「聖母のみ心(聖母の汚れなき御心)」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日は、「聖母のみ心(聖母の汚れなき御心)」の記念日でした。毎年、「イエスのみ心」の祭日の翌日には、“聖母のみ心”を記念します。“聖母のみ心”の記念日は、1944年にピオ12世教皇によって定められました。神に自らの心を開いてささげた聖母マリアは、すべてのキリスト者の模範です。聖母マリアの心が聖霊のふさわしい住まいとされたように、わたしたちの心も聖霊の神殿となることを祈る日です。教会は、「神の最も聖なる母マリア」を特別な心で崇敬しています。教皇パウロ6世は、聖マリアへの信心についての使徒的勧告を出されたとき、「私は聖なるおとめマリアへの信心が盛んになっていくことを願ってやみません」と序文に記しています。
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教会日記2020.6.20(カトリック成城教会「主日のミサ」土曜日) [教会日記]

今日は、カトリック成城教会で、16時(臨時)からの主日のミサに与りました。成城教会でのミサは、2月26日(水)の「灰の水曜日」のミサ以来となります。また、今日は、6月1日に所属協会がカトリック町田教会から成城教会に代わってから、初めての記念すべき主日のミサでした。ちなみに、主日のミサ自体は、先日の13日(日)にカトリック相模原教会の7時からの主日のミサに、約3ヶ月と3週間ぶり与りました。

このブログの13日(日)の記事にも書きましたが、日本全国のカトリック教会は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、「3蜜」を避けるために2月末からミサの開催を中止してきました。全国といっても地域によって多少の違いはありますが、緊急事態宣言の解除以降は、段階的にミサが開催されるようになり、東京大司教区(東京都と千葉県)の場合は、今日(20日)の夜の主日のミサから再開となりました。先日の相模原教会同様に、マスクの着用はもちろんのこと、聖堂入口の受付でカードに氏名と電話番号の記入がありました。聖堂内の席は、ソーシャルディスタンスで、40人の入堂制限がありました。

ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学2年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんの病気が完治しますようにと心を込めてお祈りしました。

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旧約聖書:詩編・第23編・第1〜第6節 [聖書]

「主は羊飼い、
わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしてもあなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り生涯、そこにとどまるであろう。」
以上は、キリスト教カトリック、聖公会及びプロテスタントが、随分前に共同訳をした『新共同訳聖書』のものです。

次にキリスト教カトリックの修道会であるフランシスコ会に附属しているフランシスコ会聖書研究所が発刊した『原文校訂による口語訳フランシス会聖書研究所訳注聖書』から掲載します。
「主はわたしの牧者。
わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に憩わせ、
わたしを静かな水辺に伴い、
魂を生き返らせ、
み名にふさわしく正しい道に導かれる。
わたしは死の影の谷を歩む時でさえ、
災いを恐れない、
あなたがともにおられるから。
あなたの杖、あなたの牧杖こそ、わたしを安心させる。
あなたは敵の見ている前で、わたしのために食事を調え、
わたしの頭に香油を注がれた。
わたしの杯は溢れた。
恵みと慈しみは生涯わたしに伴う。
わたしは主の家にとこしえに住む。」

新共同訳とは、所々の訳に違いがありますね。私は、フランシスコ会訳の方が親しみやすくて好きです。この部分は主(神)への賛歌で、キリスト教だけでなく、ユダヤ教でも有名な祈りの箇所となっています。このブログでは3回目の掲載となります。

以前にご説明しましたが、キリスト教では「旧約聖書」と言っていますが、ユダヤ教では聖書です。つまり、キリスト教の聖書は、「新約聖書」と「旧約聖書」を合わせて聖書と言いますが、ユダヤ教は、聖書と言えばキリスト教でいうところの「旧約聖書」を指します。要は、キリスト教の「旧約聖書」は、ユダヤ教の聖書(内容はほとんど同じ)をもちいているということです。
また、この部分はカトリック教会のミサの中で歌われる「典礼聖歌(第123番)」にもなっています。主が牧者(羊飼い)で、私達が羊ということですね。なにもかも主(神)に委ね、主の恵みと慈しみに身をまかせること。これは祈りの言葉であり、私たちの信仰告白でもあります。
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