「聖パトリック司教」のお話し [聖人・福者・尊者]
今日3月17日は、「聖パトリック司教」の任意の記念日です。掲載するのが遅くなりました(⌒-⌒; )
聖パトリック(又はパトリキウス)(ラテン語でPatricius・英語でPatrick:イギリス:387年?~461年3月17日)は、アイルランドにキリスト教を広めた司教です。カトリック教会、聖公会、ルーテル教会及び正教会で聖人とされています。「アイルランドの使徒」と呼ばれ、アイルランドの守護聖人となっています。
イギリス西部にあるウェールズでケルト人(ローマ人とも)の家庭に生まれました。両親ともクリスチャンであり、母は聖書(旧約聖書の「詩編」)を教え、16歳でアイルランドの海賊に拉致されてアイルランドに奴隷として売られてしまいます。6年間、羊飼いとして働き(おそらくは北アイルランドのアントリム州)、その後神の声を聞くことになります。お告げに従って牧場を脱走し、およそ300キロを歩いて故郷のウェールズへ戻った後、神学を学ぶためヨーロッパ大陸へ渡りました。7年間神学を学んだ後に帰国します。
彼は自分を奴隷として虐待したアイルランド人らに対する愛と伝道の使命を与えられたと家族に話し(家族は伝道に反対)、432年、ローマ司教・カエレスティヌスから布教の命を受けて432年に再びアイルランドを訪れます。伝道のためにアイルランドへ行った最初の人間でも、唯一の人物でもありませんでしたが、大規模な改宗の象徴となっています。また、讃美歌の作者としても知られ、彼は365の教会を立て、12万人が回心したと伝えられています。三つ葉のクローバーに似たシャムロックを手に『三位一体』を説いたため、シャムロックは彼のシンボルとなりました。
アイルランドの首都ダブリンでのセント・パトリック・デーのパレードの様子です。
原宿・表参道でのパレードの様子です。
アイルランドやアイルランド移民の多いアメリカ、オーストラリアでは、“聖パトリックの祝日(St. Patrick's Day)”として盛大に祝われています。特ににアメリカでは世俗化し、カトリック信徒でない者でも緑の服を着るなどしてこの行事に参加する人も多いそうです。
日本でも「アイルランドを一般の方にもっと知ってもらおう!」を主旨に、アイリッシュ・ネットワーク・ジャパンにより、1992年からセント・パトリックス・デイ・パレードが開催されています。東京では原宿の表参道をアイルランドのシンボルカラーのグリーンやシンボルの三つ葉のクローバーデザインの衣装、小物を身につけた約1000名がパレードをします。その他、横浜や京都、日本各所でパレードやオープンイベントなどが催されています。
このブログの2019年9月16日に掲載した「四つ葉のクローバー」のお話しもご覧ください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2019-09-16
聖パトリック(又はパトリキウス)(ラテン語でPatricius・英語でPatrick:イギリス:387年?~461年3月17日)は、アイルランドにキリスト教を広めた司教です。カトリック教会、聖公会、ルーテル教会及び正教会で聖人とされています。「アイルランドの使徒」と呼ばれ、アイルランドの守護聖人となっています。
イギリス西部にあるウェールズでケルト人(ローマ人とも)の家庭に生まれました。両親ともクリスチャンであり、母は聖書(旧約聖書の「詩編」)を教え、16歳でアイルランドの海賊に拉致されてアイルランドに奴隷として売られてしまいます。6年間、羊飼いとして働き(おそらくは北アイルランドのアントリム州)、その後神の声を聞くことになります。お告げに従って牧場を脱走し、およそ300キロを歩いて故郷のウェールズへ戻った後、神学を学ぶためヨーロッパ大陸へ渡りました。7年間神学を学んだ後に帰国します。
彼は自分を奴隷として虐待したアイルランド人らに対する愛と伝道の使命を与えられたと家族に話し(家族は伝道に反対)、432年、ローマ司教・カエレスティヌスから布教の命を受けて432年に再びアイルランドを訪れます。伝道のためにアイルランドへ行った最初の人間でも、唯一の人物でもありませんでしたが、大規模な改宗の象徴となっています。また、讃美歌の作者としても知られ、彼は365の教会を立て、12万人が回心したと伝えられています。三つ葉のクローバーに似たシャムロックを手に『三位一体』を説いたため、シャムロックは彼のシンボルとなりました。
