教会日記その二2019.12.14(カトリック町田教会「待降節第三主日のミサ」土曜日) [教会日記]

今夜は、私の所属するカトリック町田教会で、「待降節第三主日のミサ」に与りました。今夜から待降節第三主日ですから、アドベント・キャンドルの3本目のローソクに火が灯りました!ミサが終わって撮影しょうと思ったら、すでに消されていました(⌒-⌒; ) だんだんと降誕祭(クリスマス)が近づいてきました(*^▽^*)待ち遠しいですね!

18時30分からのミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学一年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんの病気が完治しますようにと心を込めてお祈りしました。
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「神山復生病院聖堂・カトリック墓地訪問」のお話し [日記]

今日は、静岡県御殿場市にある「神山復生病院(こうやまふくせいびょういん)」を訪れました。2011年12月17日に初めて訪れ、2013年11月30日(2回目)、2015年12月20日(3回目)、2017年8月23日(4回目)に続いて今日は5回目の訪問となりました。なぜか隔年で来ていますね~。前回(4回目)の2017年8月23日のブログに書きましたが、この「神山復生病院」は、キリスト教カトリック教会のパリ外国宣教会フランス人司祭で初代院長であるテストヴィド神父様が創設され、6代目院長で哲学者でもある岩下壮一神父様(いわした そういち1889年~1940年)とキリスト教カトリック教会のクリスチャンである看護婦長の井深八重さん(いぶか やえ・1897年~1989年)が、ハンセン病の看護に生涯を捧げたところです。

とても綺麗な富士山が間近に見れます!ものすごく迫力があります!
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「神山復生病院」と隣接している教会(聖堂)です。
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静かなお御堂(おみどう=聖堂)で、神山復生病院のために生涯を捧げられ皆様に敬意を表して、心安らかにお祈りを捧げました。
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私が尊敬する岩下神父様は、カトリック教会の司祭(神父)ですが、哲学者でもあり大正時代から昭和初期の日本におけるカトリック教会の精神的指導者と言われています。東京帝国大学文学部哲学科卒業・大学院修了、その後、旧制第七高等学校教授を務め、文部省から国費留学生としてフランス、ベルギーなどの大学に留学、大変優秀であったことから東京帝国大学教授を嘱望されていましたが、生涯をカトリック教会の一司祭として、司牧、宣教、学究、ハンセン病患者の福祉に命を捧げることを決意し、特にハンセン病患者の養護に尽力したことで有名です。神父様は、1930年に神山復生病院の6代目院長として亡くなるまで務めています。(初代から5代目までパリ外国宣教会のフランス人司祭(神父)が院長)
岩下壮一神父様のお墓です。
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井深さんは、同志社女学校(現在の同志社女子大学)を卒業後、長崎県立長崎高等女学校の英語教師となったのですが、病院でハンセン病と診断され、御殿場市の山深いところにある神山復生病院に隔離入院、3年後に誤診だったと判明しますが、病院に留まってハンセン病患者の看護を使命とすることを決意し、看護婦学校で資格を所得して病院初の看護婦(看護士)となりました。父親は衆議院議員をつとめた井深彦三郎で、ソニーの創始者である井深 大は遠縁にあたります。当時は、ハンセン病やその患者に対する激しい差別と偏見が存在した時代であったにも関わらず、ものすごく山深い僻地にある、しかも極貧の状態であった神山復生病院で婦長として献身的な看護にあたり、生涯をハンセン病患者の救済に捧げました。その活動は国際的に高く評価され、教皇ヨハネ23世より聖十字勲章、赤十字国際委員会よりナイチンゲール記章などを受章、1977年に朝日社会福祉賞を受賞、日本カトリック看護協会の初代会長に就任しています。
井深八重さんのお墓です。
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この病院は、明治19年にパリ外国宣教会のフランス司祭で人初代院長であるテストヴィド神父様が建てた、ハンセン病者のための病院が始まりです。今は一般財団法人神山復生病院という名称で、きれいな建物(病院、クリスト・ロア宣教修道女会)と病院付属の教会、記念館があります。テストヴィド神父様は、宣教活動の途中に御殿場で一人の女性ハンセン病患者と出会い、社会で放置された同病者の救済を思い立ち、御殿場の鮎沢村(現在の御殿場市新橋に家屋を借用して6名の患者を収容したことから始まりました。その後、神山に場所を移し、日本初のハンセン病の療養施設として多くの病者が治療生活を送ってきました。現在は、1943年に開発された特効薬プロミンにより、ハンセン病は不治の病から完治する病になっています。
「復生記念館」です。
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一般財団法人神山復生病院では、ハンセン病への理解とここで暮らしてきた方々の歴史を後世に残すために、1897年(明治30年)に建てられて、2002年まで事務所として使われてきた建物を記念館として開館し、ハンセン病の長い歴史を伝える資料を展示しています。2016年、創立時の姿に復元しリニューアルオープンいたしました。岩下神父と井深八重さんの遺品などが展示されています。現在の病院付近は、住宅もあり観光ホテルもあって開けていますが、当時は農家くらいしかないものすごい僻地だったのです。病院付属の教会のお御堂で心静かにお祈りを捧げ、近くにあるカトリック墓地で、テストヴィド神父様、岩下神父様と井深さんが眠るお墓にお参りをしてきました。

