「戒石銘」のお話し [今日の言葉(詩・その他)]

この記事は、過去にこのブログに掲載した記事の再掲載となります。
最近、心に残った言葉に「旧二本松藩戒石銘碑(戒石銘:かいせきめい)」があります。4句16字の言葉ですが、私の座右の銘であり自戒とする言葉です。

◯原文
爾俸爾禄
民膏民脂
下民易虐
上天難欺

◯読み
爾俸爾禄
なんじのほう なんじのろく
民膏民脂
たみのこう たみのしなり。
下民易虐
かみんは しいたげやすく
上天難欺
じょうてんは あざむきがたし。
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◯訳・意
「お前のもらっている俸禄(ほうろく:給料・収入のこと)は、そのすべては民が働いた汗によるものである。下々の民は、権力で抑えて従わせることができても、天(神)を欺くことはできない。だから身を慎み、民を大切にせよ。」との意

◯説明
「旧二本松藩戒石銘碑(きゅうにほんまつはんかいせきめいひ)」は、二本松藩第7代藩主丹羽高寛が、家臣で儒学者の岩井田昨非の献策により、藩士の戒めとして旧二本松城の入り口にあたる場所(現在の福島県二本松市郭内三丁目)に設置した石碑です。一夜のうちに自然石(花崗岩)の露出面に刻まれたそうです。1935年(昭和10年)12月24日に国の史跡に指定されました。石碑には16字が4字4行に刻まれており、藩政改革と綱紀粛正の指針を示したものとされています。
「戒石銘」の原典は、中国の965年に後蜀(ごしょく)の君主・孟昶(もうちょう)が作った24句96文字の「戒諭辞」だといわれています。983年、北宋(ほくそう)の君主・太宗(たいそう)が、この「戒諭辞」より4句16字を抜き出し「戒石銘」とし、太宗はこれを官史に示し戒めとしたそうです。その後、南宋(なんそう)の君主・高宗(こうそう)が、「戒石銘」を石に刻ませ州県に頒布しました。中国では、この時代に広く各州県に「戒石銘碑」が建てられたようです。

◯これを私の職場である大学(学校法人)に置き換えると
「教職員がもらっている給与・賞与は、すべて学生生徒の納付金(その学生生徒の親が汗して働いたお金)と国からの経常費補助金(国民の血税)である。学生生徒に、何を教えても文句を言わないかもしれないが、国民と文部科学省を欺くことはできない。(天(神)を欺くことはできない。)だから、学生生徒を大切にし、きちんとした教育と研究をして世界の平和に貢献しなければならない。」となりますね。肝に銘じます( ̄▽ ̄;)!
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教会日記2024.1.15(カトリック成城・聖タデオ教会「年間第二月曜日のミサ」月曜日) [教会日記]

今朝は、カトリック成城・聖タデオ教会で、7時からの「年間第二月曜日のミサ」に与りました。
カウントダウン:定年退職(3月31日)まで、あと76日です!
寒かですたい!今から今月末までの時期が一番寒いかもですね。とにかく風邪ひきに注意です!さあ!新しい一週間です。今週もぼちぼち頑張りましょう(^◇^)

ミサでは、能登半島地震でお亡くなりになられた方の永遠の安息と被災された皆さんに主の平安とお恵みがありますようお祈りし、被災地が一刻も早く復興できますようにとお祈りいたしました。
そして、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
と、まず主を讃えて祈り、
次に、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私たちの父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私たちの主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
今日も清々しい一日を迎えています!
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旧約聖書:箴言・第24章・第17~第18節 [聖書]

「敵が倒れても喜んではならない。
彼がつまずいてもこころを躍らせるな。
主がそういうあなたを見て不快とされるなら
彼への怒りを翻すされるであろう。」
『新共同訳聖書』から

