『典礼奉仕への招き』のご紹介 [キリスト教と読書]

今日ご紹介する『典礼奉仕への招き』は、最近、典礼に係る先唱奉仕や朗読奉仕に積極的にかかわるようになりましたので再読しているところです。このブログに過去に何度か掲載しましたが、再掲載いたします。

この本はミサのすべてについて、ポイントを抑えて簡素に書かれているため、読みやすく理解しやすい解説書となっています。特にミサに係る奉仕を担当する皆さんにお読みいただきたい本です。信徒向けに書かれていますが、信徒ではない方でもミサに興味のある方でしたら、ご一読の価値はあると思います………でも少々難しいかもしれませんね。
ところで、ミサに出席することを「与る(あずかる)」と書きます。つまりミサは司式する司祭(神父様)だけでなく、信徒も「参画する=与る」ということなのです。ミサのそれぞれの司式が、どのような意味を持っているのかを知ることは、ある意味、信徒として当たり前のことなのですが、知らないでミサに与っている方は多いのではないでしょうか。知っているのと、知らないでいるのとでは大変な違いがあります。まず、この本で知ることから始めてはいかがでしょうか。
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『典礼奉仕への招き』
著者:オリエンス宗教研究所編
出版:オリエンス宗教研究所
発行:初版発行:2005年1月10日・第2版発行:2016年6月10日
定価:1,650円(税込)
頁数:224ページ

<女子パウロ会のオンライン・ショップのホームページから>
「すべての信者が招かれている典礼奉仕の役割を理解し、実践するためのポイントをまとめました。祭壇奉仕や聖体奉仕ばかりでなく、障害をもつ方や高齢者、外国籍の信者の方とともに典礼をささげる場合、子どもの信仰教育とミサとの結びつき、「司祭不在のときの主日の集会祭儀」などについてもわかりやすく解説。終身助祭の現場での姿や、司祭が不在の際の実践例も紹介しています。教会委員や典礼委員のテキストとしてもご活用ください。

このたび刊行された第2版では、日本カトリック典礼委員会編『カトリック儀式書 ミサ以外のときの聖体拝領と聖体礼拝』改訂新版、日本カトリック司教協議会著『日本におけるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針』、および『新しい「ローマ・ミサ典礼書の総則」に基づく変更箇所 2015年11月29日(待降節第一主日)からの実施に向けて』に基づいた内容に変更されています。また、第二バチカン公会議の『典礼憲章』『教会憲章』の本文引用がある箇所は、あらたに刊行された『第二バチカン公会議文書』改訂公式訳に準拠しています。」

<目次>
序にかえて―みことばと奉仕
Ⅰ ともにささげるために
第1章 典礼とわたしたちの役割
  1 典礼そのものが奉仕
  2 キリストが祈り、ささげておられる
  3 祭司としての神の民
  4 教会の歴史の中で
  5 だれもが祭司
第2章 集会づくりと進行のための奉仕
  1 案内係
  2 進行案内役
  3 先唱者
  4 聖歌隊と楽器奏者
  5 献金に関する奉仕
    Q&A 1 「信者」と「信徒」、2 「祭司」と「司祭」
第3章 障害者・高齢者とともに
  1 典礼と日常性
  2 一体化ということ
  3 話しかけることの大切さ
  4 障害に応じて
第4章 外国籍の信者とともに
  1 増え続ける外国籍信者
  2 だれもが参加できるミサの環境を
  3 文化の違いの意味
  4 ミサを計画する際に
  5 ミサの実践と可能性
第5章 子どもたちとともに
  1 典礼はおとなのために作られている
  2 子どもの発達段階に応じたくふう
  3 典礼における信仰教育
  4 主の食卓を囲む喜びを
  5 待者養成のポイント

Ⅱ 仕え合うために
第6章 朗読奉仕と聖歌奉仕
  1 聖書朗読の大切さ
  2 朗読の際の心得
  3 朗読の間の歌(答唱詩編・アレルヤ唱/詠唱)
  4 詩編唱者と会衆の心構え
  5 行列のときの賛歌
    Q&A 3 A年、B年、C年とは
    4 典礼暦年のしくみ
第7章 共同祈願に関する奉仕
  1 すべての人のための祈り
  2 共同祈願の始まり
  3 共同祈願の意向―『聖書と典礼』の試み
  4 各意向に関する留意点
第8章 祭壇奉仕
  1 祭壇奉仕とは
  2 祭壇奉仕者の役割
第9章 聖体奉仕
  1 ミサの中での聖体奉仕
  2 病人の聖体拝領のための奉仕
第10章 司祭不在のときの主日の集会祭儀
  1 主の日
  2 「集会祭儀指針」発表までの歩み
  3 「集会祭儀指針」が大切にすること
  4 残されている課題
コラム―集会祭儀、さまざまな試み
  1 共同宣教司牧の中で―大阪教区の場合
  2 信徒の共同奉仕として―札幌教区の場合
  3 終身助祭と集会祭儀―那覇教区の場合
エピローグ―生活の中での奉仕
共同祈願意向例文集
参考文献
索引―こんなときには?

