「指紋研究家ヘンリー・フォールズ」の住居跡訪問 [キリスト教関係事項・用語等]
今日は、カトリック成城・聖タデオ教会で10時からの「聖母の被昇天」の祭日のミサに与り、終わってから現在では当たり前となっている指紋鑑定の先駆けとなる研究を行った、プロテスタント教会の長老派スコットランド一致長老教会の医療宣教師であるヘンリー・フォールズの住居跡を訪ねました。蒸し暑くつて汗が滝のように流れ、ヘトヘトになりながら取材?しました(⌒-⌒; ) 今は、クーラーで極冷えしているカフェでこのブログ記事を書いています。ちなみに、近くにあるカトリック築地教会を訪ねる余力はありませんでした(⌒-⌒; )
住居跡の記念碑は、中央区築地にある聖路加国際病院新館前の緑地帯にあります………という情報を聞いて探し回りましたが、交差点の横断歩道近くにあると言った方が正解です(⌒-⌒; )
ヘンリー・フォールズ(イギリス・スコットランド:1843年~1930年)は、イギリスの医師で指紋研究家、スコットランド一致長老教会の医療宣教師です。スコットランドのビースに生まれ、父親の事業が破綻し、叔父の商社で働きながら学問を学びました。グラスゴー大学を1868年に卒業、アンダーソンカレッジ(現:ストラススクライド大学)で医学を学び医師免許を取得しました。その後、1871年にプロテスタント教会長老派の「スコットランド一致長老教会」の医療宣教師としてインドに渡ります。1874年に、一致長老教会の医療伝道団の一員として来日し、東京の築地病院で働き、治療とともに日本人医学生を指導しました。
日本で、エドワード・モースと親しくなり大森貝塚の発掘に参加し、発掘された土器に残された古代人の指紋に興味を持ち、指紋の研究を始めました。数千セットの指紋を集めえ比較対照し、①同一の指紋をもつもののないこと、②物理的に除去したとしても再生すること、③児童の指紋が成長によって変わらないことを確かめました。1880年(明治13年)、その結果を知らせる手紙を有名な地質学者・生物学者のチャールズ・ダーウィンに書きますが、ダーウィンは手紙を従弟にあたるフランシス・ゴルトンに送りましたが、返事のないまま、個人の識別に指紋を用いることができるという論文を1880年『ネイチー』に投稿して掲載されました。
指紋による個人識別については、フォールズの発表時には注目を集めなかったのですが、1892年に優生学、遺伝学の研究者フランシス・ゴルトンによる『指紋』の出版、インドの警視総監エドワード・ヘンリー、分類法を確立したアジズル・ハクの研究と1900年のヘンリーの『指紋の分類と使用法』の出版によって実用的なものとなっていきました。フォールズの業績については、ゴルトンによって無視され、さらに、指紋による誤認逮捕を恐れる立場から単指指紋を証拠として採用するのに反対する立場をとったため、スコットランド・ヤードとも対立しました。1987年に、指紋検査官の協会がフォールズの墓を再建し、その功績を讃えて顕彰しています。
聖路加国際病院の建物は、最高部に大きな十字架のあることで有名なのですが、建物が外壁修理か何かで外壁保護幕で覆われているため写真は撮りませんでした。この辺りは、明治期当初から外国人居留地であり、外国の大使館・公使館などがあって、後に有名となる私立学校が創られた地でした。聖路加国際病院の前の道路は、「聖ルカ通り」という名称で、道沿いの植え込みにはいろいろな学校の記念碑があります。
◯「女子学院発祥の地」の記念碑です。現在、千代田区一番町にある超進学校(女子御三家:女子学院中高、桜蔭中高、雙葉中高)として有名な女子学院中学校・高等学校です。キリスト教精神を教育理念として創立された学校です。
◯「立教学院発祥の地」の記念碑です。現在、豊島区池袋にある立教大学です。キリスト教精神を教育理念として創立された学校です。
◯「立教女子学院 築地居留地校舎跡」の記念碑です。現在、杉並区久我山にある立教女学院中学校・高等学校です。キリスト教精神を教育理念として創立された学校です。
◯「慶應義塾発祥の地」の記念碑です。現在、港区三田にある慶應義塾大学です。福沢諭吉先生が創立された学校として有名ですね。なお、キリスト教とは関係ありません。
福沢諭吉先生の「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」は有名で、意味は「人間は本来平等であって、貴賤・上下の差別のあるものではない。」ということです。福沢諭吉先生の著書『学問のすゝめ』に、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」とあります。
