東京一村組同窓会!(今日の日記2024.1.20) [日記]

今日は、私が勤務する国士舘大学の法学部昭和63年度卒業生の「東京一村組同窓会」を兼ねて私の「定年退職を祝う会」がありまた。東京一村組と言ってもヤクザの組( ̄▽ ̄;)ではなく、私が20歳代の若い大学職員として法学部事務室で1~3組の学生主事(学生係)を担当していた時、学生199人を4年間お世話していたことがあり、1~3組の担当が私であったとういうことで一村組を名乗っているのです。 最後の4年生時は4~6組も含めて担当し、全部で約400人を超える学生を受け持ちしていました。

当時の国士舘大学は、全学部に学生主事制度というものがあり、簡単に説明しますと学生に対するすべてにおいて、授業を教える以外のことの面倒をみるというものです。もちろん授業は教員が担当しますが、それ以外の学生管理、特に修学や学校生活に関する管理です。ですから授業出席は、教員が出席管理する語学及びゼミを除いて、その他のほとんどの科目を授業開始前に毎回教室に行って出席カードを集めて集計し、夏季・冬季休み前に各履修科目の出席回数、定期試験の点数及び修学状況などの寸評を書いた保護者宛の家庭通信を郵送していました。当時の保護者とは、面談、電話や手紙でよく話しをしましたね。

他にも日々学生の修学、恋愛を含む人間関係、生活費などの悩み事相談にのり、よく授業を休む学生のアパートを訪問し、血気盛んな学生と夜遅くまでよく呑み歩き、大学の教室や廊下や学生食堂などで、毎日のように199名の学生と顔を突き合わせて言葉を交わしていましたから、途中退学するような学生はまずいなかったですね。ですから、成績優秀でよく褒めた学生、逆に成績不良でよく指導した学生、生活が品行不良で大目玉を食らわした学生らは、卒業後に結婚式によく招待されました。多い年で一年13件の結婚式があり、当時結婚して薄給の若い私は、冬のボーナスで次年度の慶弔予算を確保するようでした。
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今日の「東京一村組同窓会」は、初めからもっと多く集まって開催する予定だったのですが、今回は発起人組幹部10人衆だけとなりました。今後は3月以降にも同窓会が予定されており、現時点で50人は超えそうですね。まだまだ増えることでしょう。とっても嬉しいことです。今夜は昔話しに花が咲いたというか、みんな学生時代に戻ったように盛り上がりました~!一気に若返りました!もうただの酔っ払いです( ̄▽ ̄;) も 卒業生は57歳〜59歳で、子どももいて家庭持ちですし、すでに孫のいる卒業生もいました(⌒-⌒; ) もう若くはないですから健康には留意してこれからも頑張ってもらいたいですね。そして、また同窓会がある時は元気な姿を見せてもらいたいものです。今日は感謝しかありません。ありがとうございました。
◯東京一村組幹部10人衆からいただいた定年退職祝いです!(^◇^)富山県高岡市の伝統鋳物の技術により作られた、「能作」の錫100%製のタンブラーです。ビールに最適だと思いますが、私はワインのカップとして使おうと思います。皆さんに感謝です。
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職場のデスク:その151(経年変化!) [職場のデスク&カウンター]

このブログのマイカテゴリーの「職場のデスク」シリーズ第100回(その100)記念で掲載した記事は、ダイアリー・カバーでした。この革製カバーは、ヘルツ(HERZ)社の革製で、商品名は「ほぼ日手帳カバー(オリジナル・カズン)」といいます。大きさはA5版サイズです。あれから約5年が経ちました。
◯上の写真は2019年3月20日現在、下の写真は今日1月16日現在のダイアリー・カバーです。キズだらけですが、約5年の経年変化で随分といい色になってきました。
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◯iPhoneのダイアリーでスケジュール管理をしていますが、この手書きできるダイアリーがないと………アナログ人間の宿命です(⌒-⌒; )
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「誘惑」のお話し [聖書]

今日のお話しは「誘惑」です。
誘惑について、聖書には次のとおり書いてあります。
◯新約聖書:ヤコブの手紙・第1章・第14〜第15節
「人はそれぞれ、自分の欲に引かれ、
そそのかされて誘惑に陥るのです。
そして、欲は身籠って罪を生み、
罪は熟して死を生み出します。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

「誘惑」は、ほとんどにおいて悪です。たとえその誘惑が善であったとしても、「欲」が絡めば悪となります。ですから誘惑のあるところに欲があり、その欲に陥る(負ける)と「罪」が待っています。そして罪は、やがて「死」へのつながっていくのです。
私たちが気をつけなければならないことは、絶対に誘惑にのらないことです。これに負けてしまうと、欲をはらんで罪を犯すことになるからです。この世の中の悪いことの始まりは、すべて誘惑ですね。善い(良い)ことで誘惑するとは言わないですからね。
その誘惑ですが、私たちキリスト者で一番重要なお祈りである『主の祈り』の最後にある言葉は「誘惑におちいらせず、悪からお守りください。」です。この一番重要なお祈りの最後に、誘惑という言葉が出てくることからも、その重要性が理解できますね。
また、私が毎日朝夕お祈りする『聖母の御助け(おんたすけ)を求める祈り』の祈祷文にも、「……私たちをお助けくださいますよう、心から祈り求めます。特に、困難に出会時、病気の時、誘惑を受けた時、罪を犯した時……」とあります。それほど、昔からこの誘惑が人間の最大で永遠の課題なのです。それは食欲、金欲、物欲、性欲、名誉欲などなど、誘惑は欲から発生するのです。

◯この聖句の意味
「そそのかされて誘惑に陥る」ということですが、私はそそのかされて誘惑に陥るのではなく、「自ら進んで自発的に陥った」という解釈をします。つまり「自分の意思で誘惑に陥った」ということです。誘惑の意味は、辞書には「人を迷わせて、悪い道にさそいこむこと。」とありますから、「自分の外から・相手から来た誘惑を自分が受けて悪い道に誘い込まれた。」ということですが、そうではなく、誘惑を受けて「自ら欲を出して、自らの意思で行って、自ら罪を犯してしまう。」ということです。すべては自分の意思で判断して行ったことなのです。意思の問題です。

欲には際限がありません。ですから人間は日々の生活において自制しなければならないのです。下世話な例ですが、ダイエットをしている人は多いと思いますが、食欲にまかせるままにした結果、肥満によって糖尿病などの成人病を患うことになるのです。自制しなかったことによる報いですね。ところで、フランシスコ教皇は「欲は、あなたの見方を狂わせる。断食してみると、あらゆることに対して見方を変えられます。それは貪欲の誘惑から遠ざけ、愛のために苦悩する力を与えてくれるのです。」と述べておられます。私の最も自戒としなければならないお言葉です。
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