「重陽(ちょうよう)の節句」のお話し [日記]

今日9月9日は、「重陽(ちょうよう)の節句」でした。
記事を掲載するのが遅くなりました(⌒-⌒; )
重陽の節句は、五節句の一つで、9月9日のことですね。旧暦では菊が咲く季節であることから、平安時代の昔から「菊の節句」とも呼ばれ、菊の花に長寿をお祈りする日となりました。起源は中国でお祝いされていたものですが、重陽が正式な節句として認められたのは、「漢(前漢は紀元前206年~8年、後漢は(紀元後)25年~220年)」の時代です。後に日本に伝承され、重陽の節句としてお祝いされるようになりました。

今夜は、朝から胃腸の具合が悪く、盃に菊の花びらを浮かべて呑めなかったです(−_−;)
重陽の節句.jpg
陰陽思想では奇数は陽の数であり、陽数の極である9が重なる日であることから「重陽」と呼ばれています。奇数の重なる月日は陽の気が強すぎるため不吉とされ、それを払う行事として節句が行なわれていましたが、9は一桁の数のうち最大の「陽」であり、特に負担の大きい節句と考えられていました。後に、陽の重なりを吉祥とする考えに変わり、お祝い事となったものです。ちなみに、1月7日は「七草の節句」、3月3日は「桃の節句」、5月5日は「端午の節句」、7月7日は「七夕の節句」です。風流な日本の伝統文化ですね。

★知ってる人は教養のある人!
『拾遺和歌集(185)』
「長月の九日ごとに摘む菊の花もかひなく老いにけるかな」
(なかつきの ここぬかことに つむきくの はなもかひなく おいにけるかな)

★知ってる人は知識豊富な人!
9月9日の記念日です。
「救急の日」
9月9日でキューキューの語呂合わせから、救急医療の大切さを理解してもらおうと設けられた日です。1982年(昭和57年)に当時の厚生省が制定したもので、救急処置の講習会などが開かれます。

★知ってる人は笑いのある人!
これも9月9日の記念日です。
「きゅうりのキューちゃんの日」
愛知県豊橋市に本社を置く日本を代表する漬物メーカーの東海漬物株式会社が制定しました。1962年(昭和37年)の発売以来、ロングセラーを続ける同社の人気商品「きゅうりのキューちゃん」をPRするのが目的です。「きゅうりのキューちゃん」は良質な素材を、風味豊かな専用の醤油で味付け、パリポリっとした食感の美味しい漬物ですね。「きゅうり」の9と、「キューちゃん」の9の語呂合わせからです。
9月9日の記念日は、他にもたくさんありますが止めときますね!(⌒-⌒; )
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教会日記2022.9.9(カトリック成城・聖タデオ教会「平日のミサ」金曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での7時からの「平日のミサ」に与りました。 8月12日(金)の平日のミサから、毎週金曜日の「先唱(せんしょう)奉仕」を担当をすることになり、今日で4回目です。
読んで字のごとく、ミサに与っている会衆(信徒)より先に司式中の祈りの祈祷文や言葉を唱える先導役です。先唱者が唱えてから、続いて会衆が唱えるというものなど、先唱者の務めはミサをとおしていろいろあります。先唱者が間違うと、ミサの司式が止まってしまうというか、会衆(出席している信徒)が戸惑っていしまいますから、円滑な司式を行うには重要な役割を担うことになります。

ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃えて、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
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旧約聖書:列王記上・第16~第28節 [聖書]

テレビの時代劇で有名な、江戸時代の2人の名奉行と言えば、一人は、《遠山の金さん》で有名な江戸北町奉行の遠山左衛門尉景元(とおやま さえもんのじょう かげもと:1793年(寛政5年)~1855年(安政2年))と、もう一人は、《大岡裁き》で有名な江戸南町奉行の大岡越前守忠相(おおおか えちぜんのかみ ただすけ:1677年(延宝5年)~1752年(宝暦元年))ですね。

この南町奉行の大岡忠相が、奉行(ぶぎょう)として裁いた裁判で有名なのは、『大岡政談』の一つとして写本や講談で広がった「子ども争い」です。この「子ども争い」の訴訟を要約すると次のようになります。
「ある時、1人の子どもを巡って2人の母親が『自分が本当の親である』と主張し、その決着を求めて南町奉行所に訴え出ました。奉行であった大岡忠相は、『その子の腕を左右一本ずつ持ち、それを引っ張り合いなさい。勝った方を母親と認めよう。』と言いました。これを聞いて2人の母親は子どもの腕を引っ張りましたが、子どもは『痛い』と泣き叫びました。その声を聞いて片方の母親が手を離しました。最後まで腕を離さなかった母親は自分が勝ったと思い、子どもを連れて帰ろうとしたところ、大岡忠相はこれを制止し『本当の親なら、子が痛いと叫んでいる行為をどうして続けられようか。その子は手を離した親のものだ』と引っ張り合いに負けた方を本当の母親であるとした。」という話しです。大岡忠相は、この裁きで<人の心の機微をよく理解した裁判>と評価され、<大岡裁き>として有名になりました。