◯著者紹介(執筆者―執筆順)、(  )内は執筆担当箇所
ムケンゲシャイ・マタタ(序にかえて)
淳心会司祭
石井祥裕(第1章、第2章、第6章、第7章、Q&A1~4)
上智大学講師、『聖書と典礼』編集長
橋本宗明(第3章)
社会福祉法人ぶどうの木・ロゴス点字図書館理事
アドルフォ・ニコラス(第4章)
イエズス会総長
紙崎新一(第5章)
長崎教区司祭、長崎教区元信仰教育委員会委員
幸田和生(第8章、第9章)
東京教区補佐司教
小田武彦(第10章)
大阪教区司祭、聖マリアンナ医科大学特任教授
井上玖美子(第10章コラム1)
大阪教区信徒(梅田ブロック)
佐藤章(第10章コラム2)
札幌教区信徒(苫小牧地区室蘭ブロック)
新垣宗堅(第10章コラム3)
那覇教区終身助祭
佐藤初女(エピローグ)
元仙台教区信徒、「森のイスキア」主宰、2016年帰天
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教会日記2023.6.19(カトリック成城・聖タデオ教会「年間第11月曜日のミサ」月曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「年間第11月曜日のミサ」に与りました。昨日は暑かったですね〜!最高気温が32度でした。真夏日でしたが猛暑日まであと少しでしたね(⌒-⌒; ) 晴れても高温多湿で身体に汗がにじみ、ジメジメした毎日ですが憂鬱にならず頑張りましょう!今日も清々しい朝を迎えています。

ミサでは、朗読奉仕を担当しました。
そして、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と、まず主を讃えて祈り、
そして、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
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新約聖書:マタイによる福音書・第15章・第1〜第20節 [聖書]

「そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。「なぜあなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」
イエスはお答えになった。「なぜ、あなた方は、自分たちの言い伝えのために、神の掟を破るのか。神は『父と母を敬え。父または母をののしる者は死刑に処せられる。』と仰せになった。しかし、あなた方は言っている。『父または母に向かって、<わたしの物であなたの役に立つ物はすべて、神への供え物です>と言う者は、父または母を敬わなくてもよい。』このように、あなた方は自分たちの言い伝えによって神の言葉を無にしている。

偽善者たち、イザヤは、あなたか方について、いみじくもこう預言した。
『この民は口先でわたしを畏れ敬うが、
その心は、わたしから遠く離れている。
わたしは礼拝しているが、それはむなしい。
彼らが教える教えは人間の戒めだからである』」

それから、イエスは群衆を呼び寄せて仰せになった。「聞いて悟りなさい。口に入るものが人を汚さすのではない。口から出るものが人を汚すのである」。その時、弟子たちがイエスに近寄って、「ファリサイ派の人々が、お言葉を聞いてつまずいたのをご存じですか」と言うと、イエスはお答えになった、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られる。そのままにしておきなさい。彼らは盲人を導く盲人である。盲人が盲人を導けば、二人とも穴に落ちてしまう」。
ペトロが言った、「このたとえをわたしたちに説明してください」。イエスは仰せになった、「あなた方まで、まだ悟らないのか。口に入るものはみな腹に入り、厠に落ちることが分からないのか。しかし、口から出てるものは、心から出てくるもので、これが人を汚す。悪い考えや、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、冒涜は、心から出てくる。これこそが人を汚す。手を洗わずに食べることは人を汚さない。」
『原文校訂による口語訳 フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

【ファリサイ派】
ファリサイ派とは、ユダヤ教の指導者の一派で、律法を厳格に守り、細部に至るまで忠実に実行することによって神の正義の実現を追求していますが、その結果、形式主義に陥り、人間が作った掟を大切にして神の真の教えをないがしろにしている人達のことです。偽善者ですね。新約聖書に登場する律法学者や祭司長なども同類の人達です。

この聖書の部分は、ファリサイ派の人達がイエス様を陥れようとして、反対にやり込められている場面です。ファリサイ派の人達は、ユダヤ教の指導者ではあるものの、その教えは形式主義に陥っており、神様の教えをないがしろにしているため真の教えに盲目的になっている人達なのです。ですから、このような盲目的な人達の教えでは、聖書にあるとおり「盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」とイエス様は説いておられるのですね。
また、食物を手を洗わずに食べたとしても、自分の口から入るものは他の人の心を汚すことはありません。しかし、自分の口から出る(発言する)ものは、その発言の内容なりが悪いと、他の人の心を汚してしまいます。心の中にある悪い考え、殺意、姦淫、不品行、盗み、偽証、罵りが、口から出て人の心を汚すことになるのです。ですから、人が清められるために必要なのは手を清めることでなく、心を清めることであるとイエス様は説いておられます。

この絵は、ピーテル・ブリューゲル(父)作の『盲人の寓話』です。1568年の作で、ナポリ・カポディモンテ国立美術館蔵です。ブリューゲルの作品は、聖書から題材をとってブリューゲルが生きた時代の風景と共に描いた絵が多いのですが、この絵も今日掲載した聖書の箇所から題材を得ています。先頭の盲人が盲人達を棒で引っ張って行くため、穴に落ちていきます。ブリューゲルは、長男と同名であるため、父の作品は「父」と書かれます。旧約聖書に出てくる「バベルの塔」を画いた絵は有名ですね。
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