新約聖書:ヤコブの手紙・第2章・第14〜第26節 [聖書]
「わたしの兄弟たちよ、たとえ、誰かが自分は信仰をもっていると言っても、行いを伴わないなら、何の役に立つでしょう。そのような信仰は、その人を救うことができるでしょうか。仮に兄弟か姉妹かが、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとしましょう。あなた方のうち、誰かが、その人に、「安心して行きなさい」「たくさん着なさい」「十分食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないとするなら、何の役に立つでしょう。信仰もまた同じで、行いを伴わないなら、それ自体、死んだものです。
ところで、次のように言う人がいるかもしれません。「あなたには信仰があるが、わたしには行いがある。行いが伴わないあなたの信仰をわたしに見せなさい。そうすれば、わたしは行いをもって信仰を見せよう。あなたは、神が唯一であることを信じている。それは善いことである。悪霊どももこれを信じており、おののいている。愚かな人よ、行いを伴わない信仰のむなしさを知りたいのか。われわれの父アブラハムは、その子イサクを祭壇の上にささげたとき、その行いによって義とされたのではないだろうか。あなたは、信仰が彼の行いとともに働いたこと、また、行いによって信仰が完全なものとされたことが分かるだろう。こうして、『アブラハムは神を信じた。そのことは、彼が義とされるにふさわしいとみなされた』という聖書の言葉が成就され、彼は、『神の友』と呼ばれたのである」。
これで明らかなように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるものではありません。これと同じく、娼婦ラハブも、使いの者たちを家に入れ、ほかの道から送り出したとき、その行いによって義とされたのではありませんか。息をしない体が死んだものであるのと同じように、行いの伴わない信仰もまた死んだものです。」
この『ヤコブの手紙』の著者は、イエス・キリストの兄弟ヤコブと言われています。紀元50〜60年代くらいに書かれたようです。この手紙は、全体的に「人は信仰だけでなく、行いによって義とされる」と説いていますが、よく問題になるのは、『ローマの人々への手紙』の中で、パウロが「人は行いがなくても、信仰によって義とされる」と説いているところです。
パウロは、「行い」をこの時代の律法上の行為、例えば「割礼」などの儀式規定を守る行為を指しており、このような行いに関係なく、信仰によって義とされると説いているのです。一方の『ヤコブの手紙』は、「行い」は神への愛、隣人への愛という最大の掟に総括される諸々の「行い」を指しています。ですから、パウロは、この時代の律法上の「行い」、すなわち儀式規定を守る行為は、イエス・キリストへの信仰に取って代わられ、もはや死んだものと言い、『ヤコブの手紙』は、愛の伴わない信仰は死んだものと言っています。
「信仰」について、両方とも正しく説いています。どちらか一方が間違いではありません。この違いは、「信仰」について説く〈切り口〉が違うだけですね。いずれにしても、「信仰とは、神を信じるだけでなく、神への愛、隣人への愛という行いが伴うこと。行いが伴って初めて信仰といえる」ということです。私たちキリスト者(クリスチャン)は、毎週ミサに与り、毎日お祈りに専心することだけでなく、「隣人への善き行い」を実践することが大切なのです。自分でできること、皆んなと一緒にできること、善き行いが伴った信仰でありたいものですね。
ところで、次のように言う人がいるかもしれません。「あなたには信仰があるが、わたしには行いがある。行いが伴わないあなたの信仰をわたしに見せなさい。そうすれば、わたしは行いをもって信仰を見せよう。あなたは、神が唯一であることを信じている。それは善いことである。悪霊どももこれを信じており、おののいている。愚かな人よ、行いを伴わない信仰のむなしさを知りたいのか。われわれの父アブラハムは、その子イサクを祭壇の上にささげたとき、その行いによって義とされたのではないだろうか。あなたは、信仰が彼の行いとともに働いたこと、また、行いによって信仰が完全なものとされたことが分かるだろう。こうして、『アブラハムは神を信じた。そのことは、彼が義とされるにふさわしいとみなされた』という聖書の言葉が成就され、彼は、『神の友』と呼ばれたのである」。
