「裁いてはならない!」のお話し [聖書]

◯新約聖書:マタイによる福音書・第7章・第1~第2節
「裁いてはならない。裁かれないためである。あなた方が人を裁くように、あなた方は裁かれ、あなた方が量るその升で、あなた方にも量り与えられる。」
◯新約聖書:ルカによる福音書・第6章・第37節
「『裁いてはならない。そうすれば、あなた方も裁かれない。人を罪に定めてはならない。そうすれば、あなたがたも罪に定められない。赦しなさい。そうすれば、あなた方も赦される。」
以上『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この2つの福音書の聖句(イエス・キリストの言葉)は、「自分が人から裁かれないためには、人を裁いてはいけない。」と自己保身を教えているのではありません。人間が人間を裁く行為を戒めて、赦すことを説いてる聖句です。でも、「人を裁くことによって罪を犯してしまうから。」ということも確かに考えられないこともないのですが、この聖句はそういう意味ではありません。
「生死の与奪(よだつ)」と「裁き」は、神様がなさることであって、私たち人間が行うことはではないのです。生死は神様が与奪されることですから、殺人はもとより自殺も殺人と同じなのです。ですから、神様から与えられた命を自ら捨てる自殺は大罪となるのですね。裁きも同じです。人間の裁きができるのは神様お一人の他には誰もいないのです。このことが重要です。

そして、新約聖書の他のところに、次のとおり書かれています。注)「主」とは神様のこと。
◯新約聖書:ローマの人々への手紙・第12章・第19節
「愛するみなさん、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「主は仰せになる『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』」と書かれています。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
人間が人間を裁く行為は、必ずや報復を呼び、それが大きくなって紛争となり、やがて戦争となるのです。平和を愛するイエス・キリストは、平和そのものですから、私たち人間に裁いてはならない、報復してはならない、だから「あなたたち人間は、赦しなさい。」と説いておられるのですね。それは、「人間を裁くのは、神である私のすることである。」ということなのです。

ところで、現在の日本では「裁判員制度」があり、私たち信徒はこの聖句との関係で悩むことになると思います。各人の良心に従って判断することになると思いますが、裁判員を辞退することは基本的にはできないことになっています。ただ、法律等で認められた事情がある場合は辞退することは可能です。しかし、宗教上の信条で辞退することは可能なのか?正解はわかりません。私は、死刑制度の廃止に賛成でもあり、裁判員は辞退することにしています。それでも選任されれば、過料を支払ってでも不参加を選択することになります。それは、私には信仰の確固たる信条・信念があり、聖書にある聖句を人生の使命としているからです。
参考:日本カトリック司教協議会・社会司教委員会編「なぜ教会は社会問題にかかわるのかQ&A」のQ30「裁判員制度について………」
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