住居跡の記念碑は、中央区築地にある聖路加国際病院新館前の緑地帯にあります………という情報を聞いて探し回りましたが、交差点の横断歩道近くにあると言った方が正解です(⌒-⌒; )
ヘンリー・フォールズ(イギリス・スコットランド:1843年~1930年)は、イギリスの医師で指紋研究家、スコットランド一致長老教会の医療宣教師です。スコットランドのビースに生まれ、父親の事業が破綻し、叔父の商社で働きながら学問を学びました。グラスゴー大学を1868年に卒業、アンダーソンカレッジ(現:ストラススクライド大学)で医学を学び医師免許を取得しました。その後、1871年にプロテスタント教会長老派の「スコットランド一致長老教会」の医療宣教師としてインドに渡ります。1874年に、一致長老教会の医療伝道団の一員として来日し、東京の築地病院で働き、治療とともに日本人医学生を指導しました。
日本で、エドワード・モースと親しくなり大森貝塚の発掘に参加し、発掘された土器に残された古代人の指紋に興味を持ち、指紋の研究を始めました。数千セットの指紋を集めえ比較対照し、①同一の指紋をもつもののないこと、②物理的に除去したとしても再生すること、③児童の指紋が成長によって変わらないことを確かめました。1880年(明治13年)、その結果を知らせる手紙を有名な地質学者・生物学者のチャールズ・ダーウィンに書きますが、ダーウィンは手紙を従弟にあたるフランシス・ゴルトンに送りましたが、返事のないまま、個人の識別に指紋を用いることができるという論文を1880年『ネイチー』に投稿して掲載されました。
指紋による個人識別については、フォールズの発表時には注目を集めなかったのですが、1892年に優生学、遺伝学の研究者フランシス・ゴルトンによる『指紋』の出版、インドの警視総監エドワード・ヘンリー、分類法を確立したアジズル・ハクの研究と1900年のヘンリーの『指紋の分類と使用法』の出版によって実用的なものとなっていきました。フォールズの業績については、ゴルトンによって無視され、さらに、指紋による誤認逮捕を恐れる立場から単指指紋を証拠として採用するのに反対する立場をとったため、スコットランド・ヤードとも対立しました。1987年に、指紋検査官の協会がフォールズの墓を再建し、その功績を讃えて顕彰しています。
聖路加国際病院の建物は、最高部に大きな十字架のあることで有名なのですが、建物が外壁修理か何かで外壁保護幕で覆われているため写真は撮りませんでした。この辺りは、明治期当初から外国人居留地であり、外国の大使館・公使館などがあって、後に有名となる私立学校が創られた地でした。聖路加国際病院の前の道路は、「聖ルカ通り」という名称で、道沿いの植え込みにはいろいろな学校の記念碑があります。
◯「女子学院発祥の地」の記念碑です。現在、千代田区一番町にある超進学校(女子御三家:女子学院中高、桜蔭中高、雙葉中高)として有名な女子学院中学校・高等学校です。キリスト教精神を教育理念として創立された学校です。
◯「立教学院発祥の地」の記念碑です。現在、豊島区池袋にある立教大学です。キリスト教精神を教育理念として創立された学校です。
◯「立教女子学院 築地居留地校舎跡」の記念碑です。現在、杉並区久我山にある立教女学院中学校・高等学校です。キリスト教精神を教育理念として創立された学校です。
◯「慶應義塾発祥の地」の記念碑です。現在、港区三田にある慶應義塾大学です。福沢諭吉先生が創立された学校として有名ですね。なお、キリスト教とは関係ありません。
福沢諭吉先生の「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」は有名で、意味は「人間は本来平等であって、貴賤・上下の差別のあるものではない。」ということです。福沢諭吉先生の著書『学問のすゝめ』に、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」とあります。
教会日記2022.8.15(カトリック成城・聖タデオ教会「聖母の被昇天の祭日のミサ」月曜日) [教会日記]
今日は、カトリック成城・聖タデオ教会で、10時からの「聖母の被昇天の祭日のミサ」に与りました。昨日のミサでもお祈りを捧げましたが、今日も聖母マリア様に清い心でお祈りを捧げました。
ちなみに、今日は終戦記念日であり、「日本カトリック平和旬間」の最終日で閉幕となります。「平和旬間」のことは、このブログの2022年8月6日(土)に掲載した「教会日記2022.8.6(カトリック成城・聖タデオ教会「主の変容の祝日のミサ」土曜日)」をお読みください。https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2022-08-06-4