これで明らかなように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるものではありません。これと同じく、娼婦ラハブも、使いの者たちを家に入れ、ほかの道から送り出したとき、その行いによって義とされたのではありませんか。息をしない体が死んだものであるのと同じように、行いの伴わない信仰もまた死んだものです。」
この『ヤコブの手紙』の著者は、イエス・キリストの兄弟ヤコブと言われています。紀元50〜60年代くらいに書かれたようです。この手紙は、全体的に「人は信仰だけでなく、行いによって義とされる」と説いていますが、よく問題になるのは、『ローマの人々への手紙』の中で、パウロが「人は行いがなくても、信仰によって義とされる」と説いているところです。
パウロは、「行い」をこの時代の律法上の行為、例えば「割礼」などの儀式規定を守る行為を指しており、このような行いに関係なく、信仰によって義とされると説いているのです。一方の『ヤコブの手紙』は、「行い」は神への愛、隣人への愛という最大の掟に総括される諸々の「行い」を指しています。ですから、パウロは、この時代の律法上の「行い」、すなわち儀式規定を守る行為は、イエス・キリストへの信仰に取って代わられ、もはや死んだものと言い、『ヤコブの手紙』は、愛の伴わない信仰は死んだものと言っています。
「信仰」について、両方とも正しく説いています。どちらか一方が間違いではありません。この違いは、「信仰」について説く〈切り口〉が違うだけですね。いずれにしても、「信仰とは、神を信じるだけでなく、神への愛、隣人への愛という行いが伴うこと。行いが伴って初めて信仰といえる」ということです。私たちキリスト者(クリスチャン)は、毎週ミサに与り、毎日お祈りに専心することだけでなく、「隣人への善き行い」を実践することが大切なのです。自分でできること、皆んなと一緒にできること、善き行いが伴った信仰でありたいものですね。
2019年12月の訪問教会・支援活動記録 [訪問教会・支援活動記録]
今年の12月は、31日間ある中の20日間(64.5%)、11の教会・修道院に24回訪問し、23回ミサに与り23回ご聖体を拝領させていただきました。また、ホームレス支援活動に2回参加しました。今年もたくさんの教会を訪問させていただき、たくさんのミサに与らせていただきました。特に10月からホームレス支援活動に約5年ぶりに復帰し、本来の信仰に基づいた奉仕活動を行うことができました。ありがとうございました。主に感謝申し上げます。
1日(日)………
2日(月)………
3日(火)成城教会:主日のミサ・7時から
4日(水)田園調布教会:平日のミサ・7時から
5日(木)成城教会②:平日のミサ・7時から
〃 支援活動:山谷夜回りの会・19時30分から
6日(金)麹町・聖イグナチオ教会:平日のミサ・18時から
7日(土)神奈川県横浜市・末吉教会:待降節第二主日のミサ・17時から
8日(日)………
9日(月)麹町・聖イグナチオ教会②:平日のミサ・18時から
10日(火)………
11日(水)………
12日(木)成城教会③:平日のミサ・7時から
13日(金)成城教会④:平日のミサ・7時から
14日(土)田園調布教会②:平日のミサ・7時から
〃 静岡県御殿場市・神山復生病院附属教会:お祈り
〃 町田教会:待降節第三主日のミサ・18時30分から
15日(日)………
16日(月)………
17日(火)………
18日(水)………
19日(木)支援活動②:山谷夜回りの会・19時30分から
20日(金)………
21日(土)町田教会②:待降節第四主日のミサ・18時30分から
22日(日)板橋教会:主日のミサ・10時から
23日(月)………
24日(火)町田教会③:主の降誕夜半のミサ・19時30分から
25日(水)麹町・聖イグナチオ教会③:主の降誕日中のミサ・18時から
26日(木)麹町・聖イグナチオ教会④:平日のミサ・12時から
27日(金)成城教会⑤:平日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑤:平日のミサ・18時から
28日(土)町田教会④:主日のミサ・18時30分から
29日(日)静岡県三島市・三島教会:主日のミサ・9時から
〃 静岡県沼津市・沼津教会:主日のミサ・11時から
〃 静岡県熱海市・熱海教会・主日のミサ・14:30から
30日(月)成城教会⑥:平日のミサ・7時から
31日(火)八王子教会:平日のミサ・7時から
以上です。
1日(日)………
2日(月)………
3日(火)成城教会:主日のミサ・7時から
4日(水)田園調布教会:平日のミサ・7時から
5日(木)成城教会②:平日のミサ・7時から
〃 支援活動:山谷夜回りの会・19時30分から