旧約聖書にある『箴言(しんげん)』は、キリスト教では知恵文学の一つとして『詩編(しへん)』の後に置かれています。内容は<教訓集>で、様々な徳や不徳とその結果、日常における知恵や忠告等となっています。『箴言』中の格言の多くは、ソロモン王によって作られたとされていますが、これは、律法に関する五書がモーセの名で呼ばれているように、知恵文学(箴言、コヘレトの言葉、雅歌)はソロモンの名で呼ばれるからだそうです。実際は、複数の作者の言葉が収められています。

◯では、この聖句(聖書の言葉)の解釈をしましょう。
1.まずは前段部分の説明です。
まず「敵」という言葉は、自分の競争相手だったり、復讐したい相手だったり、嫌っている人のことというのが一般的ですが、ここでいうところの敵とは、過去に自分に悪意を持って危害や損害などを与えた人、あるいは将来的に予想される人のことです。そのような人が「倒れる」、「つまづく」などをした時、喜んだり心躍らせたりしてはいけないと説いています。普通の人だったら「ざま~みろ!」、「そら見たことか!」とか「罰が当たったんだ!」と言って大笑いして大喜びそうですよね。

2.この聖句の別のところで、神様は次のとおり教えておられます。
◯新約聖書:ローマの人々への手紙・第12章・第19~第21節
「愛するみなさん、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「主は仰せになる、『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と書かれているからです。しかし、次のようにも書かれています、「敵が飢えてうるなら食べさせよ、渇いているなら飲ませよ。そのようにすることで、あなたは敵の頭に燃える炭火を積むからである」。悪に負けてはなりません。むしろ善をもって悪に勝ちなさい。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖句は、使徒であるパウロが、ローマの信徒に宛てた手紙に書いている言葉です。神様は、人間に復讐(報復)することを絶対にお許しになりません。それは復讐・報復することよって、人間に暴力などの罪、強いては殺人の罪を犯させることになるからですね。ですから、復讐・報復は人間に代わって神様ご自身がなさるというわけです。このことは非常に大切なことです………私はこの聖句でどれだけ救われたことか。

3.次に、2を受けて最初の聖句に戻って後段部分の説明
相手が「倒れる」、「つまづく」などをした時に喜んだり心躍らせたりする自分を主(神様)が見て、不快になって怒を収めてしまわれるということです。せっかく自分に代わって神様が復讐してくださるのに、それを止めてしまわれるということです。大いに残念なことです!………でも、本当に残念なことですか?

4.この聖句は、「赦さない人間への戒めの言葉」ですね。
私たちが日常において、復讐・報復とまでいかなくてもそれに近い感情を抱くことはよくあることです。自分はまったく悪くないにもかかわらず!そうすると、これは何かきっかけがあるとその相手と喧嘩になってしまうのですね。復讐・報復は、聖書にも書かれていますが、神様がなされることであって人間のすることではないのです。そして、何よりも大切なことは相手を “ 赦す ” ことです。本気で心の底から赦すことです。難しいことであると思いますが、それでも赦さなければならないのです。

人は怒った時に、自分を相手と同じレベルか、それ以下にして怒っているから頭にくるのです。それでは気分は最悪ですよね。これを決して上から目線ではないのですが、慈しみと憐みの心を持って相手を見てあげるのです。「なんと、かわいそうな人なんだろう。」と。それができれば、赦すことなど何でもないことです。
ですから、自分が悪くなくても “ 怒りを覚えた時 ” は、「怒ることは神様がする」と自分に言い聞かせることです。決して手出しは愚か、口でも相手を罵ってはいけません。私はすでに実践しています………と言ってもまだ愚痴は出ます。これは最も自戒すべきことです。
神様は、相手がどのような悪人でも、私たち人間が倒れたり、物事につまずいたりした人を見て喜んだりすることは、決して良しとはしません。不快に思われるだけです。相手がどのような悪人であれ、人の弱みに付け込むようなことは、褒められたことではありませんね。それは相手を赦していないという証拠です。すべては慈しみと憐みの心を持って相手を赦すべきことなのです。
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