『光あるうちに光の中を歩め』のご紹介 [キリスト教と読書]

2018年6月に、学生時代以来約30年ぶりくらい読んだ小説『光あるうち光の中を歩め』のご紹介です。
久しぶりにトルストイの長編小説『アンナ・カレーニナ』を読もうと、仕事帰りに書店によって、『アンナ・カレーニナ』文庫本・上中下3巻を手に取ろうと思ったら、その隣に同じトルストイ作の短編小説『光あるうち光の中を歩め』を発見し、懐かしくなって読むことになったのでした。
この『光あるうち光の中を歩め』は、帝政ロシア時大之の小説家レフ・トルストイの短編小説で、執筆時期は定かではありませんが、1890年に英訳され、1892年にジュネーヴでロシア語版が出版されています。ロシアでは1893年に検閲によって削られたものが発表されています。あらすじは次のとおりです。

「主人公は、裕福な商人の息子であるユリウスという自分のためにしか生きられない青年と奴隷の子どもであるパンフィリウスという熱心なキリスト教の信徒のそれぞれの人生とユリウスの回心についてのお話しです。
プロローグで、複数の人々が自分たちの人生を振り返ってどう思うかを話し合っていました。参加している者の誰一人として満足した人生を送っていないことが判明しましたが、でもキリスト教に倣った生活を送れるかというとそうも行かないという話しが進みます。
話は変わって、舞台は古代のローマ帝国に移ります。シリア出身の商人ユヴェナリウスの一人息子ユリウスと、ユヴェナリウスの奴隷の子どもパンフィリウスとの議論が話の中心となります。皇帝トラヤヌスの時代、イエス・キリストの弟子達は、世間から白眼視され肩身の狭い思いをしていました。キリキヤという街でユリウスは商売に精を出していて、宗教には全く関心を持っていませんでした。ところがパンフィリウスがキリスト教の信徒だと告げられ、そこから2人の何度も繰り返される議論が続きます。
しばらく2人は顔を合わせていませんでしたが、ユリウスは行政官になってローマ帝国本部の命令で、キリスト教徒の迫害する作業に取りかかっていました。そこで久し振りにパンフィリウスと再会し、結婚、教育、労働について話し合いました。妻エウラーリアの死後、ユリウスは自らパンフィリウスを訪問します。ユリウスはそれまでの生き方を回心し、罪を神に告白して赦しを願い、キリスト教に着得します。パンフィリウスに励まされたユリウスは社会生活に戻り、20年後にこの世を去ったのだった。」といものですが、少々粗筋が粗過ぎ(⌒-⌒;)ましたね。

要約すると、欲望や野心、功名心などの渦巻く俗世間にどっぷりつかっている豪商ユリウスと、古代キリスト教の世界に生きるパンフィリウス。ユリウスは何度かキリスト教の世界に走ろうと志しながらも、そのたびに俗世間に舞い戻りますが、しかし、長い魂の彷徨の末についに神の道に入るというものです。この小説は、「人生を幸福に生きるにはどうすれば良いのかについて人は迷い、悩み、苦しみながらその答えを探し求めて生きる。自分の欲望を捨てて、人のために生き、すべてを平等に愛しみ、神を信じることにより、真の幸福が得られる。」ということをトルストイはこの小説で説いています。聖書の福音書に伝えられているキリストの教えに従って生きよと説いた晩年のトルストイの思想を端的に示している小説でといえます。皆様も是非お読み下さい!

ちなみに、書名の『光あるうちに光の中を歩め』の題名は聖書からとられています。
◯新約聖書:ヨハネによる福音書・第12章・第35~第36節
「そこでイエスは彼らに仰せになった。「もうしばらくの間、光はあなたがたのうちにある。闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。闇の中を歩く人は、自分がどこへ行くのかを知らない。あなたがたは光のあるうちに、光の子となるために光を信じなさい。」イエスはこう話してから、そこを去り、群衆から身を隠された。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
光のあるうちに光の中を歩め.jpg
書名:『光あるうち光の中を歩め』
著者:レフ・トルストイ
訳者:原久一郎
出版:新潮社(新潮文庫)
初版:1952年6月30日(平成29年4月25日現在、第101刷)
定価:400円+税

◯トルストイのこと
このブログの2012年7月30日の「トルストイのことば」に書きましたが、改めて掲載します。
レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(ロシア: 1828年~1910年)は、キリスト教ロシア正教会のクリスチャンであったのですが、小説『復活』で、書いた内容が教義に触れたために破門されています(現在でも破門のままだそうです)。帝政ロシアの小説家であり思想家で、ドストエフスキー、ツルゲーネフと並んで19世紀ロシア文学を代表する巨匠です………学校の国語の時間(文学史)で勉強しましたから皆さんよくご存じですよね。代表作に有名な『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、『復活』などがあり、文学のみならず、政治・社会にも大きな影響を与え、非暴力主義者としても知られています。

トルストイは超有名人ですので、作家としてのこと、小説などの作品のこと、思想、政治や宗教に係ることなどなど、経歴とそれについてのエピソード類に事欠かないのですが、書き始めると省略することが難しく、いつもよりもっともっと長くなりますので止めておきますね。
そこで一つだけ。
トルストイの奥さんであるソフィアは悪妻として知られ、ソクラテスの妻クサンティッペ、モーツァルトの妻コンスタンツェと共に「世界三大悪妻」に数えられています。しかし、それはトルストイが宗教活動や社会活動に傾倒して家庭を顧みなかったことや、キリスト教の影響(貧しく生きること)からか?小説などの印税や地代の受け取りを拒否しようとしたほか、著作権その他の遺産を「ロシア国民に移譲する」とする遺言状を作成しようとしていたことなど、また、ソフィアが10数人の子どもたちを養い、生活を守るために現実的に生きざるを得なかったこともあって、本当のことは分かりません。私は、トルストイが家庭を顧みない“超わがまま男”なだけであって、ソフィアは苦労をした良妻であったと思います。ちなみに、トルストイの映像および肉声が残されており、文学者の映像・音声としては最古のものだそうです。もっと昔の人かと思いました。
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旧約聖書:イザヤ書・第40章・第28〜第31節 [聖書]

「あなたは知らないのか。
聞いたことはないのか。
主は永遠の神
地の果てまで創造された方。
疲れることなく、弱ることなく
その英知は究め難い。
疲れた者には力を与え
勢いのない者に強さを加えられる。
若者も疲れ、弱り、若い男もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新たな力を得
鷲のように翼を広げて舞い上がる。
走っても弱ることなく
歩いても疲れることはない。」
『聖書協会共同訳聖書』から

「イザヤ書」は、旧約聖書にある預言書の一書で、「エレミヤ書」、「エゼキエル書」と並んで三大預言書の一つになっています。伝承では紀元前8世紀の預言者イザヤの言葉とされています。予言ではなく「預言」です。預言者とは、神様の言葉を預かって人々に伝える役目をする人のことで、人々に悪い思いや行いを止めさせて悔い改めさせ、神様に立ち帰ることを説いています。ちなみに「予言」とは、将来(未来)のことを予測・予知する言葉のことですね。

この聖句は第40章の終わり部分ですが、「創造と贖いの神」という副題がついています。「力を与える」のは主(しゅ:神様のこと)です。すべての創造主である主にできないことはなく、また、この世に知らないことなどありません。主に望みをおく人(信じる人)には、悲しみに落ち込んでいる時、心が折れてどん底にある時、追い詰めら苦悩にある時など、どんな時でも主は必ず大きな力と慰めを与えてくれるのです。すべては神様を信頼して祈ることです。それが信仰だと思います。
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