6日(金)麹町・聖イグナチオ教会:平日のミサ・18時から
7日(土)神奈川県横浜市・末吉教会:待降節第二主日のミサ・17時から
8日(日)………
9日(月)麹町・聖イグナチオ教会②:平日のミサ・18時から
10日(火)………
11日(水)………
12日(木)成城教会③:平日のミサ・7時から
13日(金)成城教会④:平日のミサ・7時から
14日(土)田園調布教会②:平日のミサ・7時から
〃 静岡県御殿場市・神山復生病院附属教会:お祈り
〃 町田教会:待降節第三主日のミサ・18時30分から
15日(日)………
16日(月)………
17日(火)………
18日(水)………
19日(木)支援活動②:山谷夜回りの会・19時30分から
20日(金)………
21日(土)町田教会②:待降節第四主日のミサ・18時30分から
22日(日)板橋教会:主日のミサ・10時から
23日(月)………
24日(火)町田教会③:主の降誕夜半のミサ・19時30分から
25日(水)麹町・聖イグナチオ教会③:主の降誕日中のミサ・18時から
26日(木)麹町・聖イグナチオ教会④:平日のミサ・12時から
27日(金)成城教会⑤:平日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑤:平日のミサ・18時から
28日(土)町田教会④:主日のミサ・18時30分から
29日(日)静岡県三島市・三島教会:主日のミサ・9時から
〃 静岡県沼津市・沼津教会:主日のミサ・11時から
〃 静岡県熱海市・熱海教会・主日のミサ・14:30から
30日(月)成城教会⑥:平日のミサ・7時から
31日(火)八王子教会:平日のミサ・7時から
以上です。
教会日記2019.12.31(カトリック八王子教会「主の降誕第7日(平日)のミサ」火曜日) [教会日記]
今朝は、自宅から比較的近いカトリック八王子教会で、7時からの主の降誕第7日(平日)のミサに与りました。八王子教会は、8月25日(日)の主日のミサ以来、約4ヶ月ぶりの訪問となりました。今日は大晦日ですから2019年最後のミサとなります。今年もたくさんのミサに与らせていただき、また、ご聖体を拝領させていただいたことに感謝ですね。
八王子教会の聖母像は、私の大好きな聖母像です。
7時からのミサではご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
そして、「新しい年こそ全世界に平和が訪れるようにお願いいたします。」とお祈りしました。
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学一年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんの病気が完治しますようにと心を込めてお祈りしました。
八王子教会の聖母像は、私の大好きな聖母像です。
7時からのミサではご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
そして、「新しい年こそ全世界に平和が訪れるようにお願いいたします。」とお祈りしました。
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学一年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんの病気が完治しますようにと心を込めてお祈りしました。
渡辺和子シスターのことば(第6日目) [キリスト者(クリスチャン)]
「目に見えるものにのみ心奪われ、数で表わされる物の多さ、点数等にこだわり過ぎると、本当に大切なものを忘れてしまう。
渡辺和子シスターのことは、「渡辺和子シスターのことば(第1日目)2019.12.26」をご覧下さい。
この言葉は、私には自戒させられる言葉です。私が過去に社会活動で関わっていた吹奏楽コンクールやアンサンブルコンテストなど、競う形態のものはどうしても点数、順位や賞といったものに拘ってしまいます。それは競う形態のものですから、当たり前といえばそのとおりなのですが、あまりにも点数などに拘ってしまうために本質を忘れがちになります。
本来であれば、演奏の内容や音楽性はどうだったのか?
今までの練習への取り組みはどうだったのか?
子ども達の大会に臨む姿勢はどうだっだのか?
………というような本質の議論がなされずに、ただ点数、順位や賞だけの話しに内容が限られがちになりますね。目標としてはいいのでしょうが、それが目的となってしまってはダメですね。この言葉はすべての人が自戒とすべき言葉ですね!
