「本革トートバッグ」のお話し [日記]

学生時代から今までいろいろなバッグを使ってきました。大学では、課外活動で吹奏楽部に所属していましたが、3年生の時に幹部補佐(準幹部)になって初めて持ったカバンが「アタッシュケース」でした。東京都大学吹奏楽連盟などの会議や行事に出席する時は、必ず黒いアタッシュケースでした。これは、どこの大学でも同じと言っていいほど、当時の大学吹奏楽界では当たり前のことで、アタッシュケースを持っていることが幹部の証でもありました。黒い学生服に黒いアタッシュケースですから、“黒服軍団”と呼ばれたこともあり、現在では学生服も着ませんし異様な感じがしますよね。アタッシュケースの外側は、貧乏学生でしたから高価な本革製ではなく、安いナイロン製でした。私は、日本のカバンメーカーでは老舗の「エースバッグ社(現、エースラゲージ株式会社)」に吹奏楽部の卒業生がいたものですから、自然にエース社製のものを持つようになっていました。
写真は、アタッシュケースです。参考写真ですが、昔か変わらない箱型です。
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大学を卒業して就職し、社会人になってからは本革製のビジネスバッグを使っていました。ブリーフケースというものですが、50歳代前半に膝を痛めるまでいくつか使っていました。膝を痛めてからは、一時的に布製のショルダーバッグ(京都の一澤帆布製)にしたり、ナイロン製のトートバッグ(吉田カバン・ラゲッジレーベル)にしたりしていましたが、いよいよ膝の痛みが増してきて、ついにというか小学生時代のランドセル以来、初めてバックパック(リュックサック)にしました。それも軽量なナイロン製です。これはよかったですね~。カバンの重量が中心にきて両肩に分散されますからとっても楽になりました。そして、膝の調子が良くなって3年ほど前に本革製のリュックサックに替えたりしました。ただ、リュックサックの場合、中身を取り出すのに両肩から下ろしてからでないと取り出せませんから、面倒というか苦労するというかスムーズにはできませんね。

そして、現在は①汗をかく夏専用でナイロン製のバックパック、②本革のリュックサック、③本革のトートバッグ、④仕事(出張)専用で本革のブリーフケースの4つをその時の状況に応じて使い分けています………が、今は、仕事でもオフでも本革性のトートバッグを使っています。なぜトートバッグなのか?ということですが、次のとおりです。
1番 とにかくすべての物がすぐに出し入れができて超便利です
2番 持ち替えしないで仕事でもオフでも同じバッグを使いたい
3番 手を使いたいシーンではショルダーにすれば両手が使える

写真は、日本の革カバン専門工房「HERZ(ヘルツ)」のブランド「Organ(オルガン)」の「ファスナー式の肩掛けトート」です。イタリアンレザー(ユーフラテ)を使用しています。Mサイズ(Lサイズと2種)・横幅36㎝・高さ32㎝・マチ13㎝、重さは750gですから本革製としては軽い方ですね。色はブラウン(カスターニョ)です。写真右側の上から撮った写真ですが、開口部にファスナーがついていますから安心です。
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トートバッグとは、写真のとおり通常持ち手が2本あり、多用途で使われています。カバンの上部のみが開口部となっており、肩にかけられて取り出しやすく、厚みのある物をしまいやすいバッグです。マチが深く、開き口が広いのでいろいろな物が入れられます。薄手の物は折り畳んで小袋に入れ、携帯できます。「持ち運ぶ、携帯」という意味の英語「Tote(トート)」に由来しているそうです。一般的には丈夫なキャンバス生地やナイロン、本革などの素材が多く、縦型と横型のデザインがあります。仕切りがない(少ない)ものが多いので、厚みのある物を入れるのに適しているといえます。

