「元禄赤穂事件」のお話し [日記]

このブログの2018年12月14日に掲載した記事を一部加筆・修正して再掲載いたします。
今日(12月14位)は、「元禄赤穂事件(げんろくあこうじけん)」の日です。2年前の今日は、仕事が終わってから、赤穂浪士達が眠る泉岳寺(港区高輪)にお墓参りに駆けつけたのですが、昨年も今年も膝の痛みに耐えかねて………残念です。毎年この日は、泉岳寺は22時まで開門されているため、すごい人出でお墓参りをするのに行列ができるほどです。赤穂浪士のお墓辺りは、お線香の煙で視界が効きません!凄いことになってます(^_^;)一度はお墓参りをお勧めいたします!

江戸時代(旧暦)元禄14年3月14日(1701年4月21日)に、江戸城内松の廊下で赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)が、高家筆頭の吉良上野介(きら こうずけのすけ)に突然斬り掛かるという「松の廊下事件」がありました。事件が勅使饗応(ちょくしきょうおう:京都御所から江戸に下向された天皇家の使節を接待すること)の直前だったので、将軍・徳川綱吉はことのほか激怒し、浅野内匠頭に即日切腹を命じて赤穂藩には“お取りつぶし(廃藩)”の断を下しました。一方の相手の吉良上野介に対しては、手向かいしなかったため、何のお咎めもなかったのでした。徳川家康が江戸に入府して以来、幕府の定めであった“喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)=喧嘩をした場合、喧嘩をした両方を成敗する(罰する)”とならず、片手落ちという形で決着したことに事件の一因があるような感じがします。

この幕府の裁きを片手落ちと捉えた赤穂藩城代家老の大石内蔵助(おおいし くらのすけ)をはじめとする赤穂藩の藩士達は、激怒するも無抵抗で城を明け渡します。しかし、密かに吉良上野介に対しての仇討ちを計画し、元禄15年12月14日(1703年1月30日)未明、大石以下47人の赤穂浪士達が吉良邸に討ち入り、吉良上野介を討ち取って見事に主君の仇討を果たしました。これを「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」といいます。

そこで、忠臣蔵に関係するお話しをします。
この記事は、このブログに6年連続6回目の掲載となります。
さて、皆さんは「忠臣蔵」はご存じですよね。「忠臣蔵」という名称自体は、江戸時代に歌舞伎・人形浄瑠璃(文楽)の演目『仮名手本忠臣蔵』の通称・略称のことで、史実として赤穂藩浪士の復仇事件「元禄赤穂事件」に題材をとった創作作品のことを指します。今回は、その歌舞伎・浄瑠璃の話しではなく、史実の一部分に触れますね。
映画やテレビの時代劇などで事件のことはよくご存知だと思いますので詳細は省きますが、ここでは、播州赤穂藩主の浅野匠守長矩が、切腹の際に詠んだ辞世の歌についてお話しします。赤穂藩城代家老であった大石蔵之助は、主君である浅野匠守の次の辞世の歌を読んで、吉良上野介に対する仇討ちを決意したと言われています。

浅野匠守長矩の辞世の歌

風さそふ
花よりもなお
われはまた
春の名残を
いかにとやせむ

これを口語訳すると
「風に誘われて散る花も名残り惜しいだろうが、それよりも、なお春の名残が惜しい私は、いったいどうすればよいのだろうか。」
これを通解すると
「風に誘われて散ってしまう桜の花も名残惜しいのであろうが、上野介を討ち果たせずに散っていく=自害しなければならない自分のほうがはるかに無念である=何とか自分の仇を討って欲しい=上野介を討ち取って欲しい!」
「春の名残」とは、浅野匠守が吉良上野介を討ち果たすことが出来なった後悔の念を表し、「いかにとやせむ」は「何とかしてわが無念を果たして欲しい」との意思がゆ込められていますね。ちなみに、赤穂事件でお奨めの書籍は、なんと言っても福本日南著の『元禄快挙録』です。岩波文庫(青帯)上・中・下の3冊で刊行されていましたが、悲しいことに「品切(絶版)」になっているようです。読みやすいですし史実に一番近いと思います。

なお、キリスト教の場合、主であるイエス・キリストのお教えは、人間が仇討ち(復讐)したり、報復することを禁じています。聖書には「主(神様)が報復される。」とあります。これは神様の計らいで、人間が罪に陥らないように、仇討ち(復讐)は人間に代わって神様が行ってくれるのです。
新約聖書:ローマの信徒への手紙・第12章・第19節
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。