渡辺和子シスターのことは、「渡辺和子シスターのことば(第1日目)2019.12.26」をご覧下さい。
この言葉は、私には自戒させられる言葉です。私が過去に社会活動で関わっていた吹奏楽コンクールやアンサンブルコンテストなど、競う形態のものはどうしても点数、順位や賞といったものに拘ってしまいます。それは競う形態のものですから、当たり前といえばそのとおりなのですが、あまりにも点数などに拘ってしまうために本質を忘れがちになります。
本来であれば、演奏の内容や音楽性はどうだったのか?
今までの練習への取り組みはどうだったのか?
子ども達の大会に臨む姿勢はどうだっだのか?
………というような本質の議論がなされずに、ただ点数、順位や賞だけの話しに内容が限られがちになりますね。目標としてはいいのでしょうが、それが目的となってしまってはダメですね。この言葉はすべての人が自戒とすべき言葉ですね!
今日の日記2019.12.30(映画「ドラキュラ」) [日記]
今日は、BOOKOFFで中古のDVDを購入しました。映画界の巨匠フランシス・F・コッポラ監督の映画「ドラキュラ」です。この映画の分野は「ホラー映画」でストーリーはフィクションですが、歴史上の事実に創作を結びつけた吸血鬼(ドラキュラ)の物語です。1992年のアメリカの映画で、もう28年ほど前になりますね。ただ恐怖だけの映画ではなく、ドラキュラは最後に愛に救われ、神の恩寵によって天に上げられるのです。愛が憎しみや死に打ち勝つのです。
巨匠フランシス・F・コッポラは、アメリカの映画監督で、映画「ゴッドファーザー」や「地獄の黙示録」などで有名ですね。アカデミー監督賞など多くの賞を受賞しています。この「ドラキュラ」には、アカデミー賞主演男優賞俳優のアンソニー・ポプキンスが司祭役とバンヘルシング教授(医師)役で出演し、また、若いころのイケメン俳優キヌア・リーブスが弁護士役で出演しています。
怖がり屋の私としては、一人で観るには怖くてしかたがないのですが( ̄◇ ̄;) 十字架を首から下げ、手持ち用の十字架を側に置いて観ています( ̄▽ ̄;)
◯ドラキュラは、イギリス時代のアイルランド人の作家、ブラム・ストーカーが1897年に発表した恐怖小説『吸血鬼ドラキュラ』に登場する男性の吸血鬼のことです。吸血鬼を表す英語は「ヴァンパイア」です。ドラキュラはルーマニア語で「竜の息子」を意味し、竜は悪魔という意味もあります。小説執筆時は「不死者」という題名でした。
ドラキュラの詳細は、Wikipedia(ウィキベディア)をご覧ください。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A9
巨匠フランシス・F・コッポラは、アメリカの映画監督で、映画「ゴッドファーザー」や「地獄の黙示録」などで有名ですね。アカデミー監督賞など多くの賞を受賞しています。この「ドラキュラ」には、アカデミー賞主演男優賞俳優のアンソニー・ポプキンスが司祭役とバンヘルシング教授(医師)役で出演し、また、若いころのイケメン俳優キヌア・リーブスが弁護士役で出演しています。
怖がり屋の私としては、一人で観るには怖くてしかたがないのですが( ̄◇ ̄;) 十字架を首から下げ、手持ち用の十字架を側に置いて観ています( ̄▽ ̄;)
◯ドラキュラは、イギリス時代のアイルランド人の作家、ブラム・ストーカーが1897年に発表した恐怖小説『吸血鬼ドラキュラ』に登場する男性の吸血鬼のことです。吸血鬼を表す英語は「ヴァンパイア」です。ドラキュラはルーマニア語で「竜の息子」を意味し、竜は悪魔という意味もあります。小説執筆時は「不死者」という題名でした。
ドラキュラの詳細は、Wikipedia(ウィキベディア)をご覧ください。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A9
「アパレシーダの聖母」と「聖マルチン・デ・ポレス」のお話し [聖人・福者・尊者]
昨日、〈年の瀬ぶらっと教会旅2019〉で静岡県三島市にあるカトリック三島教会を訪問し、主日のミサに与らせていただきました。その際、聖堂内を撮影した(もちろん許可を得ています)のですが、聖母像と神父様像らしきご像も撮影しました。ミサが終わってから、沼津市(カトリック沼津教会)に移動する時間に余裕がなく、ご像のことを聴かないまま三島教会を後にしました。