アイルランドの首都ダブリンでのセント・パトリック・デーのパレードの様子です。
原宿・表参道でのパレードの様子です。
アイルランドやアイルランド移民の多いアメリカ、オーストラリアでは、“聖パトリックの祝日(St. Patrick's Day)”として盛大に祝われています。特ににアメリカでは世俗化し、カトリック信徒でない者でも緑の服を着るなどしてこの行事に参加する人も多いそうです。
日本でも「アイルランドを一般の方にもっと知ってもらおう!」を主旨に、アイリッシュ・ネットワーク・ジャパンにより、1992年からセント・パトリックス・デイ・パレードが開催されています。東京では原宿の表参道をアイルランドのシンボルカラーのグリーンやシンボルの三つ葉のクローバーデザインの衣装、小物を身につけた約1000名がパレードをします。その他、横浜や京都、日本各所でパレードやオープンイベントなどが催されています。
このブログの2019年9月16日に掲載した「四つ葉のクローバー」のお話しもご覧ください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2019-09-16
教会日記2023.3.17(カトリック成城・聖タデオ教会「日本の信徒発見の聖母の祝日のミサ・四旬節第三金曜日のミサ」金曜日) [教会日記]
今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「日本の信徒発見の聖母の祝日のミサ・四旬節第三金曜日のミサ」に与りました。だんだん暖かくなってきました。早朝のお御堂は、暖房をつけませんでした。今日も清々しい朝を迎えています。
◯成城教会の中庭にあるルルドの聖母マリア様のご像です。座ってお祈りができるようにベンチを置いています。
ミサでは、先唱奉仕を担当しました。
そして、まず主を讃える祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈り、
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい朝を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
次に、主により頼む祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈り、
そして、主に派遣の祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈り、
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
◯成城教会の中庭にあるルルドの聖母マリア様のご像です。座ってお祈りができるようにベンチを置いています。
ミサでは、先唱奉仕を担当しました。
そして、まず主を讃える祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈り、
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい朝を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
次に、主により頼む祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈り、
そして、主に派遣の祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈り、
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
「日本の信徒発見の聖母」と「プティジャン神父」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]
今日3月17日は、「日本の信徒発見の聖母」の祝日です。
写真は、信徒発見に貢献したパリ外国宣教会のベルナール・プティジャン神父様です。
