサ」火曜日)  [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「年間第12火曜日のミサ」に与りました。
昨日は真夏日でしたね~暑かった~( ̄▽ ̄;) 湿度の高い蒸し暑い日が続いておりますが、天気予報によると今年の梅雨明けは7月中旬になるようです。例年より早いですね。明ければ一挙に猛暑となると思いますが、ジメジメした蒸し暑さからは解放されそうですね。いずれにしても、熱中症にならないようにこまめに水分補給をしましょう。今日も清々しい朝を迎えています!

ミサでは、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と、まず主を讃えて祈り、
そして、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
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三木露風のことば(詩)(第1日目) [キリスト者(クリスチャン)]

「夕焼小焼の、赤とんぼ
おわれて見たのは、いつの日か

山の畑の、桑 (くわ)の実を
小籠 (こかご) に摘んだは、まぼろしか

十五で姐 (ねえ) やは、嫁に行き
お里のたよりも、絶えはてた

夕焼小焼の、赤とんぼ
とまっているよ、竿 (さお) の先」

童謡の『赤とんぼ』です。作詞した三木露風(みき ろふう:1889年~1964年)は、キリスト教カトリック教会のクリスチャンで童謡作家、歌人、随筆家です。本名は三木操(みき みさ)と言います。近代日本を代表する詩人・作詞家として、北原白秋と並び「白露時代」と称されました。若き日は日本における象徴派詩人でもありました。
兵庫県揖西郡龍野町(現在の「たつの市」)に父・三木節次郎、母・かたの長男として生まれ、5歳の時に両親が離婚し、祖父の元に引き取られて育てられました。小・中学生時代から詩や俳句・短歌を新聞や雑誌に寄稿、17歳で処女詩集を、20歳で代表作の『廃園』を出版するなど早熟の天才で、北原白秋と共に「白露」と注目されました。
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龍野中学校を中退して上京し、早稲田大学と慶應義塾大学で学んでいます。また、1916年から1924年まで北海道上磯町(現・北斗市)の「厳律シトー会トラピスト修道院」で日本文学講師を務めました。1922年にこの修道院で洗礼を受け、キリスト教カトリック教会のクリスチャンになりました。信仰に基づく詩集のほかに、随筆「修道院生活」や「日本カトリック教史」などを著し、ローマにあるバチカン市国の教皇庁から「キリスト教聖騎士」の称号を授与、1963年に紫綬褒章受章、1964年12月21日に交通事故で亡くなりました。

この詩は、童謡『赤とんぼ』の歌詞です。露風が作詞、山田耕筰が作曲した日本の名曲ですね。『赤とんぼ』 には、心の深いところで私たちを和ませ、心を震わせる何かがあると思います。露風が鈴木三重吉の「赤い鳥運動」に参加し、童謡を手掛けて1921年に童謡集『真珠島』を出版。この中にある『赤とんぼ』を山田耕筰が作曲して広く知られるようになりました。このブログに3回目の掲載になります。ちなみに、山田耕筰のお墓は、東京都あきる野市にある「西多摩霊園」にあります。

◯『赤とんぼ』の歌詞の説明
三木露風は、5歳の時に両親が離婚し、それ以降は母親とは生き別れで祖父に養育されることになりました。実際には、子守り奉公の姐や(ねえや)に育てられ、そのときの印象を歌にしたものです。
ですから、詩の第一節にある「おわれてみたのは」を漢字で書くと、「追われてみたのは」ではなく、「(背)負われて、見たのは」であり、姐やの背中におんぶされて肩越しに見た赤い夕焼けという意味なのですね。姐やは、数えの15歳で嫁に行ったと詞にあります。これは、当時の農家は極めて貧しかったものですから、口減らしもあっての子守り奉公をし、そして若くして嫁いでいったわけですが、嫁入り先でも農家の労働力として、働きづめの一生を送ったのではないかと思います。
また、「お里のたよりも絶えはてた」の意味は、お母さんは離婚して実家に帰るのですが、そのお母さんが5歳の息子を不憫に思い、実家の近くに住む娘を子守り奉公に出すように図り、彼はお母さんには会えないのですが、時々実家に帰る姐やを通してお母さんの消息を聞くことができ、お母さんも姐やを通して息子の消息を知ることができたのです。しかし、姐やが他家に嫁に行くことになって、もうお母さんの消息も途絶えてしまったという、とても悲しい詩(歌詞)となっています。

私の亡くなった母のことですが、2005年9月23日、入院していた母を病院に見舞い、気分転換ということで車椅子に母を乗せ、病院の玄関前の芝生の上で飛んでいる赤とんぼ見ながら、母と私、妻、娘の4人で歌った思い出の歌でもあります。その7日後に母は他界しました。74歳でした。私達の故郷に対する懐かしい気持ちを思い起こさせ、故郷を愛おしむ気持ちが自然と湧き起こります。胸がジーンとしてつい目頭が熱くなる思いになり、そしてそれは、年齢を重ねるごとに強くなる気がします。この歳になっても、この歌の意味を想いながら亡き母を慕って歌うと、必ず涙が出てきます。やはり日本人ですね。

【姐や(ねえや)】
年の若い女中や下女を親しんで呼んだ言葉です。
【口減らし(くちべらし)】
家計の負担を軽くするために、子どもを奉公に出したり養子にやったりして、養うべき家族の人数を減らすことです。
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