今日になって調べたら、写真左側は「アパレシーダの聖母」で、右側は「聖マルチン・デ・ポレス」のご像であることが判明しました。ただ、自信はありますが、私が個人的に調べたことですので、ひょっとしたら間違っているかもしれません。もしも、お気づきの点がありましたらコメントをください。
◯アパレシーダの聖母( Nossa Senhora da Conceição Aparecida)は、ブラジルで信仰されている、サンパウロ州のアパレシーダに現れたとされる聖母マリアです。「アパレシーダ」とは「現れた」という意味です。アパレシーダの聖母に捧げる10月12日は、ブラジルの国民祝日に制定されているほどです。「褐色の聖母」との異名を持っています。
1717年、3人の漁師がパライーバ川で漁をしていましたが不漁でした。その後、投げ入れた網から最初は聖母像の胴体、次に頭部が引き上げられ、再度、網を投げ入れると魚が大漁となりました。漁師の一人が聖母像を家に保管し、家族や近隣の人達が聖母像の前で祈るようになりました。そして、多くの奇跡が伝えられました。 1734年、ロス・コケロス(Los Coqueros) の丘に聖堂が建設され、多数の巡礼者が訪れるようになりました。1834年に、現在は「古いバジリカ」と呼ばれる教会が建設され、1930年、ローマ教皇ピオ11世が「ブラジルの保護者」と宣言しました。1955年、新バジリカの建設が開始され、1980年には、ブラジルを訪問した教皇ヨハネ・パウロ2世によって建設中のバシリカの献堂式が挙行されました。1984年、アパレシーダの聖堂は、ブラジルの聖地として宣言されました。
◯聖マルチン・デ・ポレス(St. Martin de Pores)は、1579 年にペルーのリマにおいてスペイン人貴族の父と黒人の解放奴隷の母との間に生まれました。家族は父から見捨てられ、マルチンの幼い頃は悲惨な貧しさでしたが、後に父ホアン・デ・ポリスは悔い改め、二人の子供たちを引き取って初等教育を授けました。家族はマルチンが12歳の頃、外科医として修業させるため、医者のところに見習いに行かせました。医療技術を学んだマルチンは病者を癒し、慰める生涯の第一歩を踏み出しました。それは、裕福なスペインの人々だけでなく、貧しいインディアンの農夫にいたるまですべての病人を治療し、また、犬猫の動物までも傷の手当てをしました。15 歳でリマのドミニコ会、聖ロザリオ修道院に行き「信徒会員」すなわち「第三会」の奉仕人として受け入れられ、この立場で修道院の最も低い務めに専念しました。貧しい人たちが安心して治療を受けられるようにと、彼は玄関番兼掃除人の役目を引き受けました。院長は彼のうちに誰の目にも明らかな善意と聖性を見出し、助修士として荘厳誓願を立てることを認めました。マルチンは、病人を 扱う術と貧者への愛徳以外にも修道生活における苦行の精神、徹底的な貧しさ、それに並外れた従順において際立っていました。彼は十字架につけられたイエス・キリストに対して深い崇敬心を抱き、贖いの無限 の恵みに対して、何か小さな方法で応えたいと切望していました。1639年11月5日帰天。 1962年5月5日、教皇ヨハネ 23 世により列聖され、アメリカ大陸から出て聖人の列に加えられた最初の黒人となりました。
今日になって調べたら、写真左側は「アパレシーダの聖母」で、右側は「聖マルチン・デ・ポレス」のご像であることが判明しました。ただ、自信はありますが、私が個人的に調べたことですので、ひょっとしたら間違っているかもしれません。もしも、お気づきの点がありましたらコメントをください。
◯アパレシーダの聖母( Nossa Senhora da Conceição Aparecida)は、ブラジルで信仰されている、サンパウロ州のアパレシーダに現れたとされる聖母マリアです。「アパレシーダ」とは「現れた」という意味です。アパレシーダの聖母に捧げる10月12日は、ブラジルの国民祝日に制定されているほどです。「褐色の聖母」との異名を持っています。
