教会日記2022.8.23(カトリック成城・聖タデオ教会「平日のミサ」火曜日) [教会日記]
今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での7時からの「平日のミサ」に与りました。今日も一日中曇り空のようですね。でも気温は30度は超すそうです。私は今日も清々しい朝を迎えています。
ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃えて、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃えて、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
「ミサにおける聖書朗読について」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]
主日のミサでも平日のミサでも、ミサの司式の中に第一朗読(旧約聖書から)と第二朗読(主日のミサのみ(一部平日のミサもあり)・新約聖書の書簡から)があります。この両方の朗読は、どこの教会も、その日のミサに与る会衆(信徒)で、予め決められた「朗読奉仕者」が朗読することになっています。「ミサの中で、なぜ聖書朗読があるのか」ということについては、別の日に改めて書くとして、今日は、ミサ中の大切な聖書(聖句)朗読を「いかに朗読するのか」ということに限定して論じてみたいと思います。
まず初めに、この朗読の心得・心構えについてですが、『朗読聖書の緒言(第14項)』によると、(1)聞き取れる声で、(2)はっきりと、(3)味わえるように読むことが大原則ということです。(1)の「聞き取れる声で」は、声の大きさの問題だと思います。ほとんどの教会の聖堂ではマイク設備がありますので、地声はそれほど大きくなくても、マイクを通して聖堂座席の最後列まで聴こえる声の大きさであればいいと思います。ですから、ミサの前にあらかじめ誰かに聴いてもらい、事前確認することが必要だと思います。
(2)の「はっきりと」は、声の大きさも影響すると思いますが、それよりも滑舌(かくぜつ)の問題だと思います。声を出すときの口の開け方ですね。口の中でモグモグ言っているようでは、はっきりと聞こえないですよね。立ち話などで、相手一人に話しているわけではありませんので、ある程度はハキハキと話す必要があると思います。これは、朗読する当日では対処できませんから、普段から「あ、え、い、お、う」という発声練習とまでは言いませんが、朗読する箇所をハキハキと読む練習をする必要がありますね。
(3)の「味わえるように」ですが、これは、まず技術的には①話す速度と②話す抑揚(よくよう)の問題だと思います。①の「朗読の(読む)速度」は、“早からず遅過ぎず”ですね。どちらかというと早くならないことです。早く朗読すると、聞いている会衆(信徒)が朗読している聖句を心に感じることなく、朗読後、なにも心に残らないということになります。つまり、もったいないことに聖句が素通りするだけになるのです。ですから、早くならないように朗読の出だし(読み始め)が大切になります。最初が早いと後々早くなってしまいます。最初を落ち着いて読み始めることです。
②の「朗読の(読む)抑揚」は、とにかく最低限“棒読み”しないことです。句読点があれば、朗読を寸時切ることです。朗読聖句中のポイントとなる重要だと思われる箇所は、少し語気(声)を強めて読むことなどの工夫をすることですね。ただ、抑揚は、やり過ぎる演劇みたいになって、かえって不自然になりがちですから注意が必要です。まぁ、自分で試行錯誤するしかないですね。手っ取り早い一番の方法は、朗読を録音して自分で聴いてみることです。スマホでも録音できますから、是非やってみてください。この「味わえるように」は、私の経験上一番難しい大原則だと思います。
以上です。技術的なことばかり、生意気なことを書いてしまいました。 本当は、もっと心的なことを書きたかったのです………が、なかなか難しいですね。それは、実は私自身が一番できていないからなのです! ( ̄◇ ̄;) まだまだ修行中なのであります!(⌒-⌒; ) ということで、上手く朗読する秘訣があるとすれば、それは”一に練習、二に練習”しかないと思います。とにかく①実際に声に出して練習すことです。そして、私も恥ずかしいと思いますが、②誰かに聞いてもらうことです。聴いてもらってアドバイスを得ることですね。これが上手くなる近道ですし、正攻法だと思います。