実は、このような<大岡裁き>と同じようなお話しは、世界各地にあるそうですが、最も古いのは旧約聖書の『列王記』にあるイスラエルの第3代目の王・ソロモン王(紀元前1011年~紀元前931年)が行った裁判の話しです。ソロモン王は、偉大なダビデ王の子で、国の治世の初期には良い政治を行って国を栄えさせました。ソロモン王は、神から知恵を授かった人でもありましたので、ソロモンの知恵の深さと広い知識は周辺諸国にも知られ、親交を求めて来る王や使者が絶えませんでした。(晩年は、しだいに豪華な神殿や宮殿を作り、贅沢な生活をするようになって民を苦しめ、遂に王国を分裂させてしまいました)このソロモン王の知恵の深さを示すものとして、1人の乳児を争う2人の女の一件をソロモン王が裁いた話しが旧約聖書の『列王記』にあるのです。要約すると次のようになります。
「ある時、同じ家に住む 2 人 の遊女が同時に子供を産み、一方の女性の子どもが死んだので、その女性は子どもをすり替えてしまいます。1人の子どもを巡って2人の母親が『自分が本当の親である』と主張し、その決着を求めてソロモン王に訴え出ました。ソロモン王は、子どもを奪い合う2人母親に『剣を使いなさい。自ら剣を持ち、子どもを2つに断ち切り、分け合いなさい。』と言いました。日本人にはなじまない発想ですが、このソロモン王の裁定に、片方の女性は『どうか、子どもを殺さないで下さい、子どもをあの人に与えてください』と言いました。これを聞いたソロモン王は、本当の母親はこの女性であると判断した。」という話しです。この逸話は「ソロモンの知恵」として広く世界に伝わりました。日本では、江戸時代前の1560年(永禄3年)に、豊後でイエズス会の宣教師がクリスマスにソロモンの裁判劇を上演したという記録もあり、このソロモン王の話しが、後々、大岡奉行の「子ども争い」の裁き話しになったそうです。

ニコラ・プッサン (フランス:1594年~1665年)作の「ソロモンの審判(1649年)」です。フランス・パリ市にあるルーヴル美術館に収蔵されています。
ソロモンの審判.jpg
◯旧約聖書:列王記上・第16~第28節
<ソロモンの知恵>
「そのころ、遊女が二人、王のもとに来て、その前に立った。一人はこう言った。『王様、よろしくお願いします。わたしはこの人と同じ家に住んでいて、その家で、この人のいるところでお産をしました。三日後に、この人もお産をしました。わたしたちは一緒に家にいて、ほかにだれもいず、わたしたちは二人きりでした。
ある晩のこと、この人は寝ているときに赤ん坊に寄りかかったため、この人の赤ん坊が死んでしまいました。そこで夜中に起きて、わたしの眠っている間にわたしの赤ん坊を取って自分のふところに寝かせ、死んだ子どもをわたしのふところに寝かせたのです。私が起きて自分の子どもに乳をふくませようとしたところ、子どもは死んでいるではありませんか。その朝、子どもをよく見ますと、わたしの産んだ子ではありませんでした。』もう一人の女が言った。『いいえ、生きているのがわたしの子で、死んだのがあなたの子です。』さきの女は言った。『いいえ、死んだのはあなたの子で、生きているのがわたしの子です。』

二人は王の前で言い争った。王は言った。「『生きているのがわたしの子で、死んだのがあなたの子だ』と一人が言えば、もう一人は、『いいえ、死んだのはあなたの子で、生きているのがわたしの子だ』と言う。そして王は、『剣を持ってくるように』と命じた。王の前に剣が持ってこられると、王は命じた。『生きている子を二つに裂き、一人に半分を、もう一人に他の半分を与えよ。』生きている子の母親は、その子を哀れに思うあまり、『王様、お願いです。この子を生かしたままこの人にあげえてください。この子を絶対に殺さないでください。』と言った。しかし、もう一人の女は、『この子をわたしのものにも、この人のものにもしないで、裂いて分けてください』と言った。王はそれに答えて宣言した。『この子を生かしてまま、さきの女に与えよ。この子を殺してはならない。その女がこの子の母である。』王の下した裁きを聞いて、イスラエルの人々は皆、王を畏れ敬うようになった。神の知恵が王のうちにあって、正しい裁きを行うのを見たからである。」
『新共同訳聖書』から
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