1717年、3人の漁師がパライーバ川で漁をしていましたが不漁でした。その後、投げ入れた網から最初は聖母像の胴体、次に頭部が引き上げられ、再度、網を投げ入れると魚が大漁となりました。漁師の一人が聖母像を家に保管し、家族や近隣の人達が聖母像の前で祈るようになりました。そして、多くの奇跡が伝えられました。 1734年、ロス・コケロス(Los Coqueros) の丘に聖堂が建設され、多数の巡礼者が訪れるようになりました。1834年に、現在は「古いバジリカ」と呼ばれる教会が建設され、1930年、ローマ教皇ピオ11世が「ブラジルの保護者」と宣言しました。1955年、新バジリカの建設が開始され、1980年には、ブラジルを訪問した教皇ヨハネ・パウロ2世によって建設中のバシリカの献堂式が挙行されました。1984年、アパレシーダの聖堂は、ブラジルの聖地として宣言されました。
◯聖マルチン・デ・ポレス(St. Martin de Pores)は、1579 年にペルーのリマにおいてスペイン人貴族の父と黒人の解放奴隷の母との間に生まれました。家族は父から見捨てられ、マルチンの幼い頃は悲惨な貧しさでしたが、後に父ホアン・デ・ポリスは悔い改め、二人の子供たちを引き取って初等教育を授けました。家族はマルチンが12歳の頃、外科医として修業させるため、医者のところに見習いに行かせました。医療技術を学んだマルチンは病者を癒し、慰める生涯の第一歩を踏み出しました。それは、裕福なスペインの人々だけでなく、貧しいインディアンの農夫にいたるまですべての病人を治療し、また、犬猫の動物までも傷の手当てをしました。15 歳でリマのドミニコ会、聖ロザリオ修道院に行き「信徒会員」すなわち「第三会」の奉仕人として受け入れられ、この立場で修道院の最も低い務めに専念しました。貧しい人たちが安心して治療を受けられるようにと、彼は玄関番兼掃除人の役目を引き受けました。院長は彼のうちに誰の目にも明らかな善意と聖性を見出し、助修士として荘厳誓願を立てることを認めました。マルチンは、病人を 扱う術と貧者への愛徳以外にも修道生活における苦行の精神、徹底的な貧しさ、それに並外れた従順において際立っていました。彼は十字架につけられたイエス・キリストに対して深い崇敬心を抱き、贖いの無限 の恵みに対して、何か小さな方法で応えたいと切望していました。1639年11月5日帰天。 1962年5月5日、教皇ヨハネ 23 世により列聖され、アメリカ大陸から出て聖人の列に加えられた最初の黒人となりました。
典礼聖歌集 第305番「やみに住む民は光を見た」のお話し [聖歌日記]
今年の1月4日(金)のカトリック成城教会での初金のミサで、典礼聖歌集の第305番「やみに住む民は光を見た」を初めて歌ってから、私が大好きな聖歌の一つになりました。降誕節に歌われる聖歌ですから、季節限定みたいなところがありますが、一昨日(夜)と昨日の主日のミサで、「入祭の歌」として歌われました。この2日間で4回のミサにあずかりましたから、4回とも全力で歌わさせていただきました!特に最後のところの「神に栄光 人に平和」がいいですね〜!聖歌大好き人間の私には至福の時でした(^O^)
典礼聖歌集第305番「やみに住む民は光を見た」
「やみに住む 民は光を見た
ダビドの街に 生まれた幼な子
すべての人を 救う恵み
すべての民に およぶ喜び
神に栄光 人に平和
世界よ 神を讃え歌え
神は来られた 告げよ知らせよ
すべての国に その救いを
すべての民に 不思議なわざを
神に栄光 人に平和」
典礼聖歌集第305番「やみに住む民は光を見た」
「やみに住む 民は光を見た
ダビドの街に 生まれた幼な子
すべての人を 救う恵み
すべての民に およぶ喜び
神に栄光 人に平和
世界よ 神を讃え歌え
神は来られた 告げよ知らせよ
すべての国に その救いを
すべての民に 不思議なわざを
神に栄光 人に平和」
教会日記2019.12.30(カトリック成城教会「主の降誕第6日(平日)のミサ」月曜日) [教会日記]
今朝は、カトリック成城教会での7時からの主の降誕第6日(平日)のミサに与りました。明日は、カトリック八王子教会の7時からの平日のミサにあずかりますので、成城教会は年内最後になります。今年も大変お世話になりました。感謝いたします。昨日の朝の冷え込みほどではありませんが、今日は雨が降って寒くなるそうですよ。今日も清々しい朝を迎えています!