私は、以前所属していたカトリック町田教会の土曜日の夜の主日のミサに毎週与ていたのですが、必ずと言っていいほど毎週第二朗読を担当していました。ですから、自分のことを「第二朗読専門の◯◯です」と名乗るほど朗読に自信がありました。しかし、ある日のこと、親しい信徒の方から「◯◯さんの朗読は、声は大きくハッキリしていて聴こえやすくていいんだけど、読むのがものすごく早いよね。あれじゃ、お年寄りは何を朗読しているのか分からないんじゃない?」と指摘され、我に返ったことがあります。それまで人から指摘されたことがなかったものですから、ある意味ショックでしたが、自惚れた自信ほど厄介なものはありません( ̄▽ ̄;)
そこで、反省して練習に練習を重ね、恥ずかしかったですが指摘していただいた方に聴いてもらい、「この朗読なら最高だよ!」とお褒めいただきました。大いに勉強となり良い経験ができました。このことを先日思い出し、また朗読のスピードが早くなっているな~と、元に戻っていると感じるようになりました。またまた反省です( ̄▽ ̄;) ところで、私が所属するカトリック成城・聖テデオ教会に、ミサで惚れ惚れするような声の質、声の大きさ、話す間の取り方などなど、素晴らしい話し方をする男性信徒がいます。まだご挨拶程度の会話しかしたことがないのですが、一度、私の朗読を聴いてもらいアドバイスをいただこうと思っています。
「いかに朗読するのか」を述べてきましたが、最後に、このブログに先日8月20日に掲載した「『典礼奉仕への招き』のご紹介」の記事で、ご紹介した本に書かれている朗読に際して肝に銘じようと思った一節(P107の「2 朗読の際の心得)をご紹介いたします。
「聖書朗読はただ「読むこと」というだけではありません。読みながら、やはり神のことばに耳を傾ける行為です。集会を代表して、自分の肉声をもって、神のことばを受けとめる役目なのです。それを心をこめて行えば、おのずと集まっている人々の、神のことばを聴く心も育っていくことでしょう。そのような朗読と拝聴の実践をとおして、「教会は神のことばによってたてられ、成長していくのです。(『朗読聖書の緒言(第7項)』)」
この本は、私がミサの奉仕活動の教科書として愛読しているものです。次のアドレスをクリックしてお読みください。https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2022-08-20-1
《おまけ》
現在はコロナ渦にありますので、マスクはつけたままミサに与ることになりますが、これがなかなか話す時の障害になりがちです。ハッキリと喋れなかったり、聴き取れなかったりします。そこで、便利なものがありますのでご紹介いたします。皆さんすでにご存知のものだと思いますが、写真手前のマスクに入っているのは、私がミサの聖歌奉仕で使っているマスクの内側に入れて使う「マスク・インナーフレーム」というものです(名称はいろいろあるようです)。
聖歌を歌う時は、いわゆる合唱専用のマスクを使うのですが、普段用のマスクと持ち替えるのが面倒ですから、今年からは普段用のマスクにインナーフレームを入れて歌っています。これを付けないと、歌う時の呼吸と発声がうまくできず、声がこもりがちになるものですから聖歌奉仕時の必需品となっています………ということで、これをミサの朗読奉仕と先唱奉仕にも使っています。やはり呼吸がしやすく声の通りがいいですよ!写真上側のように、いろいろな形のものがあります。
まず初めに、この朗読の心得・心構えについてですが、『朗読聖書の緒言(第14項)』によると、(1)聞き取れる声で、(2)はっきりと、(3)味わえるように読むことが大原則ということです。(1)の「聞き取れる声で」は、声の大きさの問題だと思います。ほとんどの教会の聖堂ではマイク設備がありますので、地声はそれほど大きくなくても、マイクを通して聖堂座席の最後列まで聴こえる声の大きさであればいいと思います。ですから、ミサの前にあらかじめ誰かに聴いてもらい、事前確認することが必要だと思います。
(2)の「はっきりと」は、声の大きさも影響すると思いますが、それよりも滑舌(かくぜつ)の問題だと思います。声を出すときの口の開け方ですね。口の中でモグモグ言っているようでは、はっきりと聞こえないですよね。立ち話などで、相手一人に話しているわけではありませんので、ある程度はハキハキと話す必要があると思います。これは、朗読する当日では対処できませんから、普段から「あ、え、い、お、う」という発声練習とまでは言いませんが、朗読する箇所をハキハキと読む練習をする必要がありますね。
(3)の「味わえるように」ですが、これは、まず技術的には①話す速度と②話す抑揚(よくよう)の問題だと思います。①の「朗読の(読む)速度」は、“早からず遅過ぎず”ですね。どちらかというと早くならないことです。早く朗読すると、聞いている会衆(信徒)が朗読している聖句を心に感じることなく、朗読後、なにも心に残らないということになります。つまり、もったいないことに聖句が素通りするだけになるのです。ですから、早くならないように朗読の出だし(読み始め)が大切になります。最初が早いと後々早くなってしまいます。最初を落ち着いて読み始めることです。