神山復生病院の「復生」は復活するという意味です。
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神山復生病院を創立したテストヴィド神父様のお墓です。神父様の詳しいことは、このブログの2017年8月22日に掲載した「『明治の東海道を歩いた宣教師 テストヴィド神父書簡集』のご紹介!」をお読みください。https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2017-08-22
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小田急小田原線新松田駅でJR御殿場線(松田駅)に乗り換えて御殿場駅下車、三島行きバスに乗車して復生病院前下車徒歩3分です。又は御殿場駅の次の富士岡駅で下車して徒歩20分です。富士山が目の前に大きく見える素晴らしいところにあります。
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「元禄赤穂事件」のお話し [日記]

このブログの2018年12月14日に掲載した記事を一部加筆・修正して再掲載いたします。
今日(12月14位)は、「元禄赤穂事件(げんろくあこうじけん)」の日です。2年前の今日は、仕事が終わってから、赤穂浪士達が眠る泉岳寺(港区高輪)にお墓参りに駆けつけたのですが、昨年も今年も膝の痛みに耐えかねて………残念です。毎年この日は、泉岳寺は22時まで開門されているため、すごい人出でお墓参りをするのに行列ができるほどです。赤穂浪士のお墓辺りは、お線香の煙で視界が効きません!凄いことになってます(^_^;)一度はお墓参りをお勧めいたします!

江戸時代(旧暦)元禄14年3月14日(1701年4月21日)に、江戸城内松の廊下で赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)が、高家筆頭の吉良上野介(きら こうずけのすけ)に突然斬り掛かるという「松の廊下事件」がありました。事件が勅使饗応(ちょくしきょうおう:京都御所から江戸に下向された天皇家の使節を接待すること)の直前だったので、将軍・徳川綱吉はことのほか激怒し、浅野内匠頭に即日切腹を命じて赤穂藩には“お取りつぶし(廃藩)”の断を下しました。一方の相手の吉良上野介に対しては、手向かいしなかったため、何のお咎めもなかったのでした。徳川家康が江戸に入府して以来、幕府の定めであった“喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)=喧嘩をした場合、喧嘩をした両方を成敗する(罰する)”とならず、片手落ちという形で決着したことに事件の一因があるような感じがします。

