今日の日記2022.9.20(エリザベス二世女王の国葬) [日記]

昨日、イギリス(正式名称「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」)のエリザベス二世女王の国葬が、ウェストミンスター寺院で執り行われました。その葬儀の中で、今月就任したばかりのリズ・トラス首相が、葬儀に参列した約2,000人の前で、『ヨハネによる福音書』の第14章・第1~9節を朗読するという栄誉に与りました。私は帰宅後、テレビ中継で拝聴いたしました。日本語の同時通訳がありましたのでよくわかりましたね。あと、同時通訳者が訳した「主の祈り」が、カトリック教会と同じ祈祷文でしたね。

◯新約聖書:ヨハネによる福音書・第14章・第1~第9節
「「心を騒がせてはならない。あなた方は神を信じなさい。
そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には、住む所がたくさんある。そうでなければ、あなた方のために、場所を準備しに行くと言ったであろうか。わたしが行って、あなた方のために場所準備したら、戻ってきて、あなた方をわたしのもとに迎えよう。わたしのいる所に、あなた方もいるようになるためである。わたしがどこへ行くのか、その道をあなた方は知っている」。
トマスがイエスに言った。
「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちには分かりません。どうすればその道を知ることができるでしょうか」。イエスは仰せになった。「わたしは道であり、心理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない。ああなたがたが私を知っているなら、わたしの父をも知ることになる。いや、もう今から父を知っており、また、すでに父を見たのである」。
フィリポがイエスに言った。
「主よ、わたしたちに御父(おんちち)をお見せください。それで充分です」。イエスは仰せになった。「フィリポ、こんなに長い間、あなた方とともにいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。なぜ、わたしたちに御父を見せてください」というのか」。
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

イギリスは、ヘンリー8世国王の離婚という政治的問題〈ヘンリー8世は離婚したい。でも、ローマ教皇はカトリック教会の教義に従い離婚を認めない〉が原因で、カトリック教会から離婚以外の教義自体は否定せずに離別し、1534年に独立した「英国国教会(イングランド国教会)」が国家的な宗教となっています。ですから、立憲君主制であるイングランド(イギリス)の統治者である国王(イギリスの君主)は、英国国教会の「首長(信仰の擁護者)」になっています。
エリザベス二世女王がお亡くなりになられましたので、2022年9月8日現在、チャールズ3世国王がその地位にあります。また、イングランド国教会の大主教(司祭の最高位者)は、カンタベリー大主教です。昨日の国葬は、カンタベリー大主教が司式されていましたね。なお、日本の「日本聖公会(にほんせいこうかい)」は、この英国国教会をルーツとしています。
nice!(0)  コメント(0) 

教会日記2022.9.20(カトリック成城・聖タデオ教会「平日のミサ」火曜日) [教会日記]

この記事は、今朝8時過ぎに掲載したはずだったのですが、先ほど見たらなぜか掲載されていませんでしたので、再び掲載操作をして今度は掲載できました( ̄▽ ̄;)
今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での7時からの平日のミサに与りました。今日も台風の影響で風がすごい吹き荒れましたね。昨日は時折り激しい雨が降りましたが、今日も同様の荒れた天気となりました。でも、私は清々しい朝を迎えることができました。

ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃えて、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
nice!(0)  コメント(0) 

新約聖書:ルカによる福音書・第13章・第6〜第9節 [聖書]

「そして、イエスは次の喩えを語られた、「ある人が、自分のぶどう園にいちじくの木を植えておいた。ある日、その実を探しにいったが、一つも見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。『三年このかた、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、一つも見つけたことがない。切り倒しなさい。なぜ、土地を無駄に使っているのか』。すると、番人は答えた、『ご主人さま、今年もう一年、このままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。そうすれば、来年は実を結ぶでしょう。もしそれでもだめなら、切り倒してください』」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

今日の聖句(イエス・キリストの言葉・聖書の言葉)は、「実のならないいちじくの木のたとえ」です。いちじくは、古代エジプトの壁画にもブドウと共に描かれており、さらには、聖書にも数多く登場する歴史ある果物なのです。旧約聖書の創世記に登場するアダムとイブが、裸を隠すのに使ったのもいちじくの葉でした!ご存知でしたか?(⌒-⌒; ) 新約聖書には「実のならないいちじくの木のたとえ」として、いちじくが登場しますね。はるか昔にアラビア半島で誕生したいちじくは、少なくとも6000年前には栽培が始まっていたといわれています。その後ヨーロッパからペルシャ、中国へと伝わり、日本へは江戸時代に中国から長崎に運ばれました。当初は薬用として栽培されていましたが、生産量が増えるにつれ食用として親しまれるようになったそうです。

この聖句のお話しは次のとおりです。
ぶどう園の持ち主が、ぶどう園にいちじくの木を植えていました。ぶどう園の持主(農夫)にとっては、普通の行為であって珍しいことではありません。いちじくの木は根を広く張りますので、実がならなければ、その木が占めている土地は無駄になってしまうのです。そのため、切り倒して他の実のなる木を植えることは理にかなったことです。この喩え話しは「実のならないこのいちじくの木を切り倒すことをもう少し待ってほしいという番人の願い」が聖句のポイントとなっています。喩え話しに出てくるほど、いちじくは当時から一般的だったのですね。この喩え話しの教えは次のとおりです。

イエス・キリストは、悔い改めない当時のユダヤ人への非難として、この喩え話しを語っておられます。「実のならないいちじく」とは、神様の教えを守らずに背信し続けたイスラエルの民、つまり当時のユダヤ人を表しており、「実り」とは、悔い改め、隣人への愛、赦しのある行為のことを指しています。そして、「番人の願い」とは、忍耐と愛を持って実りを切望する神様の願いを表しています。また、ぶどう園の持ち主が父である神様だとすれば、ぶどう園は神様が造った世界を表しており、「番人」とはイエス・キリスト自身を表していますね。喩え話しに登場する人や物には意味があるのです。

実を実らせないという、神の教えを守らず背信しているイスラエルの民(当時のユダヤ人)を救うために、父である神様によって地上に降誕されたイエス・キリストは、逆に救おうとしたイスラエルの民(当時のユダヤ人)によって十字架に付けられて殺されてしまうのです。それは、すべての人々の罪を背負われてお亡くなりになったイエス・キリストの贖罪が、悔い改めた新しい民となり、いちじくの木に豊かな実がつく=悔い改め、隣人への愛、赦しのある行為を神様は忍耐を持って切望しているのですね。この喩え話しは、そのような神様の恵みと裁きの両方の意味をもって私たちに教えているのです。

この喩え話しによる教えは、昔のイスラエルの民(当時のユダヤ人)だけの昔話しではありません。現在を生きる私たちに与えられた教えでもあります。私たちは、いつも罪を犯してしまいます。でも、その度に何度でも繰り返し立ち直って、神様の恵みにふさわしい実を実らせる生活をしなければなりません。神様の恵みにふさわしい実を実らせることのできない者は、この聖句にあるとおり「もしそれでもだめなら、切り倒してください」となります。つまり、地獄行き!という言い方はどうかな?と思いますが、天の国で神様の食卓に与るという報いを受けることはできないということですね(⌒-⌒; )

【贖罪(しょくざい)】
広い意味では神の救済,償い,和解,ゆるしと同義ですが,イエス・キリストの生と死と復活を通じての神の恩恵として実現される人間の罪からの解放と、これによってもたらされる神との交わりの回復をいいます。
nice!(0)  コメント(0)