6時50分から「お告げの祈り」をお祈りし、7時からのミサではご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学一年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんの病気が完治しますようにと心を込めてお祈りしました。
6時50分から「お告げの祈り」をお祈りし、7時からのミサではご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学一年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんの病気が完治しますようにと心を込めてお祈りしました。
渡辺和子シスターのことば(第5日目) [キリスト者(クリスチャン)]
「幸せは、自分を忘れて人の幸せのために尽くすところに、生まれるものだと思います。」
渡辺和子シスターのことは、「渡辺和子シスターのことば(第1日目)2019.12.26」をご覧下さい。
この言葉にある「幸せ」という言葉の捉え方しだいで、人によって違いがでてくるかもしれません。しかし、自分の為にではなく、他の人の為に尽くすことによって生まれる「幸せ」は、何よりも尊いものだと思いますし、私も日頃から実感していることです。これは「お互い様」でもあります。この想いがなくては人間社会は成り立ちません。東日本大震災以降、よく「絆(きずな)」という言葉が使われるようになりましたが、この絆こそ、他の人のために尽くすことを根底にしている言葉だと思います。
渡辺和子シスターのことは、「渡辺和子シスターのことば(第1日目)2019.12.26」をご覧下さい。
この言葉にある「幸せ」という言葉の捉え方しだいで、人によって違いがでてくるかもしれません。しかし、自分の為にではなく、他の人の為に尽くすことによって生まれる「幸せ」は、何よりも尊いものだと思いますし、私も日頃から実感していることです。これは「お互い様」でもあります。この想いがなくては人間社会は成り立ちません。東日本大震災以降、よく「絆(きずな)」という言葉が使われるようになりましたが、この絆こそ、他の人のために尽くすことを根底にしている言葉だと思います。
教会日記2019.12.29(カトリック三島教会・沼津教会・熱海教会「主日のミサ」日曜日) [教会日記]
今日は、これから毎年の恒例にする<年の瀬ぶらっと教会旅2019>でした。
この旅は、「行き先のカトリック教会でミサに与ること」を目的として、①年内の仕事が終わった年末の時期に、②基本的に日帰りで、③原則として新幹線などの特急電車には乗らないことを条件にしています。
今回の行き先は、静岡県東部の三島市:カトリック三島教会、沼津市:カトリック沼津教会及び熱海市:カトリック熱海教会でした。3教会とも素晴らしい教会で、ご親切にしていただきました。いゃ〜、今日もミサ中の聖歌を美声で思いっきり歌ったら、私よりも先輩のご婦人の皆様からお褒めをいただき、とってもモテましたね〜。「また絶対に来てくださいね!」だって!( ̄◇ ̄;) えっ!自惚れ?自画自賛!………勘違いか?( ̄▽ ̄;)
◯自宅を5時15分出発
JR横浜線相原駅:5時23分発
↓(JR横浜線)
JR横浜線橋本駅:5時42分発
↓(JR相模線)
JR東海道線茅ヶ崎駅:6時44分発
↓(JR東海道線)
JR東海道線三島駅:7時57分着
三島駅近くのカフェで、モーニングコーヒーをしました。ミサ前ですので食事はしませんでした。
◯カトリック三島教会「主日のミサ」9時から
終わってから沼津教会への移動を、JR東海道線三島駅から一つ目の沼津駅まで電車の予定でしたが、ミサが8分遅く始まり、終わったのが10時13分でしたので、急遽カトリック沼津教会までタクシーで移動しました。2,000円少々也!(ーー;)
三島教会の外観です。
聖堂内です。建てたばかりのような新しさです。明るいお御堂ですね。
◯カトリック沼津教会「主日のミサ」11時から
終わってから沼津駅近くで朝昼兼用の食事:お寿司屋さんで近海物の魚を堪能!をしょうと思ったら、どこもかしかも長蛇の列をなしており、残念ではありますが熱海に移動しました。
熱海教会へ移動
JR東海道線沼津駅:12時47分発
↓(JR東海道線)
JR東海道線熱海駅:13時5分着
沼津教会の外観です。
聖堂内です。こちらも比較的新しいお御堂です。広いですね。
◯カトリック熱海教会「主日のミサ」14時30分から
JR熱海駅に着いてから、やっとお寿司屋さんで近海物ネタのお寿司を堪能!しました。さすが、近海物だけあってマグロはないですね^_^; 本当はミサ前に食べてはいけないのですが………朝からお菓子とコーヒーしかとっておらず………という言い訳をして食べました!( ̄▽ ̄;)
熱海教会の外観です。JR熱海駅の裏山中腹にあります。写真では平地に見えますが、手前の道路は急な坂道になっています。
聖堂内です。畳40畳ほどでしょうか。小さくても趣のあるお御堂です!