トートバッグのルーツは、約60年前まで遡ります。まだ電気の冷蔵庫が普及していなかった1944年、米国のアウトドア・ブランド「L.L.Bean社(エルエルビーン)」が氷のブロックを運ぶためにキャンバス地で口が大きなバッグを作りました。当時は “アイス・キャリアー”と呼ばれましたが、これが現在のトートバッグの始まりだと言われています。まだ60年くらいなのですね。
カジュアル用途だったトートバッグを、ビジネス用途で使い始めたのは日本の男性からと言われています。大量のプレゼンテーション資料を入れたバッグを片手に歩きながら手帳を取り出し、もう片方の手で携帯電話で会話する……といった毎日を過ごす日本のビジネスマン。彼らから使いやすいバッグを望む声を受け「肩に掛けられて、開き口が広い」というというトートバッグ特徴をそのままに、素材をキャンバス地から本革やナイロンに替えたビジネストートが誕生したそうです。今では、シンプルな外見の「ビジネストート」が人気のようですね。
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教会日記2022.9.16(カトリック成城・聖タデオ教会「平日のミサ」金曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での7時からの「平日のミサ」に与りました。 8月12日(金)の平日のミサから、毎週金曜日の「先唱(せんしょう)奉仕」を担当をすることになり、今日で5回目です。月初めの第一金曜日は、10時からのミサが「初金のミサ」となるため、別の先唱奉仕者がいますので、私はだいたい月3回となります。
先唱奉仕者は、読んで字のごとく、ミサに与っている会衆(信徒)より先に司式中の祈りの祈祷文や言葉を唱える先導役です。先唱者が唱えてから、続いて会衆が唱えるというものなど、先唱者の務めはミサをとおしていろいろあります。先唱者が間違うと、ミサの司式が止まってしまうというか、会衆(出席している信徒)が戸惑っていしまいますから、円滑な司式を行うには重要な役割を担うことになります。

ミサでは、「聖コルネリオ教皇・聖チプリアノ司教殉教者」の記念日をお祈りしました。
そして、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃えて、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
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「聖コルネリオ教皇・聖チプリアノ司教殉教者」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日9月16日は、「聖コルネリオ教皇・聖チプリアノ司教殉教者」の記念日です。
聖コルネリオ教皇は、カルタゴ(現在のチュニジア共和国)に生まれ、キリスト教徒ではありませんでしたが、成人してから洗礼を受けて司祭への道を志しました。叙階されて249年ごろ、カルタゴの司教になりました。ローマ帝国のデキウス帝の迫害によって苦しむ信徒たちを心にかけ、司教として励ましました。250年1月20日に教皇ファビアノが殉教し、その後、コルネリオが教皇に選ばれました。
右側が聖コルネリオ教皇、左側が聖チプリアノ司教です。
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コルネリオが教皇の在位中に「大罪のゆるし」と「迫害のときに棄教した信徒の教会復帰」が問題となりました。コルネリオ教皇は「司教によれば、大罪をゆるすことができる」と主張し、カルタゴの司教チプリアノがこれを支持しました。しかし、ノヴァティアヌスはコリネリオの主張に反対し、自らが教皇であると宣言して対立教皇となりました。しかし、251年にコルネリオ教皇はカルタゴに司教たちを集め、棄教者がゆるしの秘跡を受け、償いのわざを行えば教会に戻ることができることを確認し、これによってノヴァティアヌス派は排斥されました。

同じ9月16日に記念するチプリアノ司教は、コリネリオ教皇をあらゆる面でよく助け、教会が一つであるために、使徒ペトロの後継者である教皇のもとに、司教、信徒たちが一致することの大切さを強調しました。ローマ帝国のデキウス帝の死後、ペストが流行し、民衆の不満はキリスト教徒に向けられました。そのため、トレボニアヌス帝もキリスト教を弾圧し、コリネリオ司教は捕らえられました。彼は、追放されたチェントゥリチェッレ(現在のチヴィタヴェッキア)で253年に亡くなりました。
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