この幕府の裁きを片手落ちと捉えた赤穂藩城代家老の大石内蔵助(おおいし くらのすけ)をはじめとする赤穂藩の藩士達は、激怒するも無抵抗で城を明け渡します。しかし、密かに吉良上野介に対しての仇討ちを計画し、元禄15年12月14日(1703年1月30日)未明、大石以下47人の赤穂浪士達が吉良邸に討ち入り、吉良上野介を討ち取って見事に主君の仇討を果たしました。これを「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」といいます。

そこで、忠臣蔵に関係するお話しをします。
この記事は、このブログに6年連続6回目の掲載となります。
さて、皆さんは「忠臣蔵」はご存じですよね。「忠臣蔵」という名称自体は、江戸時代に歌舞伎・人形浄瑠璃(文楽)の演目『仮名手本忠臣蔵』の通称・略称のことで、史実として赤穂藩浪士の復仇事件「元禄赤穂事件」に題材をとった創作作品のことを指します。今回は、その歌舞伎・浄瑠璃の話しではなく、史実の一部分に触れますね。
映画やテレビの時代劇などで事件のことはよくご存知だと思いますので詳細は省きますが、ここでは、播州赤穂藩主の浅野匠守長矩が、切腹の際に詠んだ辞世の歌についてお話しします。赤穂藩城代家老であった大石蔵之助は、主君である浅野匠守の次の辞世の歌を読んで、吉良上野介に対する仇討ちを決意したと言われています。

浅野匠守長矩の辞世の歌

風さそふ
花よりもなお
われはまた
春の名残を
いかにとやせむ

これを口語訳すると
「風に誘われて散る花も名残り惜しいだろうが、それよりも、なお春の名残が惜しい私は、いったいどうすればよいのだろうか。」
これを通解すると
「風に誘われて散ってしまう桜の花も名残惜しいのであろうが、上野介を討ち果たせずに散っていく=自害しなければならない自分のほうがはるかに無念である=何とか自分の仇を討って欲しい=上野介を討ち取って欲しい!」
「春の名残」とは、浅野匠守が吉良上野介を討ち果たすことが出来なった後悔の念を表し、「いかにとやせむ」は「何とかしてわが無念を果たして欲しい」との意思がゆ込められていますね。ちなみに、赤穂事件でお奨めの書籍は、なんと言っても福本日南著の『元禄快挙録』です。岩波文庫(青帯)上・中・下の3冊で刊行されていましたが、悲しいことに「品切(絶版)」になっているようです。読みやすいですし史実に一番近いと思います。

なお、キリスト教の場合、主であるイエス・キリストのお教えは、人間が仇討ち(復讐)したり、報復することを禁じています。聖書には「主(神様)が報復される。」とあります。これは神様の計らいで、人間が罪に陥らないように、仇討ち(復讐)は人間に代わって神様が行ってくれるのです。
新約聖書:ローマの信徒への手紙・第12章・第19節
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」
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教会日記2019.12.14(カトリック田園調布教会「平日のミサ」土曜日) [教会日記]

今日は、先日の12月4日(水)以来、今月2回目の訪問となりました。前回は約2ヶ月半ぶりに訪問させていただき、久しぶりに「聖務日課・朝の祈り」のお祈りしたのですが、お祈りの順序が途中で分からなくなり、勉強するために再度「聖務日課・朝の祈り」に与らせていただいたしだいです。しかし、途中で行方不明になってしまいました(⌒-⌒; ) 前の席に座っていらしたフランシスコ会の修道士の方にお教えいただき、なんとか終わりまでたどり着きました。ありがとうございました。やはり毎日継続してお祈りしないと覚えられないですね。今日も清々しい朝を迎えています!