ベルナール・プティジャン(フランス:1829年~1884年)は、カトリック教会の宣教師です。パリ外国宣教会会員として幕末の日本を訪れ、後半生を日本の布教にささげました。1865年、大浦天主堂での「隠れキリシタンの発見(信徒発見)」の歴史的瞬間に立ち会ったことで有名です。フランス生まれのプティジャン神父は、1854年に司祭に叙階され、1859年にパリ外国宣教会に入会して日本への布教を志しました。当時の日本はキリスト教を禁じている江戸時代であり、外国人の入国が困難であったため、とりあえず琉球に渡って那覇で日本語と日本文化を学びました。1862年(文久2年)、ついに横浜に上陸し、翌年長崎に移りました。
任務は長崎の大浦の居留地に住むフランス人の司牧ということでした。後にプティジャン神父は日仏通商条約にもとづき、長崎の西坂(日本二十六聖人の殉教地)を見ることができる丘の上に居留地に住むフランス人のために教会を建築する許可を得ました。こうして建てられたのが大浦天主堂です。プティジャン神父は1868年には日本代牧区司教に任命され、1873年(明治6年)にキリシタン禁制が解かれる(政府が黙認する)と、長崎を拠点にキリスト教布教や日本人信徒組織の整備と日本人司祭の養成、教理書や各種出版物の日本語訳に力を注ぎ、1884年(明治17年)に帰天(死去)し、大浦天主堂内に埋葬されました。
大浦天主堂は当時は珍しい洋風建築でしたので評判となり、近隣住民は「フランス寺」とか「南蛮寺」と呼び見物に訪れました。プティジャン神父は訪れる日本人に教会を開放し、自由に見学することを許しました。本来居留フランス人のために建てられた天主堂を、興味本位で訪れる日本人に対して解放し見学を許していたのには理由がありました。それは、長崎がキリスト教殉教者の土地であることから、密かに未だ信徒が潜んでいるのではないか、もしかすると訪れて来る日本人の中に信徒がいるのではないかというわずかながらの期待があったからなのです。プティジャン神父は、付近の村々を歩いて詮索していたそうです。
はたして1865年(元治2年)3月17日(旧暦2月20日)の午後、プティジャン神父が庭の手入れをしていると、やってきた15人ほどの男女が教会の扉の開け方がわからず難儀していました。彼が扉を開いて中に招き入れると一行は内部を見て回り、プティジャン神父が祭壇の前で祈っていると、一行の一人で杉本ゆりと名乗る中年の女性が彼のもとに近づき、「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ(私たちの信仰はあなたの信仰と同じです)」と。プティジャン神父は「本当ですか。どこから来たのですか。」と。女性は「私たちは皆浦上の者です。そこの殆どの者が同じ気持ちです。」と。答えた女性は直ぐに問いかけました。「サンタ・マリアの像はどこですか。」それを聴いたプティジャン神父 はその時もはや何の疑いもなく、キリシタンの子孫に向き合っているのだと確信したのでした。
大浦天主堂にある当時そのままの「信徒発見の聖母マリア像」です。私は、高校2年生の修学旅行で大浦天主堂を訪れた時に拝見いたしました!
彼は全員を聖マリア像の前に案内はしました。あらためて皆が膝まずき一心に祈りました。彼らは心に満ちた喜びをもう抑えることができずこう言ったそうでう。「そうです、まさにこれが聖母マリアさまです。見てご覧、彼女の腕の中の神の子イエスさまを。」これがまた大きな確信となりました。浦上から来た彼らこそ280年近くの間、死の危険を犯してまでキリスト教の信仰を守っていた“潜伏キリシタン”といわれる人々でした。プティジャン神父は大いに驚き、大いに喜んだそうです。数年前に日本公開となった、遠藤周作原作・マーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙-サイレンス-』で画かれている迫害された人々の子孫です。あの人々の信念が結実した瞬間でした。なお、映画『沈黙-サイレンス-』のこは、このブログの2017年1月19日に掲載した「映画『沈黙-サイレンス-』のお話し」をお読みください。https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2017-01-29
プティジャン神父はこの仔細をヨーロッパへ書き送ったところ、ローマのバチカンをはじめ、ヨーロッパ中で大きなニュースとなりました。以後、続々と長崎各地で自分たちもキリシタンであるという人々が名乗り出てきました。プティジャン神父は、見学を装って訪れる日本人信者に対して秘密裏にミサや指導を行いました。しかし、堂々とキリスト教の信者であることを表明する者が現れたため、江戸幕府のキリスト教禁教政策を引き継いだ明治政府(日本政府)は、この状況を見過ごすことができず、江戸時代と同じように信徒を弾圧をし迫害することになりました。(これを「浦上四番崩れ」といいます。)