聖堂内の祭壇に向かって左側にある聖母マリア様のご像です。
ミサでは、「聖母の被昇天」の祭日をお祝いしてお祈りしました。
そして、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃えて、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
ちなみに、今日は終戦記念日であり、「日本カトリック平和旬間」の最終日で閉幕となります。「平和旬間」のことは、このブログの2022年8月6日(土)に掲載した「教会日記2022.8.6(カトリック成城・聖タデオ教会「主の変容の祝日のミサ」土曜日)」をお読みください。https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2022-08-06-4
聖堂内の祭壇に向かって左側にある聖母マリア様のご像です。
ミサでは、「聖母の被昇天」の祭日をお祝いしてお祈りしました。
そして、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃えて、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
「聖タルチシオ助祭殉教者」のお話し [聖人・福者・尊者]
今日8月15日は、「聖母の被昇天」の祭日ですが、「聖タルチシオ助祭殉教者」の記念日でもあります。聖タルチシオ(タルチジオ、タルチシウス)は、3世紀のカトリック教会の殉教者です。カトリック教会での霊名日は8月15日(聖母の被昇天と同日)です。
アレクサンドル・ファルギエール作の「聖タルチシオの殉教(1868年)」です。胸にご聖体を抱いている姿です。フランスのパリ市にあるオルセー美術館に収蔵されています。
聖タルチシオは、「聖体の奉仕者」です。ローマ帝国の治世下では、キリスト教は弾圧され迫害されていたため、キリスト教の信仰を持った人たちはカタコンベ(地下墓地)などで密かに集まり、祈りを捧げて信仰を守っていました。その祈りで重要になるのは司祭によって聖別されたご聖体であり、ミサを捧げるのに必要なものでした。聖タルチシオは、この聖体を運ぶ役割を司祭から受け、密かに信者のもとへ運び届けていたのですが、ある日聖体を運んでいる途中に見つかってしまい、石で打ち殺されて殉教しました。石で打たれる最中も聖体を胸に抱いて守り続け、決して奪わせなかったということです。そのため、肖像画や彫刻は、胸にご聖体を抱いているようなポーズが多いですね。ご聖体がアトリビュートになっています。少年であったと言われたほか、聖体を運んでいる最中に殉教したため、侍者の守護聖人として知られますが、助祭としての役割を担っていたそうです。
ちなみに、カトリック東京大司教区の菊地功大司教の洗礼名は、この聖タルチシオです。
【アトリビュート】
西洋絵画、特に宗教画(キリスト教絵画)には、「アトリビュート(=持物:じぶつ)」というものがあります。これは、絵を描く時の“約束事”として、特定の人物(聖人など)に密接に結びつけられたもの、例えば花、動物、小物、道具や背景などが画かれるのです。
例えば、聖母マリア様ですと、必ず画かれているのが純潔の象徴である「百合の花」ですね。「受胎告知」の絵で、大天使ガブリエルが百合の花を持っています。そして、天の真実を意味する「青色(濃紺色)のマント」です。「祈りの聖母」と「悲しみの聖母」の絵もそうですね。他にも、「12の星の冠」や足の下に「三日月」と「蛇」が画かれています。聖母マリア様の絵を見るときはよく観察しましょうね。
他にも、聖母マリアの夫である聖ヨセフは、大工であったことから大工道具がアトリビュートになっていますし、聖アガタは、乳房を切り取られたことから、乳房がアトリビュートになっています。旧約聖書の「トビト記」に出てくるトビアスを描いた絵は、必ず魚が画かれています。(「トビト記」を読めばわかります。)
アレクサンドル・ファルギエール作の「聖タルチシオの殉教(1868年)」です。胸にご聖体を抱いている姿です。フランスのパリ市にあるオルセー美術館に収蔵されています。
聖タルチシオは、「聖体の奉仕者」です。ローマ帝国の治世下では、キリスト教は弾圧され迫害されていたため、キリスト教の信仰を持った人たちはカタコンベ(地下墓地)などで密かに集まり、祈りを捧げて信仰を守っていました。その祈りで重要になるのは司祭によって聖別されたご聖体であり、ミサを捧げるのに必要なものでした。聖タルチシオは、この聖体を運ぶ役割を司祭から受け、密かに信者のもとへ運び届けていたのですが、ある日聖体を運んでいる途中に見つかってしまい、石で打ち殺されて殉教しました。石で打たれる最中も聖体を胸に抱いて守り続け、決して奪わせなかったということです。そのため、肖像画や彫刻は、胸にご聖体を抱いているようなポーズが多いですね。ご聖体がアトリビュートになっています。少年であったと言われたほか、聖体を運んでいる最中に殉教したため、侍者の守護聖人として知られますが、助祭としての役割を担っていたそうです。
