臨終に際しての祈り [祈り]

今日は、「臨終」に際してのお祈りについてお話しいたします。
その前に、まず、このブログの2018年10月12日に、映画『ザ・ライト エクソシストの真実』をご紹介しました。詳しくは、ご紹介した記事をお読み下さい。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2018-10-12
この映画は、分類上はどうしても「ホラー映画」となってしまいますが、映画の内容は実際に起こった事実を基に制作されています。ですから、昔に有名になったフィクション映画の『エクソシスト』のような、少女の首が360度回転したり、口からは緑色の汚物が吐き出されたり、少女の体がベッドから浮きあがったり、スパイダー・ウォークで階段を駆け下りたり………しませんのでご安心ください。でも怖いです( ̄◇ ̄;)

今日は、この映画『ザ・ライト エクソシストの真実』の中で印象的なシーンがありましたのでご紹介いたします。それは、臨終に際してのお祈りの祈祷文のことです。映画のシーンは、雨が降る夜の出来事で、自転車に乗った子どもが交通事故に遭い、命の灯火が消えようとする場面でのことです。丁度、この事故を間近で目撃した神学生(司祭になるため、神学校で勉強をしている学生)が、雨の降りしきる中、事故の起きた道路上で子どもの臨終に立ち会い、臨終のお祈りを捧げるというものです。

神学生は、意識がしだいに遠のく子どもに、次のように臨終のお祈りを捧げます。
「主イエス・キリストにより、
聖霊の炎よここに来たれよ。
この者の魂を永遠の地において再び目覚めさせ、
聖霊の力でその魂を満たしたまえ。
主なるイエス・キリストよ
受け取りたまえ◯◯◯◯(子どもの名前)を
あなたの腕の中に。
主イエス・キリストの限りなき慈悲により
この者を安らかに去らせたまえ。
この十字架(指先で子どもの額に十字を切る)をもって
汝は、主イエス・キリストの恩寵を受ける 。
これによって、この世界で犯したすべての過ちの罪は赦された。
父と子と聖霊のみ名によって
アーメン」

この祈祷文は、子どもに「罪の赦し」を与えていますから、司祭(神父)用の祈祷文ですが、もしも、実際にこのような場面に遭遇した時、私たち信徒は適切なお祈りを捧げることができるでしょうか。やはり、普段からいろいろなお祈りをしていないと難しいですね。ミサに与ることはもちろんのこと、毎日の朝夕のお祈りに加えて、あらゆる機会にお祈りを捧げる習慣を身につけないと、とっさにお祈りを捧げることはできません。自分のためではなく、祈りを必要としている人のために、いつでもお祈りできるようにしたいものですね。
そして、男子跣足カルメル修道会のカルメロ神父様が編集し、サンパウロから出版されている『カトリック祈祷書 祈りの友』に掲載されている「臨終の枕辺にあって」というお祈りの祈祷文をご紹介いたします。「祈りの友」の<病者のための秘跡と祈り>の章にあります。この祈祷文は、あまりお祈りしたくないかもしれませんが、いつか、このお祈りを必要とする時がくるかもしれません。皆さん、心してお祈りしましょう!

「神よ、わたしたちの兄弟(姉妹)◯◯◯◯(名前)さんは、
この世の生涯を終えて、
いま、みもとに召されようとしています。
あなたはすべてを見、すべてを知っておられます。
かれが、人のために流した汗のしとしずくをも、
あなたは見逃しにはなりません。
かれが、人のために運んだ足の歩みを、
あなたはすべて数えておられます。
かれが、不幸な人を思って流した涙を、
あなたは覚えておられます。
あなたは、
かれが人のために果たした愛の行いのひとつひとつを、
ご自分になされた行いとして、受け取ってくださいました。
慈しみ深い主よ、
かれが、人間の弱さのために犯した数々の罪を、
ひとり子のあがないのゆえに、すべてゆるし、
かれが果たした愛の行いの数々を御ひとり子の愛のゆえに、
永遠の命をもって報いてください。
いま、あなたのみ前に立とうとする◯◯◯◯(名前)さんに、
裁く者としてではなく、
優しい父としてのみ顔を見せてください。
わたしたちの兄弟◯◯◯◯(名前)さんは、
あなたの愛にすべてを委ねて、み前に立とうとしています。
かれが、生前、常に期待していたおことば、
「祝されたものよ、
来て、世の始めからあなたがたのために準備されていた国を受けよ」
(新約聖書:マタイによる福音書・第25章・第34節)」
というおことばを聞いて、
限りなく終わりないよろこびに満たされますように。
私たちの主イエス・キリストによって、
アーメン」
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永井隆のことば(第2日目) [キリスト者(クリスチャン)]

「われは主のつかいめなり、おうせのごとくわれになれかし」
(我は主の使目なり、仰せのごとく我になれかし)

「われらは無益なしもべなり、なすべきことをなしたるのみ」
(我らは無益な僕なり、為すべきことを為したるのみ)

永井隆のことは、「永井隆のことば(第1日目)2023.6.5」をご覧ください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2023-06-05
永井博士のお墓は、長崎市坂本町の国際墓地(南側)入り口のすぐ脇にあり、奥様の緑さんと一緒に眠っておられます。水平な墓碑(縦長の平たい長方形の石板)には、大きく右側にパウロ永井隆(1908-1951)、左側にマリア永井緑(1908-1945)と刻まれています。医学博士でありカトリックの信徒だった永井博士は、原爆によって奥様を亡くし、自分もまた放射線治療研究での被爆による白血病と戦いながら死の直前まで原子病の研究と多くの著作の発表を続けました。その博士も、長崎に落とされた原始爆弾との二重の放射線障害を受け、1951年(昭和26年)5月1日に長崎大学医学部付属病院で亡くなりました。亡くなった後、 3日には浦上カトリック教会葬、14日には長崎市公葬が行われました。当日は長崎市内の全教会の鐘が鳴らされ、2万人を超える参列者に見守られての葬儀でした。
永井隆お墓2.jpg
墓石が水平(石板)なのは、永井博士が生前に、次のようなことをお話しされていたからだそうです。
「わたしの墓に来てくださる方がいるかもしれない。そのとき、石碑を見上げていただいては気の毒だ。わたしは見上げられるようなこともしていないし、見上げてもらうほどの人物でもない。わたしの墓は石碑を立てない。その人よりも下の方にいるために、地面に自分の名を置くよ。名前を読んでくださるかたは、わざわざ頭を下げなくても、頭を下げてくださったことになるからね。」永井誠一著『長崎の鐘はほほえむ』から。なんと謙虚な方だったのでしょうか。

今日の言葉は、永井博士が頼んで作ってもらった二枚の石板に刻まれている言葉です。
その一枚には、「われは主のつかいめなり、おうせのごとくわれになれかし」と刻まれています。これは、「わたしは神様に仕えるものです。おっしゃった通りになりますように。」という意味です。聖書にある聖母マリアの言葉で、永井博士が毎日、何十回、何百回と念じていた祈りの言葉の一部だそうです。
もう一枚には、「われらは無益なしもべなり、なすべきことをなしたるのみ」と刻まれています。これは、「わたしたちは役にたたない召使です。ただすべきことをしたに過ぎません。」という意味で、これも聖書の言葉です。永井博士は、一生を振り返った時、自分たちは大した役にも立たなかったのだと謙虚に考えていたようです。しかし、永井博士の平和への願いは偉大であり、その名は世界に知れ渡っています。悲しいかな、最近の日本の若い方は知らない人が多いのではないでしょうか。
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