「聖ヒルデガルド(ビンゲン)おとめ教会博士」のお話し [聖人・福者・尊者]
今日9月17日は、「聖ヒルデガルド(ビンゲン)おとめ教会博士」の記念日でした。掲載するのが遅くなりました。
聖ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098年-1179年)は、ドイツのベッケルハイムの貴族の家に生まれ、福者ユッタがいるベネディクト会の修道院で教育されて、1116年にこの修道会の会員となりました。36歳の時に、ユッタの後を継いで修道院長になりました。彼女は、幼いころから神秘的な体験をし、司祭からも勧められて『Scivias(道を知る者)』という書を著わし、また、教皇からも彼女の示現(ヴィジョン)は真正なものとして認められました。
神秘家であり、40歳ごろに「生ける光の影(umbra viventis lucis)」の幻視体験(visio)をし、女預言者とみなされました。50歳ごろにビンゲンに修道院を作り、1147年に18人の修道女とともにビンゲン近くのルペルツベルグに修道院を移し、大きな修道院に発展させました。聖ヒルデガルトは、会の修道女を導くとともに、国王や聖職者たちに手紙を書いたり、貧しいひとかや病人の世話をしたりするなど、ドイツ各地を巡って人びとの信仰を鼓舞し、大きな影響を与えました。
医学・薬草学に強く、ドイツ薬草学の祖とされています。彼女の薬草学の書は、20世紀の第二次世界大戦時にオーストリアの軍医ヘルツカ(ドイツ語版)により再発見され、世に知られた最初のドイツ人博物学者とされています。才能に恵まれ、神学者、説教家、宗教劇の作家、伝記作家、言語学者、詩人であり、また、古代ローマ時代以降最初(ギリシア時代に数名が知られる)の女性作曲家とされています。中世ヨーロッパ最大の賢女とも言われています。教皇庁典礼秘跡省は、2021年1月25日付の「教令」をもって、ヒルデガルトをおとめ教会博士に加えました。
【教会博士】
教会博士(きょうかいはかせ)とは、キリスト教カトリック教会おいて、聖人の中でも特に学識にすぐれ、信仰理解において偉大な業績を残した人に送られる称号のことです。
聖ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098年-1179年)は、ドイツのベッケルハイムの貴族の家に生まれ、福者ユッタがいるベネディクト会の修道院で教育されて、1116年にこの修道会の会員となりました。36歳の時に、ユッタの後を継いで修道院長になりました。彼女は、幼いころから神秘的な体験をし、司祭からも勧められて『Scivias(道を知る者)』という書を著わし、また、教皇からも彼女の示現(ヴィジョン)は真正なものとして認められました。
神秘家であり、40歳ごろに「生ける光の影(umbra viventis lucis)」の幻視体験(visio)をし、女預言者とみなされました。50歳ごろにビンゲンに修道院を作り、1147年に18人の修道女とともにビンゲン近くのルペルツベルグに修道院を移し、大きな修道院に発展させました。聖ヒルデガルトは、会の修道女を導くとともに、国王や聖職者たちに手紙を書いたり、貧しいひとかや病人の世話をしたりするなど、ドイツ各地を巡って人びとの信仰を鼓舞し、大きな影響を与えました。
医学・薬草学に強く、ドイツ薬草学の祖とされています。彼女の薬草学の書は、20世紀の第二次世界大戦時にオーストリアの軍医ヘルツカ(ドイツ語版)により再発見され、世に知られた最初のドイツ人博物学者とされています。才能に恵まれ、神学者、説教家、宗教劇の作家、伝記作家、言語学者、詩人であり、また、古代ローマ時代以降最初(ギリシア時代に数名が知られる)の女性作曲家とされています。中世ヨーロッパ最大の賢女とも言われています。教皇庁典礼秘跡省は、2021年1月25日付の「教令」をもって、ヒルデガルトをおとめ教会博士に加えました。
【教会博士】
教会博士(きょうかいはかせ)とは、キリスト教カトリック教会おいて、聖人の中でも特に学識にすぐれ、信仰理解において偉大な業績を残した人に送られる称号のことです。
教会日記2022.9.17(カトリック成城・聖タデオ教会「主日のミサ」土曜日) [教会日記]
今日は、9月19日(月)の祝日に仕事で出勤する振替休日でお休みです。お昼過ぎまで自宅でゆっくりし、16時からカトリック成城・聖タデオ教会での「主日のミサ」に与りました。曇り空で少々蒸し暑く感じますが、それでも朝夕は涼しくなりましたね。
ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃え、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃え、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
「聖ロベルト・ベラルミン司教教会博士」のお話し [聖人・福者・尊者]
今日9月17日は、「聖ロベルト・ベラルミン司教教会博士」の任意の記念日です。
ロベルト・フランチェスコ・ロモロ・ベラルミン(イタリア:1542年-1621年)は、イエズス会司祭で、カトリック改革に最も功労のあった枢機卿の一人です。1930年に聖人および教会博士に列せられました。イタリアのモンテプルチャーノで10人兄弟の3番目に生まれ、教皇マルケルス2世の母方の甥にあたります。幼い頃から神童ぶりを発揮し、ラテン語が堪能で、バイオリンを弾き、ウェルギリウスを暗誦し、イタリア語やラテン語の詩を数多く書き、彼の書いたマグダラのマリアの賛歌は「聖務日課祈祷書」に収められるほどでした。
1567年から1568年にかけてパドヴァ大学に在籍し、トマス・アクィナス神学を学びました。1560年にイエズス会に入り、1570年に叙階され、ベルギーのルーヴァンでトマス・アクィナスの『神学大全』を教え、有名な説教家となりました。このころ「神の恵みと人間の自由意志の問」題について、人間の意志の努力によって徳を積み、救いに達しようというペラギウス的発想を唱え、ベルギーの神学者バイウスと対立しました。プロテスタントの宗教改革者たちとの論争に備え、教会史、教父学、聖書学を研究して体系づけ、その後、1576年にイエズス会のナポリの管区長になり、1598年、クレメンス8世の時に枢機卿になりました。
神学者として公教要理をまとめて教会に大きな影響を与える一方、貧しい人びとを援助するために、自らは質素な生活を営んだそうです。優秀な学者であった彼は、ベニスでの反聖職者勢力との争い、そしてプロテスタントであるイギリスのジェームズ1世との対立の際、「教会と国との関係において、権威は、民衆のなかにあって、神から与えられたものである」と主張して使徒座を擁護しました。思想上、プロテスタント神学者たちと対立しましたが、彼らのために熱心に祈り、個人的に非難することはありませんでした。霊的指導者として聖アロイジオ・ゴンザガを助け、聖フランシスコ・サレジオが聖フランシスカ・ド・シャンタルと設立した「聖母訪問修女会」が聖座から正式認可されるために尽力しました。晩年には、信心や教訓的な多くの著作を残し、1621年にローマで亡くなりました。
ロベルト・フランチェスコ・ロモロ・ベラルミン(イタリア:1542年-1621年)は、イエズス会司祭で、カトリック改革に最も功労のあった枢機卿の一人です。1930年に聖人および教会博士に列せられました。イタリアのモンテプルチャーノで10人兄弟の3番目に生まれ、教皇マルケルス2世の母方の甥にあたります。幼い頃から神童ぶりを発揮し、ラテン語が堪能で、バイオリンを弾き、ウェルギリウスを暗誦し、イタリア語やラテン語の詩を数多く書き、彼の書いたマグダラのマリアの賛歌は「聖務日課祈祷書」に収められるほどでした。
1567年から1568年にかけてパドヴァ大学に在籍し、トマス・アクィナス神学を学びました。1560年にイエズス会に入り、1570年に叙階され、ベルギーのルーヴァンでトマス・アクィナスの『神学大全』を教え、有名な説教家となりました。このころ「神の恵みと人間の自由意志の問」題について、人間の意志の努力によって徳を積み、救いに達しようというペラギウス的発想を唱え、ベルギーの神学者バイウスと対立しました。プロテスタントの宗教改革者たちとの論争に備え、教会史、教父学、聖書学を研究して体系づけ、その後、1576年にイエズス会のナポリの管区長になり、1598年、クレメンス8世の時に枢機卿になりました。
神学者として公教要理をまとめて教会に大きな影響を与える一方、貧しい人びとを援助するために、自らは質素な生活を営んだそうです。優秀な学者であった彼は、ベニスでの反聖職者勢力との争い、そしてプロテスタントであるイギリスのジェームズ1世との対立の際、「教会と国との関係において、権威は、民衆のなかにあって、神から与えられたものである」と主張して使徒座を擁護しました。思想上、プロテスタント神学者たちと対立しましたが、彼らのために熱心に祈り、個人的に非難することはありませんでした。霊的指導者として聖アロイジオ・ゴンザガを助け、聖フランシスコ・サレジオが聖フランシスカ・ド・シャンタルと設立した「聖母訪問修女会」が聖座から正式認可されるために尽力しました。晩年には、信心や教訓的な多くの著作を残し、1621年にローマで亡くなりました。