「鴨川の河川敷」のお話し [日記]

独身時代のことですが、仕事で大阪に出張があり、東京に帰る前に京都まで足を伸ばして先斗町(ぽんとちょう)辺りを散策し、道をそれて鴨川に出ました。その時の思い出話しですが、鴨川の河川敷というか、土手にカップルがたくさん並んでいる風景を見て、「いいな~恋人同士が肩を寄せ合い、鴨川のみなも(水面)を眺めながら楽し気に話しをしてる。」と、とっても羨ましく思ったものでした(*^▽^*)
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ところが、それと同時に「なんで、みんな測ったように規則正しくキレイに等間隔に並んでいるんだろう?」と思ったのです。これは「鴨川等間隔の法則」といって心理学的にも研究がされているそうです。今だったらソーシャルディスタンスといったところでしょうか。実は、これはパーソナルスペースという「他人に侵入されると無意識に不快に感じる空間の概念」が作用しているからだそうです。鴨川のカップルたちにも同じような概念が働いたわけですね。でもこれって、確実に日本人の特有の道徳?美徳?の「他人に迷惑をかけてはいけない」という意識と、これまた日本人特有の「他人に倣う」又は「他人と同化する」とう意識が働いていますよね。

ハッキリ言ってものすごく憧れましたね~。これは東京の多摩川や隅田川ではダメなんです。やはり風情のある京都の鴨川が最高なのです。それも暑い夏の陽が落ちた夕刻です。あの若いころ、将来の奥さんは、絶対に京都で生まれ育った優美でしとやかな京女だと思ったものです。あぁ~進学する大学は東京ではなく京都にすればよかったのに~!現在65歳、もうすぐ結婚40周年となる今となっては………妻に叱れる!( ̄▽ ̄;)
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新約聖書:ヤコブの手紙・第3章・第2〜第12節 [聖書]

今日は、日本語訳の違う次の2つの聖書から聖句(イエス・キリストの言葉、聖書の言葉)をご紹介いたします。訳の違いで、ニュアンスに少々違いが生じます。

「私たちは皆、度々、過ちを犯します。言葉で過ちを犯さないなら、それは体全体を制御することのできる完全な人です。馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を操ることができます。また船を見なさい。あのように大きくて、風に激しくあおられていても、ごく小さい舵によって、舵取りの望む方に操られて行きます。同じように、舌も小さな器官ですが、大言を吐くのです。
見なさい。いかに小さな火が大きな森を燃やすことか。舌もまた火です。舌は、私たちの体の器官の中で、不義の世界を成しています。それは、体全体を汚し、人生の歩みを、自らもゲヘナの火によって焼き尽くされます。あらゆる種類の獣や鳥、地を這うものや海の生き物は、人類が治めており、また治めてきました。しかし、舌を治めることのできる人は一人もいません。
舌は、制することのできない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私たちは舌で、父なる主をほめたたえ、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪っています。同じ口から、賛美と呪いが出て来るのです。私のきょうだいたち、このようなことがあってはなりません。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水が湧き出るでしょうか。私のきょうだいたち、いちじくの木がオリーブの実をつけたり、ぶどうの木がいちじくの実をつけたりすることができるでしょうか。塩水が甘い水を生むこともできません。」
『聖書協会共同訳聖書』から

「わたしたちはみな、しばしば過ちを犯すものです。もし言葉で過ちを犯さない人がいるなら、その人は全身を制御することのできる完全な人です。馬を御するために、その口に轡(くつわ)をはめれば、馬の体全体を意のままに動かすことができます。また、船を見てください。それがどんなに巨大で、強い風に吹きまくられていても、ごく小さい舵一つで、舵取りは意のままにそれを操ることができます。同じく、舌は小さな器官ですが、大言壮語することができます。
また、火を見てください。どんな小さな火でも、大きな森を燃やすことができます。舌は火です。不義の世界である舌は、体の器官の一つであり、全身を汚し、人生の車輪を燃やし、自らも地獄の火によって燃えたたされます。あらゆる種類の獣、鳥、這うもの、海の生き物は、人間によって支配されており、またこれまで支配されきました。これに反し、誰も舌を支配することはできません。
舌は疲れをしらない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、また、この舌をもって、神にかたどって造られた人々とを呪います。この同じ口から賛美と呪いが出てくるのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。同じ泉から甘い水と苦い水が湧き出るでしょうか。わたしの兄弟たちよ、いちじくの木がオリーブの実をつけ、ぶどうの木がいちじくの実をつけたりすることがありえますか。塩分を含む泉は、真水を出だすことはできないのです。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

「口は災いの元(くちはわざわいのもと)」とはよく言ったものですね。今も昔も変わりはありませんね。人間関係を良くするも悪くするも、口から発声した「言葉」しだいです。どんなの言葉でも、大切なことは「その言葉に人を思い遣る心があるか。」ですね。これを「慈しみの心」と言います。この心があれば相手を傷つけることはありません。難しいことかもしれませんが、普段からどんな小さなことでも気を配っていればできるようになると思います………が、まったく私の一番自戒とすることです( ̄◇ ̄;) 65歳になっても反省ばかりです。つい先日も失敗したばかりですΣ( ̄ロ ̄lll) よかれと思って言ったことが、混乱を引き起こしてしまうことになるのです。 “ お節介焼き ” な性格の私には、「言い過ぎ」と「言葉足らず」も同じですね。今日の聖句(聖書の言葉)は、本当に身に浸みます(⌒-⌒; )

【くつわ(轡)】
馬具(ばぐ)の一種で、馬の口にはめて手綱(たづな)をつなぎ、馬を制御するための金具のこと。
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