田園調布教会の正門に飾られたクリスマス・リースです。綺麗ですね。
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6時40分から「聖務日課 朝の祈り」をお祈りし、7時からのミサでは、「十字架の聖ヨハネ司祭教会博士」の記念日をお祝いしてお祈りしました。そして、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学一年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんの病気が完治しますようにと心を込めてお祈りしました。

さて、これから2年ぶりに静岡県御殿場市にある神山復生病院とその近くにあるカトリック墓地にお墓まいりに行ってきます。お墓まいりを予定してから4週間も経ちましたが、これでやっと私が尊敬する岩下壮一神父様と井深八重さんのお墓でお祈りできます!では、行ってきます。
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「十字架の聖ヨハネ司祭教会博士」のお話し [聖人・福者・尊者]

このブログの2018年12月14日に掲載した記事を再掲載いたいします。
今日(12月14日)は、「十字架の聖ヨハネ司教教会博士」の記念日です。聖ヨハネ(スペイン:1542年~1591年)は、16世紀のスペインのカトリック司祭で神秘思想家です。本名は、フアン・デ・イエペスといいます。アビラのテレサと共にカルメル会の改革に取り組み、『暗夜』などすぐれたキリスト教神秘主義の著作や書簡を残しました。カトリック教会・聖公会で聖人であり、教会博士の一人となっています。
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21歳の時にカルメル修道会に入って司祭となりました。当時のカルメル会は、世俗主義が入り込み、創立当初の精神を失っていました。ヨハネは、1567年に女子カルメル会の改革にあたっていた“アビラの聖テレジア”と出会い、共に修道会の改革に力を尽くしました。翌年、改革派最初の男子修道院「男子跣足カルメル会」を創設しました、1577年に反改革派に捕えられてトレドに幽閉されましたが、翌年にはそこを脱走し、そのころから詩作と著述を始め、『カルメル山登攀』、『霊魂の暗夜』は、獄中の体験をもとにして書かれたといわれています。ヨハネは、真の聖性はキリストのために苦しむこと、自分に打ち勝つことであると説きました。その後もヨハネは修道会の改革に奔走し、1581年に教皇の認可を得ましたが、テレジアの死後、改革派の中でも意見の違いがあり、1591年に役職を解かれ、病の後に亡くなりました。ヨハネは、詩人としても名高く、先に挙げた作品をはじめ、『霊の賛歌』など、スペイン文学史上珠玉の名作と称されています。カトリック教会の最大の神秘家の一人です。
『暗夜』
著者:十字架の聖ヨハネ
訳者:山口・女子カルメル会(改訳)
新書判 並製 307ページ 
定価:本体1,500円+税
発行:ボンボスコ社・1987年12月(初版)
目次
第一編 感覚の暗夜について
第二編 霊の暗夜について
「「暗夜」の教説を理解するには、福音書の次の言葉に照らすとよい。すなわち、「自分を捨てて十字架をになう」と。この言葉の意味を考えると、「暗夜の道」は「十字架の道」に他ならないことがわかる。自分を捨てて十字架をになうとは、神のゆえにすべてを退け、十字架となるものを選ぶというラディカルな要求がこめられている。 十字架の聖ヨハネが述べている暗夜の教えは、福音のこの言葉に含まれた教えである。」
(カルメル会司祭 チプリアノ・ポンタッキョ 序文より抜粋)
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『カルメル山登攀』
著者:十字架の聖ヨハネ著
訳者:奥村一郎
B6判並製 526頁
定価:1,800円+税
発行:ドンボスコ社・2012年1月改訂版第1刷
目次
序文
霊魂の能動的暗夜
要旨

まえおき
第I部 感覚の能動的暗夜(15章)
第II部 精神の能動的暗夜─理性(32章)
第III部 精神の能動的暗夜─記憶と意志(45章)
訳者あとがき
訳語解説
神との一致に達するために、どのように心を整えたら良いか、霊的な道の始めにある人、またすでにその進歩の途上にある人にあてられたすすめと教え。生涯を愛の獲得にかけ、ただ一筋に神に恋い焦がれた聖人の名著。カトリック教会の聖人で、教会博士。男子跣足カルメル会を創立。16世紀を代表する神秘家。主な著作に『暗夜』『霊の賛歌』『愛の生ける炎』(いずれもドン・ボスコ社)など。
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