ところが、当時の日本の政府は、諸外国との不平等条約の解消に力を注いでいる最中でしたが、政府による一連の弾圧行為の情報が欧米諸国に伝わり、「キリスト教徒を弾圧するなど、そのような野蛮な日本とは対等な条約など結ぶことはできない!」ということで、これがキリスト教弾圧政策に圧力をかける結果に繋がりました。この諸外国の圧力に慌てた日本政府は、江戸時代より続いたキリスト教禁教政策を取りやめ、明治6年に全国にあったキリスト教禁教の「高札(こうさつ:市民に広報するため市中に立てられた掲示板)」を取り除き、やっとキリスト教の信仰が黙認される状況を作りました。その後、極めて限定的ですが、公式に信教の自由(キリスト教の信仰)が認められたのは、『大日本帝国憲法』が発布された明治22年(1889年)になってからのことです。しかし、真の意味において平等に信教の自由が認められたのは、『日本国憲法』が施行された昭和22年(1947年)からのことでした。
写真は、信徒発見に貢献したパリ外国宣教会のベルナール・プティジャン神父様です。
ベルナール・プティジャン(フランス:1829年~1884年)は、カトリック教会の宣教師です。パリ外国宣教会会員として幕末の日本を訪れ、後半生を日本の布教にささげました。1865年、大浦天主堂での「隠れキリシタンの発見(信徒発見)」の歴史的瞬間に立ち会ったことで有名です。フランス生まれのプティジャン神父は、1854年に司祭に叙階され、1859年にパリ外国宣教会に入会して日本への布教を志しました。当時の日本はキリスト教を禁じている江戸時代であり、外国人の入国が困難であったため、とりあえず琉球に渡って那覇で日本語と日本文化を学びました。1862年(文久2年)、ついに横浜に上陸し、翌年長崎に移りました。
任務は長崎の大浦の居留地に住むフランス人の司牧ということでした。後にプティジャン神父は日仏通商条約にもとづき、長崎の西坂(日本二十六聖人の殉教地)を見ることができる丘の上に居留地に住むフランス人のために教会を建築する許可を得ました。こうして建てられたのが大浦天主堂です。プティジャン神父は1868年には日本代牧区司教に任命され、1873年(明治6年)にキリシタン禁制が解かれる(政府が黙認する)と、長崎を拠点にキリスト教布教や日本人信徒組織の整備と日本人司祭の養成、教理書や各種出版物の日本語訳に力を注ぎ、1884年(明治17年)に帰天(死去)し、大浦天主堂内に埋葬されました。
大浦天主堂は当時は珍しい洋風建築でしたので評判となり、近隣住民は「フランス寺」とか「南蛮寺」と呼び見物に訪れました。プティジャン神父は訪れる日本人に教会を開放し、自由に見学することを許しました。本来居留フランス人のために建てられた天主堂を、興味本位で訪れる日本人に対して解放し見学を許していたのには理由がありました。それは、長崎がキリスト教殉教者の土地であることから、密かに未だ信徒が潜んでいるのではないか、もしかすると訪れて来る日本人の中に信徒がいるのではないかというわずかながらの期待があったからなのです。プティジャン神父は、付近の村々を歩いて詮索していたそうです。
はたして1865年(元治2年)3月17日(旧暦2月20日)の午後、プティジャン神父が庭の手入れをしていると、やってきた15人ほどの男女が教会の扉の開け方がわからず難儀していました。彼が扉を開いて中に招き入れると一行は内部を見て回り、プティジャン神父が祭壇の前で祈っていると、一行の一人で杉本ゆりと名乗る中年の女性が彼のもとに近づき、「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ(私たちの信仰はあなたの信仰と同じです)」と。プティジャン神父は「本当ですか。どこから来たのですか。」と。女性は「私たちは皆浦上の者です。そこの殆どの者が同じ気持ちです。」と。答えた女性は直ぐに問いかけました。「サンタ・マリアの像はどこですか。」それを聴いたプティジャン神父 はその時もはや何の疑いもなく、キリシタンの子孫に向き合っているのだと確信したのでした。
大浦天主堂にある当時そのままの「信徒発見の聖母マリア像」です。私は、高校2年生の修学旅行で大浦天主堂を訪れた時に拝見いたしました!