ちなみに、カトリック東京大司教区の菊地功大司教の洗礼名は、この聖タルチシオです。
【アトリビュート】
西洋絵画、特に宗教画(キリスト教絵画)には、「アトリビュート(=持物:じぶつ)」というものがあります。これは、絵を描く時の“約束事”として、特定の人物(聖人など)に密接に結びつけられたもの、例えば花、動物、小物、道具や背景などが画かれるのです。
例えば、聖母マリア様ですと、必ず画かれているのが純潔の象徴である「百合の花」ですね。「受胎告知」の絵で、大天使ガブリエルが百合の花を持っています。そして、天の真実を意味する「青色(濃紺色)のマント」です。「祈りの聖母」と「悲しみの聖母」の絵もそうですね。他にも、「12の星の冠」や足の下に「三日月」と「蛇」が画かれています。聖母マリア様の絵を見るときはよく観察しましょうね。
他にも、聖母マリアの夫である聖ヨセフは、大工であったことから大工道具がアトリビュートになっていますし、聖アガタは、乳房を切り取られたことから、乳房がアトリビュートになっています。旧約聖書の「トビト記」に出てくるトビアスを描いた絵は、必ず魚が画かれています。(「トビト記」を読めばわかります。)
「聖母の被昇天」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]
今日8月15日は、聖母の被昇天の祭日です。
カトリック教会の記念日(8月15日)に「聖母の被昇天(ひしょうてん)」があります。これは、「聖母マリア様が、霊魂も肉体もともに天に上げられた。」というカトリック教会の教義で、1950年11月1日に、ローマ教皇ピオ十二世(在位1939~1958)が、処女聖マリアの被昇天の教義を荘厳に公布したことにより制定されました。
教義が制定される以前、教皇レオ十三世(在位1878~1903)の命令で、検邪聖省(現在の教理省)の記録庫に多くの請願が特別に集積され、また、第一バチカン公会議(1869~1870)において、204名の教父が聖母の被昇天を決定するように提案し、1921~1937年に「被昇天の定義促進運動」が盛んになった背景があります。それほど古くはないですね。
教皇ピオ十二世は次のように宣言しています。「我々の主イエズス(イエス)・キリストの権威と、使徒聖ペトロと聖パウロの権威、および私の権威により、無原罪の神の母、終生処女であるマリアが地上の生活を終わった後、肉身と霊魂とともに天の栄光にあげられたことは、神によって啓示された真理であると宣言し布告し定義する。」との力強い宣言です。
これは「おめでとう、恵まれたかた」(新約聖書:ルカによる福音書・第1章・第28節)と神の使いからのあいさつを受け、神が共におられるという恵みに満ちたものであるが故に、その生涯においてキリストと最も深く結ばれ、死後においてもキリストの復活と栄光にあずかっていることを意味します。つまりマリアは復活の恵みを受け、キリストを通しての神における人間の完成に到達したことを確信をもって宣言しているのです。
聖書の中で、聖母の被昇天については直接記されていませんが、カトリック教会では何世紀にもわたって伝達されてきた「聖伝(伝承)」を聖書とともに大切にしてきました。この聖母の被昇天の教義も神から啓示された伝承の一部分であることをかつての司教たちが一致して認めており、ピオ十二世が公に教会の教義であることを公布することにより、聖母マリアが神の母であることを特に強調しています。重要なことです。
ルーベンス作の「聖母の被昇天」1630年の作です。ドイツ・デュッセルドルフにあるクンストパラスト美術館に収蔵されています。
この毎年8月15日は、聖母マリア様の祝日であることについて、歴史的に次のように言われています。5世紀のエルサレムでこの日に祝われていた神の母マリアの記念は、6世紀には、マリアの死去の日として東方教会(中東・ギリシャ・アナトリア・東ヨーロッパに広がり、成長したキリスト教諸教派(正教会、東方諸教会)の総称のこと。)で祝われるようになりました。この死去は、聖母マリア様が天に召された(帰天)ことと永遠の命のうちに誕生したことを記念されていたようです。これも重要なことです。
