「ご聖体拝領の意義」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

教会で与ったミサは、このブログに「教会日記」として記事にして掲載しておりますが、ある方から「なぜ、そんなにミサに与るのですか?」と質問されましたので、その回答を記事にして掲載いたします。
回答になっているかどうか( ̄◇ ̄;)
私は、できる限り多くミサに与り、できる限り多くご聖体を拝領することを信仰生活の基本というか、信仰そのもののよりどころとしています。これは私の信念でもあるのですが、要は信仰の行いとして「一回でも多く教会を訪問し、一回でも多くミサに与り、一回でも多くご聖体を拝領する。」ということです。ただ、4月下旬に狭心症を発症し、5月から自宅で休養する時間を確保するため、残念ながら毎日ミサに与ることは今のところ制限しています。

「ご聖体拝領」は、イエス・キリストが<最後の晩餐>で、「これを、わたしの記念として行いなさい。」と制定されたもので、いわば信徒である私たちに命じられたことです。これは聖句の中でも最も重要なことです。
◯新約聖書:マタイによる福音書・第26章・第26~第30節
「さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美をささげて、それを裂き、弟子たちに与えて仰せになった。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また杯を取り、感謝をささげ、彼らに与えて仰せになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、罪の赦しのために、多くの人のために流される、わたしの血である。あなた方に言っておく。わたしの父の国で、あなた方とともに新たに飲むその日まで、今から後、ぶどうの実から造ったものを、決して飲まないであろう」。 」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

◯新約聖書:マルコによる福音書・第14章・第122~第25節
「さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美をささげ、これを裂き、弟子たちに与えて仰せになった、「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝をささげて、彼らにお与えになった。彼らはみな、その杯から飲んだ。すると、イエスは仰せになった、「これはわたしの血、多くの人のために流される契約の血である。あなた方によく言っておく。神の国で新しいぶどう酒を飲むその日まで、私は二度とぶどうの実からできたものを飲むことはない」。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

◯新約聖書:ルカによる福音書・第22章・第14~第20節
「さて、時刻になると、イエスは席に着かれ、使徒たちとともに席に着いた。イエスは仰せになった。「わたしは苦しみを受ける前に、あなた方とともに、この過越の食事をすることを切に望んでいた。あなたがたに言っておくが、神の国で過越が成就するまでは、もう二度と過越の食事をとることはない。」そして、イエスは杯を取り、感謝をささげて仰せになった。「これを取って、あなた方の間で回して飲みなさい。あなた方に言っておく。今から後、神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、決して飲まない。」それから、イエスはパンを取り、感謝をささげて、それを裂き、使徒たちに与えて仰せになった。「これは、あなた方のために与えられる、わたしの体である。わたしの記念として行いなさい。」食事を終えると、杯も同じようにして仰せになった。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約である」。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

カトリック教会では、ミサの「感謝の典礼」と「交わりの儀」において、聖体の秘跡が行われます。すなわち、パンとぶどう酒が、パンはイエス・キリストの体となり、ぶどう酒がイエス・キリストの血に変わること、これを「聖体変化」といいます。それを信徒が分け合うこと、これを「聖体拝領」といいます。これがミサの中心となるのです。
イエス・キリストは、次のとおり教えておられます。
◯新約聖書:ヨハネによる福音書・第6章・第52〜第58節
「よくよくあなた方に言っておく、人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた方のうちに命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は、わたしの内に留まり、わたしもその人に留まる。生きておられる父がわたしをお遣わしになって、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる人もわたしによって生きる。これは天から降ってきたパンである。先祖は食べたが、それでも死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、永遠に生きる」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

ヨハネ福音書の聖句(イエス・キリストの言葉)は、なんとも生々しい表現となっていますね〜( ̄◇ ̄;)この部分だけを読んだり聞いたりすると、「人肉を食べたり血を飲んだりするとは、狂ったオカルト集団か!?」となりますね〜( ̄◇ ̄;)決してそうではなく、「人の子」とは、イエス・キリストのこと。「肉を食べ」と「血を飲む」とは、イエス・キリストの御言葉(みことば)を聴き、その教えを行うということであり、ミサにおいては最後の晩餐での教えどおり、聖体を拝領することになります。実際ミサでは、イエス・キリストの肉=体として、パンの代わりに「ホスチア」というウェハースのような丸いものをいただきます。そして、イエス・キリストの血としてぶどう酒となりますが、ミサでは司祭(神父様)だけが飲みます。

元上智大学神学部教授でイエズス会士の故ネメシェギ神父様は、イエス・キリストの著書である『キリスト教とは何か(P111〜P112)』で、「ミサこそ、キリスト者の生命の泉であり、イエスが最大の愛をもって私たちに与えた、最大の贈り物です。(中略)したがってミサのときに、イエス自身が聖霊の力によってわたしたちと共にあり、いのちをもたらす死の姿を表すパンとぶどう酒の形態のもとに、人々を自分の死と復活に合体させるのです。」と述べています。つまり、ミサでのご聖体拝領は、復活されたイエス・キリストの豊かな恵みに与るためなのです。
イエス・キリストの身体をいただく=ご聖体を拝領するということは、「イエス・キリストの復活された体が自分の体に入る」ということになり、すべてにおいて「イエス・キリストと一致する」ことを意味します。

先ほどのネメシェギ神父様は、同じ著書(P113〜P114)で「教会の初めから、イエスが復活したあの日、すなわち日曜日に信者たちは一堂に集まり、「主の晩餐」を執り行ってきました。後の時代になって、教会は特別のおきてで、日曜日ごとにミサに与ること、また少なくとも毎年一度イエスの復活祭あたりに聖体をいただくことを、信者の義務にしました。しかし、わたしたちに聖体の秘跡を残したイエスの恵みの素晴らしさを少しでも理解したキリスト者ならば、このようなことを煩わしい義務としてではなく、優れた特権と感じ、できるだけ頻繁にイエスが開いているこの宴会に与り、イエスの体をいただくに違いありません。」と述べています。
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