彼は全員を聖マリア像の前に案内はしました。あらためて皆が膝まずき一心に祈りました。彼らは心に満ちた喜びをもう抑えることができずこう言ったそうでう。「そうです、まさにこれが聖母マリアさまです。見てご覧、彼女の腕の中の神の子イエスさまを。」これがまた大きな確信となりました。浦上から来た彼らこそ280年近くの間、死の危険を犯してまでキリスト教の信仰を守っていた“潜伏キリシタン”といわれる人々でした。プティジャン神父は大いに驚き、大いに喜んだそうです。数年前に日本公開となった、遠藤周作原作・マーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙-サイレンス-』で画かれている迫害された人々の子孫です。あの人々の信念が結実した瞬間でした。なお、映画『沈黙-サイレンス-』のこは、このブログの2017年1月19日に掲載した「映画『沈黙-サイレンス-』のお話し」をお読みください。https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2017-01-29
プティジャン神父はこの仔細をヨーロッパへ書き送ったところ、ローマのバチカンをはじめ、ヨーロッパ中で大きなニュースとなりました。以後、続々と長崎各地で自分たちもキリシタンであるという人々が名乗り出てきました。プティジャン神父は、見学を装って訪れる日本人信者に対して秘密裏にミサや指導を行いました。しかし、堂々とキリスト教の信者であることを表明する者が現れたため、江戸幕府のキリスト教禁教政策を引き継いだ明治政府(日本政府)は、この状況を見過ごすことができず、江戸時代と同じように信徒を弾圧をし迫害することになりました。(これを「浦上四番崩れ」といいます。)
ところが、当時の日本の政府は、諸外国との不平等条約の解消に力を注いでいる最中でしたが、政府による一連の弾圧行為の情報が欧米諸国に伝わり、「キリスト教徒を弾圧するなど、そのような野蛮な日本とは対等な条約など結ぶことはできない!」ということで、これがキリスト教弾圧政策に圧力をかける結果に繋がりました。この諸外国の圧力に慌てた日本政府は、江戸時代より続いたキリスト教禁教政策を取りやめ、明治6年に全国にあったキリスト教禁教の「高札(こうさつ:市民に広報するため市中に立てられた掲示板)」を取り除き、やっとキリスト教の信仰が黙認される状況を作りました。その後、極めて限定的ですが、公式に信教の自由(キリスト教の信仰)が認められたのは、『大日本帝国憲法』が発布された明治22年(1889年)になってからのことです。しかし、真の意味において平等に信教の自由が認められたのは、『日本国憲法』が施行された昭和22年(1947年)からのことでした。
「INRI」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]
◯写真は、自宅の自室にある祭壇上の十字架で、イタリアのレーピ社から日本の貿易会社を経て取り寄せました。高さは50㎝ほどあります。ちなみに、イエス様の体は木彫りです。なお、キリスト教カトリック教会の聖堂にある十字架は、イエス・キリストの身体がついていますが、キリスト教プロテスタント教会の聖堂にある十字架は、十字架そのままで、イエス・キリストの身体はついていません。
写真のように、イエス・キリストの身体がついた十字架の上部には、必ず「INRI」と書いた板があります。「INRI」とは、ラテン語の「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」の頭文字で、日本語訳すると「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」となります。これは、イエス・キリストの十字架の磔刑(たっけい:十字架に磔(はりつけ)にする刑罰)において、十字架の上に掲げられた「罪状書き(イエスが自らを神の子でありユダヤ人の王であると称し、神を冒涜したとの罪状)」です。
このため、磔刑を描いた絵画や、十字架の上のイエス・キリストを彫った磔刑像では、イエス・キリストの頭上に「INRI」という頭文字が記された(略した)札・銘板が、必ず描かれています。古代の磔刑は、処刑場に引かれてゆく罪人の首に罪状を書いた銘板がぶら下げられ、その銘板は磔刑時に十字架上にかけられていたそうです。ヨーロッパにおけるルネサンス美術では、このうちラテン語の罪状書きのみが描かれるようになり、単に「INRI」と略して描かれるようになったそうです。
◯次の絵は、ルーベンスの作品『キリストの昇架』です。ピーテル・パウル・ルーベンス(オランダ:1577年~1640年)は、バロック期のフランドルの画家で外交官です。見えにくいですが、この絵にはきちんと罪状がヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれており、「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」も描かれています。
