「トリケトラ」のお話し [聖品紹介]

この記事は、過去にこのブログに掲載した記事の再掲載となります。
「トリケトラ」とは、ケルト人の文化の中で生まれたデザインで、ラテン語で3つのコーナーという意味だそうです。ケルト人とは、青銅器時代(紀元前1000年以上前)に中央アジアの草原から、馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族のことです。
◯私が持っているシルバー製のトリケトラです。
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写真のトリケトラは、基本的なトリケトラの図章にサークル(円)が組み込まれたもので、後のケルト人文化にキリスト教が入り込んだ際に、キリスト教の “ 三位一体(トリニティ) ” の教義を表しているトリニティ・シンボルとされたのです。このデザインしたものを持つことによって “ 魔除け ” になるとされています。

アメリカのオカルト系フィクション映画にも悪魔から身を守る “ 魔除け ” として聖職者が付けたりしていますね。例えば『コンスタンティン(フランシス・ローレンス監督・ワーナー・ブラザース配給)』は、2005年制作のアメリカ合衆国のファンタジー・アクション映画で、主演はエクソシスト役のキアヌ・リーブス。他にレイチェル・ワイズなどの有名な俳優が出演していますが、この映画に出てくる神父様が、地獄から来る悪魔たちから身を守るために付けていました。

【エクソシスト】
エクソシスト(Exorcist)は、キリスト教、特にカトリック教会の用語で、エクソシスムを行う人のことです。エクソシスムとは誓い、厳命を意味するギリシャ語であり、洗礼式の時に悪魔を捨てる誓約がありますが、その後に悪魔にとりつかれた人から、悪魔を追い出して正常な状態に戻すことをいいます。まぁ、簡単に言うと「悪魔払いをする人」のことを「エクソシスト」と言うのですね。
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教会日記2024.1.30(カトリック成城・聖タデオ教会「年間第四火曜日のミサ)」火曜日) [教会日記]

今朝は、カトリック成城・聖タデオ教会で、7時からの「年間第四火曜日のミサ」に与りました。
カウントダウン:定年退職(3月31日)まで、あと61日です!
最近の朝ミサは、ミサに与る人が増えました。以前はだいたい15人前後くらいだったのですが、今は20人前後にを超えています。成城教会の近くに住んでいる信徒と遠方から来ている信徒と半々くらいではないでしょうか。町田教会、百合丘教会や松原教会などからきている信徒もいます。もっとたくさんミサに与ればいいのにと思いますが。

ミサでは、能登半島地震でお亡くなりになられた方の永遠の安息と被災された皆さんに主の平安とお恵みがありますようお祈りし、被災地が一刻も早く復興できますようにとお祈りいたしました。
そして、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
と、まず主を讃えて祈り、
次に、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私たちの父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私たちの主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
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新約聖書:マタイによる福音書・第11章・第28〜第30節 [聖書]

「労苦し、重荷を背負っている者はみな、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしの心は柔和で謙遜であるから、わたしの軛(くびき)を受け入れ、わたしに学びなさい。そうすれば、あなた方は魂の安らぎを見出す。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
『原文校訂によるフランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖句(イエス・キリストの言葉)「労苦し、重荷を背負っている者はみな、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」で、私は何度も癒やされて安らぎを得ることができ、表現が極端かもしれませんが “ 息をする ” ことができました。私と同じように、この聖句で癒やされた人はたくさんいるのではないでしょうか。
この現代社会で、疲れていない人なんていないと思います。大人も子どもも、体も心も疲れ果てているのです。人付き合いが下手で人間関係がうまくいかない。勉強しても成績が上がらない。いわれのない悪口を噂された。常にトップを目指さなければならない…………などなど、これでは疲れないわけがありませんね( ̄▽ ̄;)

イエス・キリストは、そんな私たちに対して「休ませてあげよう」とおっしゃられています。でも現実問題として多くの人は休んでいられない状況にあるわけです。しかし、間題は “ 私たちが何によって疲れ果てているか、何によって安らぎを得て、癒やしを得て平安を得ようとしているのか ” ということではないでしょうか。
よく言われる “ 心地よく疲れる ” というのとでは訳が違うのです。そうではなく、仕事では緊張の連続であり、常に強いられ、もう心身共にくたくたになり、心が押しつぶされるように疲弊しているというのが、多くの人の「疲れ」の現状ではないでしょうか。自殺者の心境にはなれませんが、その心境に近いかもしれません。

イエス・キリストは、私たちが苦しむ様子を、農具を取り付けられて畑で働かされている家畜の姿として表現しています。「軛(くびき)を負い。」という言葉ですね。重い軛をつけられて疲れきっている私たちに、イエス・キリストは「私のもとに来なさい」とおっしゃられます。あなたがたが担いでいる軛を外しなさいと。
本当はものすごくありがたい言葉ですが、そうは簡単にはいかないですよね。どうしてか?私たちはこの軛をもって働き、生活し、生きてきたのですから。重たい軛に耐えて、うまく担いで上手に畑を耕すこと、効率よく働き、その能力にしたがって評価され、それが長年当たり前の社会だとして生きてきたわけですからね。

イエス・キリストは “ 軽い軛を与える ” とおっしゃられています。休ませるといっても、何もしなくてもいいのではありませんね。職場の休憩時間ではないわけです。そのような休み時間を約束したのではないのです。イエス・キリストが約束した休み・安らぎとは、実は「軛を付け替えること」だったのです。ここが重要です。
私たちを疲れさせているのは、軛の重さや仕事の量ではなく、質や強いられる犠牲の大きさでもなく、「本質的な意味や目的に共感できないことで疲れている。」のではないでしょうか。世間の波に飲み込まれ、世間の物差しで自分を測って、 " 本当の自分らしさ ” を見失っているからではないでしょうか。これがポイントです。

イエス・キリストは柔和で謙遜で真実で優しい方です。それ以上に、イエス・キリストは十字架の苦しみをご経験された私たちの救い主です。ですから私たち人間の苦労や痛みを知っていらっしゃるのですね。軛を取り替えること → 仕事の目的を変えること → それは自分の人生観、価値観を変えることに他ならないと思います。
安らぎと癒やしはそこに約束されるのです。疲れて二進も三進もいかない人は、役に立たないような無駄ないらないプライドなど捨ててしまい、毎日の生活に平安と癒しを得られるように、今までの既存の生活環境&仕事環境から思い切って方向転換しましょう!人生は一つだけではありません!いろいろと選択肢があるのです。

生涯のすべてに信頼をおいてイエス・キリストを信じること。これが信仰なのですが、イエス・キリストに自分のすべてをゆだねることができること。これが信仰しているという証ではないでしょうか。このゆだねることこそ「軛を付け替えること」ではないでしょうか。だからこそ既存の状態から思い切って方向転換できるのです。
イエス・キリストはそばで見ておられます。祈りましょう。
【軛(くびき)】
車の轅(ながえ)の先端につけて、車を引く牛馬の頸の後ろにかける横木。
【輈(ながえ)】
「長柄」のこと。馬車・牛車などの前方に長く突き出ている2本の棒。先端に軛(くびき)をつけて牛や馬にひかせる。
◯図の矢印が軛(くびき)、牛の両側の横棒が輈(ながえ)です。
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◯2頭立ての軛(くびき)です。とっても重そうですね。
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