②の「朗読の(読む)抑揚」は、とにかく最低限“棒読み”しないことです。句読点があれば、朗読を寸時切ることです。朗読聖句中のポイントとなる重要だと思われる箇所は、少し語気(声)を強めて読むことなどの工夫をすることですね。ただ、抑揚は、やり過ぎる演劇みたいになって、かえって不自然になりがちですから注意が必要です。まぁ、自分で試行錯誤するしかないですね。手っ取り早い一番の方法は、朗読を録音して自分で聴いてみることです。スマホでも録音できますから、是非やってみてください。この「味わえるように」は、私の経験上一番難しい大原則だと思います。
以上です。技術的なことばかり、生意気なことを書いてしまいました。 本当は、もっと心的なことを書きたかったのです………が、なかなか難しいですね。それは、実は私自身が一番できていないからなのです! ( ̄◇ ̄;) まだまだ修行中なのであります!(⌒-⌒; ) ということで、上手く朗読する秘訣があるとすれば、それは”一に練習、二に練習”しかないと思います。とにかく①実際に声に出して練習すことです。そして、私も恥ずかしいと思いますが、②誰かに聞いてもらうことです。聴いてもらってアドバイスを得ることですね。これが上手くなる近道ですし、正攻法だと思います。
私は、以前所属していたカトリック町田教会の土曜日の夜の主日のミサに毎週与ていたのですが、必ずと言っていいほど毎週第二朗読を担当していました。ですから、自分のことを「第二朗読専門の◯◯です」と名乗るほど朗読に自信がありました。しかし、ある日のこと、親しい信徒の方から「◯◯さんの朗読は、声は大きくハッキリしていて聴こえやすくていいんだけど、読むのがものすごく早いよね。あれじゃ、お年寄りは何を朗読しているのか分からないんじゃない?」と指摘され、我に返ったことがあります。それまで人から指摘されたことがなかったものですから、ある意味ショックでしたが、自惚れた自信ほど厄介なものはありません( ̄▽ ̄;)
そこで、反省して練習に練習を重ね、恥ずかしかったですが指摘していただいた方に聴いてもらい、「この朗読なら最高だよ!」とお褒めいただきました。大いに勉強となり良い経験ができました。このことを先日思い出し、また朗読のスピードが早くなっているな~と、元に戻っていると感じるようになりました。またまた反省です( ̄▽ ̄;) ところで、私が所属するカトリック成城・聖テデオ教会に、ミサで惚れ惚れするような声の質、声の大きさ、話す間の取り方などなど、素晴らしい話し方をする男性信徒がいます。まだご挨拶程度の会話しかしたことがないのですが、一度、私の朗読を聴いてもらいアドバイスをいただこうと思っています。
「いかに朗読するのか」を述べてきましたが、最後に、このブログに先日8月20日に掲載した「『典礼奉仕への招き』のご紹介」の記事で、ご紹介した本に書かれている朗読に際して肝に銘じようと思った一節(P107の「2 朗読の際の心得)をご紹介いたします。
「聖書朗読はただ「読むこと」というだけではありません。読みながら、やはり神のことばに耳を傾ける行為です。集会を代表して、自分の肉声をもって、神のことばを受けとめる役目なのです。それを心をこめて行えば、おのずと集まっている人々の、神のことばを聴く心も育っていくことでしょう。そのような朗読と拝聴の実践をとおして、「教会は神のことばによってたてられ、成長していくのです。(『朗読聖書の緒言(第7項)』)」
この本は、私がミサの奉仕活動の教科書として愛読しているものです。次のアドレスをクリックしてお読みください。https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2022-08-20-1
《おまけ》
現在はコロナ渦にありますので、マスクはつけたままミサに与ることになりますが、これがなかなか話す時の障害になりがちです。ハッキリと喋れなかったり、聴き取れなかったりします。そこで、便利なものがありますのでご紹介いたします。皆さんすでにご存知のものだと思いますが、写真手前のマスクに入っているのは、私がミサの聖歌奉仕で使っているマスクの内側に入れて使う「マスク・インナーフレーム」というものです(名称はいろいろあるようです)。
聖歌を歌う時は、いわゆる合唱専用のマスクを使うのですが、普段用のマスクと持ち替えるのが面倒ですから、今年からは普段用のマスクにインナーフレームを入れて歌っています。これを付けないと、歌う時の呼吸と発声がうまくできず、声がこもりがちになるものですから聖歌奉仕時の必需品となっています………ということで、これをミサの朗読奉仕と先唱奉仕にも使っています。やはり呼吸がしやすく声の通りがいいですよ!写真上側のように、いろいろな形のものがあります。