帰路につく
JR東海道線熱海駅:15時49分発
↓(JR東海道線)
JR相模線茅ヶ崎駅:16時58分発
↓(JR相模線)
JR横浜線橋本駅:18時4分発
↓(JR横浜線)
JR横浜線相原駅:18時6分着
◯自宅に18時10分着
3つの教会のミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学一年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんの病気が完治しますようにと心を込めてお祈りしました。
この旅は、「行き先のカトリック教会でミサに与ること」を目的として、①年内の仕事が終わった年末の時期に、②基本的に日帰りで、③原則として新幹線などの特急電車には乗らないことを条件にしています。
今回の行き先は、静岡県東部の三島市:カトリック三島教会、沼津市:カトリック沼津教会及び熱海市:カトリック熱海教会でした。3教会とも素晴らしい教会で、ご親切にしていただきました。いゃ〜、今日もミサ中の聖歌を美声で思いっきり歌ったら、私よりも先輩のご婦人の皆様からお褒めをいただき、とってもモテましたね〜。「また絶対に来てくださいね!」だって!( ̄◇ ̄;) えっ!自惚れ?自画自賛!………勘違いか?( ̄▽ ̄;)
◯自宅を5時15分出発
JR横浜線相原駅:5時23分発
↓(JR横浜線)
JR横浜線橋本駅:5時42分発
↓(JR相模線)
JR東海道線茅ヶ崎駅:6時44分発
↓(JR東海道線)
JR東海道線三島駅:7時57分着
三島駅近くのカフェで、モーニングコーヒーをしました。ミサ前ですので食事はしませんでした。
◯カトリック三島教会「主日のミサ」9時から
終わってから沼津教会への移動を、JR東海道線三島駅から一つ目の沼津駅まで電車の予定でしたが、ミサが8分遅く始まり、終わったのが10時13分でしたので、急遽カトリック沼津教会までタクシーで移動しました。2,000円少々也!(ーー;)
三島教会の外観です。
聖堂内です。建てたばかりのような新しさです。明るいお御堂ですね。
◯カトリック沼津教会「主日のミサ」11時から
終わってから沼津駅近くで朝昼兼用の食事:お寿司屋さんで近海物の魚を堪能!をしょうと思ったら、どこもかしかも長蛇の列をなしており、残念ではありますが熱海に移動しました。
熱海教会へ移動
JR東海道線沼津駅:12時47分発
↓(JR東海道線)
JR東海道線熱海駅:13時5分着
沼津教会の外観です。
聖堂内です。こちらも比較的新しいお御堂です。広いですね。
◯カトリック熱海教会「主日のミサ」14時30分から
JR熱海駅に着いてから、やっとお寿司屋さんで近海物ネタのお寿司を堪能!しました。さすが、近海物だけあってマグロはないですね^_^; 本当はミサ前に食べてはいけないのですが………朝からお菓子とコーヒーしかとっておらず………という言い訳をして食べました!( ̄▽ ̄;)
熱海教会の外観です。JR熱海駅の裏山中腹にあります。写真では平地に見えますが、手前の道路は急な坂道になっています。
聖堂内です。畳40畳ほどでしょうか。小さくても趣のあるお御堂です!
帰路につく
JR東海道線熱海駅:15時49分発
↓(JR東海道線)
JR相模線茅ヶ崎駅:16時58分発
↓(JR相模線)
JR横浜線橋本駅:18時4分発
↓(JR横浜線)
JR横浜線相原駅:18時6分着
◯自宅に18時10分着
3つの教会のミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学一年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんの病気が完治しますようにと心を込めてお祈りしました。