◯次の絵もルーベンスの作品で『キリストの磔刑』です。この絵もきちんと罪状書きが描かれていますね。右下の黒いマントを着た悲しみのあまり今にも崩れ落ちそうな女性は、聖母マリアさまです。その身体を支えている赤いマントを着た男性は使徒のヨハネです。
「IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM(ユダヤ人の王、ナザレのイエス)」という言葉は、新約聖書の「ヨハネによる福音書」第19章・第19節に登場します。他の3つの福音書は表現が少し異なり、マタイによる福音書の第27章・第37節では「これはユダヤ人の王イエスである」、マルコによる福音書の第15章・第26節では「ユダヤ人の王」、ルカによる福音書の第23章・第38節では「これはユダヤ人の王」となっています。ヨハネによる福音書は、掲げられた状況を説明しています。
◯新約聖書:ヨハネによる福音書・第19章・第19節~第20節
「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上につけさせた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は町に近かったので、ユダヤ人の多くがこの罪状札を読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
写真のように、イエス・キリストの身体がついた十字架の上部には、必ず「INRI」と書いた板があります。「INRI」とは、ラテン語の「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」の頭文字で、日本語訳すると「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」となります。これは、イエス・キリストの十字架の磔刑(たっけい:十字架に磔(はりつけ)にする刑罰)において、十字架の上に掲げられた「罪状書き(イエスが自らを神の子でありユダヤ人の王であると称し、神を冒涜したとの罪状)」です。
このため、磔刑を描いた絵画や、十字架の上のイエス・キリストを彫った磔刑像では、イエス・キリストの頭上に「INRI」という頭文字が記された(略した)札・銘板が、必ず描かれています。古代の磔刑は、処刑場に引かれてゆく罪人の首に罪状を書いた銘板がぶら下げられ、その銘板は磔刑時に十字架上にかけられていたそうです。ヨーロッパにおけるルネサンス美術では、このうちラテン語の罪状書きのみが描かれるようになり、単に「INRI」と略して描かれるようになったそうです。
◯次の絵は、ルーベンスの作品『キリストの昇架』です。ピーテル・パウル・ルーベンス(オランダ:1577年~1640年)は、バロック期のフランドルの画家で外交官です。見えにくいですが、この絵にはきちんと罪状がヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれており、「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」も描かれています。
◯次の絵もルーベンスの作品で『キリストの磔刑』です。この絵もきちんと罪状書きが描かれていますね。右下の黒いマントを着た悲しみのあまり今にも崩れ落ちそうな女性は、聖母マリアさまです。その身体を支えている赤いマントを着た男性は使徒のヨハネです。
「IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM(ユダヤ人の王、ナザレのイエス)」という言葉は、新約聖書の「ヨハネによる福音書」第19章・第19節に登場します。他の3つの福音書は表現が少し異なり、マタイによる福音書の第27章・第37節では「これはユダヤ人の王イエスである」、マルコによる福音書の第15章・第26節では「ユダヤ人の王」、ルカによる福音書の第23章・第38節では「これはユダヤ人の王」となっています。ヨハネによる福音書は、掲げられた状況を説明しています。
◯新約聖書:ヨハネによる福音書・第19章・第19節~第20節
「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上につけさせた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は町に近かったので、ユダヤ人の多くがこの罪状札を読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から