やがて7世紀半ばに西方教会にも受け継がれ、教皇セルジオ一世(在位687~701)は、徹夜祭やハドリアヌス教会からサンタ・マリア・マジョーレ教会までの行列などで盛大に祝っています。マリアの被昇天の名で知られるようになったのは、8世紀末になってからです。こうして1950年のピオ十二世の教義宣言に至るまで聖母マリアへの信心の深まりと同時に、次第にこの日を特別な日として祝うようになりました。聖母の被昇天への信仰は、聖母マリア様だけが特別な存在だと言うのではありません。
キリストによる救いに与る人達の象徴として、信じるすべての人達の救いへの希望を表現するものです。ミサの集会祈願はこのことを教えます。「全能永遠の神よ、あなたは、御ひとり子の母、汚れのないおとめマリアを、からだも魂も、ともに天の栄光に上げられました。信じる民がいつも天の国を求め、聖母とともに永遠の喜びに入ることができますように」とお祈りするのです。(カトリック中央協議会のホームページから引用・一部加筆)
カトリック教会の記念日(8月15日)に「聖母の被昇天(ひしょうてん)」があります。これは、「聖母マリア様が、霊魂も肉体もともに天に上げられた。」というカトリック教会の教義で、1950年11月1日に、ローマ教皇ピオ十二世(在位1939~1958)が、処女聖マリアの被昇天の教義を荘厳に公布したことにより制定されました。
教義が制定される以前、教皇レオ十三世(在位1878~1903)の命令で、検邪聖省(現在の教理省)の記録庫に多くの請願が特別に集積され、また、第一バチカン公会議(1869~1870)において、204名の教父が聖母の被昇天を決定するように提案し、1921~1937年に「被昇天の定義促進運動」が盛んになった背景があります。それほど古くはないですね。
教皇ピオ十二世は次のように宣言しています。「我々の主イエズス(イエス)・キリストの権威と、使徒聖ペトロと聖パウロの権威、および私の権威により、無原罪の神の母、終生処女であるマリアが地上の生活を終わった後、肉身と霊魂とともに天の栄光にあげられたことは、神によって啓示された真理であると宣言し布告し定義する。」との力強い宣言です。
これは「おめでとう、恵まれたかた」(新約聖書:ルカによる福音書・第1章・第28節)と神の使いからのあいさつを受け、神が共におられるという恵みに満ちたものであるが故に、その生涯においてキリストと最も深く結ばれ、死後においてもキリストの復活と栄光にあずかっていることを意味します。つまりマリアは復活の恵みを受け、キリストを通しての神における人間の完成に到達したことを確信をもって宣言しているのです。
聖書の中で、聖母の被昇天については直接記されていませんが、カトリック教会では何世紀にもわたって伝達されてきた「聖伝(伝承)」を聖書とともに大切にしてきました。この聖母の被昇天の教義も神から啓示された伝承の一部分であることをかつての司教たちが一致して認めており、ピオ十二世が公に教会の教義であることを公布することにより、聖母マリアが神の母であることを特に強調しています。重要なことです。
ルーベンス作の「聖母の被昇天」1630年の作です。ドイツ・デュッセルドルフにあるクンストパラスト美術館に収蔵されています。
この毎年8月15日は、聖母マリア様の祝日であることについて、歴史的に次のように言われています。5世紀のエルサレムでこの日に祝われていた神の母マリアの記念は、6世紀には、マリアの死去の日として東方教会(中東・ギリシャ・アナトリア・東ヨーロッパに広がり、成長したキリスト教諸教派(正教会、東方諸教会)の総称のこと。)で祝われるようになりました。この死去は、聖母マリア様が天に召された(帰天)ことと永遠の命のうちに誕生したことを記念されていたようです。これも重要なことです。
やがて7世紀半ばに西方教会にも受け継がれ、教皇セルジオ一世(在位687~701)は、徹夜祭やハドリアヌス教会からサンタ・マリア・マジョーレ教会までの行列などで盛大に祝っています。マリアの被昇天の名で知られるようになったのは、8世紀末になってからです。こうして1950年のピオ十二世の教義宣言に至るまで聖母マリアへの信心の深まりと同時に、次第にこの日を特別な日として祝うようになりました。聖母の被昇天への信仰は、聖母マリア様だけが特別な存在だと言うのではありません。
キリストによる救いに与る人達の象徴として、信じるすべての人達の救いへの希望を表現するものです。ミサの集会祈願はこのことを教えます。「全能永遠の神よ、あなたは、御ひとり子の母、汚れのないおとめマリアを、からだも魂も、ともに天の栄光に上げられました。信じる民がいつも天の国を求め、聖母とともに永遠の喜びに入ることができますように」とお祈りするのです。(カトリック中央協議会のホームページから引用・一部加筆)